「どうした、とうとう恋人から愛想尽かされたか」
 会うなり辛辣な言葉を投げかけてきたのは、言うまでもなく、柊だった。
 午後の暇な時間、大学構内の喫茶店で、冬だというのにアイスティーを啜っていたぼくを、めざとく見つけた柊が、やめといて欲しいのにわざわざ近づいて声をかけてきたのだ。柊のことだから、恐らくぼくのまとっている空気を悟って近づいてきたに違いないのだ。
「……何さ、できれば今はそっとしておいて欲しいんだけど」
「気にするな。初デートで相手の思わぬ一面を見て幻滅し別れるカップルというのは案外多いものだ」
「だから別れてないってば」
 と返しつつも、口から漏れるのは溜息だった。
「じゃあ、何を落ち込んでるんだ、お前は」
「自己嫌悪の真っ最中」
 昨日、佳奈花とデートした。しかも最後には抱き締めてキスまでした。
 部屋に帰るまでは別に良かったのだけれど、今朝目覚めてみると、やっぱり、昨日のことについて思い悩んでしまうというか。
 いや、キスをしたことを、間違ったことだとは思っていない。あれはあのときのぼくが決めたことだ。そこに嘘はない。
 それでも、それでもだ。これからのことを思うと、主に自分がこれまで以上に精神的にきついことになっていくだろうということに関して、気が滅入ってくる。
 ていうか、よく考えなくてもあれは佳奈花のファーストキスだったわけで。自分はそれを奪ってしまったわけで。
「ううううう」
「なんだ、どこぞが火事にでもなったのか。お前と恋人の関係か」
 頭を抱えて俯いたぼくに、柊のツッコミが入った。
「別れてないっつの。兎に角ね、今ぼくは自分で自分が分からなくなってるの。あーもー」
 何のために距離を置いていたのか。彼女に痛みを伴うと知りながら。
 何しろ彼女にとっての危険人物はいつも隣にいるのである。
「まぁ、お前の気持ちは分からんでもないが」
 柊はぼくの正面の席に座る。タイミング良く店員が注文を取りに来て、柊はエスプレッソコーヒーを注文した。
「お前が大体何を考え、何をしてきたか、当ててやろうか」
「……ご勝手に」
 そうか、と柊は頷いて、一言だけ放った。
「手を出したな」
「あぅあぅあぅ」
 致命傷だった。
 心臓をいきなりブッ刺された。柊は構わず続ける。口元が笑っている。
「お前のことだから、自分の中の倒錯した性欲と、純粋な想いの板挟みにあっていたんだろう。で、後者のほうが勝っていたから、どうにか自分の欲望に彼女を晒すまいと、気を割いてきたのだろう? が、それを昨日、無駄にしてしまったと」
 恋人が小学生だということを明確に口にしないのは、こいつなりに周囲に気を遣ってのことだろうか。
「……無駄にした、わけじゃないと思う。自分がああいうことしたのはさ、ただ──」
 ただ、愛しくて。
 思い出すだけでも恥ずかしくなってくる。
 ぼくの沈黙をどう取ったのか、柊はなおも言葉を重ねた。
「……俺にしてみれば、むしろ不思議だったがな。どうして今まで手を出さなかったんだ。よもや今更犯罪者になるのが怖いなどと抜かすなよ」
「言っとくけど、手を出したと言ってもキスまでだからね」
 ぼくは顔を上げて応じる。柊は何ともいえない微妙な顔をした。
「その程度で手を出したと言えるあたり、お前は異常なのか純情なのか分からんな……。お前、恋愛に関してはズブの素人だから、仕方ないのか?」
 柊が運ばれてきたエスプレッソを受け取る。
 いや、充分問題だと思うんだけどなぁ。
「それはともかく、犯罪者になるのは怖いよ、そりゃ。でも、もしやるなら周到に準備して、あの子の精神を掌握して、ぼくに心の底から心酔させて、警察に駆け込む気なんか起きないくらいの幸福を与えてからやるよ」
