遠い世界の物語。






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 良く晴れた日、巨大な城門から少し離れた草原に、姫と騎士がいた。
 騎士は栗毛の馬に跨り、白銀の鎧に身を包み、エメラルドを嵌め込まれた金鞘の剣を携え、樹齢百年の黒檀から削り出した杖を持ち、大荷物を背負っていた。栗色の髪を短く切った、精悍な青年だった。
 姫は白いドレスに金のティアラを身に着けていた。歳は十二と若かったが、蒼い宝石のような眼球を嵌め込んだ切れ長の眼は、幼さに似合わず厳しく細められていた。
「あなたが行くことはない」
 姫は言った。
「母上も何を考えておられるのか。あのような巨大な化け物相手に、あなた一人を遣わすなど」
「姫」
 それ以上の言葉を遮るように、騎士は言った。
「騎士は王命に従うものです。強者は弱者を守るものです。そのためならば私は喜んで化け物退治にでも何にでも行きましょう」
 騎士は強かった。
 国の中に剣の腕で彼に敵う者はなく、また天性の魔術の才があり、異国の術にも精通していた。その上気立てが良く、決して自分の実力に驕ることもなく、高い地位に付くことすら自ら遠ざけてきた。
 粗末な兵舎に寝起きし、質素な生活を送り、毎日の鍛錬を欠かすことなく行い、仲間や後輩の面倒を良く見た。彼のあまりの清廉さに、その能力や人望を妬む者すらいなかった。周りの人間は逆に己を恥じ、そして彼に憧れ、努力した。
 王命とあらば西へ東へと駆け回り、これを迅速に解決した。
 人々を愛し、また人々に愛されていた。
 そして今も王命を受け、騎士はまた旅立とうとしていた。
 数年前、北の鉱山に巨大な人喰い蛇が現れたのだ。
 代々女王が統治するその国は、国土は小さいものの温暖な気候で、作物が良く実り、全ての民が豊かとは言えないまでも、慎ましやかで穏やかな生活を送っていた。
 北の鉱山は国の外貨収入源の一つだったが、なくなってすぐに困るということはなかった。蛇は人を喰うが、鉱山に入らなければ襲ってくることはなかった。たまに宝石目当てで忍び込む人間が行方不明になることはあったが……それは自業自得というものだ。
 鉱山は蛇と戦うには場所が悪い。軍勢を整え、空腹のあまり出てきたところを罠に嵌め退治しよう──というのが、当時の国の出した結論だった。そのための策も着々と練られていった。
 しかしここ二年程の間に、遠方の国が隣接する国々との戦の準備を進めているとの話もあり、国は急遽人喰い蛇の退治を決めた。蛇は未だ巣穴から出てこないが、戦乱の最中で蛇に出てこられる前に倒してしまおうということだった。
 女王は最後まで渋っていたが、元老院の執拗とも言える嘆願についには折れた。ここで蛇を倒しておけば、他国に優位に働くとの考えもあった。
 そして、その討伐に向かうことになったのが──かの騎士である。
 国が槍玉に挙げたのではなく、彼本人の希望によるものだった。
 女王は止めた。
 元老院も止めた。
 仲間達も止めた。
 国民も止めた。
 姫だけが止めなかった。
 しかし騎士はただ黙って首を振り、女王にこう言ったのだ。
『王命を賜りたい』、と。
 女王は断った。
 元老院は蛇退治の撤回を言い出した。
 仲間達は自分も行く、と名乗り出た。
 国民達はただ祈り続けた。
 姫は何もしなかった。
 しかし騎士はただ黙って首を振り、女王にこう言ったのだ。
『王命を賜りたい』、と。
 騎士は続けて言った。
『何故私が死ぬと思うのですか』
 王女は言葉に詰まった。
 国の皆は、誰も彼を死なせたくなかった。それほどまでに国の皆は彼を愛していたし、また彼を頼っていた。
 だが誰も、騎士が蛇を退治できるとは思っていなかった。人間を何人も一呑みするような巨大な蛇を、人一人で倒せるはずもない、と。
 それでも騎士は行くという。
 尚も渋る女王を前に、騎士は失礼、と断って耳打ちした。
『誰か一人がいなくては成り立たない国は、いずれ滅びます。蛇に喰われなくても、私はいつか死ぬでしょう。その時、国はどうなるのですか』
 女王ははっと眼を見開いて騎士を見た。騎士はただ微笑んで頷いた。
 かくして女王は、騎士に命を下した。
 騎士は女王から白銀の鎧と剣と杖を賜った。
 出立の日、騎士は国民に見送られ、城下町を出た。誰もが騎士に声援を送り、誰もがその無事を願った。
 そして城門を出て、騎士は城を抜け出してきた姫を見つけた。
 姫は言う。
「何故あなたは一人で行く。仲間を連れて行けば良いではないか」
「姫」
 騎士は答える。騎士が彼女と話す時、必ず、姫、と呼んでから喋り始める。
「私がいない間に戦争が起きたらどうするのですか。誰がこの国を守るのですか」
「あなたが行かず、守ればいい」
「姫、では誰が蛇を斃すのですか」
