デート当日。天気は快晴、いつもに比べてやや暖かい小春日和だ。
 待ち合わせは現地集合。そのほうがデートらしいから、と佳奈花には言っておいたが、実際には自分達の街で一緒に出発すると、その分目撃される可能性が高くなるという事情がある。
 ……とは言うものの、自分もこうして全く知らない場所で待ち合わせするというのは初めてで、自然と浮き足立ってしまう。
 のだが。
 今、待ち合わせ場所に向かう電車には。
 何故かぼくと柊が仲良く並んで座っているのである。
「あのさ」
「何だ」
「何でここにいるのさ」
「偶然だ」
 ホントかよ。
 柊を見る。腕を組み、口は引き結び、顔は前を向いた姿勢のまま小揺るぎもしない。
 正直会いたい相手ではなかった。毎日見ている顔ではあるが、今日に限っては、彼の顔を見るだけで宙に浮いた足が加速度付きで落下し地面に突き刺さる心境だった。
「疚しいことがある証拠だな」
 そのようなことを半ば八つ当たり気味に言うと、柊はそう返してきた。心当たりがあるので続ける言葉は存在しない。柊の言葉は、いちいちぼくの痛いところに突き刺さる。
「で、結局、何でここにいるのさ。わざわざ人のデートを邪魔しに来たの?」
「ほう、デートだったのか。それはいいところに遭遇したものだ」
 ニヤリと笑う。爬虫類じみた笑みは、柊が良い弄り相手を見つけたときの表情だ。墓穴を掘ってしまった。
「で、偶然だと言ったし、邪魔はしない。たまたま同じ方向に用があっただけだ。そしたらお前と鉢合わせた」
「ぼくの運が悪かったってことか」
「電車の中で友人に遭遇することが、お前にとっては不運なんだな」
 やっぱり疚しい、と柊は冷笑した。
「とはいえ、お前がもし現在の恋人とデートをする場合には、この時間にこの路線を使うことは、大体予想はしていたが」
 ぼくがびっくりしていると、柊は続けた。
「この路線は都市部から海のほうへ延びていて、乗り換えポイントは少ない。お前達の関係はあまり人に知られていいものではないだろう。だから、レジャー施設の多い都市部より、郊外のほうに出ると踏んだ。ついでにお前は海が好きだしな。時間についても、相手が小学生である以上帰りは遅くできない。そこから逆算して、出発は朝から昼。その程度までだがな」
「まぁ分かった。納得はいかないけど。それにしても大概柊も暇だよね」
「暇ではない。今日も用事だ」
「でもぼく、柊が何かやってるとこなんてあんまり見たことないんだけど」
「……お前は俺を何だと思っているんだ?」
「本の虫?」
 ぼくの記憶では、柊は食事と講義の時以外、大抵、講義棟のロビーで眠そうな顔で本を読んでばかりいる。
「俺はお前の認識だけで出来ているんじゃないぞ」
 そこでようやく、彼はぼくのほうに視線を向けてきた。
「行動範囲の問題だ。俺が読書する場所だけが、お前のテリトリーに入っているんだろう。それ以外の姿をお前は知らんし、俺もお前の全ては知らん」
「成程ね。もっともだ」
 かといって、それ以外のところで何をしているのかは想像もできない。入学当時から友人をやっているが、何かにつけて柊には謎がある。あまり自分を開示したがらない。
 それでも付き合いを続けているのだから、きっと気が合っているのだろう。
「原もあれで、俺達の知らないところでは意外な顔があるかもしれん」
「それいいね。寧ろあってほしい。いっそ正義の味方とかで」
「反対に悪の大首領でもいいかもしれんな。──参謀に裏切られる間抜けな」
 言いたい放題だった。
「それなら、その参謀は柊だね」
「御免こうむる」
 柊は真顔だ。
 そして一拍の間を切り換えとして置いて、言う。
「ところで折角なので聞きたいことがある」
「日本語的にちょっと間違ってる気もするけど、何さ」
「いやまぁ、急な用事でもなければ、大学でも聞けんこともないことなんだが、後者だと他のにも聞かれるからな。それはお前が望むところではあるまい」
 柊がそう言うということは、十中八九、話題はぼくの恋人に関することだ。
「結局お前は何がしたいんだ」
 柊の声には、あるかなしかの嘆息が含まれている。
「いや、……何を」
「手を出してないんだろう? おそらくはまともに触れ合ったこともないと見えるが」
 事実だ。
 ぼくはまだ彼女を抱き締めたことすらない。
 告白を受けたその時だって、軽い握手だけだった。
「折爪女史とは二週間だったと聞いた」
 待て。
「何で知ってんだ君」
「今はそこは問題ではない」
 大問題だ。
「流せ。で、どうして手を出さない」
「……やっぱり、そうするには相手が幼すぎるし。それに夜沙子さんのは向こうから誘ってきたんだもん」
「拒まなかったお前も同罪だ」
「てめぇ酒飲まされた上に押し倒されて逃げようとすれば折れる寸前まで間接極められるような状況で同じこと言ってみろ」
「いや、……すまん」
 珍しく、柊が素直に謝った。
「というかどんな経緯でそうなった」
「初めは普通に飲んでた気がするんだけどね……何か、途中から色々混ぜられてた気がするんだけど」
「薬か?」
「どうかなぁ」
 それは未だに分からない。夜沙子さんならありえない話ではないと思うが、そこまでする理由も見当たらない。
「でもまぁいざ始めちゃってからは攻守逆転してたんだけどね?」
