十二月になった。
 月をまたぐと冬将軍もいっそうやる気を出してきたようで、いつにも増して今日は寒い。しかも風もある。佳奈花を迎えに来ているぼくにも容赦なく寒気は吹き付けるのだが、ぼくはベンチにも座らずその風を全身に浴びていた。……単に座るとお尻が冷たくてやってられないという事情もあるんだけど。
 さて、ぼくがこうして立っている主な理由は、およそ六時間ほど前に遡る。










「牛丼二杯でぼくと食べ終わるタイミングが同じってどうなんだ」
 げに恐ろしきは原川太郎の胃袋と、箸を動かす手の早さだ。ちなみに柊のほうはごぼう天うどんだった。勿論大盛り。
 いつも通り二人と昼食を摂ったぼくは、講義棟の裏庭のベンチに腰を下ろしていた。今日は陽も出ていないので、今の時期、ただでさえ人の少ないここにはぼくを含めて三人しかいなかった。ぼくは、その見知らぬ二人のどちらからも離れた場所にいる。電話をしても、その内容を聞き取られることもないだろう。
 何故そんなことを気にするのかといえば、さっきから携帯電話が震えっぱなしだからだ。液晶に表示されている名前は、冬月佳奈花。
 若干の緊張と共に通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、修さんですか?』
「うん」
 そりゃ、ぼくの携帯なんだからぼくが出なきゃおかしいわけだが。
『お時間大丈夫ですか?』
「いいよ、今昼休みだし……って待った、佳奈花ちゃん、今どこからかけてる?」
 佳奈花の声は少し聞き取りづらかった。他の音が混じっているのではなく、声が小さいせいだ。まるで声を潜めているみたいに。
『トイレの中です。私も今、お昼休みですから』
「……大丈夫なの?」
『みんなやってますから』
 いや、そういう意味ではなく、会話を聞かれる恐れはないのかってことなんだけど。
『そっちも大丈夫です。今のところ私以外いませんし』
「ならいいけど、できるだけ手短に済まそう。何か用?」
『はい、あの……』
 そこで、急に佳奈花は口ごもってしまった。誰か来たのかな、と思ったけど、他に音が聞こえてくる様子はない。
 というか、そもそもわざわざ昼休みに電話をかけてこなければならないような用ってなんだろう。連絡だけならメールでも事足りるはずだ。それをわざわざ電話してくるということは、それなりに重要な用事なんじゃないだろうか。
 そこまで考え声をかけようとしたところで、佳奈花の声が聞こえてきた。
『きょ、今日の夜はお暇ですか』
 意を決したような声だった。
「……いや、まぁ暇だけど、それがどうかした?」
 てっきり何か大変なことを言われるのではあるまいか、と身構えていたぼくは、思いっきり虚を突かれた。
『今日、お母さんがお仕事忙しくて、ご飯作りにも帰って来れなくて……お金だけ渡されたんです』
「ああ──そういえば、前にもそういうことあったよね」
『はい』
 佳奈花の言葉を聞きながら、ぼくは一年前のことを思い出していた。

 今でも鮮明に思い出せる。
 寒い夜、五百円玉を握り締めて、毎日のようにぼくのバイト先を訪れていた女の子のことを。

「それでどうするの?」
『それで、ですね』
 またも佳奈花が口を閉ざした。ぼくは先ほどとは違う、どこか浮ついた気分で続きを待っていた。どうして佳奈花が電話してきたのか、その理由が分かったからだ。
『おとといの水曜は、会えなかったから、その穴埋めをしたいんです』
 あらかじめ言い訳しておくように、佳奈花はつっかえながら喋った。声の細さは、内緒話をしているということだけじゃない。
 数秒、間が空いて、佳奈花はようやく要件を言った。
『一緒に、どこか食べに行きませんか?』
「いいよ」
 即答した。
『いいんですか?』
「勿論。今日は、いや今日もか、暇だしね。おとといの分まで一緒にいよう」
『はいッ』
 嬉しさに溢れた、元気な声が聞こえてきた。そのあとすぐに息を詰める音も。自分が今隠れて電話していることを忘れてしまってたみたいだ。
 数秒沈黙があって、改めて、佳奈花は返答をした。
『あ、はい。じゃあ、あの……よろしくお願いします』
「こちらこそ」
 応じる声は自分でも分かるくらい軽やかだった。
「どこに行くかは決めてる?」