「捨て置け」
「姫、流石にそれは無理でしょう」
 騎士は苦笑した。
「蛇は人を喰います。放っておけません。そして空腹に駆られ出てきたとき、私はそれを罠にかけることが出来るとは思いません。餓えた獣は怖ろしいものです。また、蛇がそのような愚鈍であるとは到底思えません」
「たかが蛇であろうに」
「姫、大きいということはそれだけ長く生きたということ。百年生きれば蟲にも知恵はつきましょう」
「……そうか?」
「いえ、百年生きた蟲など、見たことはありませんが」
 それ見ろ、と姫は胸を反らした。
「しかし、あの蛇には知恵がありましょう。でなくばとっくに出てきて近隣の村を食い荒らしている。恐らく蛇は、こちらの思惑に気付いております」
「ならば尚更そのままにしておくべきではないか? 近隣の住民を退避させ、完全に孤立させてしまえば──」
「姫」
 騎士がやや強い口調で姫の言葉を止めた。
「……私に行って欲しくないのであれば、そう仰ってください」
「言えばやめるだろうか」
「いいえ。私を止めるのは女王の言葉のみです」
「ならいい」
 姫は答え、そして二秒置いて唐突に言った。
「行って欲しくはない」
 そうですか、と騎士は答えた。
 少し、時間が流れた。
 北の鉱山までは馬でも丸一日かかる。多少立ち止まったところでさして影響はなく、姫が黙っていれば、騎士は今しばらくこの場に留まるだろう。
 だが──姫は、何かに急かされるように言葉を放った。
「私と結婚しろ」
 騎士は少し驚いたような顔をした。
「私が婿を取れば私が女王だ。あなたを蛇のもとへは行かせない。あなたを死なせない。だから」
「姫、それはよく考えてのお言葉ですか」
「あなたが行くと言った、その日から」
 そうですか、と騎士は瞼を閉じた。その間姫は彼の返事を待っていた。
 西にあった雲が東へ流れ着いた時、騎士は瞼を開き、言った。
「お受けできません」
「何故だ。私が王族で、あなたは人望があるとは言えただの騎士に過ぎないからか? 身分が違うからか? だが、だから何だ。そんなこと関係ないだろう」
「ええ、関係ありません」
「なら」
「姫」
 騎士は姫の言葉を遮った。遮るだけで何も言わず、姫の言葉を待った。
 姫は少し視線を下げて言葉を搾り出した。
「……あなたはいつも私の言葉を遮るな」
「姫に、間違いを口にして欲しくないのです」
「私には何が間違いなのか分からない」
「今はそれで良いのです。間違いを間違いと知ることこそが、初めの一歩となります」
「よせ、ここは城の外だ。説教は勉強の時間だけにしろ」
「ではよしましょう」
 騎士は笑う。姫には、その笑顔が理解できない。
「姫」
 眉根を寄せる姫を和らげるように、騎士は穏やかに呼んだ。
「私が姫の申し出を断るのは、身分が違うからでも、姫が幼いからでもありません。無論これから死に行く身であるから、ということもない。それだけは言っておきます」
「では何だと言うのだ」
「それに答える前に、姫に一つ問いを投げかけましょう」
「授業の続きか?」
「違います」
 騎士は微笑み、そして問う。
「私を私たらしめているものは、何だと思いますか。そして同様に、姫を姫たらしめているものは、何だと思いますか」
 姫は聡明であったが、その問いに即答することはできなかった。
「……では、一つ助けを差し上げましょう。確かに、姫が私と結婚すれば、姫は女王になれるでしょう。しかし、女王になるとは、そういうことではありません」
「今のが助けか?」
 怪訝な顔で言う姫に、はい、と騎士は微笑んだ。 
「今無理に答えられることはありません。答えは、姫様がちゃんとご自分で見出したものをお聞かせください」
 そう言って、騎士は馬の手綱を握り直した。
「では、そろそろ行きます」
「もう行くのか?」
「充分過ぎるほど、話しました」
「私は足りない」
「それは申し訳ない。次に会った時に、その分までお付き合いしましょう」
 そうか、と姫は頷いた。最早、この騎士を止めることは叶わない。僅かに沈黙し、
「ならば、これを」
 姫は嵌めていたティアラを外し、騎士に差し出した。
「預ける。必ず返せ。返しに来なければ──」
「来なければ?」
「……取立てに行く」
 そう言うと騎士は少しきょとんとして、そして微笑んだ。
「はい。ではその時に、先程の質問の答えをお聞かせください」
 騎士は手綱を引く。馬が一度大きくいななき、歩み始めた。
「暫しの別れだ。武運を祈る」
「ありがとうございます。姫、どうかお元気で」
 言葉を残し、騎士は草原を去った。
 後に残されたのは、解けた髪を風に遊ばせる少女が一人。
「……馬鹿者め。まるで今生の別れのようではないか」
 もう見えない背中にそう言うと、姫は城へ歩き出した。
 どうにか、涙は流さなかった。



 そして結局、騎士は帰ってこなかった。