「やっぱり同罪だろう」
 態度一転冷たい目。
 いやでもやっぱりあれは夜沙子さんのほうが悪いと思うんだけどなぁ。
「──あーそうだ。折角なのでぼくも訊いていいかな。こないだ『オーランド』で見かけたとき一緒にいた女性、あれ誰?」
「今更訊くのか。この二週間何も言ってこないから俺はてっきりお前がボケたか、よほど酷い目に遭ってあの日の記憶を失くしたのかと思っていたぞ」
 柊は呆れの色を顔に浮かべた。
「酷い目ってどんなさ」
「悪漢どもに後ろの穴を」
「口を閉ざせそして死ね」
 かなり本気で殺意を向けた。でも佳奈花を引き合いに出してこなかっただけ良心的というべきか。……良心か? ソレ。
 一つ息を吐いて、気分をスイッチする。
「忘れていたっていうより、機を逸したってのが正しいよ。迂闊にそれを質問すれば、柊、ぼくのほうにも同じこと聞いてくるでしょ。ちなみにぼくは一緒にディナーを楽しんでただけだけど」
「……一方的な情報開示を行い、こちらにも同様の行動を求めてくるか。趣味が悪い」
「さっきの君に比べればマシだ」
 ふん、と柊は鼻を鳴らした。
「俺もお前と変わらん。ただの夕食だ。とはいえ、連れは別に恋人というわけではない」
「腕組んで仲良さそうにしてたじゃん。じゃあ何、あの人、姉妹か親戚?」
「血は繋がっていない。だが、まぁ、そうだな。家族のようなものだ」
「ふぅん」
 お茶を濁そうとする気配を、柊から感じ取った。滅多に言いよどむことのない柊がそんな態度を取るということは、柊とあの女性との関係が、未だ確定せざる曖昧なものであるということだ。色々と複雑な事情があるのだろう。
「そのうち紹介することになるだろうから、それまで待て」
「うん、分かった」
 ぼくは座席を立った。窓の外の景色の流れが、少しずつ遅くなっていく。
「それじゃぼくはここで。柊はまだ行くの?」
 ああ、と柊は答える。
 空気の抜ける音がして、左側のドアが開く。乗っていた車両から降りるのは、ぼくを含めて五人だけだった。
「峰岸」
 と、柊の呼び止める声があった。立ち止まったぼくの横を、他の人が降りていく。
 柊は座席から首だけをこっちに向ける格好で、口の端を吊り上げる笑みを浮かべていた。
「気をつけろよ」
「……何を?」
 問い返す声に、列車の発車ベルの音が重なる。ぼくはその意味を問い質す間もなく、慌てて電車を降りた。
 ぼくの背後でドアが閉じ、発車する。振り向いて窓越しにみた柊は、こちらに視線を寄越すこともなく、腕を組んで瞑目していた。










 大理石のプレートに刻まれた文字を読む。『朝凪海浜公園』。
 海の見えるその公園の中心にある、時計の下でぼく達は待ち合わせていた。
 折角の休日だというのに人はまばらだ。夏ならば海水浴客などでも賑わうこの公園も、寒々としたこの季節では流石に訪れる人も少ない。
 だからぼくは、すぐに佳奈花の姿を見つけることができた。時刻は十二時三十分、待ち合わせの時間までは三十分の余裕があるが、どうやら先を越されたらしい。
 向こうもぼくを見つけたようで、小さくひらひらと手を振ってくる。それに手を上げて応えた。
「待った?」
「ううん、今きたとこ」
 沈黙。
「……やっぱり恥ずかしいですねこれ」
「だね」
 二人して赤い顔をする。理由の分からない気まずさというか、むず痒さが。
 ドラマなんかでよく見るのでやってみよう、と昨夜のメールのやり取りで決定したのだが、やめとけば良かったと今になって思う。すっげぇ恥ずかしい。
「ま、それはいいとして……九日ぶりだね」
「はい。会えなくて、ちょっと寂しかったです。修さんは?」
「夕方暇でしょうがなかったよ。いつも塾に迎えにいってばっかりだったからね」
 あは、と佳奈花が笑う。ぼくも笑顔を返す。
 実は、この一週間、ぼくは佳奈花を塾に迎えに行っていない。塾のある雑居ビルが改装工事(という名目の補修工事)だとかで立ち入り禁止状態になってしまったのだ。当然、佳奈花の塾も休み。ぼくの送迎も必要なくなる。そういうわけで、先週の金曜から数えて実に九日ぶりの再会ということになる。
 たった九日会えなかっただけなのに、花のように笑う佳奈花は、これまで見てきたものより輝いて見える。
 考えてみれば、塾の終わりに迎えに行くようになってから、これほど長い期間顔を合わせなかったのは初めてだ。
 ふと気になって、ぼくは訊いた。
「佳奈花ちゃん、いつから待ってた?」
「十二時くらいにここに着きました」
 ということは、都合一時間、この子は待つつもりだったと言える。
「時間に間に合えばいいんだから、もう少し遅くてもいいのに」
「待たせちゃ悪いです。それに修さんだって、三十分前に来てます」
「それはまぁそうだけど、三十分前に来る人って少ないと思うよ」
「修さん以外の人を待つ気ないですから」
 屈託のない笑顔でぼくを見上げ、言う。
 その言葉は嬉しい。けれど──
「……ぼくだけ、ってことは、ないだろ」
「え?」
「いや、友達ともさ、待ち合わせはするだろうし、ね」
 言葉を濁すが、ぼくはそんなことが言いたいんじゃない。
 ぼくだけ(・・・・)になってはいけないと、そう思う。
「あ、そうですね。友達とも、結構色んなトコに遊びに行ったりしますから」