『あ、いえ、まだです。というか、どこに何があるかまだあんまり分かってなくて……』
「分かった。じゃあ塾終わったらいつものところで待ち合わせして、そのあと歩きながら決めよう」
『はい。じゃあ、また夜に』
「うん、ばいばい」
 通話を切って、ふぅ、と息をついた。
「わざわざ昼休みにかけてこなくたっていいのに」
 明日は土曜、今はバイトもしてないし、週末は大体暇だ。突然誘われたりしても、ぼくを引き止めるような要素はないのである。
 ま、他に用事があってもお誘いは受けるつもりだったけれど。
 携帯をポケットに仕舞って、両手で頬を揉みほぐした。鏡なんか見なくても、自分の顔がどうしようもないくらいにやけているのが分かったからだ。










 つまりは浮かれているのだった。
 らしくないとは思うのだけど、どうやらぼくは、佳奈花から食事のお誘いを受けて珍しく舞い上がっている。こんなご機嫌具合は夜沙子さんと付き合ってた頃にはなかったかもしれない。
 まだかなぁ、などと呟きながら、ぐるぐる歩き回って直径二メートルの足跡の円を作っている人間は、他人から見れば怪しいことこの上ないだろう。夜の公園に一人、というシチュエーションがそれを助長する。駅前や噴水とかの定番待ち合わせスポットならまだしも。
 特に柊なんかは特別しかめっ面をしてぼくを見ていそうだ。彼はどうやら昔の、無味乾燥としていた頃のぼくが気に入っていたみたいだし。
 そんな仏頂面の友人のことも今は忘れよう。大通りの光をバックに、こっちに手を振りながら佳奈花が小走りにやってくる。
「こんばんわ、修さん」
「お疲れ様」
 心なし佳奈花の頬が赤いのは、ここまで走ってきたからなのだろうか。
「ところで何やってたんですか? ぐるぐる回って」
 見られてた。
「寒かったから身体動かしてたんだ」
 咄嗟にそれっぽい嘘をついた。すると佳奈花はきょとんという顔をして言ってきた。
「寒さには強いんじゃなかったんですか?」
「限度があるよ。今日は寒い」
 こっちは嘘じゃない。冗談抜きに今日はかなり冷え込んでいた。天気予報によれば、夜中には氷点下を記録する場所も出てくるかもしれないという。頑張りすぎだ、冬将軍。
 そんな寒さなので、佳奈花もかなり厚着をしてきている。上はいつものセーターに加えて分厚いマフラー、スカートは縁にふわふわしたものがついていてる暖かそうなやつだ。耳には耳当て、手にも毛糸のミトンを嵌めていて、露出している肌は顔だけという徹底振りだ。その上で、
「寒いですねぇ」
 なんて可愛らしく呟いたりする。
 ぼくも今日はいつもより一枚多く着込んではいるけれど、佳奈花の格好は逆に暑くならないのか心配になってくる。
「とりあえず、移動しようか。あんまりここにいても寒いだけだ」
 大通りに出れば人の数と明るさのお陰で、少なくともここよりは暖かいだろう。
 ふと、右手が前に引かれた。佳奈花がぼくの手を引いて歩き出していた。
「埋め合わせ、ですから」
 呆けていたぼくに、そう小さく言った。
「……うん」
 遅れて頷き、ぼくは佳奈花の隣に並んだ。
 見下ろした佳奈花の顔は、残念なことに、前髪に隠れて見えなかった。
 足の向く先はいつもとは違う。塾のある、佳奈花が来た方向とは逆、公園を挟んで反対側の通りに出る。何か食べるならこっちの道のほうが店が多いのだ。
 二車線道路を横断し、広い歩道を並んで歩いた。
 佳奈花は片時も手を放そうとしない。今日は自転車という、ぼくと佳奈花を遮る障害がないせいか、普段よりもずっと近くにその存在を感じた。それが少しくすぐったくもあり──同時に少し、耐え難い。
 極力それを意識しないようにぼくは周囲に目を向ける。すれ違う人々は、会社帰りのサラリーマンやOL、或いは佳奈花と同じように塾帰りの小学生や中学生、連れ添って歩くカップル、色々だ。
 その中で、隣を歩いているカップルに自然と目が向いた。腕を組んで楽しそうに笑っている。
 ぼくの手を握る力が少しだけ強まる。その意味を、ぼくは努めて無視した。
「どこで食べようか?」
 ちらほらと、辺りに喫茶店やファストフードが増えてくる。この時間帯、いつもここいらは賑わっている。会社帰りや学校帰りの人達がよく立ち寄る場所だからだ。軽食からファミレス、少し奥に行けば本格中華を食べさせてくれる店だってある。勿論値段は割高だけど。
