猫姫





「ほんとにすまないねぇ」
 身なりのいい格好をした小太りの男性は、禿げ上がった頭から垂れる汗を拭きつつ心から申し訳なさそうに言う。曖昧な笑みで何とか自分を保ちながら。
 見るからに狼狽しているこの中年男性は、一応自分の雇い主に当たる人なので、ぼくとしては幾ら向こうが下手に出ているからといって無下に扱うことはできない。彼にはそうやって頭を下げるだけの理由があり、ぼくには頭を下げられるだけの理由があるのが明らかでも、だ。
「いえ、ぼくは今の環境をありがたく思っています。旦那様には感謝しているくらいなんですから、気にされることは何もないですよ、本当」
 とはいえそれがことあるごとに繰り返されてはたまったものではない。この人と知り合ったのはほんの三ヶ月前だが、大体一週間に一度の頻度で今みたいなことを言われ続けている。
 別に嫌味などではない。この人は根っからの、周りが申し訳なるくらいのお人好しで、この謝罪も本当に心からのものだ。
 だから余計無下にはできなくて、それが分かっている以上こっちも誠意を以て応えるしかない。
 しかしねぇ、と旦那様は渋い顔をして、カップの中の紅茶を飲み干した。傍らに控えていたメイドの冴原さんが、いい感じに冷めた紅茶のおかわりをカップに注ぐ。この人ももう慣れたもので、旦那様が頻繁におかわりすることを見越して、予めお茶を冷ましてあるのだ。主人の意を汲む、メイドの鑑である。
 ありがとうと一言告げて、旦那様はかれこれ四杯目の紅茶に口をつける。そして一息ついて、またすまないねぇ、と言った。
 ……本当、気にしなくてもいいんだけど、どうも彼の中ではそうはいかないようだ。
 どうにもこの人は、ぼくに対して負い目を感じているらしい。全ての責任が自分にあるのだと思っている。でもそんなことはないし、あったとしてもそれは十分に果たされている。本人が言うのだから間違いない。
 ま──確かにぼくの格好を見れば、そうはいかないのかもしれないけれど。
「いや本当に幸せなんですってば、ぼく」
 じゃらん、と喉の動きに合わせてそれが揺れた。
 黒いズボン、白いカッターシャツ、グレーのベストと、シンプルな出で立ちをしたぼくの喉には、ファッションというには些か無骨なソレが嵌められている。
「お嬢様には、良くしてもらっていますから」
 本心から言ったのだが、旦那様の笑顔は目に見えて引き攣った。
 細められた彼の眼の中には、黒革の首輪をつけた十五、六歳くらいの少年の姿が映っているはずだ。
 またじゃらりと、短い鎖が揺れた。

 ぼくは、この屋敷のお嬢様に飼われている。










@/ひるねこ





 部屋を出て、疲労の溜息をつく。
 かれこれ二十分間に渡って旦那様を宥めすかし、頃合というところで冴原さんが彼に時間を告げた。冴原さんはこの洋館のメイド長で、メイド長というからにはここで働いていた期間も一番長い。既に髪に白いものが混ざり始めている初老の女性なのだが、本人が言うにはまだ肌がピッチピチの頃からいたとか。
 そんな女性なので、気配りレベルはトップクラスだ。話に割り込むタイミングの最適さを彼女は心得ている。──話を終わらせたがっていたのは、ぼくも旦那様も同じということだ。
 自分できっかけが掴めないなら、そもそもああして謝ることもないだろうに、と思うけれど、そうはいかないのが旦那様だ。お人好しも度を過ぎている。優柔不断と言ってしまえばそれまでだが、彼の気持ちは本物なので、そう言い切ってしまうのも気が引けた。
 何しろ困っている人を放っておけず、次から次に雇い入れてしまうような人だ。お陰で今ここには、メイド調理師庭師他が合わせて四十人以上いる。最初はどんどん増えていっていたのだが、一度七十人を越えた辺りで冴原さんに咎められて、それからは頻繁に人を雇い入れることはやめ、手に職をつけた人には別の就職先を探すなどして、何とかバランスを保っている。
 底なしの、いや、底抜けのお人好しなのだ。
 そしてそんな旦那様が、ぼくにずっと謝り倒すようになってしまった原因が、この館にはいる。
 ──ことり、と。
 廊下の奥から音がする。
 無駄に広いこの洋館、当然廊下の曲がり角も多い。その、ぼくから見て十歩進んだ右への曲がり角から──人の顔が半分出ている。
 顔は少女のもので、表情は笑顔だ。とは言えぼくはついぞあの顔が笑顔以外の形をしているのを見たことがないので、実はあれで常態なのかもしれない。
 午後一時、外はありがたいことに快晴。しかし館の北側に位置するこの廊下は、昼間だというのに薄暗い。日光の届かない影の中、浮かび上がるような白い貌は、けれど恐怖よりも淫靡が先立った。端正すぎて人形めいたその顔は、薄暗さの中にあれば一回りして美しかった。
 いやはや全く──旦那様と血が繋がっているとは思えない。
「お嬢様」
 呼ぶと、半分だった顔が全体を現す。白磁の肌に黒曜石の眼球を、左に一つだけ(・・・・・・)象嵌したビスクドール。右にはぽっかりと、夜より深い黒を湛えている。
 清廉な純白のドレスを纏ったその人が、旦那様の娘であり、ぼくの飼い主である十二歳の少女だ。
 ぼくの雇い主は旦那様だけど、主人はお嬢様だ。旦那様は、お嬢様が拾ってきたぼくに、給仕という役割を与えて家に入れているに過ぎない。
 お嬢様──(ちがや)お嬢様は、ぼくに向かって滑るように空間を渡る。ヒールを履いているはずなのに、足音はない。たくさんのフリルのついたドレスは僅かに揺れもせず、裾の下から靴は見えない。脚に連動して動く腕はそもそもない(・・・・・・)
 幽霊だ。
 多分誰でもそう思う。
「お嬢様、危ないですよ」
 窓から差し込む薄明かりのみを頼りに歩くには、お嬢様の華奢な身体では危なっかしい。腕がないから、転びでもしたら頭からカーペットに突っ込むことになる。そう思ってこちらから歩み寄ろうとする前に、いつものように、お嬢様のほうが先にぼくの胸にぶつかってきた。
「ツベルク、ツベルク、猫がいないわ」
 胸から、鈴を転がすような声がぼくの『名前』を呼んだ。
 ツベルクとはツベルクスピッツから取った言葉で、ポメラニアンの別名だ。……ぼくはポメラニアンって柄でもないし、ツベルクだけだと『小人』という意味になるのでちょっと傷つく。確かに童顔だし、平均に比べて背も低いけど。
 でも、大切にしなくてはならない名前だ。何しろぼくが生まれて初めて貰った名前なのだから。
 お嬢様の肩を優しく掴んで引き離す。
「猫がいないのは分かりましたけど、どの猫ですか」
「ニーチェ」
 猫に哲学者の名前をつけるのはやめてほしいと思う。
 マルクスとかフロイトとか、そんな仰々しい名前の猫が二十七匹、この館には住み着いている。全部お嬢様が拾ってきて飼い始めた猫達だ。……飼われているという意味では、ぼくの同僚ということになる。
 ただ彼女達──猫は雌しかいない──は個人名で、ぼくは犬種という括りの名だ。でもそれを羨ましいと思ったことはない。既存(できあい)の名前を与えられるより、個人ではない何かであるほうがよっぽどぼくらしいし、そもそも最初はツベルクスピッツという犬種すら知らなかったから、疑問を抱く余地はなかった。