 七年後、未だ北の山に居座る蛇を討たんと、討伐隊が結成されることになった。
 人々は騎士の不在を嘆くよりも、近隣への侵攻に対し緊張を強いられた。結局、あの後大規模な戦争が起きることはなかったが、小競り合いが幾度も続いているらしい。物資の流通が悪くなり、国境付近の治安も悪くなってきた。
 騎士達は戦に備え、かの勇敢な騎士の穴を埋めるようにより一層鍛錬に励み、国境の守りを強固なものとした。民衆もまた有事への備えを欠かさなかった。辣腕な女王のもと、不安定になりつつある情勢の中で、国は確実に以前より強くなっていった。
 彼のいない国は、彼がいた時よりも栄えていた。
 そうして堅牢なる守りを得たその国は、ようやく、騎士の仇を討つ機を得た。ここ数ヶ月で蛇の目撃情報が増えているという事情もある。幸いにして今のところ被害者は出ていないが、それもいつまで続くか。
 とはいえ国を守る騎士達を全て派遣するわけにもいかず、討伐隊は第一師団団長と十数名の騎士、数名の魔術師、そして民間から募った強者達で構成することが決まった。
 民の中から選ばれた兵士達の中に、頭の天辺から爪先までを鉄で覆った細身の兵士の姿があった。
 その中にいるのは、かの姫である。
 七年前、騎士がいなくなってから、姫はずっと剣と魔術の鍛錬を欠かさず行ってきた。そのことは女王と一部の高官が知る秘密だった。それらの者にも女王が徹底した緘口令を敷いたため、国民にまでそれが知られることはなかったし、精々城内にて噂話として話される程度であった。
 曰く、いなくなった騎士の背を追うように剣を振るっていると。
 曰く、彼を喪った哀しみがそうさせているのだと。
 それらはちょっとした悲劇的な話、あくまでも噂として、暇を持て余している大臣達の妻の間でもてはやされた。しかしその中に、実際に姫が剣を振るう姿を見たものはいなかった。
 当然である。姫の稽古をつけていたのは、他ならぬ女王であった。
 姫の勉強が終わり、女王が執務に入る、昼食後の二時間程度の隙間、二人は王族しか入れない庭園で、ドレス姿のまま剣を振るい、杖を握っていたのである。
 そして二人とも稽古が終わると、お供もつけずに汗を拭き、水を浴び、香水を振り、何食わぬ顔でそれぞれの役目へ戻っていった。
 そんな調子だったから、彼女が民兵に紛れて討伐隊に加わっていることなど、大臣達もその妻達も、誰も予想だにしなかったに違いない。
 ただ一人聡明な女王だけは、我が子の抱く真の目的に気付いていた。だから彼女は何も言わず、剣を習いたいという娘の相手を務めた。厳しい緘口令も、王族としての名誉のためだけではなかった。
 姫は誰にも告げることなく城を抜け出し、倉庫から長剣と短剣と鎧を盗み、入隊試験に合格した。終始兜を脱ぐことはなく、目元以外誰にも晒さなかった。合格後すぐに城に戻り、何食わぬ顔でその日を過ごした。
 そして討伐隊出発当日も同じように抜け出し、隊の中に入った。
 出発前に、城の中では姫が行方不明になっていることが発覚してちょっとした混乱状態になった。そのことは討伐隊の隊長にも知らされたが、当然彼が行方など知るはずもなく、とりあえず討伐隊はそのまま出発することになった。自分の隊の中に当の姫がいるなど知る由もない。
 北の鉱山までは歩きでは三日近くかかる。討伐隊は剛の者揃いだったので日中は休むことなく歩き、日が落ちると野営した。
 道中、女性騎士のにちょっかいを出した民兵の男をその騎士と一緒に叩きのめして強制送還したり、その女性騎士に男と間違えられて言い寄られたり、全身鎧の中が蒸れてちょっと参りそうになったりしたが、それでも三日目の昼には鉱山に着いた。
 鉱山は荒れ果てており、かつて掘り返され地肌が露出していたはずの土にはまた新しく草が生えていた。所々に採掘のための穴が空き、幾つかは崩れて塞がっていた。
 鉱山は大柄な男一人分くらいの高さの段を形成しているが、上の段へは装備を抱えたままでは上がれない。だが、穴は内部で繋がっているはずだ。
 一人の騎士と五人の兵士で組まれた三つの隊が、それぞれ手近な穴から鉱山内部へと入っていく。その間に他の者達は準備を整え、蛇発見の報告を待った。
 三十分程が過ぎ、一組目と二組目が穴から出てきた。途中で行き止まりになっていたらしい。
 皆が残る三組の帰還を待ちわびていると、突然、穴の奥から情けない声が響いてきた。
 我先にと泥まみれの兵士達が穴から転がり出てきて、

 巨大な蛇の頭が、濁流のように岩壁を割り砕いて現れた。

 一瞬にして兵士達が恐慌状態に陥る。それほどまでに蛇は巨大だった。
 首周りの太さは鉱山の入り口より大きく、鼻先で内壁を削りながら蛇は飛び出してきたのだ。口を開けば人間を軽く一呑みできてしまう。
