「何ですか」
「怖い顔ねぇ。怒ってる?」
「……いえ、別にそういうつもりはありませんけど」
「あらそう。じゃあ少しマッサージしてもらったほうがいいわ。顔じゃなくて、頭の中をね」
「また素うどん? よくもつわね」
「燃費いいんです。それに朝晩しっかり食べてますから。……そういう先輩はたくさん食べるんですね。今後のお肌と肉付きが心配です」
「あなたは口を減らしなさい。独り暮らしって言ってたわよね、自炊?」
「ええ、まぁ」
「今度何か作ってくれないかしら」
「…………」
「作ってくれるわよね?」
「…………」
「例えばの話だけど」
「はぁ」
「恋愛を出来ない、いや、恋心というものを知らない異性がいたとして」
「はぁ」
「それが自分の目の前にいたとして」
「はぁ」
「……生返事ばかりしないでよ」
「すぅ」
ごげっ。
「次は全力よ」
「マジごめんなさい」
「いいけど。……その人があなたに助けを求めたら、あなたはその時どうする?」
「見捨てます」
「では契約を。子供の児戯にも等しいことだけれど、ね」
「ケダモノねあなた」
「……冷静になると頭痛いんですけど二重の意味で。ぼくそろそろ酔い覚め始めててあれです、やばいです、なんか凄い後悔が、ひしひしと。ってーかこれ先輩が」
「夜沙子よ」
「────」
「夜沙子と呼びなさい」
†
──眼を覚ます。
三十秒間虚空を見つめ、その後、深く溜息。
「……いやな夢だなぁ」
昔のこと、といっても精々二年とちょっと前のことだが、それでも過去の自分を夢に見るのは気分のいいものではない。その頃の自分をあまり好んでないなら尚更だ。
しかも、出てきたのは夜沙子さんである。いや別に夜沙子さんが出てくるのが嫌なんじゃなくて、夜沙子さんを夢に出してしまった自分が、嫌になる。
寝癖のついた髪を手櫛で梳かしながら、誤魔化すようにぼやいた。
「普通、こういう時は現・恋人が出るものじゃないのかな……」
「そりゃオメェ未練があるってことじゃねーの?」
昼食時の学食。モリモリとナポリタンを貪りながら、原川太郎は喋る。
「つまりお前は新しい恋人との関係に物足りなさを感じているわけだ。それで懐かしい元カノのあの豊満な肉体に──」
長くなりそうなので開始三秒で聞き流す。
「食べながら喋っても言葉に聞き苦しさがないのが凄いと言うか」
「大方、口以外に発声器官があるんだろう。首とかに」
「ああ、川太郎だしね。──河童の川太郎」
「河童は両生類だから口は一つだがな」
「そうなんだ」
「というかエラじゃ喋れん」
一向に止まる様子を見せない原の食欲と高説を聞き流しながら、ぼくは隣に座る柊だけと会話を続けた。
「で、柊はどう思う?」
「帰れ。平安時代に」
にべもない。
柊健二はこういう人だ。言葉は切れ味鋭く、態度はもっと鋭い。ついでに勘は更に鋭い。
そしてその冷たい態度からは想像もつかないほど多数の人脈とそれに伴う情報源を持っている。最早情報通というレベルを通り越していて、強いて表現するならば諜報部とかそういうものだ。
加えて、柊はとても勉強好きでもある。本人曰く、自分に知らないことがあるのが嫌いなのだとか。
……ファウスト博士でも目指すつもりなのだろうか。性格はナチュラルに酷いので、素質は充分だと思う。
「別に夢占してほしいわけじゃないんだけど」
ちらりと原・川太郎(原川・太郎ではない。河童とも似てない)を見る。話はまだ終わりそうにない。
彼は──友人のぼくから見ても明るさと胃袋の性能以外に取り得のない人間だ。それ意外は押しなべて十人並みである。取り得がないというよりは、それを取ったら何にも残らないと言ったほうがいいか。