 大切なのは、お嬢様がツベルクと呼ぶのがぼく一人であるということだけだ。
 さて、今現在行方不明になっているらしいニーチェ嬢は、白黒縞模様の仔猫だったはずだ。好奇心旺盛な時期なのか、このごろしょっちゅういなくなる。館の敷地面積は無駄に広いので全部探すとなると骨だが、大体いる場所は決まっている。
「いなくなったのはいつ頃か分かりますか」
「ご飯の後よ。キリーが皆に餌を与えて、しばらくしたら消えちゃった」
 なら、多分裏庭だ。お腹がすいているのなら館の裏手ということも考えられたが、満腹なら今頃は中庭で羽虫を追い掛け回しつつ「神は死んだ」と呟いていることだろう。嘘だけど。
「では探しに参りましょう。お嬢様はお部屋でお待ちください」
「ツベルク、ツベルク、私も行くわ」
「庭は危ないですよ」
「何が危ないの」
「虫がいます。刺されます。蛇がいます。噛まれます」
 それは危険だわ、とお嬢様は笑顔を深めた。
 上下に大きく、常に限界まで開かれている左眼は綺麗で、何もない右眼の奥は得体の知れない闇だった。
 ──左の眼球を刳り貫いて、右に嵌め直しても、正常に機能し続けるのではないかと、一瞬真剣に思った。
 お嬢様は、どうやら部屋に戻る気はないらしい。ついてくるのなら仕方がない。そしてついてきても問題ない。
 春先の庭、虫はいるが、虫は絶対にお嬢様を刺さない。蛇は絶対にお嬢様を噛まない。
 獣は吠えず頬擦りをし、小鳥は肩の上で歌を口ずさむ。
 そんなものなのだ(・・・・・・・・)、お嬢様は。
 ぼくは廊下の奥にいるであろう人に呼びかける。
「キリーさん」
「はい、こちらに」
「うおわあ」
 めっぽう驚いた。
 いつの間に回り込んだのか、ぼくの後ろに長身の女性が立っていた。
 このキリーさんことキルエリッヒ(多分、偽名だ)さんはお嬢様お付きのメイドで、お嬢様が出歩く時いつもお供をしている。だからぼくと顔を合わせる機会も特に多いのだが、ぼくとお嬢様とキリーさんの三人で一緒に歩いたことはない。ぼくがいる時、お嬢様はキリーさんを遠ざける。
 歩くのではなく、お嬢様と三人でお茶を頂くことはあるが、両腕のないお嬢様がお茶を飲むには、少なくとも一人介添えが必要である。その介添えをする人間は、『一緒にお茶をする人』には数えられない。
 お嬢様が旦那様や他の客人とお茶を飲まれる場合の介添えは、ぼくとキリーさんで半々。ぼくとお嬢様の時は当然キリーさんが介添えを担当するのだけど、お嬢様とキリーさんがお茶を飲む、ということはなかった。というか、お嬢様はキリーさんとだけは、そういう楽しむ時間を共にすることはない。
 キリーさんもそれを当たり前のように受け入れ、ぼくがお嬢様の傍を離れることになった時、お嬢様に呼ばれた時、当然のように側に立ち、お嬢様のお世話をするのだ。
 ……正直なところ、ぼくはこの人が苦手だ。
 何と言うか、読めない。普通、メイドと言えど人間なので、メイド以外の部分というのも当然あるのだけど、この人にはそれがない。お嬢様が笑顔以外の表情をしているのを見たことがないのと同じように、ぼくはキリーさんがメイド以外であるところを一度も目にしたことがない。
 冴原さんがメイドの鑑なら、キリーさんはメイドの権化だ。頭の天辺から爪先まで、全部。先の、楽しむ時間を共にすることがないというのも、その証左だ。
 聞くところによれば、この人は旦那様に雇われたのではなく、お嬢様自ら自分のメイドとして雇ったのだという。その辺りの詳しい経緯は知らないが、少なくともぼくのように拾われたわけではない。
 お嬢様に必要とされたから、お嬢様が必要と感じたから。
 ──ぼくは猫よりも、この人が羨ましい。
「そういうことなんで、猫を探してきます。ニーチェが泥だらけで帰ってくるかも知れませんから、一応、濡れタオル用意しておいてください」
「キリー、キリー、行ってくるわ。お茶の準備もお願いね」
「かしこまりましたわ」
 日傘をぼくに渡し、ではお気をつけて、とキリーさんは廊下の奥に消える。意味もなく、足音が聞こえなくなるのを待った。
「……じゃ、行きましょうかお嬢様」
「ええ」
 ぼくの後ろを、お嬢様がついてくる。足音もなく、息遣いも聞こえない。ただ視界の端に映る薄い影だけが、お嬢様がそこにいる証明だ。
「お嬢様、ちゃんとついてきてますか」
 少し不安になってそんなことを聞いた。
「ツベルク、ツベルク、どうしてそんなことを訊くの?」
 お嬢様は不思議そうに言った。影が首を傾げる。
「途中で転んで置いて行ったりしてたら大変ですから」
「面白いわ」
 くすくすと本当に楽しそうに、お嬢様は笑う。
 裏庭に着いた。春の陽射しが白い石畳に反射して、空気全体が暖かくなっている。昼寝をしたら気持ち良さそうだ。
 日傘を広げ、お嬢様をその中に入れる。
「ニーチェ、ニーチェ、どこにいるの」
「お嬢様、声を出すと逃げますよ」
 声を出さないよう促し、静かに歩きだす。レースで飾られた日傘の影に、お嬢様の細い身体はすっぽりと納まった。
 石畳を歩きながら耳を澄ましていると、かさかさと揺れる草葉の音に紛れて、微かに仔猫の鳴き声が聞こえる。どうやらニーチェ嬢は演説の真っ最中のようだ。
 声のする方向に、忍び足で歩み寄る。椿の植え込みの陰に、枝葉の間に逃げ込んだ昆虫を捕まえようと、躍起になっている仔猫を見つけた。
 手を伸ばし首根っこを掴む。直前、ぼくの気配に気付いて一瞬身を硬直させるがもう遅い。
 さっと持ち上げられる手には、きょとんとした様子の仔猫が一匹。胸に抱くとようやく現状を理解したようで、ぼくの腕から逃げ出そうと身を捩った。が、お嬢様の姿を認めると、途端に大人しくなる。
「ニーチェ、ニーチェ、悪い子ね。一人で勝手にいなくなるなんて」
 お嬢様が、ぼくの腕の中のニーチェに顔を寄せて、言う。言葉は猫を叱っているが、お嬢様は全然怒った様子もなく、笑っている。
 お嬢様はいつも笑っている。笑顔以外の表情をぼくは見たことがない。
 お嬢様はこの世の全てが楽しいのだと、そう思う。おそらくは、残る一つの眼を抉り出しても、お嬢様は笑っている。
 とても幸せな人だ。
「帰りましょう、お嬢様。キリーさんが待ってます」
「ツベルク、ツベルク、戻ったら、一緒にお茶にしましょうか」
「喜んで」
 ニーチェをお嬢様の足元に下ろす。ニーチェは逃げ出すこともなく、歩きだすぼく達の横をちょこちょことついてくる。
 意味もなく、日傘を回してみた。透過する日光がレースに翳り、足元に影絵の渦を形作った。
 試しに渦の端を踏む。中心に向かって引き込まれるようなことは、まずない。他愛ない悪戯とそれを行った自分に失笑しながら、ぼくは隣を歩くお嬢様と、日傘越しの空を見る。
 ……晴れている日は、嬉しい。
 暖かい陽射しが好きだ。足元に出来る影も、草葉に反射する光の粒も。
 それらは全て、雨の中には、ないものだ。