 緑色の鱗に金の眼。姿形だけならそれは普通の蛇だっただろう。異常なのは大きさだけで、そしてその異常は姿形が蛇であるとか、そういったものを全て無視した脅威だった。
 隊列が一斉に後ろへ下がる。姫も背を向けないながらも数歩、後ろに下がった。入れ替わるように蛇が身を乗り出す。鱗で岩を削りながら長い全身を日のもとへ晒した。
 とぐろを巻き、首を高く持ち上げ、地を這う人を睥睨する蛇。ちろりと小馬鹿にするように赤い舌を出した。
「かかれェッ」
 隊長の騎士が号令をかける。騎士達が鬨の声を張り上げ、震え上がっていた民兵達も勇気を取り戻し、手に手に剣を握って走り出した。
 蛇は一つ息を吐くと──軽く尻尾を地面に打ちつけた。
 大地が震える。ばしんと蜘蛛の巣状に土が割れ、揺れと段差に皆は足を取られた。
 蛇は地面を叩き続ける。連続する震動は波のように折り重なり、激しい揺れとなって矮小な人間達が立ち上がることすら許さない。
 しかし、その中で騎士達は走り出した。重い盾を投げ捨て揺れに合わせて飛び跳ねるようにしながら蛇へと切りかかっていく。それに数名の兵士が続く。その中には姫もいた。
「体勢を崩すな! 全員、組になってかかれっ」
 隊長が声を張る。時折倒れながらも騎士達は着実に蛇へと近づき──ついに、剣が柔らかい腹に突き刺さった。しかし蛇は僅かに眼を細めるのみで、軽く身を揺らしてそれを跳ね除けた。
 揺れが一瞬収まり、一人目に続こうと皆が駆け寄る。蛇は長い尾を軽く横に振った。人間が群がる羽虫を払う、その程度の動作だったが、それは容易く騎士や兵士を打ち据え地面に転がした。事実、蛇にとって人はその程度のものでしかないに違いない。
 それでも、諦めることなく立ち向かっていく人間達は、蛇の動きを止めるには充分だった。
天地あめつちの知る】【熱風が聞く】【太陽が見る】
 後方で漸く体勢を立て直した魔術師達が、杖の先を揃えて呪文を唱える。
【人が渇くより先に】【地が渇くより先に】【木がまず渇く!】
 きゅう、と空気が杖先に向けて窄み、そして、
【枯渇が、枝先を燃やす!】
 炸裂する。
 横一列に群れを成して飛来する火球を、高く首を持ち上げた蛇は躱すことができない。
 身を捩るが、数発をその身に受けた。火球が破裂し、煙が上がった。
 だがそれだけだった。炎は首の鱗を数枚弾き飛ばしただけに終わり、負傷と呼べるものは与えられなかった。
 横に振っていた尾を、蛇はもう一度地面に叩きつけた。皆が再び足を取られる。姫は震動を飛び越え、一気に蛇へと駆け寄った。
 そしてそこで、息を吸う音を聞いた。
【……風を喰う鳥】【水を飲む犬】【霜を這う蟲】
【冬の夜は永く】【啼く声は長く】【命だけが短い】
 掠れた、誰のものともつかない──声。
【誘われる者は落ちる】【従う者は沈む】【救われるのは夢見る者だけ】
【彼だけが、雪の中で安寧を得る】
 紡がれた呪文ことのはは、既に十節。背中に冷たいものが流れた。魔術の威力は、重ねられる小節の数に比例する。
 姫は、あらん限りの声で叫んだ。
「全員早く離れろッ!」
【神経が、北の冬に凍える】
 蛇が大きく首をもたげ──頭を振り下ろしながら、吹雪を吐き出した。
 ただの吹雪ではなかった。吐き出すのは雪の結晶だけでなく、小さな氷の塊が混じっている。
 一瞬にして、兵士達が混乱に陥る。皆が皆全身を鎧に包んでいるわけではなく、氷は容赦なく鉄に覆われていない部分を打ち据える。
「一旦退け! 鎧のある者はない者を庇うんだ!」
 騎士達がしんがりを務めながら、氷の息の効果範囲から逃れていく。
 だが戦列が後退する中で──ただ一人、姫だけが退かなかった。姫の位置からでは、既に退くには距離が遠すぎたのだ。
 故に進む。
 降りしきる氷の雨を強引に突破しながら、途中、誰かが落とした剣を拾い上げる。
 思い切り地を蹴り、横たわる蛇の長い胴体に足をかける。そのまま駆け上がって、採掘場の一段上の地面に立った。
 身体を踏まれて蛇が首の向きを変える。吹雪の風向きが変わる。姫は背負っていた皮の盾を蛇に向け、それを凌いだ。吹雪が止み、姫は盾を投げ捨てて両手に剣を握った。
 蛇が頭全体で姫を叩き潰しにかかる。姫はそれを避けた。しかし蛇はそのまま首を横に凪いだ。後ろに跳ぶも爪先が引っかかり体勢を崩す。枝がしなり揺れるように、細い頭部が唸りを上げてもう一度薙ぎ払われた。避ける暇はない。姫は躊躇せず地面に倒れ込む。頭上を鱗が掠め、兜に罅が入った。兜から伝わる衝撃が脳を揺らすが、それを気力だけで押し込め、立ち上がって剣を構えた。
 退いた兵士達が、一人果敢に立ち向かうその姿にどよめいた。
 やめろ、という声が聞こえた。危ない、という声も聞こえた。それら全てを無視して求めた。
「援護を!」
 一瞬間を置いて、皆が雄叫びを上げ走り出した。魔術師達が杖を構えた。