 佳奈花は納得したように頷き、そうだ、と軽く両手を広げて見せた。
「どうですか? 今日、ちょっとお洒落してきたんです」
 得意げに笑い、片足でくるっとターンする。ふわりと、控えめにスカートが浮き上がった。
 頭にはつばの短い赤い帽子。上はぴったりとした濃い色のセーター。身体の華奢なラインが浮き彫りになってちょっと目の毒だ。首には、端にふわふわの付いた白いマフラー。肩からは小さなポーチを提げている。
 赤いプリーツスカートと対を成すような白いタイツ。底の厚いブーツを履いているせいか、見慣れている目線より少し上だ。全体として落ち着いた色調をまとっているせいか、いつもより大人びて見えた。
 ぼくは言葉を探そうとして、けどすぐにやめた。
「うん──可愛いよ」
 素直な気持ちを口にする。
 褒めてあげると、眼を細めて照れくさそうに微笑んだ。
 その様子が可愛くて、ついつい頭を撫でようと手が伸びた。
 あ、と佳奈花が声を上げ──不意に持ち上がった手が、それを止める。
 呆気に取られていると、あの、と佳奈花が控えめに言う。ぼくは自分の手に阻まれて、その表情は見えない。
「今日は、頭、撫でないでほしいんです。こっ──恋人同士、なんですから。私達」
 髪の間から覗く耳は、林檎みたいに真っ赤だ。
 ぼくは、ああ、と吐息する。
「そうだね、恋人なんだから」
 ぼくだけになってはいけないと思うけれど。
 少なくとも。
 今、この子の隣にいるのは、ぼくだ。
「……じゃ、そろそろ行こうか。予定より少し早いけど。お昼ごはん食べてきた?」
「まだです。早めに出てきたから、お腹空きました」
 チロッと舌を出してはにかむ。いつものこの子からは見られない、いたずらっ子のような仕草。……目の毒だ。何ていうか、昨日の天使が今日の小悪魔って感じで。自分で言ってて意味分からないけど。
「それじゃあ先にお昼にしよう。温かいものがいいかな。実はその格好、少し寒いでしょ」
「はい。セーターの下、薄手のシャツが一枚だけなんです」
「もうちょっと着ておきなよ。風邪引いたら大変だ」
「気をつけます。……手、繋いでもいいですか?」
 珍しいことに、佳奈花からそう言ってきた。そう言えば今日は、いつもに比べて少し積極的だ。こういう彼女も、新鮮でいい。
「ん、いい」
 よ、と言い終わる前に、佳奈花が全身でぼくの左腕に抱きついてきた。
「──ちょっと」
 それ以上言うことができなかった。
 な、なんだか、少しどころか凄く積極的だ。
 まずい。
 これはまずい。
 今まで必死に築いてきた精神防壁が根こそぎ揺らがされる感覚。
 死守しなければ。この子を不幸にさせてはいけないのだから、といくらかシリアスな気持ちで固めてみるが、
「寒いんです」
 むぎゅ、と押し付けられる柔らかいものにあっさりぐらぐらにされる。──いや、マフラーだけど。
 とりあえず人目に付くのはまずい。知り合いに見られる見られない以前に、いい歳した男が少女に腕を絡ませられてるのはどう見ても凄くまずい。
 あわよくば兄妹か、せめて従兄妹のイメージでいきたかったのだが、その目論見は早くもご破算になりつつある。
 セーター越しに佳奈花の体温が伝わってくる。髪の間から覗く耳は茹でダコみたいに真っ赤だ。ああもう、この子もやっぱり恥ずかしいんじゃないか。デートの高揚感だとか、開放的な気分だとかが、普段の佳奈花からは想像もつかない積極的な行動をこの子にさせているのだ。それがいじましくもあり、同時に困りものだった。いや、嬉しくないわけではない。嬉しくないはずがないのだが、しかし、この子に申し訳ないと思いつつ保ってきた距離を、一気に詰められているというか。
 一瞬、デートに誘ったことを後悔しかけたが、あのときの笑顔と泣き顔を思い出せばそんなことはできない。
 結局のところ、ぼくがあらゆる面で我慢するしかないのだ。
 離れる様子を見せない佳奈花を半ば引っ張るように歩きながら、ぼくは予め調べておいたこの辺りのお店の位置を必死に思い出そうとしていた。



 佳奈花は喫茶店に着くまで、ぼくを解放してくれなかった。
 ログハウス風の落ち着いた雰囲気のお店だったお陰か、入店するとそれまでの積極さはなりを潜め、いつもの大人しい佳奈花に戻っていた。ほっとする。四六時中あの調子だったら流石にやばい。
 一時間ほどゆっくりとしてからお店を出た後、ぼく達は海浜公園のほうまで戻り、近くにある水族館に入った。
 季節柄、ここも客は少ない。設備はそれなりだが、取り立てて目玉となるような生き物がいるわけでもない。それに水族館はそもそも静かでしっとりした場所なので、若いカップルなどで賑わうことはないのだ。すれ違う人々も、幼い子供を連れた家族連ればかり。
 まぁ、だからこんな場所を選んだのだけれど。
「魚は好き?」
「はい、見るのは好きです」
「……食べるのは?」
「……苦手です」
 好き嫌いは良くない。今度、魚料理しか出さないお店にでも連れて行ってみようか。
 それは兎も角、佳奈花の表情は楽しそうだ。前に、小さい頃は母親と出かけるような機会があまりなかったと言っていたから、水族館も初めてなのかもしれない。
 と、佳奈花がマフラーを解く。館内は適温に保たれているので、寒がりの彼女でもマフラーをしたままでいるのは流石に暑いらしい。