 ぼくは、雨が嫌いだ。










A/げっこう





 けだものの、臭いがする。



 午後のお茶会を楽しんだ後、ぼくはお嬢様と別れ書斎に篭もる。
 知識の吸収はぼくの日課だ。元より、あるべきはずのものすらなかったぼくにとって、本は最大の娯楽だ。
 本を読んでいると時間が経つのも忘れてしまう。今日も、冴原さんが呼びに来るまで、夕食の時間にも気付かなかった。
 窓のない書斎を出ると、空のオレンジが、海のような青い闇に塗りつぶされてゆくところだった。

 こうして今日も日が落ちて、
 そうして今日も、夜が来る。



 カツンと音が響く。
 幻聴だ。カーペットを幾ら踏んでも石の音はしない。
 けれどそんな音が聞こえてしまうくらい、息の暖かさを改めて感じるくらい、ここの空気は、冷たく凍りついている。
 ──さて。
 ぼくはもうここに来て三ヶ月にもなるのだが、未だに、この館の全てを掴みかねている。
 理解していることは二つだけ。まず一つ目に、ぼくはどうやら、この館の『夜の番』らしい。
 これだけ広い洋館だ。警備体制は万全だが、万が一ということもあるし、そして泥棒が外ばかりにいるとも限らない。ここに住む者は、ぼくから見れば皆いい人だけど、内側までそうであるとは限らない。旦那様は皆を信用しているが、現実は現実だ。ふと魔が差すこともあるだろう。だからその抑止として、そして相互監視の意味合いも兼ねて、こういった役目は必要なのだ。
 とはいえ──ぼくが夜の見回りをしていなくても、きっと誰も好き好んでこの館の中を出歩こうなどとは思わないだろう。
 夜の見回りをしている人間がぼく一人しかいない、という事実もそれを証明している。より正確に言えば、する人間がぼく一人しかいなくなってしまったのだ。
 夜の館は昼のそれとはまったく違う表情を見せる。壁が厚いから外部、もしくは部屋の中からの音は遮断され、そのくせ音の逃げる隙間がないから、廊下では足音がひどく響く。
 昼間なら明るさと人の活気の中で気付かないそれも、夜中にランプ片手に一人で歩けば嫌でも気付く。
 要するに、おっかないのだ。何者の侵入も許さない鉄壁の警備システムは、しかし、誰も出歩くもののいない館の中で、逆に何かに出会うかもしれない、という不安を増長させる。
 十一時を過ぎれば、壁の床に近いところに設置された足元の明かり以外、全て消灯される。延々と続く廊下の両側に規則正しく並ぶ小さな明かりは、まるで異世界に誘うようですらある。
 初めて夜回りを任された時、成程、とぼくは理解した。これは誰もやりたがらない。ぼくがここに来る以前、夜回りは若手メイドの当番制だったらしいが、その裏では当番の押し付け合いが激化していたという噂は間違いなく事実だったに違いない。実際、ぼくが自分から進んでこの役目を引き受けたときの皆の喜びようったらなかった。
 いや、別にぼくだって全く怖くないというわけではない。ただ人より夜目が利いて、暗いところに慣れているというだけだ。そこの曲がり角からいきなりお嬢様に顔を出されでもしたら物凄く怖い。仕える身としてはお嬢様に失礼だけど、事実だ。
 ……多分、皆が夜回りを嫌がった理由にはそれもあるのかもしれない。
 時々、本当に時々なのだが、この暗い館内で、廊下の奥に茫、と浮かび上がる白い影を目撃することがある。
 幽霊などではなく、お嬢様だ。
 お嬢様は時々寝室を抜け出して、外を出歩くことがある。
 新人のメイドさんなんかはそれを目撃するなり逃げ帰り、先輩に幽霊だ幽霊がいたと縋りついて、先輩にあららそれは我らが麗しのお嬢様ですよと窘められ、お嬢様に対する畏怖を募らせるというのがこの館の名物だった、らしい。今となっては過去形だけど。
 元々、奇矯なところが目立つお嬢様だ。両腕と右眼が欠けているという外見も相まって、この館の住人はお嬢様を怖れている節がある。
 でもお嬢様は、その奇矯さにさえ眼を瞑れば、本当は歳相応に優しい少女なのだ。何年もここで働いている人、特に奥様がお亡くなりになられる以前からいる人は、それが分かっている。旦那様もお嬢様の奇矯さには頭を痛めているけれど、頭を痛めるということはそれだけ娘を愛しているということだ。
 まぁもっとも──分かっているもので全部かどうかなんて、誰にも分からないことなのだが。
 さて、ここで先の言を訂正しておこう。
 ぼくは、この館の全てを掴みかねているというよりは、お嬢様の全てを掴みかねているのだ。
 そして理解していることのもう一つは──
「お嬢様、入りますよ」
 コンコン、とドアをノックする。返事はない。気配もない。
 いつも通り(・・・・・)、合鍵を差し込んでドアを開ける。
 部屋の中は蒼白。
 開け放たれた大窓から降り注ぐ、針のような月の光が、廊下の闇に慣れていたぼくの虹彩を鋭く突き刺した。
 豪奢な、心地良さそうなベッドの上にお嬢様の姿はない。代わりに、取り残されて寂しそうにしている二十七匹の猫がぼくを見た。その中には、昼間連れ戻したニーチェ嬢の姿もある。
 寂しそうというよりは、お嬢様に置いていかれて拗ねているのかもしれない。
 お嬢様は時々寝室を抜け出して、外を出歩くことがある。
 それが寝室の外なのか、館の外なのかは、大体半々ぐらいだ。
 窓の外を見る。吹き込む風にカーテンが揺れる。大きく突き出したベランダは寒々しい。ぼくは夜の空気の冷たさに両手を擦り合わせながら、ベランダに立った。
 理解している二つ。その一つはぼくがこの館の『夜の番』であること。
 もう一つは、『お嬢様の番』であることだ。
 前者は旦那様から与えられた役目であり、後者はぼくがお嬢様のツベルクスピッツであるが故に、自然と割り当てられた役割だ。
 探さなくても帰ってくることなんて分かりきっているけれど、それでも探しに行かなくてはならない。万全、という言葉が完全と同義であったなら、万が一、という言葉など存在しないように。
 お嬢様は必ず、何事もなかったかのように朝の食卓に顔を出さなければならない。
 旦那様も、お嬢様の奇矯さとぼくの首についているもの以外には何の心配事もない日常を送らなければならない。他の人達も。
 旦那様に言った、幸せという言葉は、嘘でも何でもない。ぼくは今本当に幸せなのだ。こうして穏やかな日常を送っていられるということが、何よりも。
 それを出来る限り続けたい、と思うのは当然のことだ。
 何よりも──ぼく自身が、お嬢様なしには立ち行かないのだ。
 ベランダの手すりに立ち、真上に飛ぶ。突き出した屋根の縁に手を引っ掛け、一息に全身を屋根の上まで持ち上げる。
 屋根の上からは、街が眺望できた。小高い丘の上に、この洋館は建てられている。元々景色はいいのだ。館の周囲を取り囲む高い塀のせいで、中々それに気付くことはないが。この景観を知っているのも、きっとぼくとお嬢様ぐらいしかいないだろう。
 この館、警備システムはしっかりしているのだが、一つだけ盲点がある。塀をよじ登って侵入する人間のことは考えていても、塀を飛び越えて侵入する人間のことは考えていない。鉄条網は踏まなければ痛くないのだ。
 そんなだから、お嬢様が抜け出しても誰も気付かないし、ぼくがそれを探しに行くことを誰も咎めない。
 屋根の頂点に立つ。屋根の端から塀までは結構な距離がある。前ではなくその向こうに広がる街を見据え、一歩目から全力で足を踏み出した。
 首の鎖を揺らしながら一直線に走り抜け、緑色の屋根の途切れる一〇センチ手前で──跳躍した。



 ここで、ぼくの住む洋館のある街について説明しておく。
 洋館の入口を下っていくと、そのまましばらく住宅街が続く。住宅街と言っても半分は空き地で、建っている家の中にも人がいるとは限らない。
 その先にあるのは比較的新しい集合住宅群と、背の低い様々な店と、申し訳程度の緑が密集している。そこから更に進めば、ガラス張りの背の高いビルが目立つようになってくる。その辺りがこの街の中心だ。
 遠くから見れば、ビル群を頂上とする山のように見えるだろう。
 そしてその裾野に当たる部分の、洋館に通じる道とは逆方向にある場所。
 そこは、廃墟だ。
 瓦礫の山。崩れかけのコンクリートビルの群れが撤去されないまま残っている。
 こんなところに住む人間はいない。浮浪者すらいない。いつ崩れるか分からないようなものしか残っていないのだ、そこには。
 いるとすれば精々が──野良猫くらいだ。
 今の、人の住む街だって、四〇年ぐらい前は全部同じだった。まるで地球が身震いをするように起きた世界規模の大地震が、人が積み上げてきた形のあるものないもの、まとめてガタガタにしてしまったのだ。
 被害状況は場所によって異なっていて、ここは中程度の被害を受けた場所だった。
 それでも一通り再生するまでに四〇年を要した。今もまだ復興の途中である。けどこれでもかなりましなほうではある。同じような被害を受けた九州は、本州との繋がりは正式には回復していない。
 この街が復興したのは、昔からこの地方に工場を持ってきたある大企業が、崩壊した本社をこちらに移したからだ。働く場所ができれば街は自然と活気付く。実際、復興したての頃は、企業に勤める社員とその家族ばかりだった。
 旦那様はその企業の重役の一人である。旦那様の父親も同じ企業に勤めていたらしい。
 しかし、それでも街の復興は中々進まない。最初の内こそかなりの勢いでビルが再建され、マンションが建ち、企業の生み出した新技術によって街は潤っていくものかと思われた。だが同じように動いている企業は他にいくらでもある。企業同士の争いも激化し、それと反対に街の再開発は止まった。
 ただ、逆戻りすることはない。街の人達はそれまでと変わることなく、企業の恩恵にあずかりながら、極めて普通の生活を送っている。自分の生き死にに必死にならなければならないような場所ではないのだ。そういった意味で、ここはきっと幸せな場所なのだろう。
 さて、今ぼくが向かっているのは、その幸福な日常から取り残されたままの、前述の廃墟である。
 ここにいるのは野良猫と──そして、お嬢様だけだ。
「お嬢様ー」
 小走りに瓦礫の上を駆けながら、お嬢様を呼ぶ。他に人はいないので気兼ねする必要はない。ぼくの気配に感づいた猫が、にゃあにゃあ鳴きながら暗がりへと隠れていく。
 逃げていく猫はその全てが雄だ。確かめてはいないが、間違いない。
 では雌猫はどこにいるかと言えば──
「……眩しい」
 月が明るかった。半分欠けてはいるが、他に明かりのないこの場所では、充分すぎるほどに地面を照らす。
 斜めに傾いた三〇階建てのビルも。
 砕かれたアスファルトの凹凸も。
 ──静かに佇む彼女の姿も、克明に描き出す。
 完全に崩れ、瓦礫の山になったビルがある。その灰色の山の頂点に、一つ、ぽつんと白い影。
 決して呼びかけてはいけない気がして、
お嬢様(・・・)
 それでも呼んだ。
 呼び声に応じて、一斉にそれら(・・・)が振り向く。
 数え切れないほどの月がぼくを見つめた。
 瓦礫の山の中腹に、裾野に、或いは近くのビルの硝子のない窓から。
 無数の雌猫が。
「ツベルク、ツベルク、迎えに来たの?」
 猫の群れに傅かれるお嬢様は、まるでお姫様のようだ。瓦礫は玉座、月の光をカーテンにして。薄汚れた猫達は、彼女に仕える家来である。崩れかけた世界に、豪華絢爛なお城を見る。
 ……お嬢様は、人間を除いて、決して誰からも嫌われることはない。全ての獣が、鳥が、彼女を敬い、愛し、慕う。どういうわけだか知らないが、お嬢様はそんなもの(・・・・・)なのだ。
 そしてお嬢様は、どうやら猫を特別愛しているらしい。猫もそんなお嬢様の気持ちが分かるから、こうして集うのだろう。
 館にいる猫も、ここにいる猫も、大差はない。ただ住む場所が違うだけだ。館の飼い猫達も様々な理由があってあそこにいる。多くは、館の他の住人が拾ってきたものを、結果としてお嬢様が飼い、キリーさんが世話をしている。名前を与えられてはいるが、あれは便宜上呼ばれるための名前に過ぎないのだろう。名前がある、ということは、名前を呼ばれることがある、ということだ。
 ここにいる猫達はたまたま館に拾われなかっただけ。お嬢様にとってはどこにいようと猫は猫に違いないから、この子達を飼おうとは自分から言い出さない。
 もしぼくが、何かの気まぐれで「連れ帰りましょう」などと言おうものなら、お嬢様はそうする。……旦那様が認めればの話だけど。もっとも、犬であるぼくとしては肩身が狭くなるのは避けたいので、そんなこときっと言わないだろう。
 そんなぼくの主人であるお嬢様は、左眼を閉じている。何も見えない右眼だけを開いている。
 まるで猫達が、お嬢様の目の代わりをしているようだった。
「まだお時間が必要なようでしたら、待ちます」
「いいわ。今日のお話はもう終わったもの」
 お嬢様は瓦礫から立ち上がり、今にも崩れ落ちそうな瓦礫の上を、危なげなく幽雅に降りてくる。
 猫が割れて道を作る。お嬢様はぼくに近づくと、頬をぼくの胸に摺り寄せるようにくっついてきた。
「ツベルク、ツベルク、帰りましょう」
「はい、お嬢様」
 頭を撫でると、お嬢様はくすぐったそうに眼を細めた。
 一頻りぼくに髪を弄られたあと、お嬢様は未だ動かぬ雌猫達に向き直り、一礼。スカートを摘む指はないが、その仕草はとても優美に見えた。
「それでは、今宵はこれまで。さようなら皆さん」
 言葉を受け、猫達は何事もなかったかのように千々に散っていく。
 足の横をすり抜けていく猫を見送りながら、お嬢様の膝の裏に手を通し、抱き上げる。腕がないせいかお嬢様の身体は異様に軽い。
「愉しかったですか」
「ええ、とても」
 満足げなお嬢様の笑顔。そうですか、と笑みを返し、跳ぶ。
 ビルの屋上の鉄柵に一度足をかける。ふと下を覗き見ると、もう猫を見つけることはできなくなっていた。