「えっと……じゃあ、そこで」
 と佳奈花が指差したのは、日本一の規模を誇るファストフードチェーン店だった。Mのマークと赤い髪のピエロが目印のあれ。
 正直ちょっと栄養の偏りが心配なのだが、まぁ、ぼくも昔は──。
「────」
 わずかな、眩暈。
 ……ぼくも昔は、よく親にせがんでた気がするし、佳奈花ぐらいの年頃ならこういう味の濃い食べ物を好むのが普通かもしれない。いや、ぼくの味覚が年寄り気味なのかもしれないけれど。
 それじゃあ入ろうか、と佳奈花の手を引こうとしたところで、あ、と小さく声が上がった。
 佳奈花の目は、店内のカウンターに向いている。
 二つ並んだ赤いランドセル。佳奈花と同じくらいの背格好。
「もしかして、同級生?」
「塾のクラスメイトです」
 佳奈花はぼくの陰に隠れ、声を潜めた。ガラス越しの店内には、普通に話していても話し声なんか聞こえないだろうけれど、佳奈花にしてみれば気が気じゃないんだろう。
 彼女達は今こちらに背を向けていて、気づく様子はない。彼女達の後ろにも何人か並んでいて、いきなり振り返られても気づかれることはなさそうだけど、なるべく早く、ここを離れたほうがいいだろう。
「仕方ない、ここは諦めようか」
 佳奈花は小さく頷いた。隠れるように身を寄せたこの距離は、今まで一度もなかったものだと、この子は気づいているんだろうか。
 店の前を通り過ぎる寸前、トレイを持った少女達がカウンターから離れて二階の席へ行くのが見えた。
「さてと……」
 もうあの店には戻れない。佳奈花を見ると、さっきまで柔らかだった表情に、暗い陰が差している。それは無論、ジャンクフードが食べられなくて残念、ということじゃないはずだ。そこをあえて誤解するほど、ぼくは嫌な人間ではないと思う。
「じゃあ、別のお店に行こうか」
 え、という顔を佳奈花がした。ぼくは苦笑する。
「このまま何も食べないで佳奈花ちゃんを帰すわけにもいかないでしょ? 残念ながらあそこには入れないけれど、折角だし、ぼくのお勧めのお店を紹介するよ」
「いいんですか?」
 思わぬところで友人と鉢合わせしそうになった混乱から抜け出せていないのか、佳奈花はそんなことを聞いてきた。
「勿論」
 ぼくが答えると、ややあって、ぱぁっと佳奈花の顔が明るさを取り戻した。
 うん、やっぱり、この子は笑ってないといけない。



 ぼくが紹介したのは、そこから少し離れた場所にあるお店だ。
 メインストリートから逸れたビルの間の路地、その片隅にそのお店はある。電灯が少ないせいで夜は薄暗く、佳奈花くらいの子は絶対一人で入りそうにないところだが、こういうところにこそ隠れた名店があったりするのだ。
 このパスタ専門店『オーランド』も、そんなお店の一つだ。
 ただし味はそこそこ。その代わり、値段が安い。店の雰囲気も悪くない。マスターの人柄も良い。お酒は出さないので酔っ払いもいない。ぼくのように、静かなところを好む人、あまり金銭的余裕のない学生なんかには、人気のお店だ。
 狭い入り口をくぐると、店員の元気な声と、ボリュームを抑えられたジャズの音色が出迎えてくれた。佳奈花を伴い、店の奥へ進んでいく。入り口は狭いが、奥行きは結構あるのだ。
 ぼくと佳奈花は、カウンター席を通り過ぎた場所にある、四人がけの席に二人で座った。運良くお客さんが少ないようで、座る場所にも余裕がある。ここは植え込みの陰になっているから、人目を気にしなくてもいい。夜沙子さんや柊とお茶するときのぼくの指定席だった。
 ちなみに原とここに座ったことはない。というか、この店自体来ない。あいつは静けさとは無縁だ。
 佳奈花にメニューを差し出す。常連だけあって、一通りのメニューは頭の中に入っているので、ぼくには必要ない。
 とにかく、この店のメニューは安い。パスタは一皿四百円から、食後のデザートも二百円からある。
「決まった?」
 メニューを閉じる佳奈花に訊く。はい、と頷いたので、少し離れたところにいたウェイトレスを手を振って呼んだ。
「ご注文はお決まりですか?」
 まだ若い、高校生くらいのウェイトレスだった。アルバイトだろう。店に入るときにかけられたのと同じ声だった。
