何か望むものはないの

何も望むものはないよ




永遠に答えは変わらず













毒と永遠





 暗い。
 暗い、部屋だった。
 輪郭も曖昧なその部屋の、豪奢な天蓋付きのベッドに、老人が独り、臥せっていた。
 かつては美しい銀の髪も今や全ての色素は抜け落ち、顔は重ねた齢に相応しいだけの皺が刻まれている。
 けれど深く刻まれた皺はどれも柔らかで、それが、この老人の歩んできた道程を教えてくれる。
 弾力を喪った瞼は開くことを忘れたように、──屍体のように、重く閉ざされている。
 老人は受け入れている。
 何を、ではない。全てを。
 今の自分の全てを了解していた。過去から未来に及ぶまで。
 ただ、安らかに。

「……何か、望むものはないの?」

 闇から問いかける声は幼く、けれど、重い。
 老人の瞼がうっすらと開く。濁った瞳はどこに向けられるでもなく、ただ天を見た。
 何もない、と老人は掠れた、しかし強い意志を秘めた、しっかりとした声で答える。
「私には望むものなど何もないよ。第一、この自分というものの終わりに差し掛かって、今更何を望むと言うんだ」
 老人は闇の中で自分の手を見た。枯れ枝そのものの五指はしなやかさを喪い、動かせば本当に折れ落ちそうなほど。
 その細い手を、奪うように白い繊手が引き寄せた。老人がひどくゆっくりと首を巡らせると、ずっと前からそうしているように、少女がベッドの枕元に座っていた。
 白い肌、白い髪、白いドレス。
 金の瞳。
 少女は零下の瞳で老人を強く睨みながら、言う。
「終わりだなんてそんなこと言わないで。私は、そんなの許さないわ」
「終わり以外の何だと言うんだ。許す許さないに関わらず、私はもうじき死ぬ人間だ。それが分かっていたから君も今ここにいるのだろう」
「死なせないわよ」
 少女が、言う。
「死なないように、できるのに」
「何も欲しくないと言った」
 これまでに何度老人はその言葉を繰り返したのか。色のない声で答える。
「欲しくなくても。私のものになりなさい」
「それを君が望むならそうすればいい」
 音が途絶えた。
 暗闇一色の部屋の中。
 老人を、ただ茨の棘のように鋭い金の瞳で見下ろすばかりで、少女は何もしない。
 ……何も、しなかった。
 行為の無意味を知るからだ。それを己が望まないからだ。
 老人が自ら望まぬ限り、自ずからそれを望むことはない。
 金の棘が、その先端を折る。
「……あなたは、死にたいの?」
「死にたくはない」
「なら」
「だが私は人間だ」
「────」
 それはどんな言葉にも勝る拒絶の言葉だ。
「私は人間で、人間以外になろうとは思わない。君が君以外でないように、君と生きることを選んだ私は私のままでいると──その言葉を忘れたわけではあるまい」
 忘れたと。
 言えたらどんなに良かっただろうと少女は思う。
「私は終ぞ賢者にはなれなかったが、愚者になるつもりもない。ありもしないものを求めて自らを貶めるなど、本末転倒もいいところなのだから。……まぁ、あの当時の私の友は、皆私を愚か者だと呼んでいるだろうがね」
「愚か者よ」
 少女はそう吐き捨てた。
「あなた達にとって、人間にとって、私は夢の一つなのでしょう? それの最も近くにいながら、それを全く求めない。──馬鹿よ、愚かよ、これ以上なく」
「苦言、痛み入る」
 老人は笑いを含む声で答えた。
 吐息を一つ。
「……歳を取ると、どうにも欲がなくなってくる。もう少し前までは色々やりたいこともあって、まだやり残していることもあると思うのだが、どうでも良くなってくる」
 老人は視線をベッドの天蓋に移す。
「歳月を重ねるごとに天井が見えてくる。自分に出来ることと出来ないことというのが分かってくる。そして天井に近づくごとに出来たことが出来なくなってしまう。それを認めたくなくて人は足掻く。まだ自分には出来ることがあるのだと証明したがる。老いを認めたがらないんだ。……そしてそれさえ過ぎてしまうと、もう何もしたくなくなる」
「解らないわ」
「解らないだろうさ」
 老人は言う。
「解らないだろうさ、君には。永遠よ、君には永遠に、解らない」
「でしょうね。……あなたは、解ってしまったのね」
「解ってしまうものだ。誰しも。私は、足掻きすらしなかったが」
 その結果がこれだ、と老人は言う。
「だが──悔いはない。満足すらしている」
「満足しないでよっ」
 少女が立ち上がり、肩をいからせて言う。
「満ち足りないでよ。私はまだ満足してない。渡し足りないし貰い足りない。それなのに」
 それなのに。
「それなのに私より先に死なないでよ!」
 少女が叫ぶ。
 老人は困ったような笑みを浮かべた。
「無茶を言う。こうなることは、お互い最初から知っていたじゃないか。来るべき時が来ただけだ」
「それに耐えられるかどうかとは別よ!」
「……まぁ、もっともだ」
 老人が笑みを消す。
「だとすると私は君の中に悔いを残してしまうわけ、か。それは、避けたかったのだが」
 困った、と老人は唸る。
「……ああ、そう言えば、私からも一度訊いておきたいことがあったんだ」
「何?」
「君は何を望む?」
 それは。
 少女にとってどんなに残酷な問いだっただろう。老人はその意味を知っていながらそれを問う。彼女がどう答えるかも知っていて問う。
 少女がそれを口にし、自らそれを否定することで、これ以上ない決別を作るために、問う。
 そこまで理解していながら、けれど、少女は望まずにはいられない。
「──置いていかないで」
 老人は瞼を閉じ、穏やかな笑顔で、
「ああ、それは無理だ」
 そう言い残し、永遠にその心臓の動きを止めた。
「……何よ」
 ぽつりと、少女は呟く。
「嘘つき。私が出会った中で、最悪の人間だったわ、貴方」
 言い残し少女は立ち上がる。
 ひとりでに扉が開き、振り向きもせず少女は部屋を出た。
 扉が閉まり、後には、冷めていく亡骸だけ。