 ベランダに降り立つ。
 ぼくの腕から降りたお嬢様に、帰りを待っていた飼い猫達が擦り寄ってくる。
 お嬢様はそれらに笑みを投げかけながら──ふと空を見上げた。
「どうかしましたか」
 訊くと、いいえ、とお嬢様は首を振り、部屋に入って、言った。
「ツベルク、ツベルク、──いつもように」
「はい」
 お嬢様の背中に立ち、ドレスを支える背中の紐を解く。すとん、と白いドレスが床に落ちた。
 華奢すぎる、幼い肢体を締め付ける純白のガーター。肌の白さと、腕がないせいでまるでマネキンのように見える。
 でも、夜気を伝わる身体の熱は、生きている者にしかありえないものだ。
 身を屈め、お嬢様の右耳を甘噛みしながら、左手で濡れた喪服のような黒髪を優しく梳く。ぼくとお嬢様の身長差は、ぼくが小柄だと言っても二〇センチはあった。
 ん、と小さく声が聞こえた。ぼくは失礼、と一言断ってからさっきと同じようにお嬢様を抱き上げ、ベッドまで運ぶ。
 お嬢様をベッドの縁に座らせ、ぼくは膝をつく。お嬢様の胸に顔を埋めるようにしながら、鎖骨に舌を這わせる。
 舌先でつぅ、と骨をなぞり、肩へと滑らせていく。耳に息がかかる。漏れる吐息の音は、幼さに似合わず、淫靡だ。そしてお嬢様が生きた人間であるという証明でもある。──この醜い傷痕も。
 ぷっくりとピンク色の肉に覆われた切断面を、円を描くように舐める。ここに来て、漏れる息に明らかな熱が混ざり始める。
 お嬢様の背中に手を回し、舌を離さないままベッドに仰向けに寝かせる。じゃら、と鎖が揺れた。見るとお嬢様のお腹に鎖が落ちている。冷たそうだ、と思って身体を起こし、鎖をどけようとすると、
「────」
 お嬢様の身体が跳ねる。掻い潜るように、お嬢様がぼくの胸元に喰らいつき、シャツのボタンを噛み千切った。
「……お嬢様」
 咎めるような目つきでお嬢様を見る。視線を受けても、ぼくに組み敷かれた少女は悪戯に微笑むだけだった。こちらとしては、毎回シャツを駄目にされてはたまったものではないんだけど。
 入れ替わり、お嬢様の舌がぼくの胸を這う。舌から伝わってくる熱は熱い。胸元から聞こえてくる水音を聞きながら、お嬢様の髪を梳く。柔らかで、細くしなやかな感触が指先に心地良い。
 身体を移動させ、お嬢様の行為を止めさせる。抗議の声はない。お互い、タイミングはちゃんと知っている。
 耳を口に含む。舐めるのではなく(ねぶ)る。舌先ではなく唇と舌全体で味わうように口の中で転がす。
 ……猫達が、ぼくとお嬢様を見ている。
 ベッドの上で、床の上で。
 無言のまま。
「ん、」
 自然と漏れる声。わずかに、お嬢様が身を捩った。
 唇と舌を肌に押し当てるようにしながら、耳から頬、顎、首へと辿る。粘性の高い唾液が分泌され、それを容赦なく塗りたくっていく。白い肌をどろどろに溶かし、穢し、侵略する。
 胸の間を抜け、浮き出た肋骨の感触を頬で確かめながら、下へ。
「……っは、ぁ」
 お嬢様の身体が弓なりに反る。泡立った唾液が、横に滑り落ちていくのを眼で追った。
 臍を避けるようになぞる。通り過ぎたところで唇を離し、一度だけそこにキスをして、終わる。
 身体を起こし口元を拭い、息を整える。
 横たわり、上気した顔のお嬢様の身体は、これから犯されるのを待つ無垢のようであり、既に穢され尽くした花のようでもある。
 腕のないお嬢様に抵抗する術はない。ぼくがそうしようと思えば、願う通りにお嬢様を嬲ることができるだろう。
 無論、そんなことはしない。
 一連の行為に、性的な興奮を覚えることはない。そういうものではそもそもないからだ。
 行為の中で身体が昂ぶることはあっても、二人の意識は冷めたまま。それから先に続くことのない、ただ舐め合うだけの、愛撫だ。
 これを──この行為を求めてきたのはお嬢様だ。初めてお嬢様を迎えにいった夜から、今までずっと続いている。
 ぼくはお嬢様が求めたから、それに応えているだけで、どうしてお嬢様がこんなことをしたがるのか、とか、そんなことは知らない。訊けば教えてくれるのかもしれないけれど、今のところ、訊くつもりはなかった。
「シーツ、取り替えないといけませんね」
 まるで情事の後のように、ベッドのシーツは乱れ、唾液で汚れていた。
「そうね。──キリー、キリー」
「御用で御座いますか、お嬢様」
 いつの間にか、或いは最初から、部屋の隅にキリーさんが立っていた。相変わらず気配がないというか……そもそもまともにこの世にいるんだろうか、この人は。暗がりの中で見かける姿は、お嬢様よりよっぽど幽霊っぽい。
「身体を拭いて頂戴。ツベルクったら、私の身体どろどろにするんだもの」
 くすくすとお嬢様は笑う。既にタオルをもったキリーさんがお嬢様の身体を拭いている。
「それじゃ、ぼくはそろそろ戻ります。一応、戸締り見ておきますね」
 お願いしますわ、とキリーさんが言う。
「おやすみなさい、お嬢様」
「ええ、おやすみなさい」
 微笑みを交わし、ドアを閉じる。
 館の中をもう一回りして、戸締りの確認をしていく。お嬢様を迎えに行く前に確認はしたけれど、念の為。
 屋敷の中に異常はない。
 異常はないが、何となく正面玄関の鍵を開けて、外に出てみた。
 正面には水の止まった噴水があり、左右には見事に手入れされた庭が広がっている。
 外周を取り囲む高い塀、その向こうから風が流れてくる。
 ……風に乗って、かすかに。
 けだもの(・・・・)の臭いがした。










B/くろくも





 ──夢を見る。

「キリー、キリー、犬がいるわ」
 最初に聞いたのはそんな声だった。いや、最初はそれを声とすら認識できなかった。声というものすら知らなかった頃に聴いた、音だ。
「お嬢様、それは犬では御座いませんわ」
「いいえ犬よ」
 笑い声が聞こえた。とても楽しそうな声だった。
 その音が、あまりにも心地良かったからなのか。
 それまでいなかった『ぼく』は、顔を上げることができた。
 ──雨の降る中。
 大きく、真円の月のように輝く瞳が、ぼくを覗き込んでいた。