「えっと……ナポリタンと、紅茶を一つ」
 佳奈花が遠慮がちに注文する。普段話しているぼくはあまり感じないが、これで結構人見知りするタイプだ。或いは、彼女くらいの女の子はこれが普通なのかもしれない。
「きのこのカルボナーラと紅茶をもう一つ。それと、食後に苺のタルトを二つ、お願いします」
 佳奈花がちょっと驚いたような顔をする。ウェイトレスは伝票をポケットに入れて、カウンターの中へ引っ込んでいった。
「修さん、タルト二つも食べるんですか?」
「一つは佳奈花ちゃんのだよ」
 できるだけ、気取らないよう言ったつもりだ。
「でっ、でも、そんなの──」
「いーの。こういうところでは男が奢るものなんだから」
 恋人なんだから、とまでは言えなかった。どこで誰に聞かれているとも知れないし、気恥ずかしさもあったし、何より、『恋人』という言葉を使うことに、ぼく自身が抵抗があったからだ。
「はい、じゃあお言葉に甘えます」
 にっこりと佳奈花が笑った。魅力的で、可愛い笑顔だった。その表情を見ているだけでぼくも幸せになってくる。
 他愛ない会話をしていると、程なく料理が運ばれてきた。いただきます、と二人で手を合わせて、フォークを手に取った。
 まずは一口。うん、湯で加減は絶妙なアルデンテだ。本場イタリアで修業を積んだというマスターは、パスタも全て自分で作っている。そこらのファミレスとは比べ物にならない。一人暮らしをしている身としては、その辺りのコツを是非とも身に付けたいところだ。
 見れば、佳奈花も夢中になってスパゲティを食べていた。
「どうかな」
 ぼくは訊いた。佳奈花は年相応の嬉しそうな笑みを浮かべて、
「はい、温かくて、とっても美味しいです」
 ──ずきりと。
 心の中の、自分でもよく分からない部分が、針に刺された。
 佳奈花の母親は仕事で忙しい。家に帰るたびに冷たい料理が待っているということも、佳奈花にとってはしょっちゅうだろう。勿論いつもそうというわけじゃない。塾の帰り、佳奈花を送るときも、佳奈花の家の灯かりがついていることは何度もあった。でもそれも、この三ヶ月間では、決して多かったとは言えない。
 料理が温かいのは当たり前。
 でも、佳奈花にとってはそうじゃない。
「喜んでもらえるなら良かった。ここ、よく来るから」
 心の中のもやもやとした気分を、佳奈花に気づかれないよう振る舞う。少しでも顔に出せば、この子は間違いなくそれに気づく。そして謝ってくるだろう。自分が悪いわけでもないのに。それはさせたくなかった。
 意識を切り替え、そして、その拍子に思い出した。前に約束した小説の最終巻、持って来てたんだっけ。
 食事が終わったら渡そう。いや、その前に佳奈花が、四巻まで読み終わってるかどうかを確認しないといけない。
 その質問を口に出そうとして、ぼくは、
「……どうかしたんですか?」
 佳奈花がフォークを止めて、ぼくに尋ねた。
 ぼくはそれに答える余裕がないくらい、完璧に固まっていた。ぼくの視線は、店の入り口のほうに向いていた。カウンターと人の頭越しに見えるそこに、見知った顔がある。
 柊がそこにいた。
 ただ柊がいるだけなら、ぼくはそこまで驚かない。彼もこの『オーランド』の常連だからだ。今ここにいることを気づかれないよう、座り直す振りをしながら、さりげなく彼の視界から見えない位置に移動したことだろう。
 問題は、柊の隣だ。
 女性がいる。
 あの辛辣と冷徹をこね合わせたものに手足が生えたみたいな男の隣に、女性がいるのだ。
 しかも腕まで組んでいる。女性の顔は、それが店内の光加減によるものでなければ、ここから見ても分かるほど真っ赤だった。
 身長は柊と同じほど。柊は同年代の男性としては平均的だから、彼女は女性にしてはやや長身ということになる。艶のある長い髪をポニーテールに結い上げ、明らかに男もののカジュアルな服装に身を包んでいる。しかもこの寒さだというのに、下はジーンズ、上はTシャツ一枚というかなりの薄着だ。失礼ながら、それほどの薄着でありながら胸のふくらみは確認できないので、遠目には男性と見間違えてしまうかもしれない。ただそうは言ってもやはり、よくよく見るとその身体は女性的なラインを主張している。まさに中性的、といった感じだ。