 だが蛇は最早姫以外に目を向けようとはしない。蛇は、立ちはだかる彼女を敵と認めた。
 蛇は相手を見もせず尾を払う。飛び交う火球にも眼もくれない。
 まるで槌のように蛇は首を振り下ろす。姫はほんの数歩後ろに下がるだけでそれ以上動かない。先の攻撃で、既に間合いは覚えている。
 打ち付けられた衝撃。飛び散った土が鎧の上を弾ける中、姫は手にした剣を横に薙いだ。蛇の眼球を斬る位置へと。
 堪らず、蛇が大きく首を引いた。
 瞬間、姫は剣を振り抜いた勢いそのままに疾走した。片手の剣を逆手に握り、段差の縁に足を掛け──蛇へと、跳んだ。
 全体重をかけられた剣が、ずん、と鱗を貫いて蛇の身体に突き立った。
『────────────!!!!』
 根元近くまで突き刺さった剣に、蛇が声にならない叫びを上げ、激しく身を捩った。姫は振り落とされないように剣と蛇にしがみついた。
 ほんの半秒、揺れの折り返し地点で姫は刺さった剣を足がかりに身体を持ち上げる。身体の短剣を引き抜き、それを、魔術師の火球が一番最初に吹き飛ばした、首の鱗のない部分に深く突き刺した。
 痛みから、蛇が更に激しく身を捩った。バランスを崩した姫はそのまま落下する。鉄の鎧がけたたましい音を奏で、全身が悲鳴を上げた。
 助け起こそうとした仲間を制し、姫は剣を支えに立ち上がった。
 そして見上げた。蛇の、金色の瞳を。
 そこに見たのは怒りなどではなく──
 蛇が大きく口を開き、姫を一呑みにせんと頭全体で突進してきた。
 その場にいた者は、一瞬先の未来を想像して眼を覆った。
 姫は一歩もそこを動かず。

 ──剣を、真横に振り抜いた。

 ぱきん、という小さな音は、蛇の鼻先が鉄の鎧にぶつかる衝撃音に掻き消された。
 先端に姫を貼り付けたままの蛇の勢いは止まらず、木々の枝を折りながら地面を滑り、草の生えた地面を長く捲れ上がらせて、漸く止まった。
 蛇も、姫も、動かなかった。
 騎士達を先頭に、皆は蛇の周りを取り囲んだ。どちらが死んだのか──どちらも死んだのか、確かめるように。
 やがて、姫がずるりと蛇の鼻から滑り落ちそうになった。足を地面につき、剣を支えにして立つ。
 ぱき、と金属の折れる音が聞こえた。度重なる衝撃に耐え切れなかった兜が、三つに割れて地に落ちた。美しい金の髪が三日ぶりに空気に晒され、汗に光が弾けた。
 肩で息をしながら、しかし金の髪の間から覗く視線は蛇から逸らさない。
 蛇は──動かない。半開きの眼で姫を見ていたが、息をするたびに上下する身体の他は、身じろぎ一つしなかった。
 姫の近くには、折れた蛇の牙が転がっていた。
 姫は剣を引き抜き、真っ直ぐに自分の足だけで立ち、切っ先を蛇に突きつけた。
 わぁっ、と騎士と兵士達が沸いた。勝ったのだ、と。
「よくやった。早く止めを」
 喜色に満ちた声で隊長が言った。だが、姫は動かなかった。
 どうした、と怪訝な顔をする隊長を振り返り、
「いいえ。止めを刺す必要など、ない」
 そう言った。
 その金の髪から覗く顔を見て、騎士達は剣を投げ捨て一斉に跪いた。
 毅然としたその細面は、理知を宿した青い瞳は、透き通るような白い肌は、全て、彼らが敬愛して止まない、美しく聡明なる姫君のものであったのだから。 
 漸く目の前にいたのが誰なのかを。三日間自分達が従え、蛇を倒したのが誰なのかを、彼らは悟った。
 兵士達は最初戸惑っていたが、誰かが姫の姿に気付くと、同じように跪いた。
 姫は一瞬きょとんとしたが、そこで漸く自分の兜が割れてしまっていることに気付いた。
 頭を下げる彼らを見渡して、姫は問うた。
「……何故、あなた達は私に頭を下げる」
 隊長が答えた。
「姫様に頭を下げぬ者など、今この場にはおりませぬ」
「何故私があなた達の姫だと思う? ただ似ているだけの誰かかもしれないのに」
「しかしあなたのその顔も、その髪も、全て私達の知る姫様のものであります故」
「では何故姫だからと頭を下げる。もし仮に、私があなた達の姫であったとしても、今は蛇を討伐するために結成された隊の中の一人の兵士に過ぎない。私は一人の兵士としてこの戦に参加した。そして、戦場ではあなた達のほうが先達であり、上官だ。頭を下げるべきは、寧ろ単独行動を取った私のほうだ」
「しかし、あなたは姫様です」
「かもしれない。だが、それは私の非とは別の問題だ。関係ない」
「関係ない?」
 隊長は思わず顔を上げた。一瞬、自分の耳と頭がおかしくなったのかと思った。だが目の前に凛と立つ姫の姿は、幻聴であるはずの言葉を肯定しているかのようだった。
 姫は言葉を続ける。
「そう。姫であるとかないとか、そのようなこと、その程度のものに過ぎない。地位や名誉は服の上から纏うものだ。服は身体の上に着るものだ。身体は魂を包むものだ。その人がその人であることを真に示すのは、その魂に他ならない。地位や名誉は、生まれてきたその後に与えられるものでしかない。人は皆、魂を持つという意味では変わらない」