 朝目覚めてまずぼくがすることは、お嬢様の飼っている猫達に餌を与えることである。
 昼と夜はキリーさんが餌を与えているのだが、朝はお嬢様の着替えを手伝っているためそうもいかない。
 しかし数が多いので餌を与えるのも大変である。大皿に大雑把に与えるようなことはできない。成長した猫と仔猫では体格差もあるし、食べるものも区別されている。猫の体調によっては餌を変えて健康に配慮しなくてはならない。
 そういうわけで、結局一匹一匹バラバラに与えることになる。これが大変だ。
 食事時の彼女達は、名前で呼ぶとちゃんと来る。普段はぼくがどれだけ呼んでも反応しないのに、だ。……やっぱり敵視されてるんだろうか。
 まず二十七匹全員の名前を正確に覚えることが求められる。ぼくは記憶力はいいのでこれは得意だった。与えるべき餌もすっかり覚えてしまった。
 問題は、
「……………………」
 この、ずらりと周りを取り囲むメイドさんの群れである。
 猫達は普段お嬢様のお部屋を根城にしているのだけど、そこで食事などさせるわけにもいかないので、雨の降っていない日はこうして毎朝庭先まで引き連れて食事させるのだ。ちなみに昼と夜は、他のみんなの食事が終わってから、食堂の隅で与えている。
 で、早番のメイド達はとっくに朝食を済ませているので、その中でも手すきの人はこうして猫を愛でに来る。今日は全部で七人いるが、
「あの……仕事いいんですか」
 猫の耳や背中を撫でながら菩薩みたいな顔をしてカワイイカワイイと連呼するうら若い女性達。
 聞こえちゃいねぇ。
 猫達もすっかり慣れてしまったのかされるがままだ。早々に食事を終えてしまったユングなんかは眼鏡とおさげの女性、岸本さんに全身もみくちゃにされている。また別の一角では、猫が苦手な新人の氷室さんに意地悪いことで知られる金城さんがフロイトを抱えてにじり寄っている。
「ツベルクサンは羨ましいデースネー。毎日コンなカワイーヌコチャンと触れ合えるんですからネー」
 妙な抑揚をつけて、この館にいる中では唯一日本人ではない、エミリーさんが言ってきた。
「いやぼくは特別猫好きじゃないんで割とどうでもいいんですけど」
「エー?」
 エミリーさんを含め、他の人達も何故か不満そうな顔をする。
「代わりたいなら代わりますけど」
 そう言うと、一瞬皆ぐっと詰まるような表情をして、また何事もなかったかのように猫を弄り始めた。名前を覚える自信はないらしい。
 一通り、猫に餌を与え終える。配膳係の仕事も今日は終わりだ。
 皆は至福の表情で猫を愛でている。
 ……今でこそ、こうしてここで微笑んでいる彼女達だけど、ここに来るまでにそれなりの苦労があった。
 岸本さんは孤児。エミリーさんの一家は祖国を失い、ここに働きに来て食い扶持を稼いでいる。氷室さんは知らないが、金城さんは病気の弟がいるという。
 そういう彼女達が、ここでこうして笑顔でいられるのは、きっと幸せなことだ。
「ソーいえば、昨日オカシな噂聞きましてナ」
 頭の上に仔猫を乗せたエミリーさんが切り出す。他の人達も何々、と顔を寄せてくる。女性の噂好きはいつの時代も変わらない。その上、館は一種の閉鎖空間だ。外に出る機会が少ないだけに、そういう話には皆興味がある。
「イヤ、昨日メイド長と買い物イッた時のコトナンですけどナー。ナーンか街の空気がいつもと違ウンですナ。デ、肉屋のオッチャンに聞いてみタラ倉庫の鍵ブッ壊されテテ、中かラ肉の塊が一つ消えてタンダト。デモ盗まれたにシチャみみッチーし、首傾げテタんデスな」
 ふんふん、と皆聞き入っている。ぼくもその一人だ。
「朝にナッテ周りノ店のヒトに話しタラ、前の晩ニ、街中を跳びマワる影を見たトカで」
 ぎくりとした。見られてたか、と不安になる。でもぼくは肉など盗んではいないし、行きつけの精肉店周辺を通過した覚えはない。
 ではお嬢様か、と言えばそれも多分違う。通りがかったかもしれないが、少なくとも肉は盗んでいない。そんな匂いはしなかった。
 いや、そもそも時間が合わないか。ぼくとお嬢様が外に出たのは昨日の深夜、エミリーさんが精肉店のおじさんから話を聞いたのは昨日の昼だ。前に外に出たのは八日前だから、確実に違う。
 じゃあ誰なのか、という話になるが、
「でもあんまり関係ない話ですよねぇ、私達、市街のほうにはあんまりいかないし」
 とショートボブの新条さんが顎に人差し指を当てて言う。そういうことだ。あちらでどんなことが起きていようと、ここまで波及してこない限りあまり関係ないのは確かだった。精肉店のおじさんとは顔見知りだから盗みに入られたことは気の毒だが、それまでである。こうして井戸端会議の話題になる程度のことなのだ、結局。
「肉泥棒ってのも変な話ですね。しかもたった一塊ってのが」
「泥棒だったら真っ先にここ狙いそうなもんだけどねー。実際色々あるでしょ? ここ。まぁセキュリティも色々あるからまず無理だろうけど」
 しかしこの洋館にはそれを軽々と飛び越えていくようなのが、少なくとも二人はいるわけですが。
 ……ふむ、ならその泥棒とやらが、家から家へと飛び移ることができる程度の身体能力の持ち主なら、この館の敷地内に侵入することも充分可能というわけか。
 警戒が必要かもしれない。そんな人物がマトモな膂力をしているわけないので、いざという時は自分が相手をしなければいけないだろう。
「とりあえず戸締りをしっかりしないといけませんね」
「そうですねツベルク。しかし確認はあなたに任せていますが、まず施錠するものがしっかりしないことには意味がありません」
「もっともです」
 うんうん、と頷いて一同を見遣った。
 岸本さんは猫を抱き締めて三歩後ずさった。エミリーさんはばつが悪そうな顔でオーゥ、と声を絞り出した。金城さんは丁度氷室さんの顔に猫を乗せて振り返ったところで顔を蒼白にし、その氷室さんは失神して後ろに倒れた。
 ばたーん、と景気良く氷室さんが倒れた音を契機(きっかけ)にして、
「あなた達は! 仕事はどうしたのですかッ!」
 いつの間にか、ぼくの真後ろに立っていた冴原さんの雷が落ちる。皆は猫よりも小さくならんばかりの勢いでビクビクと縮こまった。ぼくは猫に餌をやるという立派なお仕事の最中なので、咎められる謂われも怯える必要もない。ないのだが、しかし、この声は何て言うか生まれてきてごめんなさい、と思わず謝りたくなるような重さがあった。
 ふと下を見る。普通、これほどの大声を出されたら一目散に逃げ出してしまいそうなものだが、猫達は知ったことではないわ、とばかりに餌を頬張っている。これにもすっかり慣れてしまったらしい。野生はどこいった。
 メイド長、冴原鉄子。五十代も半ばを迎えて尚元気な女性である。
「全くあなた達と来たら! 毎日毎日こうやって暇さえあれば猫と戯れてッ。可愛いのは認めますがしかしそれは己の職務を全うしなくていい理由にはなりません! というかこうして私が叱るの何度目か覚えていますかあなた達!」
 そろそろネズミくらいの小ささになってきた。金城さんは気絶しているお陰で一人被害を免れている氷室さんを恨めしそうに見て、畜生やめときゃ良かったわと口の中で呟いた。
「エミリーは三回目、金城は二回目、岸本に至っては七回目です! 新条は初犯ですからまだいいですが」
「メイド長! 氷室もいます!」
 金城さんが半ば悲痛な叫びとなった抗議の声を上げる、が、
「氷室はどうせ金城に無理矢理連れて来られたんでしょうからカウントしません。代わりにあなたにプラスいち」
 そんなぁ、と金城さんがむくれるが、冴原さんは冷徹にプラスにと告げた。
「しかも猫と遊ぶだけでは飽き足らず世間話まで! せめてどっちかにしなさい!」
 どっちかならいいんですかメイド長。
 ガミガミと若草を焦土にせんばかりの勢いで落ちまくる雷に、ぼくは両手で耳を塞ぐ。いいからどこか別のとこでやってくんないかなぁ、などと思っていると。
「──ツベルク、ツベルク。お世話ご苦労様」
 鈴を転がすような声。ピーン、と猫達の尻尾と、ついでにメイド全員の背筋が垂直に立った。……気絶している氷室さんを除いて。
『おはようございます、お嬢様』
 この時ばかりは、声と動作が揃った。お嬢様はにこりと笑って、おはよう、と応えた。背後にはキリーさんが立っている。今日は少し雲が出ているので、日傘は差していない。
 猫が口々に鳴き始める。皆の足元にいた猫達は、お嬢様を取り囲むように集った。岸本さんが名残惜しそうにそれを見遣る。
 お嬢様は猫を一度見回し、それからぼくに向き直った。
「ツベルク、ツベルク、花を生けたいの。見繕ってちょうだい」
「ええ、いいですよ」
 察し、下がろうとするキリーさんを、冴原さんが呼び止める。
「キルエリッヒ、あなたもたまには皆と一緒に食事を」
「申し訳ありませんわ冴原様。私の主人は、お嬢様だけで御座います」
 笑顔で、淀みなくキリーさんは言い放った。冴原さんはいつものようにぐっと詰まってしまう。
 キリーさんは誰にでも『様』をつけて、礼儀正しく接する。しかしメイド長であるはずの冴原さんを、メイド長ではなく名前で呼ぶということは、彼女の指揮下に入る気などないという意思表示である。そして、礼儀正しさは相手への敬意から来るものでもない。
 言葉を失う皆をよそに、楚々とした足取りでキリーさんは館の中に消える。また、お嬢様に呼ばれるまでどこかにいるのだろう。お嬢様と一緒にいる時以外、どこで何をしているのかさっぱり分からない。
 そんな彼女だから、他のメイド達と打ち解けることはない。メイド以外何もない彼女は、この館では孤立している。キリーさん自身はそんなこと気にしていないが、周りの皆はそうもいかない。皆は彼女を無視する、ということで彼我の距離を保っている。冴原さんだけは、どうにかコミュニケーションを取ろうとしているが。
「ツベルク、ツベルク、行きましょう」
 そんな皆の葛藤を知ってか知らずか、お嬢様はぼくを促す。はい、とぼくは答えてお嬢様と猫と一緒に歩きだす。
 しばらく、背後には言い様のない静寂があったが、やがてそれは冴原さんの声と、それに続く散っていく足音によって消えていった。