 そんな女性と、腕を組んで、連れ立っている。
 別に、柊にだって彼女がいたっておかしくはないのだ。口は悪いが気配りはできるし、ちょっとキツめだが顔も悪くない。あいつのあけすけな物言いを受け入れられるような人か、あいつが何も言えないくらい隙のない完璧超人であれば、付き合っていてもなんらおかしくはない。
 いや、それにしても。
 見慣れていないせいかもしれないが、あいつが女性と腕を組んでいる姿には、何かとんでもない違和感が。
 ──柊の視線がぼくを捉えた。
 店内をぼんやりと漂っていた目が、ぼくを見つけて固まった。見開かれ、そしてすぐに戻る。ただしそこに宿るのは観察者としての光だ。
 恐らく、柊はぼくがどうしてここにいるのか、正確に理解したことだろう。
 柊の位置からは、背の低い佳奈花の姿は、店内の観葉植物に隠れて見えない。しかし、ぼくが一人でここに来ているとは彼は思わない。ぼくは、一人でこの店を利用する際には必ずカウンター席に座る。ここにいるときは、つまり他に誰かを伴っている場合だけだ。
 そして柊は、ぼくの恋人が小学生だということと、ぼくが恋人を塾の帰りに送っていっていることを知っている。つまり現在、峰岸修平と一緒にいるのは、背の低い小学生の恋人だということだ。カウンター席で、彼女と一緒に並んで座るまでの間に、柊はそこまで思考を終えているに違いなかった。
 柊の視線が、ぼくから離れる様子はない。隣の女性との会話に受け答えし、出されたお冷を啜ってはいるが、その目はずっとぼくを見ている。
「……あの、修さん?」
 遠慮がちな佳奈花の声で、はっと我に返る。慌てて佳奈花を見ると、フォークを置いて心配そうにぼくを見ていた。
「どうかしたんですか?」
「いや……ちょっと、知り合いに似た人が入ってきたものだから、気になってね」
 わざわざ佳奈花を不安がらせることもないので、そう言った。
 じゃあ仕方ないですね、と佳奈花は苦笑。先程、自分のクラスメイトを見たことを思い出しているのだろう。
 食事を再開し、佳奈花と会話しながらも、時折、ぼくは佳奈花に気づかれないよう柊のほうを窺う。それはあっちも同じようで、ちくちくと刺すような視線がぼくに突き刺さる。
 ──などと思っていたら、柊が隣の女性に殴られた。
 音までは聞こえないが、いいパンチだった。横目にだったが、柊の頭がぐらりと揺れるのが分かったくらいだ。一番びっくりしていたのはカウンターの内側にいたマスターで、二人に料理を差し出そうとしたところで固まっていた。
 数秒、柊は硬直し、そして何事もなかったかのようにお冷を一口。その対応にどことなく慣れを感じるのは、果たして気のせいなんだろうか。
 どうやらあの女性、柊がちっとも自分のほうを見てくれないのに業を煮やして手を出したらしい。そこで出てくるのが平手ではなく拳なあたり、結構、アグレッシブな人のようだ。
 柊の視線が、ようやくぼくから離れてくれた。ほっと一息。これでようやく、普通に食事ができるというものだ。
 その後、タイミング良く運ばれてきた苺のタルトを食べて、『オーランド』を出た。店を出る際、柊の横を通り過ぎたが、お互いを見ることはもうなかった



 いつもよりゆっくりと家路を辿っていても、やがては佳奈花の家に着く。
「今日は、楽しかったです」
 赤い顔で微笑んで、佳奈花は言った。ぼくも自然と浮かんできた微笑を返す。
「っと、そうだ」
 思い出す。柊のせいですっかり忘れていたが、今日は佳奈花に本を貸すつもりだったのだ。
「こないだ約束してた本、持ってきたよ。もう四巻は全部読んじゃったかな」
「あ、はい!」
 佳奈花が目を輝かせた。よっぽど楽しみだったのだろう、瞳がキラキラ輝いている。こんな佳奈花も新鮮だなぁ。
 はいこれ、とバッグから取り出した分厚い本を、佳奈花は大事そうに受け取った。
「ゆっくり読んでいいからね」
「はい!」
 かなりご機嫌だ。今にも小躍りしそうである。ゆっくりでいいと言ったけど、この調子じゃ三日とかからず読み終えてしまうんじゃないだろうか。自分がこの本を読んだときのことを思い出しながら、そんなことを思った。
「今日は嬉しいことばかりです。修さんと一緒にご飯も食べられたし、本も貸してもらえたし」