 マフラーに引っ張られるように髪が揺れ、その際、佳奈花の首に銀の鎖を見つけた。
「佳奈花ちゃん、それって」
「あ、見つけました?」
 と佳奈花はセーターの襟を引っ張り、その中に指を入れる。ぼくは慌てて眼を背けるが、ちらりと見えた鎖骨はしっかりと網膜に焼き付けた。こればっかりは男の性だ。
 佳奈花が胸元から取り出したのは、円環に十字をあしらったシルバーのペンダント。告白されてから一ヵ月後にぼくがあげたものだ。一緒にいてあげられない代わりにせめて、とプレゼントしたもの。
 もの自体は、高校時代、無感情なまま一向に回復しないぼくを心配した兄さんが、ほぼ無理矢理連れ出してくれたお店で買ったものである。それほど欲しいわけではなかったが、気を遣ってくれた兄さんに何の反応も返さないのはあんまりだろう、という判断からだった。
 あまり思い出があるようなものではなかったが、佳奈花がこれを持っていることで、少しでも寂しさを紛らわすことができるなら、とプレゼントしたのだった。
 でも、これを受け取った佳奈花は、
『人前では、着けられないですよね』
 そう、残念そうに微笑んだ。
 ぼくらの関係は誰にも秘密だった。佳奈花がいきなり見覚えのないアクセサリを身につけていたら、彼女の母親や友人は不審に思うだろう。それほど高くないものだったとはいえ、小学生が手にするには、不相応と言わざるをえないものだったから。
「やっと、つけることができました」
 いとおしそうに、佳奈花は指先でペンダントを撫でる。
「……ごめん。もうちょっと雰囲気のいいところに誘えば良かったかな」
 人の少ない水族館では、あまりにも寂しすぎる。
 メールでは、ここに行くことを快諾してもらえたが、本当はもっと他に行きたいところがあったんじゃないかと思う。
 けれど、佳奈花は笑った。
「そんなことないですよ。修さんと一緒だから、楽しいです。それにほら、ここって人が少ないから……何だか、二人きりみたいじゃないですか」
 くるっと回って、両手を広げた。巨大な水槽からの明かりに背後から照らされたその姿は、とても魅力的だった。
 佳奈花はぼくの手を握ってくる。さっきのように抱きつくことはなかったが、握る力は強かった。
「もっと、人目も気にせず会えるようになればいいですね」
 佳奈花のそれは、ぼく達には過ぎた願いだ。どうあっても、十年という、大学生と小学生という事実は覆しようがなく、それと同じくらい、この関係に向ける人の目も変わらない。
 そうなればいい、とぼくも思う。けどそれは変わらず、隠れるようなぼく達の関係は、少なくともあと数年して佳奈花が成熟するまで、或いはぼく達の関係が終わるまで続くものだ。
「そうだね」
 けれどぼくはそう答え、佳奈花の華奢な手を握り返し、その手を引いて歩き出す。
 館内は二人で歩くには広い。
 その間、ぼく達はお互いの手を離すことはないだろう。



 成程、人が少ないとはいえ、ここは水族館としては中々いい。紹介してくれた松ヶ枝に感謝しよう。
 館内は水槽ごとにブロック分けされていて、生息環境の違う魚をそれぞれ分けていたり、海水魚だけでなく淡水魚のコーナーもあったりする。今ぼく達が歩いているところは、通路が半円状のトンネルになっており、魚の群れが上を通る度に足元に影が落ちる。
「マグロって寝ないんですか?」
「回遊魚だからね。浮き袋がないから泳いでないと沈む」
 そのお陰でマグロの身は密度があって非常に美味しいのである。
「寝てないわけじゃなくて、泳ぎながら寝てるんだ」
「修さんは物知りです」
 ここに来る前に一通りの知識を大急ぎで身につけてきたことは黙っておく。
 ふと、佳奈花の様子を見る。さっきからちょっと気になっていたことがあった。
「……佳奈花ちゃん、ひょっとして疲れてる?」
 ふぇ?とどこか気の抜けた表情で見上げてきた。ぼくは小さく吐息する。やっぱり。
「もしかして昨日あんまり寝てない?」
「あ……」
 しまった、という佳奈花の表情。えっと、とか、その、とか何か言葉を探している様子だったが、ぼくは何も言わずじっと見ていた。
 やがて佳奈花は俯き、小さな声で言う。
「昨日、楽しみで、あんまり寝れなくて……」
「そういや、今日やけに元気だったけど」
「……はい。それに九日ぶりだったし、会えて嬉しくて、なんだか」
 つまり寝不足でハイになっていた、と。だよね。そうだよね。あんな積極的な佳奈花はそうでなきゃ説明できない。あんな佳奈花は新鮮だったから、まぁ、珍しいものが見れたって感じで嬉しいけど。
「ちょっと休もうか。疲れただろうし」
「そんなことないです」
 顔を上げ、気丈に振舞うが、しかし、
「靴、合ってないんじゃないかな。歩くの辛くない?」
 佳奈花の身体が強張る。
 さっきから少し、歩き方がぎこちなくなってきていた。最初は眠たくて足元が覚束ないのかな、と思っていたけど、そうじゃないようだし。そういえば、底の厚い靴は慣れていないと歩きにくい、と夜沙子さんが前言ってたっけ。
 見抜かれた佳奈花はぐぅの音も出ない。
「……ごめんなさい」
「何で謝るのさ。ちょうど三時過ぎたくらいだし、少し休もう」