 故に、と姫は言う。
「ここにいるのは誰でもない私という人間であり、そして今は、あなたに従う一人の兵士だ。だからここであなた達が頭を下げる必要はない。どうか、顔を上げて欲しい」
「は……」
 隊長が顔を上げた。
 そこには、深く頭を下げた姫の姿があった。
 隊長は慄きすら滲ませ、震える唇で言葉を紡いだ。
「姫──」
「退避命令を無視して一人先走ってしまった。勝ったから良かったものを、一つ間違えばあなた達までも危険に晒してしまう行為だった。本当に、申し訳ない」
 隊長はしばらく呆気に取られた表情をしていたが、やがて、もう一度跪いた。
「……例え」
 団長が頭を下げたまま言う。
「例えあなたが誰も知らない誰かであっても──心からその言葉を述べられているのであれば、私はあなたを叱責することも、あなたの前で容易く面を上げることも、できません」
「──ありがとう」
 姫は柔らかな笑顔を浮かべ、動かぬ蛇に向き直る。
 そして、嬉しさと誇らしさを交えた明るい声で、言った。
「答え合わせをしよう。七年前の答え合わせを」
 蛇は、姫を一瞥すると、満足そうに瞼を閉じ、その大きな口で笑うように弧を描いた。
『ああ、そういえば言っていましたね。取立てに来ると』
 その場にいた誰もが、その声を知っていた。
 忘れるはずもない懐かしい声。七年前に喪ったはずのもの。
 声は、蛇が発していた。
 誰もが驚きと困惑の中で蛇を見た。蛇の姿が蜃気楼のようにぶれ、そして消えていく。
 蜃気楼が収まった後、蛇の頭があった所に、若い騎士が跪いていた。白銀の鎧に身を包み、エメラルドを嵌め込まれた金鞘の剣を携え、樹齢百年の黒檀から削り出した杖を持った、栗色の髪の精悍な青年だった。
 おぉ、と皆の間を震えにもにたざわめきが走る。そこにいたのは強く優しきかの騎士であり、それらは自分達が求めていて止まないはずのものだったが、それが蛇から転じたという現実が彼らを困惑させていた。
 姫だけがそれを当然のように受け入れ、泥だらけの顔で微笑んでいた。
 騎士が立ち上がる。浮かべる表情は姫と同じ。懐かしさと愛しさから来る、親愛の微笑み。
「久し振りだな。変わりないようで何よりだ」
「はい。姫様は──大きくなられました」
「七年も経てばそうなる。赤子も読み書きを覚えるぞ。私も色々なことを知った」
「まさか剣を覚えてくるとは、思いませんでしたが」
「出来ればあなたから教わりたかったのだがな」
 そうですか、と騎士が答え、ふと笑みを収めて頭を下げた。
「──良くぞ、」
 騎士は言う。
「良くぞ、私を見つけてくださいました」
 姫は頷いた。
「教えてくれたのはあなただ。ドレスを鎧に変えようと、人が蛇に変わろうと、私が私であることに、あなたがあなたであることに変わりはない。蛇であったあなたは、傷つけこそすれ誰も殺そうとしなかった。蛇が本物なら私もとうに喰われていただろう。──だがそうでなくても、眼を見れば分かった。その奥に宿る輝きは、七年前のあなたと少しの変わりもなかったのだから」
 姫は少し、悪戯に笑った。
「あなたも、私が私であることに気付いていたのだろう?」
「……正解です」
 騎士は満足げに頷いた。
「私のいない間に、姫は姫としても、あなたとしても、人の上に立つ者としても素晴らしい人になられたようだ。私にはそれが嬉しい」
「ああ。私にも理解できた。あなたがあれほど愛される理由も、母上があれほど尊敬を受ける理由も。地位や業績ではなく、その人だから・・・・・・なのだな。人を惹き付け、人を導くとは」
 正解です、と騎士はまた頷いた。
「では、次はこちらから問う番だ。この七年、何をしていた? 何のために、蛇の振りをしていた?」
「それについては、彼から」
 騎士は後ろを振り返った。見れば、二匹の馬がこちらに歩いてきていた。
 栗毛の一頭は、七年前騎士が乗っていた馬だ。そしてもう一頭の白馬は──
「蛇か」
 姫が言うと、にぃ、と馬が笑った。不気味だった。
 白馬と一度鼻を擦り合わせて、栗毛の馬は離れた。白馬は四肢を踏ん張り、荒く息を吐いた。
 空気が陽炎のように揺らめき、蛇が騎士になったのとは逆に、幻が肉の質感を持っていく。
 風を逆巻いて現れたのは、先の蛇より更に一回り大きな白蛇だった。額には長い角があり、胴体の中ほどには巨大な翼を生やしていた。
 周りを取り囲んでいた皆が揃って腰を抜かした。その様子を見て、白蛇はおかしそうに声を発した。人間の言葉を。
『安心しろ。我は最早人を喰わぬ。尤も、この姿では怖れるなというほうが無理かもしれぬが』
 そう言って蛇は、巨大な頭を姫の目の前に下ろした。
『汝は怖ろしくないのか』