 いくらか落ち着いた様子の佳奈花は、胸にぎゅっと本を抱き締める。
「そんなに楽しかった?」
「はい。まるでデートみたいで、とっても」
 ──デートみたいで。
 そう言う佳奈花の表情に悲壮感はない。純粋にそのことを、それだけのことを(・・・・・・・・)、喜んでいるのだ。
 ただ、塾の帰りに、一緒に食事しただけなのに。
 それだけの、ことなのに。
「──今度、デートしようか」
 気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。
 え、と佳奈花が、呆然の表情をする。
 ──これは、明らかに越境行為だ。自ら決めた境界線を、自ら踏みにじっていれば世話ない。
 けれどそれでも、ぼくはそう言わずにいられなかった。
 佳奈花に対して抱いていた、罪悪感や引け目が──この子とはなんら関係ないところで発生した、ぼく自身の問題が、ここにきて形を成した。
 ……ぼくと佳奈花は、恋人同士だ。この子が望んだから、そうなった。
 恋人同士なのに、恋人らしいことをしないという、歪んだ関係を結んだ。
 それを佳奈花のためだと言うことはできる。この子はまだ子供だ。そしてぼくは大人だ。両者の抱く、恋という感情の定義が例え同じものだったとしても、それに付随する行為まで全て同じというわけにはいかない。この関係が世間の目に晒されることも、あってはならない。
 そもそも、この子の抱く恋自体が錯覚ということも考えられる。大人に対する憧れや、親しくしてくれた人への想いを、恋と錯覚しているだけのことかもしれないのだ。そんな曖昧なものを利用して、この子の心と身体を理不尽に傷つけるような真似は、絶対に、してはならない。
 しかし──本当にそう思っていたのならば、ぼくはそもそも佳奈花の告白に応えるべきではなかった。少女の告白を断り、初恋の終わりを与え、以後はせめて良い相談役としてのみの関係を続けていくべきだった。
 でも、ぼくはこの子の恋人になってしまった。
 それは多分、寂しがりで泣き虫で純粋なこの少女を、哀しませたくないという思いだけでは、なかった。

 ──下衆なことに。
 ぼくは、幼い女の子が好きだ。

 年端も行かない少女に欲情する男なのだ、ぼくは。成熟した女性に興味がないというわけではないけれど、より一層欲望を掻き立てられるのは、それこそ、佳奈花くらいの歳の少女にだった。
 そんな自分の異常性を、ぼくはきちんと自覚してるつもりだ。普段からその卑しい欲望を抑え、そういった類のポルノに手を出すこともない。常に自分を抑制してきた。そのお陰か、初めて佳奈花に出会ったときも、可愛い子だなと思いこそすれ、欲情することはなかった。それはこの子に告白されるときまで、変わらなかった。
 佳奈花に告白されて、きっとそのとき初めて、ぼくの中の異常性愛が鎌首をもたげたのだ。この子は自分を好いてくれているから(・・・・・・・・・・・・・・・・・)多少のことでは大丈夫だと(・・・・・・・・・・・・)
 殺意が湧いた。
 同時に、ぼくは努めて冷静にあろうとしていた。受け入れるべきではない、と思ってもいた。実際そのとおりだっただろう。
 でもそれ以前から、ぼくと佳奈花は、彼女の学校帰りにお喋りをする程度には仲良しで、その中で、この子が寂しがりやなことも、泣き虫なことも、驚くほどに純粋なことも、ちゃんと知っていた。この告白をするのに、どれだけの勇気が必要だったのかも、想像するにあまりあった。少女の淡い恋心を、例えそれが彼女の錯覚だったとしても、無下になどできなかった。
 そして何より、ぼく自身、佳奈花のことが好きだったから。
 あの日、あの時。
 少女がぼくのことを好きだと言ったように、
 ぼくもまた、その少女に恋をしていた。
 佳奈花に出会うまで、ぼくは誰かを好きになったことはなかった。夜沙子さんとの関係の中でさえ、その感情は発生しなかった。
 だから佳奈花がぼくにとっての初恋で。
 だからぼくにとって、佳奈花はかけがえのない大切な人だった。
 滑稽な話だ。
 少女にしか欲情できないぼくの初恋が、よりにもよって少女なのだから。
 情欲を向けるだけだったものが、何よりも恋しいのだから。