 通路を出た先は館の入口近くのホールに繋がっている。一度そのまま水族館を出て、公園の防風林を背にしたベンチに、佳奈花を座らせた。
「足、大丈夫?」
「ちょっと痛いです」
 なら、結構痛いということだ。
「休んでて。何か飲み物買ってくるよ。温かいほうがいい?」
「はい。あ、やっぱり私も──」
「いいから」
 腰を浮かそうとした佳奈花を座らせ、ジュースの自販機を探しに行く。少し歩くと、自販機はすぐに見つかった。隣ではクレープの屋台が出ていて、五歳くらいの男の子が、母親と一緒にクレープが出来上がるのを待っているところだった。
 ぼくに緑茶を、佳奈花に紅茶を買ったところで、不意に声がかけられた。
「お連れの女の子は妹さんですか?」
 クレープの屋台のお姉さんだった。さっきの親子は、二人でクレープを食べながら海のほうへ歩いていくところだった。
 ぼくは佳奈花のいる方角を確認する。ここからでは、建物の影になって見えない。
 何故か楽しげな笑みを浮かべながら、お姉さんは続ける。
「昼頃、時計の下で待ち合わせしていたでしょう。あの時間帯は私あの辺りにお店出してたんで。恋人って言うには歳離れ過ぎてるし、兄妹にしては仲良すぎたんで、ちょっと覚えてたんです」
 ぎくりとするが、人前であれだけやっていれば仕方のないことである。次からは気をつけよう。前の晩は早く寝るよう言って。
「離れて暮らしてるもんですから。今日久々に会ったんですけど、まだ甘え癖が抜けないみたいで」
「はぁ、よっぽど楽しみだったんでしょうね、妹さん。随分早くに来て、その辺うろうろして何だか落ちつかない様子でしたけど」
「そうでしたか。……ところで、何時頃からいました?」
「えーと、十一時ちょっと過ぎくらいですかねー。お客さんが多くなる時間帯だったんですけど、結局あの子は買ってくれませんでした」
 ──あいつめ。
「いやもうホント仲良かったですよね。兄妹って言うより恋人同士みたいで。すわ禁断の恋かってちょっと年甲斐もなくトキメいてしまいましたよわたし」
 そして、どこかおかしなスイッチでも押してしまったのか、お姉さんはいきなり熱っぽい口調で語り出した。
「やっぱりですね、人は禁じられたものにこそ惹かれてしまうものだと思うのですよ。『押すな』と書かれたスイッチをつい押したくなっちゃうみたいな! だから私は主張します。マザコンファザコンシスコンブラコンロリコンその他諸々は、決して間違った感情ではないと! 私達人間は社会性を築く上でいくつものルールを制定してきました。しかし、しかしです、封建社会が少数のサディストと多数のマゾヒストから形成されると言われたように、人間の中には潜在的にサディズムとマゾヒズムが内包されていると断言しても過言ではありません。それは破壊する愉悦と破壊される快楽にイコールであり、故に、人は自らを縛るルールを破壊したがるのです。そう、禁じられているからこそ人は惹かれる! 許されざるが故に!  全てが全てそうだとは言いませんが、やはり人間、一度くらいはっちゃけたくなるものじゃないですか。そうでしょう? そうですよね? それを社会性への反抗、原初的人間本能への回帰への欲求と捉えることもできるかもしれませんが、そうでありながらなおも自己欺瞞によって社会に順応しようとする能力を人は持っていますから、ここでは退化の欲求とは切り離して考えるべきだと思うので論じません。それよりも重要なのは、そう、禁忌に惹かれるその衝動です。いけないいけないと思いつつも手を出してしまうその危うさこそ、人の儚さ美しさ。古典文学を振り返るまでもなく人の歴史はそれを証明しています。欲望、渇望、身に余ると理解していながらも求めざるをえない熱い衝動! その逆境が人を育て、より深い破 滅へと導かれつつも、しかし奈落に堕するその直前には先人が成しえなかった遥かな高みに立っていると言っていいでしょう。だから何が言いたいかというと繰り返し何度も述べたとおり禁忌に惹かれることはなんら不自然ではないのであり、むしろ人の正しい本能とさえ言えるということであり、お兄さんとあの女の子が兄妹もしくは年の差をという社会的に許されざる壁を越えて恋愛をしていたとしたら私はそれを非常に素晴らしいと思うのです。──それはそうとクレープいかがですか?」
「……いただきます」
 本当は一刻も早くこの妙なテンションのクレープ屋から逃げ出したかったが、それだと彼女にいらない誤解を与えそうだったので、できなかった。しかもそれが誤解どころか事実なので、余計に。
 実はぼくと佳奈花の関係にアタリをつけた上で、わざとこちらの神経を撫で回すような話をしたのなら、この人、かなりの策士である。いや、流石にそんなことはないと思うが、そうだったらそれはそれで脳のお薬とかがこの人必要なんじゃないだろうか。村上先生に紹介しようかな。
 とりあえずさっきの長文は記憶の奥底に封印することにする。
「トッピングはどうしますー?」
「苺のみを一つと、苺とパインとバナナとチョコとフレークと追加生クリームを一つ」
「はーい」
 流しやがった。
 明らかにおかしい盛り付け方だが、商売優先なのか前にもあったのかそれとも素なのか、注文を聞き返すこともなく、お姉さんは普通にクレープを焼いていく。
 薄い生地が焼き上がるまでの間に、水族館の中で聞いた佳奈花の言葉を思い出す。