 バラ園で、お嬢様の希望した通りにバラを摘んでいく。足元にはそこらで戯れていて、足を動かすたびに踏みそうになっておっかない。
 色とりどりのバラは見事に手入れされていて、どれも瑞々しく咲いている。この館の庭師の腕前も中々のものだ。
 特に話すこともなく黙ってバラを選別するぼくの後ろで、お嬢様は静かに佇んでいる。
 ぱちん、と一本、バラを刈り取る。
 何となく、一昨日の夜市街に何者かが現れたことを、お嬢様は知っているのか訊こうと思って──やめた。夜のことは、昼には話さない。それが暗黙の了解になっている。お嬢様から話題を振ることもなければ、ぼくから話すようなこともない。これまでそうだったのだから、これからもそうあるべきだ。
 代わりにどうでもいいことを訊く。
「お嬢様、この猫達の名前はどうやって決めたんですか」
「おかしなことを訊くのね」
 くすりと笑う声。
「まぁ、興味本位ですよ。新しい猫を飼うと、すぐ名前決めてしまいますよね」
「理由はないわ。私は私がつけようと思った名前をつけているだけだもの。あの子達の名前は、私だけが呼ぶものでもないし」
 それはそうだ。……逆に言えば、お嬢様は名前などなくても見分けがついているんだろう。
「名前に意味があるのではなく、名前を呼ばれて意味が生まれるのではなくて?」
「つまり、適当ということですか」
「ええ」
「それはぼくもですか」
「あなたには理由があるわ。出会った日のことを、覚えているでしょう?」
 それはもう、はっきりと。
「ひどい雨の日でした」
 そこが路地裏だったかビルの隙間だったか廃墟だったかは覚えていないが、そういう『片隅』にいたぼくを、お嬢様が見つけた。
 そうしてツベルクスピッツ(ぼく)が生まれたのだ。
「まるで棄て犬のようだったわ。雨に濡れて凍えて可哀想な」
 棄て犬、というのは事実だ。ぼくは実際そんなものとして、あそこにいた。
「お嬢様は──」
 何故ぼくを拾ったのですか、とは訊かなかった。訊けば踏み込むことになるからだ。ぼくは踏み込みたくなかった。足元が地面なのか薄氷の上なのか分からなかったから。
「猫がお好きなんですよね」
「ええ、とても好きよ。可愛らしいし、私を好いてくれるもの」
 話題の切り替えに疑念を抱いた素振りも見せず(或いは、気付かないふりをして)お嬢様は答えてくれた。
 ぱちん、と切り取ったバラを束ね、棘を触らないよう注意して持った。
「お嬢様は先に戻っていてください。花瓶に入れてお部屋にお持ちします」
「ええ」
 お嬢様が、ぼくに背を向けて歩きだす。す、とキリーさんがバラの垣根の間から現れ、お嬢様の斜め後ろについた。
 白い背中が遠ざかる。
 ぼくは、それをずっと見ていた。



 夜、ぼくはいつものように戸締りを確認する。
 今日はお嬢様は部屋の外に出ることはなく、静かに眠っている。
 一通り確認したところで──外に出る。空に月はない。空気は湿り気を帯び、今にも雨が降り出しそうだった。
 ……ぼくは雨が嫌いだ。
 お嬢様に出会うまで、ぼくはずっと雨の中にいた気がするから。
 空気の匂いを嗅ぐ。
 水を含んだ風は、遠くの匂いまで運んでくるのか。
 風の中で、昨日よりも強く、獣の匂いがした。
 ──ああ、と息が漏れた。
 昨日は気付かなかったけれど、それはどこか、懐かしい匂いがした。










C/みずおと





 すこしまえ。



『駄目だな────これは────』
『────、廃棄────?』

 震動、大気を伝導し、管を震わせ、液体を微震させる。

『残念だが────、────』
『────では、────』
『認可は?』
『────、だ。で、────』
『結構、────? ────急がないと』

 微震させる。

『いやはや、────面倒な』
『仕方ないだろう。納期が────』
『次世代は────、────ですかな』
『ああ、既に────』
『結構』

 微震させ、
 ひたり(・・・)と。
 手が、管を震わせる。

『そういうわけなのでな、お前とはお別れだ』

 微震させ、笑っている。

『何、掴めぬものなどなにもないさ。お前は幸福になれる。お前がそれを望めたならば。──望めたら、だがな』










D/すていぬ





 起きると朝から雨だった。
 いきなり気が滅入る。雨は嫌いなのに。
 冴原さん達も頭を抱えているだろう。雨だと洗濯物が乾かない。暮らしている人数が人数なので、この館から出る毎日の洗濯物の量も半端ではないのだ。雨が何日も続くようなら、無論、洗濯物も貯まっていく。
 この館、他のものは大概揃っているのだが、何故か乾燥機だけはないのである。洗濯係の苦労を慮ってか、最近は冴原さんも乾燥機の購入を旦那様に打診しているらしい。
 雨が降っているので、今日は食堂の片隅で猫に餌を与えた。昨日の今日で流石に冴原さんが怖いのか、エミリーさん達の姿はない。岸本さんだけは来たけど。
 今日は旦那様の仕事が休みなので、お嬢様と一緒に食事をされているはずだ。親子水入らずの場所に入るものではない。ちなみにこの時ばかりは、キリーさんもお嬢様の側を離れ、代わりに冴原さんが食事の世話をしている。お嬢様が生まれる前からこの館で働いているから、冴原さんも家族みたいなものだ。本人は謙遜して絶対にそんなこと言わないけれど。
 家族。
 自分にはこの上なく縁遠いものだ。
 この日は特にすることもなく、ぼくは書斎で一日を過ごした。夜になっても雨は止まなかった。



 ──夜中。
 寝苦しさを覚えて、眼を覚ますと。
 視界一杯に、お嬢様の顔が逆さまに映っていた。
「……何か」
 御用ですか、と言いかけて、違和感を覚えた。
 それが何なのか気づく前に、お嬢様はぼくの上から退く。上半身を起こすと、寝巻きではなく、昼間着る純白のドレスを纏ったお嬢様と、やはりと言うかキリーさんの姿があった。
 部屋の鍵は開け放たれている。キリーさんに合鍵を持たせた覚えはないんだけど。
 ぼくの部屋は八畳程度の、館の他の部屋に比べるとどちらかといえば狭い部屋だ。そこにベッドや箪笥や調度品などを置いているので、少し手狭な印象を受ける。
 この部屋だけは、ぼくの領域だった。ここでだけぼくは首輪を外している。お嬢様の犬じゃなくなる。だからお嬢様がこの部屋に来ることは今までなかったし、その他に訪れる人もいなかった。
 なのに何故と思い、そこで違和感の正体に気付く。
 お嬢様が──いつもの微笑を浮かべていない。
 全くの無表情。
 ぼくはとりあえず、枕元にあった首輪を嵌める。がちん、と金属音が首で鳴った。
「何か、あったんですか」
 寝巻き姿のまま、ぼくは改めてお嬢様に訊いた。
「猫が死んだわ」
 そう言った。
「え?」
「喰い殺されたの」
 淡々とお嬢様は告げる。
 猫が──喰われた?
「それはこの家の、ですか」
「いええ、外の子よ。でも、たくさん食べられた」
 言って、お嬢様は窓の外を見る。外は土砂降りの雨だった。
「先に行くわ。ついてきなさい」
 キリーさんが窓を開ける。雨が吹き込んで窓の下の床を濡らした。お嬢様が窓枠に足をかけて、跳んだ。
「え──ちょっと、お嬢様!」
 雨に紛れて、あっという間にお嬢様の姿は見えなくなった。
 そうして気付く。
 さっきから、お嬢様は一度もぼくの名前を呼んでいない──