 大切にしたい、護りたい人こそが、一番欲しいものなのだから。
 それとも、或いは。
 心のどこかにそういう期待があったから、ぼくはあの子の好きになったのかもしれなくて、ぼくはそれを否定しえない。
 柊の笑みを思い出す。
 ……それでもぼくは間違いなく、佳奈花のことが好きだ。
 だから尚更、ぼくの身勝手な思いに彼女を晒すことはできない。
 ただ、不安になるのだ。その恋すらも、自らの卑しい欲求から生まれたものではないと、彼女に手を出すために生まれた自分自身への言い訳でないと、どうして言い切れるだろう。人間、好きな人とセックスしたくなるのは生物として当然のことだ。だから、佳奈花に対する性的欲求を正当化するためのものとして、佳奈花への恋が芽生えたのではないか、と。順序が逆になっているのではないかと。
 夜沙子さんあたりは考えすぎだと笑うかもしれない。でも、長らく感情というものを失していたぼくは、そうではないと言い切れる自信がない。この子の恋が錯覚であるかもしれないのと同様に。
 だから、ぼくは自ら境界線を設けた。
 恋人らしいことはしない。これだけ年の差があると色々問題があるから、という理由を佳奈花に与え(それは事実でもあるけれど)、デートもせず、キスもなく、手を繋ぐことすら滅多にない、そんな関係を作り上げた。別れ際のおでこへの軽い口付けだけが、最大限の譲歩であり、ぼくの限界だった。佳奈花と距離を置くことで、自分自身の手から、佳奈花を守ろうとした。
 近づけば近づくほど、欲しくなるから。
 近づけば近づくほど、危険になるから。
 ぼくは今、それを自ら踏み越えようとしている。
 ──こんな関係なのに。きっと自分が思い描いていたものとは、全然違う恋人(げんじつ)なのに、佳奈花が浮かべた屈託のない笑顔が、ぼくにはとても耐えられなくて。
 或いは、それすらも。
 ぼくの下心が生んだ、自己欺瞞なのかもしれないけれど。
 彼女に取り入り、その心を少しずつ少しずつ、希釈された毒のように蝕んでいくために、ぼくはデートなどという『手段』を持ちかけたのかもしれない、と。
 それとも、単に寂しかっただけか? 一昨日会えなかっただけで、この子が自分から手を繋ごうとするほどの大胆さを見せたように、ぼくもまた『もっと一緒にいたい』という願望を抱いてしまっていたのか。
 どちらにせよ、なんて無様さだ。『デートしようか』。その言葉を発したとき、ぼくは自ら置いていた距離を、忘れてしまっていた。
「本当、ですか?」
 ようやくそれだけを搾り出したというように、佳奈花が言う。
 一瞬、ほんの一瞬、心の中に迷いがあった。今なら踏み込んだ足を戻すことができる。冗談だよ、とすますことができる。深く大きな足跡を残すことになるけれど。
 でも、どうしてそれができるだろう。
 信じられないと。戦慄にも似た感情と、わずかな期待の光が灯り始めた瞳を前にして。
「うん。これまでずっと、恋人らしいこと何もしてあげられなかったし、今度の休みくらいにね。ああ、でも今週と来週はちょっと用事あるから、その次くらいになら──」
 早口で捲し立てた唇の動きが、止まってしまう。
 佳奈花は、泣いていた。
「……ッ、あっ、ご、めん……な、さ……!」
 ぐすぐすとしゃくりあげながら、佳奈花は謝った。温かそうな毛糸のミトンで、頬をつたう熱い涙を何度も拭いながら。
 謝るべきなのは、きっとぼくのほうなのに。
「わ、たしッ、ぅ、れしく、て……! しゅうさんと、デート、できる、なんッ、て、思わなかった、から……!」
 この子は。
 諦めかけていたんだ。恋人というものを。ぼくがそう望んだから、普通の関係ではないのだから、仕方ないと。──ぼくのせいで。
 ああ、ぼくは。
 この子が、こんなにも嬉しくて涙を流してしまうくらい、こんなにも辛い思いをさせ続けてきたんだ。
「……ごめんね」
 そう言うことしかできなかった。恋人であれなくてごめん。卑しい自分でごめん。君の寂しさを分かってあげられなくてごめん。そういった諸々の感情が、その一言には詰まっていた。
 けれどそれをも、佳奈花は首を横に振って否定した。この子が、ぼくの言葉に込められた意味をどこまで理解したのかは分からない。けれど、佳奈花は否定した。修さんが悪いんじゃない、と。