「姿形は怖ろしい。だが、あなたはどうも怖ろしくないようだ。私を喰う眼をしていないから」
『喰いはしなくとも容易く殺せるぞ』
「殺すのか?」
『──殺さぬ』
 言って蛇は笑んだ。
『成程確かに良い人間だ。見る眼・・・がある。この国は良い国になるな。このような人間が姫であるのならば』
「私は兵士だが?」
『そうかそれは失敬』
 蛇はまた笑い、そして周囲の人間達を見渡した。
『とは言え、この者達の怖れはまだ取れぬようだ。事情を話すとしよう』
 蛇は首を持ち上げ、その場にいた全員に聞こえるような声で語り始めた。










 騎士が辿り着いた場所は、まるで神殿のようだった。
 採掘用の穴の最奥は唐突に広い空間になっていて、そこには青白い石畳が敷かれ、装飾を施された太い柱が幾つも立っていた。
 その太い柱に絡まるようにして、巨大な白蛇がいた。角も翼もないただ巨大な蛇だった。
『人間か』
「そうです」
 蛇の呟きに騎士は律儀に答えた。
『人の子が何用か。むざむざ喰われに来たわけでもあるまいに』
「はい。あなたを倒しに来たのです。……が」
『が?』
 蛇が眼を細める。人間であれば訝しげな表情になっていただろう。
「どうやら話が通じそうな相手なので、まずは話してみようかと」
『……変わった人間だ。我を見た者は皆一目散に逃げ出すものだが』
「あなたが言葉の通じない、巨大なだけの獣であるなら私も怖い。ですが今こうして話している以上、すぐ取って喰われるということはないと思いますから」
『そして取って喰おうとしても、それを退けられるくらいの力はある──か?』
「どうでしょう」
 ふむ、と蛇は首を揺らした。愉しげに。
『良い。ならば話をしよう。何か訊きたいことはあるか?』
「二つほど。まずは、何故人を喰うのですか? そしてもう一つはお願いになりますが、どうかもう人を喰わず、ここを立ち去っては頂けませんか?」
『人を喰うのは、汝等が禽獣を殺すのと同じよ。禽獣に知恵はないが、汝等にはある。その違いはあるが』
「成程」
『そして二つ目だが、それはできない。生きてる以上飢えはある。そしてこの身体ではどこに行くこともできない』
 蛇はそう言い、断っておくが、と身を乗り出した。
『別に我とて好き好んで人を喰うわけではない。他に喰うものがないのだ。これでも必死に自分を抑えている。ずぅっと眠りながら、時折出ては、宝石に吊られてやってきた人間のみを喰う。……出来れば、あのような欲に塗れた人間など喰いたくはないのだが……』
 顔をしかめるように蛇の顔が歪んだ。存外に表情豊かな蛇に、騎士はふと可笑しくなった。
『? どうした?』
「いえ何も。続けて」
『まぁいいが。……欲と言えば我を起こしたのもまた人の欲よ。宝石を求めて求めて掘り進むうち我の寝床に辿り着いた。触れなければ未来永劫眠り続けたものをな。今がいつだか分からぬ故、それがいつだったのかも思い出せぬが、この場所はある魔術師が我を封じるために作り出した場所だ。我はな、これでもどこか遠くの世界では八つ首の竜王の、首の一つであったのだ。それが斬り落とされて、どういう因果かこの世界にて大蛇となった。そして元いた場所と同じように好き勝手食い荒らしていたものだから、とうとう捕えられ、このような場所に押し込められる結果となったのだ。あの頃に比べれば今の我など可愛いものよ。封印の眠りに落ちる寸前、我は己を悔いた。我自身の暴虐が祟って我自身を苦しめる結果となったのだから。だからこうして目覚めてからは、出来るだけ喰わぬようにしてひっそりと生きているのだ』
 蛇は饒舌に捲し立てた。騎士は、この蛇はただ喋りたかっただけではないのかと思った。
 知性ある生き物にとって孤独とは遅効性で、且つ耐え難い毒だ。長く生きている故にこの蛇はそれにも耐えられようが、しかし、誰かと会話することなどついぞなかったに違いないのだから。
 それもまた飢えに違いない、と騎士は思う。
『それでどうする人の子よ。ひっそりと生きているだけの我を殺すか』
「それも出来ますが、それだと私も無事では済みそうにありません。それは避けたい。無事に帰ると約束していますので」
『当然だ。我とてあの時あのような策略に陥らなければ、如何に相手が神の一柱であろうと遅れを取ることなどなかった。全く、我が酒好きだからと……』
「ともあれ」
 また話が長くなりそうだったので、騎士は慌てて話を遮った。
「つまりあなたは、別にここを出られる理由があればいいと、そういうわけですね」
『あるものならな』
「ならば作りましょう」
 何?と蛇が問うより早く、騎士は杖を蛇に向けていた。
【魚が空を飛ぶ】【馬が川を駆ける】【鳥が地を走る】
【木々は喋り出し】【草は囀り】【花は歌い出す】
【私があなたになる】【あなたが私になる】【誰かが誰かになる】
【肉は魂のくびき】【魂の色は無色】【無色に色を落とす】