 その城の周りはいつも霧で満ちていた。
 それは城を隠し人を惑わす迷い賀の境界であると同時に、彼女を護る羽衣でもある。
 少女は──永遠に少女であるままの少女は、その中を歩く。
 三歩先も見えぬような白い霧の中。
 白いドレスを着て。
 白い髪の少女が。
 溶けるように。
 さくりさくりと、弱々しくも青く茂る草を踏みながら。
 歩き、歩き、歩いて、
 さくり、と足を止めた。
 小高い丘の上。
 何も見えぬ場所で、少女はああ、と息を吐き、
 めきり。
 少女の背後で生木を引き裂くような音がした。
 めきめきと、それは空間に根を張るように、それは黒い罅割れのように。伸び、やがて一対の黒い翼となって、白い少女の小柄な体躯を覆い隠す。
 少女の白い繊手は黒ずみ、爪は長く尖る。
 ぎぃぃ、という唸り声。狼のような歯を剥き、眦は裂けて血を流す。
 白中の黒。
 触れれば壊されるような。
 持ち上がっていく腕からは、圧搾される濡れた絹が上げる悲鳴。
 空気に、爪を立てる。
 風が逆巻き、破壊の腕が叩きつけられるように振り下ろされ────





 ────霧散する。
 足元には、一輪の花があった。
 深く白い霧の中、僅かに染み渡る光を糧に生きる花。
 少女はその場に跪く。
 腕は、元のか細い少女のものに戻っていた。
 両手で掬うように花に触れる。
 硝子で出来ているような儚い命を、少女が少女であるが故に持つ暴力で壊してしまわぬように。
 ふと霧が風に揺らぎ、視界の端にもう一つ同じ色を見つけた。
「…………!」
 腕を真横に振るった。途端、周囲に広がる霧が、地表から少女の身長くらいまでの間において全て消失する。
 光は届かないまま、見通しの良くなった草原。
 その所々に──花が、咲いていた。
 ぽつりぽつりと。
 それでも、確かに。
 ああ、と知らず息が漏れた。
「貴方は──貴方達は」
 生きているのね。
 哀しげな顔で、愛しむように。
 立ち上がり、足を進めた。十歩ほど進んで立ち止まり、ぐるりと少女は周囲を見回す。
 自分が、自分を護るために覆った霧の中で生きる命が、確かに、此処に。
「……ごめんなさい」
 少女は呟く。
「私は、貴方達の居場所を奪っていたのね」
 ごめんなさい、と少女はもう一度呟いた。
 さわさわと草花が哭く。
 少女は座り、近くにあった花を優しく撫でた。
 指を離し、
「返すわ。私には、もう要らないものだもの」
 霧が、晴れる。
 一瞬にして、閉じた世界を満たしていた白い濃霧が外へと拡散し晴れ渡る。
 視界を閉ざす霧が消え、後には開けた視界だけが残る。
 遠くまで、蒼い草原が広がっていた。
 少女が立っていたのは小高い丘の上だった。丘を下った先には森がある。
 遠くに広がる山稜は、大地と空との境界線。
 振り返れば聳え立つ灰色の城がある。
 四百年の長きに渡りただそこに在り続けた、少女の住処である虚妄の城。
 ……肉の焦げる匂いがする。
 少女は自分の手を見下ろし、ああ、と息を吐いた。
 自分はここで永遠を喪う。