 ──結局のところ。ぼくは二十一歳の大学生で、佳奈花は十歳の小学生だ。
 いくら恋人同士と声高に主張したところで、それが言葉通りに受け取られることはない。
 夜沙子さんの言う通り、傍から見ればぼくは変態に違いなく──そして実際そうなのだから、本当、救い様がない。
 下衆なことに、ぼくは幼い子が好きだ。
 夜沙子さんと付き合う前からその性癖はあって、極端な話、ぼくにとって少女というのは欲情する対象であって、恋愛対象にはなりえなかった。いや、ぼくにとっては、例えそれが誰であろうと、恋愛感情を抱くことはなかった。
 ──佳奈花に出会うまでは。
 あの子に初めて出会ったのは、去年の夏まで勤めていたバイト先の弁当屋でだった。およそ一年前、佳奈花が一人で来たのが最初。
 佳奈花の母親は佳奈花が一歳か二歳の頃夫と別れ、以来女手一つで佳奈花を育ててきたらしい。一年前の頃はちょうど母親の仕事が詰まっていた時期らしく、母親が夕食を作りに帰って来れない夜、佳奈花は弁当を買いに来ていた。
 同じ時間帯にしょっちゅう顔を見かけるので、すぐに顔を憶えた。まだ名前も知らないその少女もまた、ぼくの顔を憶えていたらしい。すっかり顔馴染みになって、お得意様としておまけしてあげたりしていた。それからしばらくして、母親の仕事が落ち着いた後も時々見かけた。
 気付けばバイトが早く終わる日にはランドセル姿の彼女が待ち受けていた。都合良く、ぼくのバイトが終わる時間と彼女の塾の終わる時間が同じなので、塾を終えた彼女は真っ直ぐに家に帰らず、ぼくのところに来ていたのだ。
 以後、帰りを共にするようになった。彼女の家は、ぼくの住むアパートと大体同じ方向にあるので、自然と帰る道も同じになる。
 帰りながらする話は、その日何があったかとか、そういうただの世間話ばかり。時々、彼女の学校での悩みごとの相談に乗ることもあったけど、その程度だ。
 今年の六月、ぼくは色々あって弁当屋のバイトをやめた。そのことを佳奈花に告げると、少し寂しそうにして、そうですか、と答えるだけだった。
 別に引越しするわけでもないし、同じ街なのだから偶然出くわすこともある。そう言って別れた。
 その二ヵ月後の八月十七日。佳奈花に告白されて、ぼくは付き合うことを了承した。
 それが四ヶ月前の話だ。
 お姉さんが手際良くクレープを巻いていく。──凄い、あの滅茶苦茶なトッピングがちゃんと一枚のクレープ生地に収められていく。
「はい、どうぞ」
 お姉さんがクレープを二つ、台に置く。明らかに片方だけボリュームが五割増だ。
 ぼくは代金を渡し、クレープを持つ。生地の焼けた香ばしい匂いと、その熱に蒸発させられたクリームの甘い匂いが漂ってくる。
 ポケットに入れた缶はもう冷めつつある。佳奈花には悪いが、我慢してもらおう。
 ありがとうございました、とお姉さんの元気な声を背に、ぼくは佳奈花の待つベンチへと戻る。
「っと、あれ、もしかして」
 遠くからだと佳奈花はただ俯いているようにしか見えなかったが、距離が近くなると、その頭が船を漕いでいるのが分かった。
「やれやれ」
 ぼくは両手にクレープを持ったまま、佳奈花の隣に腰を下ろす。
 何だかんだ言っても、寝顔はまだあどけない子供のものだ。
 って、
「──ぐわ」
 座った振動で身体が傾いたのか、佳奈花の頭がぼくの肩の上に乗る。それがあの五割増を持っているほうだったので、腕が揺れてバランスを崩しそうになる。
「っ、と」
 なんとかバランスを取り直すが、しかし、ぼくの腕が動いたせいで佳奈花の頭が滑り落ち──そのままぼくの太腿に落下する。帽子が落ちて柔らかな髪が広がり、シャンプーの甘い匂いがした。
 やばい。
 すごくやばい。
 佳奈花は起きる様子を見せず、すやすやと眠っている。少女特有の柔らかさが、硬直した大腿の筋肉を受け止めている。
 佳奈花をどかそうにも両手がふさがっているのでどうしようもない。
 まずはこの五割増クレープから片付けないと、いつトッピングが佳奈花に落ちないとも限らない。
 生クリームを零さないよう、真上から全体にかぶりつく。一口で全体の三分の一ほどを口に入れるが、
「……っ、……、……」
 だだ甘だ。
 味が全部混ざってしまって、もう甘い以外に感じない。
 残りを二口で押し込んで咀嚼し、無理矢理飲み込んで、ポケットの中のお茶を開けて一気に流し込む。
「一気に糖尿病になりそう……」
 自業自得である。
 とりあえず片手は自由になったものの、考えてみれば片手でどうこうできる状況でもない。
 佳奈花は気持ち良さそうに眠っている。起こすのも忍びなかった。
 髪が重力に引かれ、白い首筋と鎖骨が覗いていたが、見ない振りをする。が、佳奈花の息遣いや、呼吸の度に上下する身体の感触は、否が応にも伝わってくる。
 天国と地獄が一度に来たようなものだ。
 ぼくは佳奈花の髪を梳いて欲求を誤魔化しながら、佳奈花が自然に起きるのを待った。



「……むぁ?」
「お目覚め?」
 佳奈花が目覚めたのは、結局それから一時間後だった。
 ぼくの脚からがばと起き上がるなり、辺りをきょろきょろと見回す。
 ついで自分の時計を見て、色を失いつつある空を見上げ、最後には青褪めた顔で沈み込んだ。