 手早く着替え、キリーさんに戸締りを任せてからお嬢様を追って飛び出す。
 外に出る前に納屋に寄り、武器になりそうなものを探す。何が起きているのかとんと分からないが──いや、何がいるのかは、分かっている。ちゃんと理解している。昨日の夜、あの匂いを嗅いだ時点で。
 なら──お嬢様とそれを会わせるわけにはいかない。
 金属製のスコップを選ぶ。旦那様の企業で実験的に作られた、新型合金を用いたスコップだ。テスト用の余りを旦那様が一振り貰ってきたものだが、鉄製のものと微妙に重さが違い、結局庭師の重垣さんも使わないまま、ここに仕舞われているものだ。
 スコップを手に館の壁を駆け上がり、屋根から塀の外へと跳躍する。
 塀の外には森がある。木々を蹴って更に跳躍、五歩で山を下りきる。
 誰もいない道路を駆け抜ける。雨のせいで視界は悪い。纏わりつく水の感触が気持ち悪い。お嬢様の、お嬢様の声と違って、雨は全くぼくに心地良さを与えない。
 市街、住宅街の屋根を足場にしながら駆け抜け、中心にある巨大なビル──旦那様の働く場所を駆け上がり、屋上から廃墟へと、迷いなく跳躍する。
 三十秒とかからず廃墟に到達する。雨が鬱陶しい。その中に混じるけだものの──ぼくの(・・・)匂いも。
 お嬢様の匂いを嗅ぐ。移動はしていない。ただそこから二百メートルほどの距離を挟んで、もう一つ動かないものがある。
 走り、ビルの角を三つ曲がったところで、大通りの真ん中で立ちつくすお嬢様を見つける。
「──お嬢様」
 呼ばれ、お嬢様が振り向く。雨に濡れた髪が全身に張り付き、まるで本物の幽霊のようだった。
「ツベルク」
 一度だけ、お嬢様が名前を呼んでくれた。
 それだけでぼくの中には安心が満ちる。ぼくはお嬢様に名前を呼んでもらえる。名前を呼ばれる意味があるのだと、そう思える。
 お嬢様は再び正面を見据えた。
「私はここから先には行けないのね」
 ──気付いた、のだろう。
 この先に何がいるのか。
 誰がいるのか。
「ええ、ここから先はぼくの仕事です。お嬢様は、絶対に先に進まないで下さい」
 スコップを握り締め、ぼくは言う。
 そう、とだけお嬢様は頷き、眼を伏せた。
 その顔が、どうしてか哀しそうに見えたのは、きっとただの錯覚だ。べったりと張り付いた黒髪のせいで、お嬢様の表情を見ることが出来なかったのだ。
 ぼくは、
「お嬢様は、どうしてぼくを拾ったのですか」
 昨日訊けなかったことを口に出した。ぼくが立っているのは、つつけば割れるような薄い氷の上だった。それでも訊いた。
 答えを待たず、駆けた。雨の飛沫を弾き飛ばし、二百の距離を一瞬で縮める。
 大通りはすぐに途切れ、T字路になっている。突き当たりに大きなビルがあった。中からはただ一つを除いて、全ての気配が失せていた。
 いや、この一帯からは、既にぼくとそれ以外の匂いはない。ここに住んでいるはずの猫達は、一つは既に齎された仲間の死から、一つはこれから起きるであろうことを予想して、逃げ出してしまっている。
 ……中に、入る。
 ぐちゃぐちゃになったまま、四十年間放置されたビルの中。
 広いロビーがあり、ビルの中心を貫くように罅の入った巨大な柱が立っている。
 その根元にぼくがいた(・・・・・)
 辺りには赤いものと白いものが散乱している。喰われた猫の残骸だろう。
 うずくまっていたそれは今更のようにぼくに気付き、四肢を漲らせ、低く静かな唸り声を上げた。その姿はまるで肉食獣のようだ。
 群れをはぐれた──いや、群れというものすら持てなかった、孤独なけだもの。
 それは、ぼくだ。
「──プラン九三〇、第三世代強化人間培養計画──失敗作」
 いつかどこかで聞いた音を、再生する。
 目の前の獣は、ぼくと同じ顔を持っている。体躯こそ痩せ細ってはいるが、同じ環境に置き、同じように生育したならば、今のぼくと寸分違わぬものが出来上がるだろう。
「市街のほうで肉を喰ったはいいけど、すぐに警備が厳重になってしまってそれ以上手に入れることができなくなったってとこか。本能的に大勢の人数を避けてるのかな。そんなことしなくても、君の前に立ち塞がるものなどなにもないのに。──もっとも、そのお陰でぼくは助かっているわけだけど、ね」
 獣は答えない。警戒しているのではない。ぼくがかつてそうであったように、この獣は、言葉というものを知らない。
 そう、目の前の獣は、ぼくだ。
 同じ遺伝子構造を持つ、培養されて作られた人間以外の何か。
 ぼくは人間ではない。丘の上の洋館から、市街を挟んで反対側にある廃墟まで、三〇分かからず到着できるようなものが人間であるはずがない。
 でも、お嬢様は人間だ。どんなに異常な力を備えていても、お嬢様は人間として生まれ、人間として育ったのだから。
 だから、お嬢様をここに立ち合わせるわけにはいかなかった。
 お嬢様に、(ぼく)の姿を見せたくなかった。
 お嬢様もそれが分かったから、あれ以上近づくのをやめてしまったのだろう。そこに、自分の知らないぼくがいることを知って。
 そして何より──ぼくがぼく自身の幸せを護るためにも、ぼく自身が始末をつけなくてはいけない。
 ──三ヶ月前、ぼくは、お嬢様に拾われた。
 ぼくは失敗作だった。理由は知らない。ともあれぼくを作った人達にとってぼくは間違いなく失敗作であったから、ぼくは廃棄された。
 廃棄される、ということは殺される、ということではなかった。文字通り外に棄てられるのだ。そのまま死んでも、生き残っても、彼らの知ったことではなかったのだろう。或いは生き残り、それが何らかの成果を出し、そのことが自分達の耳に届くような出来事だったなら、それをサンプルにして更に研究を進めるつもりだったのかもしれない。憶測だが。
 棄てられたのは、その後一週間降り続くことになる雨の、最初の日だった。
 三日ぐらい、音の意味も映像の意味も知らないままどこだか知らないどこかを彷徨っていて、そして。

『キリー、キリー、犬がいるわ』

 お嬢様に、拾われたのだ。
 館に連れて行かれ、服を与えられ、名前を与えられ、知識を吸収し、ぼくは人間のように(・・・・)なった。
 ぼくは幸せになったのだ。いつかどこかで聞いた、幸福、というものを、ぼくは得ることができた。
 あの館で過ごす日常は、幸せだった。穏やかで心配のない日々。笑顔に溢れる人々。──ぼくに名前を与え、ぼくを名前で呼んでくれる、お嬢様がいた。
 だからそれを失いたくないと思うのは当然だ。
 目の前の彼は、お嬢様に拾われなかった、ぼくだ。
 違う未来のぼくだ。
 それを、今から殺す。
 彼が他人に見つかったらどうなるだろう。人を傷つけ、喰らい、殺されたらどうなるだろう。
 ぼくと同じ顔をしたものが、そこにいると分かったら。
 旦那様は、ぼくを怖れるかもしれない。冴原さんも他のメイド達も。
 そんなのは嫌だ。そうなってしまったら、あそこはぼくの幸せな場所ではなくなる。それだけは、絶対に、嫌だった。
 或いは、どうにかして追い払えばいいだけかもしれない。彼にどの程度の知能があるのかは不明だが、力づくでも理解させれば、ここに近づくことはないかもしれない。懐柔、という手段もある。
 しかしそれは変化を是認するということだ。モノは存在するだけで周囲に干渉する。現に、彼がここにいることで、猫を食事に選んでしまったことがきっかけで、お嬢様は気付いてしまった。それはほんの僅かかもしれないけど、ぼくとお嬢様の関係を変えてしまった。
 変わらないものなんてない。それはそうだ。
 でも、幸せに代わりなんてない。あるかもしれないけれど、ぼくはまだ見つけていない。見つけていないのなら、ないのと同じだ。
 だから、変わりたくない。
 ぼくはこの安穏とした、幸せな日々を送っていたい。
 そのためなら、ぼくはぼくの幸せを変えようとする全ての要素を排除する。
 夜、外に出たお嬢様が必ず帰ってくると分かっていても、それを迎えに行くのと同じように、
(ぼく)を殺す。ぼくがぼくの場所(しあわせ)を保全するために」
 宣言は明確な殺意となって錆び付いた空気を伝導し。
 人のなりそこないと、獣のできそこないが、中間地点で交差する。