【色是即ち無に等しく、無是即ち色と為る】
【──幻が、あなたの肉になる】
 杖から伸びた光の帯が蛇を包み込む。
 神殿の中がしばらく強い光で満たされ──
 後には巨大な白蛇の影も形もなく、代わりに一頭の白馬が騎士の前にあった。
『これは──』
 首をめぐらせて自分の姿を見る白馬に、騎士が声をかけた。
「私はここを出たら、そのまま諸国を巡ろうと思っています。しかし人間一人、馬一頭で巡るにはどうにも大変だ。なので、あなたもついてきてくれませんか」
『馬にしてから言う言葉か』
「嫌なら戻しますが」
 蛇はしばし沈黙し、
『いや、いい。それにこの姿なら人を喰わなくて済む』
「では、そういうことで」
 騎士は笑った。
 そういえば、と蛇は先程の騎士の言葉を思い出す。
『汝は、無事に変えると約束したのではなかったか? 旅に出たのでは、それを果たせまい』
「いいえ、果たします。但しそれは今ではない」
『……成程』
 白馬は息を吐いた。
『汝は国を愛しているのだな』
「はい」
 騎士は笑った。










『その後、我は旅をする内にかつての力を取り戻し、神性を得た。今は人や草の代わりに雲霞を喰って生きている』
「彼はもう人に害を為す存在ではなくなったので、半年前にはこの国に戻ってきていました。彼の代役は宝石を蛇に化けさせていたのですが、どうやら誰も近づかなかったようですね」
 それだけ我が怖れられていたということだ、と蛇は笑った。
「では何故すぐに戻ってこなかった? 国の皆はあなたを待ち侘びていたのに」
「姫、戻っても良かったのですが、それだと皆はかつて自分達を脅かしていた蛇を、すぐに受け入れることなどできなかったでしょう。だからこうして彼を倒しに来た者達に、まず彼と出会わせ、事情を説明する必要があったのです。彼らが蛇と共に帰れば、皆は受け入れやすいはずですから」
「それは、半分は建前だな」
 姫は言った。
「嘘まで見抜かれるようになってしまってはお終いです」
 騎士は観念したように、苦笑した。
「──私は、答えを見つけた姫にこそ、迎えに来て欲しかった」
 そう言って騎士は、かつて姫から預かったティアラを差し出した。
「それが私の唯一の我儘でした。騎士としての立場などに捉われることのない、私自身としての。──お赦しいただけますか」
 姫は何も言わず、騎士からティアラを受け取り、それを頭に嵌めた。
 七年越しに身に着けたそれはやや小さかったが、あの頃の輝きは喪われていなかった。
「これで私はまたこの国の姫だ」
 姫は凛とした表情のまま微笑み、言う。
「良い、赦す。姫としてではなく、私自身としてあなたを赦す」
「……はい、ありがとうございます」
 騎士は姫の手を取り、口付けた。
 姫は皆を振り返った。騎士の帰還を喜ぶ者、まだ事情を良く理解していない者もいた。
 姫は一度それらを見渡し、そして告げた。
「帰還する!」
 その場にいた全員が、剣を天に掲げ喝采を上げた。










 その後、一行は蛇と共に城へ帰還した。
 巨大な蛇の姿に民衆は一時慄いたが、その傍らに姫とかの騎士がいるのを見て安堵した。
 蛇は城の中庭に住むことになった。一時は、蛇を怖れるものも多くいたが、大きな工事やあったり、小規模な戦が起きる度にその場に赴く姿に、人々は徐々に警戒心を解いていった。言葉が通じるというのも大きかった。
 諸国の戦争にその国は巻き込まれることなく、国は独立を保ち続けた。
 騎士がいなくなって強くなった国は、騎士が帰ってきて更に強くなった。
 その後女王となった姫は母親と同じく善政を敷き、国を更に発展させた。国は近隣の小国と併合し、ますます栄えていった。人々に平等に振る舞い、敵国にも捕虜にも礼儀を忘れなかった。王族の所有する荘園を開き、民衆を招き、祭りを催した。人々共に踊り、歌を歌った。
 人々はそんな女王を愛し、女王もまた人々を愛した。
 蛇は国を守護する神獣となり、人々に教えを説き、歴史を語った。

 現在も蛇は神殿に住まい、自らを救った姫と騎士の物語を語り続けているという。










 ──さて、ここからは余談であるが、帰路、馬に乗っていた騎士が並んで歩む姫に耳打ちするのを、姫の馬に化けていた蛇は聞いていた。
「姫、一つだけお聞かせ願いたい」
「何だ」
「あの時、私と結婚しようと仰いましたね」
「そうだ」
「もし、この国に蛇などおらず、私があのまま国に留まったとして。そしてあなたが『姫』でなく、私が『騎士』でなかったとしても──姫は同じ言葉を私に仰るつもりでしたか?」
 そう問う騎士に、姫は満面の笑みで答えたという。



「──当たり前だ」





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