 それでいいと思う。そうしたいと思った。
 さくりと草原を歩む。ぽとりと指が落ちた。
 大地に降り注ぐ光が、少女の身体を灼いていく。
 ぶすぶすと煙が上がる。白磁の肌が剥がれ、長い髪が燃える。
 その光は、少女を蝕む虹色の猛毒。
 顔を上げ、遥か遠い天で燃え盛る炎を見上げた。百分の一の熱も届かぬような遠くから、ただ少女だけを焦がしていく。
 生まれて初めて、少女は太陽というものを見た。
 けれどそれも数秒。少女の眼球は光に潰れ、光を喪う。
「……知らなかった」
 全身を醜く灼け爛れさせ、最早見えぬ眼で毒の光を見上げながら。
「世界はこんなにも広くて、こんなにも優しくて。
 お日様はこんなにも暖かくて、こんなにも眩しいのに」
 少女は、届かぬ天へと手を伸ばす。
「あなたがいないだけで、すごく、寒い──」
 胸に去来する思いは一つだけ。

「────────────────────────寂しいよ」

 膝が折れる。
 身体がもう活動を停止しようとしている。光は骨にまで達し、それすらも黒ずんで朽ちていく。
 少女は最早、輪郭を残しているだけの黒い炭でしかない。
 ああ、と機能しない喉から声が零れる。
「できるのなら」
 叶うならば。
「つぎにあえるのなら」
 この草原で。
「ひととして」
 太陽の下で。
「あなたとわらいあえますように」
 
 ごそりと────崩れ。
 少女だったものは輪郭すら喪い、その亡骸さえ残ることはなかった。










 ……主なきその城より、進み出る影が四十と三。
 全員が侍女服を身に纏い、五人が硝子の棺を担いでいた。
 棺の中にあるのは、老人の亡骸。
 七人が先導し、侍女達は淀みなく歩を進め、やがて、花の咲く草原で足を止める。
 花のない場所に九人が穴を掘り、そこに棺を安置し、四人が埋めた。
 埋めた土の周りに五人が花を敷き、三人が十字架を立て、三人が花のリースを飾り、七人がそこに水を撒いた。
 そして一人ひとりが、花を二本ずつ捧げていく。
 先導していた七人が前列に立ち、全員で祈りを捧げた。
 そして来た時と同じように、侍女達は淀みのない歩みで城へと戻っていった。
 主のいない城へ。










 あなたといた五〇年は、わたしだけの三五〇年よりも、ずっとずっとたいせつでした。










「何か望むものはないの」
「何も望むものはないよ」
 少女と青年は、夜の草原で答えた。
 青年は少女に膝枕され、足を投げ出して、月を見ていた。
「欲がないのね。人間はもっと強欲なものだと思っていたけど」
「かもしれない。けど、満足していると、恐ろしく無欲になるものなんだ」
「貴方は満ち足りているの?」
「ああ、満ち足りている」
 くすりと少女が笑って、訊いた。
「貴方の満足は、どれほどもつものなのかしら」
「……一生、かな」
 うそばっかり、と少女は言って、また笑った。

 五十年前の、今は昔の夜だった。









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