「まぁあんまり気にしないで。眠かったんだからしょうがないよ、ね」
「はい……」
「ほら、とりあえずこれ食べて。冷めちゃってるけど」
「いただきます……」
 小さな口で啄むようにクレープを食べていく。
「次からはちゃんと早めに寝ます」
 最初のうちは見るからに落ち込んでいたけれど、食べていくうちに、少しは元気になったようだ。決然とそう言って、佳奈花は最後の一口を放り込んだ。苦笑しながら、食べ終わった佳奈花にぬるい紅茶を差し出す。
 時計を確認する。時刻は四時十五分。
「五時には帰るんだっけ」
「はい、あんまり遅くなると、お母さんに心配されちゃいますから。それに今日、友達と遊びに行ってることにしてるから、お母さんが友達の家に電話かけちゃうかもしれませんし」
「そっか」
 それはちょっと、残念だ。
 お互い帰る家がある以上、この一緒にいられる時間にも当然終わりというものはある。
 ただ、長くいたからなのか、九日ぶりに会ったからなのか──今日はいつもより少し、未練が強い。
「佳奈花ちゃん、足は大丈夫?」
「はい、もう大分いいです」
「んじゃ、ちょっと歩こうか」
 ベンチから立ち上がって、手を繋いで歩き出す。
 防風林を抜ければすぐに海だ。
 砂浜は西に向かって開いている。この砂浜は遊泳禁止区域で、地元の人々の努力もあってゴミ一つ落ちていない。この状態が南北の端まで維持されているというのだから、大したものだ。
「綺麗ですね」
「うん。でも夕暮れにはちょっと早いかったかな」
 太陽は水平線の上で、白熱から赤光へと色を落としているが、沈むにはまだ早い。
 潮風が少し肌寒かった。
 他には誰もいない。
 二人きりの砂浜で、ぼくたちは、波打ち際を辿るように歩く。
「……今日はずっと手を繋いでいましたね」
 躊躇いがちに身を寄せながら呟く佳奈花の眼は、嬉しげに細められている。
「こういうの、少し憧れてました」
「恋人らしいことに?」
 はい、と佳奈花は頷く。
 浮かべる表情はとても嬉しそうで、けれど、少し寂しさがあった。
「……ごめん。少し、ほっときすぎた」
「そんなコトないです。修さんには修さんの事情があるんですから、仕方ないです。会いすぎて、お母さんとかにバレちゃったら大変ですし。だから会えない日があっても」
 重なり合う潮騒の中で、仕方ないです、と佳奈花は言う。
 その表情には陰があって、そうさせたのは、ぼくだ。
 ──本当は、佳奈花はそんなことが言いたいんじゃないはずだ。
 口付けは額まで。触れ合うのは手を繋ぐ時だけ。そうあることを求めたのはぼくで、佳奈花はただ寂しげな顔で何も言わないだけ。
 一年前の出会いから今までで、知ったことがある。この子は我慢強いんじゃない、諦めているだけだ。母親とろくに会えないように、ぼくに会えないことも、仕方ないんだと。今月の初め、このデートを持ちかけたときだって、それだけで嬉しくて泣いてしまったくらいに。
 しばらく歩いて、砂浜の終わりに着く。目の前に崖があり、足元には岩がごろごろしている。
 防風林もなくなり、陸側は土手になって海沿いを走る道路があり、その向こうに民家が立ち並んでいるのが見える。
 手近な岩に腰を下ろす。佳奈花にとってはやや高い岩だったが、飛び乗るようにぼくの隣に座った。
 夕陽は、さっきよりも海に近づいている。
「ここから先は、もう行けないみたいですね」
「岩の上を歩けば行けそうだけど……流石に危ないか」
 波打ち際にはぽつぽつ岩が突き出ていて、飛び移るように歩けば、崖沿いにもっと奥まで行けそうだ。しかし佳奈花はブーツなので、苔の生えた岩の上を歩くのはいくらなんでも危なすぎる。
「もうちょっと、歩きたかったです」
 佳奈花は砂浜の終端を見て言う。
「でも、今日はもうお終いですね」
 砂浜に終わりがあるように、ぼく達の時間も限られている。
 遠くから、穏やかなメロディが聞こえてくる。『遠き山に日は落ちて』。この町では、夕方五時になるとこの曲が流れる。
 公園で遅くまで遊んでいる子供を、家に帰らせるメロディ。
 ぴょん、と佳奈花が岩から飛び降りる。
「帰らないといけませんね。私、子供ですから」
 振り向いて、自嘲するように笑う。別れなくてはならない自分を、厭うように。
 けど、そんなのは、ぼくだって。
「今日は、ここで別れましょう。そのほうが、デートっぽいじゃないですか」
 それじゃ、と笑って軽く手を振り、佳奈花はぼくの横を通り過ぎようとして、

 ぼくは、その手を掴んだ。

 あの、と佳奈花が困惑の声を上げる。含まれる意は、どうして、だ。
 分かるもんか、そんなの。
 ただ佳奈花の寂しげな表情を、これ以上見たくなくて。二人の時間を、まだ終わらせたくなくて。
 まだ、手を繋いでいたくて。
 くそ、と心中で呟いた。
 会えなくて寂しかったのは、デートで舞い上がっていたのは、きっとぼくも同じだ。もっと一緒にいたいだなんて、ぼくは、思ってしまっている。
 手を出すのか変態め、と夜沙子さんと柊の声が重なって聞こえた。
 何のために距離を置いていたのか、と自問する声も聞こえた。
 やめておけ、と自制する声も聞こえてきた。
 これ以上近づけば、ぼくはもっとこの子のことが好きになる。もっとこの子のことが──欲しくなる。