 受けた一撃は苛烈の一言。ただ一直線に突っ込んでくるだけの単調な攻撃だったが、しかし全身の重みを乗せたそれは、脚力に加速されて砲弾の如し。スコップの柄から伝わる衝撃はビリビリと腕の筋肉を打ち振るわせた。
 だが耐える。割れた床の上で踏ん張り、スコップを回転。衝撃が伝わりきるその直前、力の向きを逸らす。
 自分自身の有り余る力によって彼があらぬ方向へ吹っ飛ぶ。地を蹴り、それに追い縋った。
 相手が体勢を立て直すより早くスコップを突き入れる。しかし遅い。両手足を跳ねさせて彼が距離を取り、スコップは床に突き刺さった。
 床を砕いた震動が腕に伝達する速度を上回り、ピンボールのように跳ね返ってきた獣が両腕を薙ぎ払う。手は、長く爪のように伸びていた。
 引き抜いている暇はない。脳が判断する前に身体が決断を下しスコップの先端を蹴り上げる。反動で身体が後ろに倒れ、目の前を爪が通り過ぎる。前髪が数本逃げ遅れ、宙に舞った。
 跳ね上がったスコップの先端は、がら空きだった彼の胴を打つ。ぶ、と空気の抜ける音がして、鮮血が彼の口から飛び散った。
 背中側に倒れる身体を左足を軸にして回転、遠心力によってバランスを保つ。勢いを殺さず垂直跳躍。力なく中空に浮き上がっているはずの彼目掛けて、スコップを、
「────!?」
 がづん、と頭の後ろから音が聞こえた。遠ざかったはずの地面が何故か近づく。
 殴られた、と理解するまでに時間を要した。理解する頃には床を貫通して地下まで落ちていた。
「く、ぅ……」
 瓦礫から身を起こしながら、成程、と舌を巻く。三ヶ月前のぼくと、恐らくは数日前に廃棄されたばかりの彼では、性能が違うということなのか。そう言えばさっきは両手十指が爪状に変化していた、あんな真似、ぼくは出来ない。
 研究──プラン九三〇はまだ続いているのだろう。なら今後も、ぼくや彼と同じような廃棄物が出る可能性があるということだ。
 やだなぁ、とぼやきながら、頭上より急襲する獣にスコップを打ち合わせる。
 ぎぃやん。スコップが震動する。お互い弾かれ、次の瞬間には全く同時に疾駆する。
 攻撃動作、一瞬、ぼくのほうが遅れる。遅らせる(・・・・)
 五指を窄め、杭のようになった爪が顔を掠め、肉を抉る。ぼくは身を沈め、相手の懐に潜り──スコップを、床に深く突っ込んだ。
 本来スコップとは土を掘るための道具だ。その用途に適う使用方法を、しかし土ではなくコンクリートに行う。
 地面が持ち上がる。目の前の瞳に戸惑いが浮かんだ。ぼくはそのまま力任せに腕を振り上げた。
 抉れた地面ごと相手が吹っ飛ぶ。感触からすると、床を下から貫通して一階へ出ただろう。ぼくもそれを追って自分が落ちてきた穴から上に上がる。
 果たして彼はそこにいた。頭を強かに打ちつけたのか目の焦点が合っていない。……今ので眩暈程度ってどれくらい石頭なんだ。
 それはぼくもか、と思い直し、スコップを構えて突貫する。合わせるように、彼が拳を放ってきた、瞬間。
 スコップを横に寝かせる。
 加速。横向きになり空気抵抗が少なくなったスコップは、瞬間的に大気の壁から解放される。その変化はわずかなものかもしれないが、なまじよく見えてしまうせいなのか、彼は明らかに戸惑った。
 それも一瞬の戸惑いだ。だがその一瞬に、スコップの縁は、突き出された拳を手首から斬り飛ばした。
「────────────…………!!」
 絶叫。
 ぼくは止まらない。振り抜いた勢いそのままに回転し、再び縦にしたスコップの表面を、彼の腹にブチ当てる。
 インパクトの瞬間に自分の全体重をスコップに預ける。一瞬、身体が軽くなったような感覚と筋肉の断裂する音。後先のことを考えない、全身全霊を込めたフルスイング。
 振り抜いた瞬間には、彼の身体はすっ飛んでいた。
 くの字に折れ曲がり、風を切り裂いて吹っ飛ぶ彼の身体は、ビルの中心にある柱の中腹に激突して、止まった。
 ビルが細かく震動する。柱が砕け、蜘蛛の巣のような罅割れが走っていた。
 磔にされていた彼の身体が、ぐらりと揺れ、落ちる。おそらく背骨が粉々に砕けてしまっただろうが、まだ死んではいない。彼の回復性能がどれほどのものかは知らないが、止めを刺すなら今の内だ。
 ぼくは落下地点に歩み寄る。うつ伏せになった彼が、苦しそうに息をしながら、ぼくを見上げていた。
 そこに、知性の光は見られなかった。
 ぼくにとって彼はぼくだが、彼にとってぼくはただの敵でしかなかったということだ。
 何故殺されるか分からないまま、彼は死んでいく。
 それを可哀想だと思うのは、感情を持ってしまった者の驕りだろうか。その感情も、お嬢様と出会ったからこそ、得られたものだ。
 ……ぼくは、お嬢様に拾われて、けれど、目の前の彼はそうはならなかった。
 差があるとすればそれだけだった。出会った時期が前後していれば、ぼくは彼になって、彼はぼくになっていただろう。中身というものがなかったぼく達だ。スタートラインも道程も同じなら、きっと同じものが出来上がる。
 どっちでもいいのだ──とは、思いたくない。
 ぼくがぼくだからこそ、登録番号04FF/01035として生まれた個体だったからこそ、お嬢様に会えて、『ぼく』になれたのだと、そう信じている。
 でなければ、ここでこれから殺されるのはぼく自身(・・・・)だからだ。
 彼が、立ち上がろうともがく。脊髄の修復は存外に早いようだ。
 そうなる前に、殺さないと。
「そろそろさよならだ」
 みっともなくもがく姿を前にして、ずきん、と身体のどこかが痛んだ。頭だったのか胸だったのか、雨音が五月蝿くて、良く分からなかった。
 スコップを振り上げ、
「それじゃあ。──ごめんね」
 振り下ろした。



 全部が終わって、スコップを雨水で洗い流し、お嬢様と二人で帰路についた。
 ぼくがお嬢様を抱きかかえて走ることも、お嬢様が自ら走ることもなく、ゆっくりと、歩いて帰っていた。
「ツベルク、ツベルク、私があなたを拾ったのはね」
 降りしきる雨の中で、お嬢様が答えを発した。
「私が、純粋にあなたを拾いたいと思ったから」
 それは言い逃れでも何でもなく、お嬢様の本心からの言葉だったのだろう。
「それは気まぐれですか」
「いいえ、拾わなくてはいけない、と思ったからよ」
「キリーさんを雇いたいのと思ったのと同じように?」
「妬いているの?」
 くすくすと笑い声が聞こえた。その声に、ひどく安心した。だからだろう。
「そうですね」
 などと、正直なところを口にしてしまったのは。
「ツベルク、ツベルク、おかしな子。私にとって、あなたはあなただけしかいないのに」
 楽しそうにお嬢様は言うけれど、ぼくにとって、その言葉は棘になった。或いはお嬢様も、それが分かっていて言っているのかもしれない。
 ぼくになれたのは、ぼく一人だけじゃない。
「キリーは」
 お嬢様が言う。
「私に必要だから雇ったの。私のことをちゃんと察してくれるのは、キリーだけだった」
 でも、とお嬢様は続ける。
「キリーにとって、必ずしも私が主である必要は、きっとないの」
 キリーさんはそういう生き方をしているのだと、お嬢様は言う。私が死んだらキリーはまた新しい主人を探すのでしょうね、と。
「でも、ツベルク、ツベルク、あなたはあなたしかいないし、私も私しかいないわ。それは、『あなた』という個体だからこそであり、『私』という個体だからこそだった。さっきのあの子は、あなただったのかもしれないけれど、でも、あなたは、やっぱりあなたしかいないの」
 淀みなく流れる言葉は先程ぼく自身も思ったことであり、その中には、いつも見るような奇矯さのかけらもない。
 それは、まるでぼくを励ますように、力づけるように。
「──お嬢様、もしかして」
「ツベルク、ツベルク、飼い犬が主人のことを探るものではないわ」
 笑って誤魔化された。
 更に問おうとする前に、にゃぉ、という鳴き声が足元からした。お嬢様の足元に、一匹の黒猫が擦り寄っている。
 ふと周囲を見ると、いつの間にか多くの猫が集まっている。脅威が去ったことを知り、戻ってきたのだろう。
 猫に邪魔され機を逸したかたちになったぼくに、逆にお嬢様が問いかけた。
「ツベルク、ツベルク。あなたは今、幸せかしら」
「はい」
 それは、勿論。
 お嬢様がいて、皆がいて、ぼくがいる。笑顔があり、暖かな食事と寝床がある。
 その全てが、ぼくの『幸せ』だ。
「そう、なら」
 お嬢様が続けて問う。
私があなたの幸せを壊そうとしたら(・・・・・・・・・・・・・・・・)あなたは私を殺すかしら(・・・・・・・・・・・)
「────ッ」
 ぼくは。
 答えることが、出来なかった。
 はいともいいえとも返答することができなかった。
「悲しいわ」
 お嬢様の表情は濡れた髪に隠れて分からない。
「お母様が死んだ時と同じくらい、悲しいわ」
 ……お嬢様の母親──奥様が死んだのは、今から三年前のことだと聞いた。
 お嬢様と奥様が出かけた際、事故に合われたのだ。
 その事故でお嬢様は左腕を失い、そして、
『だって、左腕だけではお母様を送るには足りないもの』
 葬儀の晩。
 そう言ってお嬢様は、右眼を抉り出し、キリーさんに右腕を切り落とさせたのだ。
 ぼくは。
 それほどの悲しみを、お嬢様に抱かせてしまったのか。
 なのに、ふふ、と笑う声がした。
 俯いてしまったぼくの顔を、お嬢様が下から覗き込んでくる。──微笑んで。
「ツベルク、ツベルク、気にしないで。私は同じくらい嬉しいの。だって、迷ってくれたんだもの」
 そう言って、お嬢様はぼくに身を預けてくる。ぼくはぎこちない動きでお嬢様を抱きとめていた。
 ぼくの胸の中で、お嬢様が言う。
「ツベルク、ツベルク、──私は、あなたがいないと幸せになれないわ」
 抱きとめた身体は華奢だった。そんなことちゃんと分かっているはずなのに、何故か、お嬢様にようやく触れることができたように、感じた。
「……お嬢様、帰りましょう。風邪を引いてしまいます」
 雨のせいで、お嬢様の身体が縮こまってしまったのだろうと思うことにした。現に、お嬢様の身体は冷え切っている。早く帰らないと風邪を引いてしまう。
 意気地なし、とお嬢様が呟いた。
 ぼくは何でそう言われたのか分からなかったが、とりあえずこれも雨のせいだということにした。
 お嬢様を抱き上げながら、やっぱり雨は嫌いです、と呟いた。









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