「ほう、悪党だな」
「絶ッ対やんないけど」
「…………」
 柊は鼻白んだようだ。何に対してかは知らないが。
「そりゃあぼくは小さな女の子が大好きな変態(ロリコン)だけどね。そういうのとは別の気持ちで彼女に恋をしたんだから」
 少なくともそうなのだと信じたい。
「そうとしても、恋をする相手と性行為に及びたいという気持ちは普通ではないか? ──いや、お前の場合は違うか。確認、お前が手を出さない理由は、相手の精神によるものか、肉体によるものか」
「……前者かな。例えば外見が夜沙子さんで中身があの子でも、ぼくは同じように接すると思う」
 引っ込み思案な夜沙子さん、というのも全く想像できないが。
 まぁ、その場合は、ぼくはこれほど苦しむことはなかっただろう。世の女性が聞けば憤慨しそうなことだが、夜沙子さんのような成熟した女性の肉体にはあまり欲情しないのだ。つまり純粋に夜沙子さん(佳奈花ver.)の心を優先すればいいだけだ。
 要するに、ぼくは二重の意味で佳奈花に惹かれているということだ。身体と心のそれぞれに、情欲と恋心が。
 それでいて、ぼくは佳奈花の心を想う気持ちのほうがより強いのだ。けれど、
「何と言うかさ、ぼくにとって、あの子の心は綺麗過ぎる」
 まるで顔が映りこむくらい澄んだ水のようで、覗き込むたびに、ぼくは醜い自分(ほんのう)をそこに見るのだ。
「自分で見てても分かるんだよ。自惚れとか、そんなのなしにさ。含まないとは言わないけど。それでもあの子の想いはぼくには純度が高すぎるんだ。我儘を言うこともせず、ぼくの言葉通りにして。本当は不満があるはずなのに、あの子は寂しげに笑うだけで、何も言わない」
「それに当てられて自分が汚いものに見えるわけだな」
「そゆこと。だから、ぼくは距離を取りたがった。何より危険人物だしね、ぼく」
「それでも恋人同士でいたいというのだから、とんだ針の筵だな」
 まったくである。
「なのにぼくが手を出したら、それこそ最低だ」
「何を言う。小学生と恋愛してる時点で充分底辺だ」
「…………」
 容赦がない。少しは手加減してくれ、頼むから。
「まぁどちらにしろお前は手を出してしまったわけだが」
「うぅ」
「気をつけんと、あとは転がり落ちるだけだぞ。当人に言うのもあれだが、一度でも外れた箍は、嵌め直したところで緩くなってるからな」
「そんなことは百も承知だよ。でも、その辺りを上手く制御していかないといけないんだ。彼女のために」
 そう言って、ぼくは嫌悪の表情を浮かべた。自分に対しての。
「……嫌になるな。ぼくはあの子との距離を、調整しようとしているんだ。いや、もうしてきた。それは恋人なんかじゃない。ぼくは、あの子のことを操作しようとしている」
「それはどうしようもないことだな。お前が我慢をする、相手に我慢を強いる、ということは、そういうことだぞ。主導権は常に、大人であるお前のほうにある。相手が従順なのだから、尚更にな」
「うん……」
 細くなる言葉。対し、柊の語調は変わらない。全く。
「どうせお前の望む距離は長くはもたんよ。不満も欲求も蓄積する。お互い本当は近づきたいのにそれをしないというのなら、そこには遠からず軋みが生じる。その上お前は自分で距離を縮めてしまったのだろう? 磁力というのは、近づけば近づくだけ強くなるものだぞ」
 的確すぎる言葉。柊の言葉はぼくの心を殴りつけながら、それでいて奥底にまで染み渡る。まるで冷たい水の塊だ。
「結局、お前の取る道は二つしかない。完全に分かれるか、完全にくっつくかだ。中途半端なままでいられるほど、お前の恋人は大人じゃあるまい?」
「……まぁね」