 大切で、護りたいのに。
 ぼくはぼく自らの手で、彼女を最も身近な危険人物の手に引き渡そうとしている。
 くそ。
 何でぼくは変態なんだ。
 綺麗なこの子の前で、ぼくだけがひどく汚らわしい。
 もっと純粋にこの子を抱き締めたいのに、もっと綺麗な心で触れ合っていたいのに。そう思えば思うほど、ぼくの中の情欲は鎌首をもたげる。
 だから。彼女に痛みを伴うと分かっていても、ただ傷つけたくなかったから、穢したくなかったから、遠ざけてきたのに。
 なのに、ぼくは。
 くそ。
 だって仕方ないじゃないか。
 ぼくはもうこんなにも、この子が愛しくてしょうがない──
 岩から立ち上がりながら、手を引いた。吸い込まれるように佳奈花の身体がぼくの腕の中に納まる。
 小さくて、柔らかで、触れるだけで崩れてしまいそうな、華奢な身体。
 ぼくはそれを抱き締める。壊さないように、けれど逃がさないように。
 身長差があるせいで、半ばぼくが佳奈花の身体を上から包み込むような格好だ。
 顔のすぐ横に、絹糸のような細い栗色の髪がある。シャンプーの匂いは、膝枕をした時よりもつよくあまく、ぼくの鼻をくすぐる。
「あ、あの」
 胸の中で佳奈花が声を上げる。
 ぼくは抱く力を緩め、佳奈花を見下ろす。
 佳奈花はぼくの服を握り締めて、胸に額を強く押し付ける。
 しばらくそのまま動かず、やがて、搾り出すように声を発した。
「も、」
 息を吸い、
「もっと、欲しがっても……いいんですか」
 爆撃に等しい一言だった。
 呼吸が乱れる。絶対防衛線、という言葉が頭をよぎる。今ならぎりぎり引き返せる、そんな位置だ。これは。
 強い予感があった。いや、予感どころではなく、予知とすら言ってしまってもいいかもしれない。坂道に放り出されたボールがあとは転がり落ちていくだけなように、その一歩を踏み出せば、もう二度と戻れないと。ぼく自身も、この子から離れられなくなるのだと。
 でも。
 ぼくは──
 佳奈花の身体を引き剥がし、けれど、その肩を掴んで離さない。
 佳奈花はぼくを見上げて──そっと、その小さな手をぼくの頬に添えた。首の角度がいつもと違って、やや上に。その角度がせがむのは、額へのキスなんかじゃなくて。
 細い肩が震えている。自分がしたことへの、期待と不安から。
 初めて、まっすぐに佳奈花のことを見た。
 潮風に揺れる栗色の髪。その隙間から覗く小さな耳。揺らぐ鮮やかな瞳。同年代の少女達に比べて幼い顔。道端にひっそりと咲く小さな花の花弁のような、優しい色の唇。透き通るようでいて、けれど健康的な、柔らかい肌。首に光る銀のチェーン。すっぽりと手の平に収まってしまう小さな肩と、そこから伸びる、細い腕。華奢に過ぎる、身体。
 ──ぼくの恋人。
 佳奈花は何かを口にしようとして、でもそれは言葉にならず、ただ熱を孕んだ吐息となって口から洩れた。
 代わりに、佳奈花はそっと、その目を閉じた。
 ぼくを、待った。
 ……息を。
 一度だけ、浅く息をした。
 確認の言葉は口にしなかった。ただ一つだけ、己の中で確かめた。
 掴んだまま放そうとしないぼくの両手が、その答え。
 身を屈める。四十センチ分の二人の壁をゼロに近づけていく。強いオレンジの光の中で、佳奈花の頬はそれと分かるほど真赤に染まっている。段々と、潮騒の音が遠ざかっていく。
 残り五センチを切ったところで瞼を閉じた。
 なおも瞼を貫く夕陽の光の中。
 唇に、柔らかいものが触れる。ぼくとは違う体温。でも夜沙子さんと戯れにしたときとは違う、温度以外のものが、ぼくの中に染み渡ってくるようだった。
 胸の中を熱い何かが焦がしていく。今まで感じたことのないそれは何故か、寂しい、という言葉に一番近いものだった。胸が締めつけられて、それだけで死んでしまいそうな、気持ち。
 愛しくて、切なくて。
 けれど、一片の後悔もない。
 どれだけ自分を抑制しても、どれだけ距離を置いても、この想いは。
 佳奈花の肩と手の平から、緊張が強張りになって伝わってくる。ただ逃げようとすることはない。軽く触れるだけの唇の位置から、お互いに動かない。
 ──佳奈花も、ぼくと同じものを、感じているのかな。
 佳奈花を強く抱き締めようとする両の手を必死に抑制する。そんなことをしてしまえば、咲いたばかりのか弱い花のように、ぼくの手の中で折れてしまいそうな気がしたから。
 ただ、時間を欲した。
 温度を。佳奈花の温度を、覚えるための時間を。
 この先何があろうと。例えいつか別れが訪れようとも、忘れないために。

 ああ、こんなにも。
 ぼくは、この子が愛しいんだ──



 やがて、唇が離れた。
 眠りから覚めるように佳奈花が瞼を開く。隠されていた瞳は、泣き出す寸前のように潤んでいた。
 えへへ、という照れ笑い。ぼくもそれに笑みを返した。笑みは熱い吐息と共に、驚くほど自然に出てきた。
 頬に当てられていたままだった手を取る。少し、熱い。
「帰ろうか。一緒にね」
「はいっ」
 影は長く、砂の上に伸びている。
 沈んでいく太陽を一度だけ振り返って、ぼくらは、砂浜を後にした。










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