 本当に、なんでこの子は、こんなにも純粋で健気なんだろう。穢れたぼくには、かつて人間ですらいられなかったぼくには、眩しすぎて、目を背けたくなるほどに。
 殺意すら湧くほどに。
 佳奈花が落ち着くまでしばらく待って、服の袖で涙を拭ったところで、切り出した。
「それじゃ、そろそろ帰るよ」
「はい」
 鼻の詰まった声で、けれどはっきりと佳奈花は答えた。目も赤いまま、笑ってみせた。
 佳奈花が瞼を閉じ、顎を上に持ち上げる。ぼくはゆるく佳奈花の肩を抱き寄せ、額にかかる髪を払い、そっと、口づけをする。いつもよりも、長めに。
 温度が、離れる。赤い顔で佳奈花が、おやすみなさい、と言い、家に入っていった。
 部屋の明かりがつくのを確認して、逃げるように、その場を離れた。










 自分の部屋に帰るなりバッグを投げ捨てた。
 部屋の隅にある小さなタンスの、滅多に開かない一番下の引き出しを引く。その更に奥、くしゃくしゃになた煙草の箱と、ほとんどオイルの減っていないライターを取り出す。
 残り七本のうちの一本を抜き、ベランダに出て火をつけた。
 くそ。
 汗を吸った髪の中に指を突っ込んだ。今自分がしているであろうしかめっ面は、ニコチンだけが原因ではない。
 これほどの自己嫌悪はいつ振りだろう。
 原因は二つ。佳奈花への罪悪感と、境界線を越えてしまった自分への怒りだ。
 恐らくはこれからも、こういったことが増えていく。彼女の望みに応えるたびに、境界線を踏み越えてしまうたびに、一本ずつ煙草が減っていく。
 自らを殺したくなるような苛立ちのたびに、ぼくはこうして煙草を消費する。かつて父さんが好きだった銘柄を、一本ずつ。そうすることで、昔の、まだ何の悩みもなかった自分に立ち返り、少しでも気を紛らわそうとする。この煙草が消費されるということは、そういうことだ。
 高校時代の頃にはよく吸っていたこれだけど、大学に入ると同時にやめていた。理由は特にない。どうせ何となく吸い始めたものだったし、やめるのも容易かった。
 それをまた吸い始めたのは、佳奈花と付き合いだしたときからだ。告白されて、受け入れたその日の夜に一本目を吸った。佳奈花からお別れのキスをねだられ、それを受け入れた夜に三本目を吸った。そのどれもが、相変わらず美味くも不味くもなかったけれど、幾許かは、気を紛らわすことはできた。
 これはぼくが、自分で自分を許せなかった証。
 それをこの三ヶ月の間に、既に六本も消費した。それだけの負荷が佳奈花との付き合いの中でかかっているということだ。
 ただ、どうあろうと、どれだけの自己嫌悪に苛まれようと、あの子を不幸にだけはしたくない。
 ──いや、しない。絶対しない。それは誓いとして、自分の中に刻み込む。
 そのためには、ぼくがぼくを律しなければならない。彼女にとっての一番の危険人物は、他でもないぼく自身なのだから。
 そしてまた、周りの目からも。もしぼく達の関係が他者に知れたら、ぼくは変態のレッテルを貼られることになるだろう。それはいい。ぼくはどうなろうと構わない。けれどそうなれば、佳奈花も無事じゃいられない。人間はときとして、加害者だけでなく被害者すらも、好奇心によって食い殺す。
 そんなことは、させない。
 己の欲望を殺し、佳奈花の社会的立場を守りながら、佳奈花が望む恋人であり続ける。
 彼女の想いを受け入れた以上、それはぼくが果たすべき責任だ。大人としても、恋人としても。
 ぼくを含めたあらゆるものから、ぼくは佳奈花の心を守らなくちゃいけない。
 どうしようもない茨の道だと分かっているけれど、ぼくはあの子に恋をしているから。
 こんな卑しい自分でも、それだけは本物だと証明したいから。
 こんな卑しい自分を、好きだといってくれたあの子のために。
 煙草の火を、手の平で握り潰しながらそう思った。



 ──けれど、と、ぼくのもっとも冷たい部分から声がした。
 けれど、あの子に見せているその夢は、お前が見ているこの夢は、一体いつ終わらせるんだ?
 ぼくは答えた。
 知るか、そんなこと。










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