 佳奈花は、いくら聡明でも、まだ子供だ。あの子の精神年齢がどれほどのものかは分からないが、それでも、倍の人生を生きてきたぼくに比べれば、そこには如何ともしがたい大きな差がある。その人生が果たして正常なものだったかどうかはともかくとして。
 柊が、ふと思いついたように口にした。
「ところで、外見がお前の恋人で、中身が折爪女史だった場合、どうなんだ」
 付き合い始めて二週間で迫ってくる佳奈花。
「うわー断れる自身が全くないー」
 頭を抱える。その様子をかなりリアルに想像してしまった脳味噌をこのまま握り潰してしまいたくなった。ご丁寧に『ふふ……修さん?』なんていう小悪魔誘惑ボイス付きだ。死んでしまえぼくの煩悩。
「結局お前は、向こうから誘われればそれを受け入れるのか?」
「かもしれない。それって、最高の免罪符だもん」
 十三歳未満との性行為はどちらにせよ犯罪だが、相手から誘われた場合、そこに大義名分が成立する。
 それは、ぼくと佳奈花のこれからについての懸念でもあった。ぼくは、佳奈花の『欲しがってもいいんですか』という問いに、応えてしまっている。
 昨日のキスは、二人の距離に明らかな変化をもたらしてしまっただろう。四ヶ月間、あんまり変化のなかった関係が、昨日一日で加速度付きで坂道に押し出されてしまった。
 もし、その近づいた距離の中で、佳奈花がより多くの何かを求めてきたら、ぼくはそれを断ることができるだろうか。
 極端な話、佳奈花からセックスを求めてきた場合、ぼくはそのとき自制しうるだろうか。
 佳奈花が求めたという大義名分のもとに、それに応えてしまうのか、佳奈花のために、それを断るのか。
 ……そのどちらにも、ぼくは自信が持てない。
「まぁお前のことだから、警察の厄介になるようなことはないと思うがな」
「どうだかね」
「まずないな。よしんば襲ってしまったとして、お前はその辺り上手くやるだろうよ。確実にな」
「買いかぶりすぎだよ」
「我ながら正当な評価だと思うが。お前は、お前が思っている以上に、悪党だ」
「ひどい誤解だ。性欲の対象以外は、ぼくはまっとうな一般市民のはずだもん」
 柊はけれど、ククッ、と低く声に出して笑った。
 何がおかしいのか問いただそうとして、けれどそこに第三者の声が割り込んだ。
「おう、ここにいたか」
 声の主は原だった。ぶんぶん手を振りながらこっちのほうに近づいてくる。
 正直、他人のふりがしたい。店内には他の客の目もある。が、原はそんなことお構いなしに小学生じみた陽気さで近づき、隣のテーブルから椅子を引っ張ってきて座った。
「やー俺も次の講義なくてさー超暇でさー。折角だからちょっと話したいことあったんでお前ら探してたんだけど中々見つからなくて。あすんませんチーズケーキひとつ。んで話したいってことは他でもなくて、今年のクリスマスなんだけど今回は誰んちで飲むんだ? あ俺はいつも通りアウトだぜ部屋汚いからな!」
 あっはっは!と全然自慢できないことで快活に笑う原。一気呵成に喋りつつ、しかも間に注文を挟むことを忘れていない。相変わらず元気がいいなぁ。
 って原は確か、昼にランチAとラーメンを一杯、食ってたはずなんだがまだ足りないのか。足りないんだろうな。もうぼくも柊もこいつが何を食っていようと驚きはしない。
「先に言っておくが俺の部屋も無理だぞ」
 エスプレッソを優雅、という動きで飲みながら、柊。顔がいいのでキザな仕草も似合ってしまう。
 ぼく達三人は、全員こっちで一人暮らしをしている。なので、友人同士で集まって宴会を開くことがたびたびある。今回は毎年のように、暇人を集めてクリスマスにかこつけて騒ごうということなのだろう。
 ところで、使えない理由は?
「諸事情だ」
 さいですか。
「おう、んじゃ松ヶ枝んちか? あいつはアパートまた借りてるだろ?」
「無理だと思うがな」
「どうして?」
「あいつ彼女いるぞ」
 ぼくと原、びっくり。そんな話は初耳だったからだ。
 松ヶ枝こと松ヶ枝(かい)は、ぼくらとは学部が違うものの共通の友人である。何というか、野性味溢れるやつだ。かといって決して粗野というわけではなく、かなり落ち着いている。冷めているというか、達観してるとでも言うんだろうか。
 漁師の息子だけあって泳ぐのが大得意で、日本の大学生の中ではかなりいいトコまで食い込んでいる自称半魚人──そんなヤツだ。
 ちなみに、昨日のデート先の水族館も、以前松ヶ枝がバイトしていたところだったりする。
 そのことでふと思い出した。
「そういえば一年のときの夏休み終わってから、『妙な女に逢った』とか言ってたけど……」
「それと関係があるかどうかは分からんがな。お相手は二つ下で、その女性が大学に入学してすぐに付き合いだしたらしい」
「……お前の情報網は相変わらず凄ぇなぁ」
 呆けたように原が息を吐く。
「初めて性交渉に臨んだのは六月半ばのことだ」
「ホント凄いな!」
 今度声を上げたのはぼくである。
 恐るべし、柊健二。こいつの前ではプライバシーなど存在しないのかっ。本当、一体どんな情報網をしているのか。
 それとも勘か。ぼくに新しい恋人ができたことを、勘で察知した男である。充分ありうる。
「ともあれ、そういった事情であいつが酒盛りの場所を提供してくれるかどうかは微妙なところだ」
「……じゃあ、やっぱりぼくの部屋か」
 自動的に、そういうことになる。実際、ぼくの部屋は防音性能はかなり高いので、これまでもかなりの頻度で宴会に利用されていた。今回もそうなるだけのことだ。
 今回は何人くらい呼ぶんだろうか。といっても、どうせいつものとおり、ぼくと柊と原くらいのものなんだろうけど。
 などと思っていると、トントンと原が肩を叩いてきた。その顔は照れを含めたニヤケ顔だった。
「なぁなぁ、夜沙子先輩呼べないか。折角だしさ」
 原は夜沙子さんにご執心なのである。
「まぁ……呼べなくもないと思うけど」
 というか多分呼べば間違いなく来るだろう。言葉を濁したのは、はっきりと来る旨を言って原をハイテンションにさせるのもウザかったからだ。
 最近論文が一つ完成したらしく、暇そうにしていたし。アルバイトしようかしら、と口にしていたくらいだ。相変わらず余裕に満ちた人だ。
 夜沙子さんを呼ぶなら、ついでに鏡先輩にも声をかけてみよう。あの人も浮いた話はとんと聞いたことがないので、きっと今年も一人寂しいクリスマスを過ごすことになりそうだし。
 これで最低五人。入れない人数じゃない。
「よっしゃ決まりだな。頼んどくぜ」
 上機嫌な原。単純なやつめ。
「日取りは二十四日でいいだろう。イブだ。その日から冬季休業に入るしな」
「オーケー。そのつもりで準備進めておくよ」
 柊と頷き合う。
 それにしても、クリスマスかぁ。
 佳奈花はどうするんだろう?










「私も、クリスマスイブは、友達とパーティをする予定なんです」
 塾の帰り、佳奈花は少し残念そうにイブの予定を語った。
「その日はお母さんも仕事がなくて家にいるし、普段塾とかで一緒に遊べない分、パーティしようってことで……本当は、修さんと一緒にいたいですけど」
「流石にそれは、無理だよね」
 こくん、と佳奈花は頷いた。いくらなんでも夜に佳奈花を連れ出すわけにもいかない。
 それにお互い、付き合いというものがある。ぼくはまだいいけれど、小学生の女の子にとって、こうしたイベントは結構重要だと思う。秘密の関係である、ぼくとのことを優先しすぎて、この子が本来付き合うべき友達との仲を疎遠にしてしまってはいけない。
 昨日の、ぼくだけになってはいけない、という言葉の意味も、そういうことだ。
 この子には、本来、一緒に時間を過ごしていくべき、同年代の子達がいる。いつかぼくと別れることになって、新しい恋人ができることだってあるかもしれない。
 ぼくだけになってはいけない。
 ぼくだけだと思わせては、いけない。
 自分にはあらゆることを取捨選択できる未来があるのだと、佳奈花は気づかなくちゃいけない。
 彼女はぼくに恋をしている。そんなことは分かっている。でも、世界にぼくしか男がいないわけじゃないし、佳奈花には、これから幾つも自由に進める道がある。それをぼくが制限するような真似だけは、してはいけないと思う。
 恋人としてではなく、大人として。
 それはぼくの果たすべき責任だ。
「……残念、です」
 その言葉には、押し殺された悔しさが含まれている。
 恋人同士になって、初めてのクリスマスだ。佳奈花にとって、それは特別なはずだから。
「そのうち、埋め合わせはするよ」
 何の意味も持たない言葉を、ぼくは口にした。
 沈黙のまま歩いた。左の手に、温かい感触を握ったまま。
 昨日のデートのもたらした変化がそこにある。ぼく達は最早、手を繋ぐという行為に何の抵抗も持たなくなっていた。当たり前に、なっていた。
 佳奈花が自然な動きで握ってきた手を、ぼくは何の違和感もなく受け入れていた。受け入れた自分自身に驚いたくらいだ。
 ああ──坂道を転がり始めている。
「次の日は、駄目ですか」
 それが、佳奈花の言葉にも表れている。
「二十四日は、無理ですけど。次の日は私、何の予定もありません。それが駄目ならまたその次の日でもいいです。学校も塾も冬休みだし、平日だからお母さんいないし……う、うちに来ても、大丈夫です」
 心臓が一度、大きく跳ねた。
 その言葉の意味を佳奈花は分かって言っているのだろうか。──分かっているのだろう。
 昨日のデートは、間違いなく佳奈花の心にも変化をもたらしてしまった。この子は、『欲しがって』いる。求めが叶えられたことに、悪い言い方をすれば、味をしめてしまっている。昨日のデートで得られた熱に焦がれている。
「……残念だけど」
 手の平の中の感触が強張る。
「二十五日の夕方には、もう実家に戻る予定なんだ」
「そうですか……じゃあ、仕方ないですね」
 眉尻を下げて佳奈花は笑った。諦めの笑み。
 嘘だった。
 昼間の、柊との会話を思い出した。ぼくは今、距離を調整している。この子が、ぼくへの執着を強めすぎないよう、距離を置こうとしている。
 ぼくは、卑怯だ。
 どうしようもない、と柊は言った。けれどそれは、後ろめたさを払拭する理由たりえない。
 胸が締めつけられる。
 今まではそんなことはなかった。佳奈花との距離を調整することの罪悪感は、ここまで大きくなかった。それが良いことかどうかは分からないけれど、少なくとも、もっと冷静な目で佳奈花のことを考えることができていた。
 今は冷静でいられない。
「────」
「────」
 沈黙は長い。
 佳奈花は、今、一体何を思っているのだろう。
「……来年、さ。またデートしようね」
 沈黙を消したいわけじゃない。罪悪感から逃れるためでもない。
 ぼくも、焦がれている。
「はい」
 きゅっ、と強く、その小さな手でぼくの手を握ってくる。それが、それだけのことが、たまらなく嬉しい。
 坂道を転がり始めている。きっと止まることもなく。
 ……佳奈花の家の前に着く。
「それじゃ、今日はここまでだね」
 控えめに頷く佳奈花。そしてぼくと正面から向き合い、目を閉じた。
 首の角度は、昨日の夕暮れと同じで。
 ぼくは華奢な肩をそっと掴んで──額に口づけた。
 唇を離し、元の高さから見下ろした佳奈花は、照れと残念さが入り混じった笑顔を浮かべていた。
「おやすみ、佳奈花ちゃん」
「はい、おやすみなさい」
 お辞儀をした佳奈花の頭に手を伸ばそうとして、やめた。ぼく達は、恋人なんだからね。
 家に入っていく佳奈花を見送り、ぼくも一人きりの家路についた。
 左手だけが、やけに寒く感じた。










back




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送