ちなみに原は夜沙子さんに恋心を抱いているらしい。勿論、ぼくと夜沙子さんの関係は秘密だったので、彼が知る由もない。彼はぼくのかつての恋人が『院生でちょっとキツめのナイスバディなスゲェ美人』であることと、ぼくに新しい恋人がいることぐらいしか知らない。そこまで知っていながら、夜沙子さんにちっとも結びついていない様子なのは、彼が抜けているのかそう思いたくないのか、どちらかだろう。
ぼくの周りの人間で知っているのは、柊ぐらいのものだ。もしかすると柊のことだから、ぼくの彼女が十も年下の少女であることにも気付いているのかもしれない。
「で、実際未練はあるのか、ないのか。川太郎の言うことは兎も角、相手の身体に満足してないのは事実じゃないのか」
……気付いているのかもしれない。
「満足するも何も、まだ何もしてないよ。ほんとに」
額に口付けする以外は、だけど。
「やはり子供に手を出すのは気が引けるか」
気付いてるし。
原に聞かれていないかと心配になるが、まだ話は続いているようなので放置しておく。
柊の言葉が、勘のみで発せられたものであることを祈るばかりだ。他人から聞いてそれを知ったのであれば、ぼくと佳奈花の関係が他人に漏れているということでもある。
「いや、まぁ、そりゃそうだけど」
「ちゃんと入るか不安か」
「生々しいの禁止」
「好きではあるんだな?」
「……好きだね」
は、と滅多に笑わない柊が、何か良いおもちゃを見つけたかのように、口の端を吊り上げる。
「間があったな」
「────」
ぼくはお茶を啜る。
柊もお茶を啜る。
「あの。そっから普通何か進言なり忠告なりしてくれるんじゃないのかな、友人として」
「欲しいのか?」
「まぁ、うん」
一瞬躊躇ってから、頷く。すると柊は一度深く頷いて、そして言った。
「正気か?」
本当にこちらを心配するような表情で柊は訊いてくる。酷ぇ。
いや、まず真っ先にそう言うのが当たり前なのだろうが、相手は柊である。彼はぼくが完全に正気で今の関係を受け入れていると分かっていて、こんな表情をしているのだ。
ホント、ヤなやつ。
「正気だよ」
「変態だな」
そう言われるのにももう慣れた。夜沙子さんのお陰で。
「精々上手く立ち回れ。眼はどこにでもあるぞ。俺とかな」
「……あのさ。柊は勘で言ってるんだよね? 全部」
「どうだかな」
「真顔で言わないでよ、頼むから」
地味に精神が磨り減っていく心地だ。
勘で言ってるんじゃないかと訊ねはしたが、内心、ぼくはそうじゃないことを悟っていた。柊は勘は鋭いけど、本人はあまりそれを信用していないからだ。自分の目で見、自分の耳で聞いたことを信頼する。そういう人間だ。
だからこの当てこすりは、既に柊が確かな情報ソースから、佳奈花についての情報を得ているということである。
まぁ、そのソースは、間違いなくあの人なんだろうけれど。
と、不意にポケットの中の携帯が震え出す。取り出して液晶画面を確認すると、情報漏洩の容疑者からだった。
ちらりと、未だ口の止まらない友人を見る。
「──もしもし」
心持ち声を潜めて呼びかける。けれど向こう側からはそれを全く無に帰すようなはきはきとした声が聞こえてきた。
『峰岸修平君、今日の夕方暇はある?』
「あー、っと。彼女送った後なら大丈夫ですよ」
そう答えると、僅かに、向こうから溜息のような音が聞こえた。その意味は問うまい。自分が一番良く分かってるのだから。
『ご苦労様ね。それじゃあ、七時くらいで大丈夫かしら』
「その前に、どこに行けばいいんです? 車取りに一度帰らないといけないから、場所次第じゃ遅くなります」
『いえ、そのほうが好都合だわ。場所は私の家。昨日から、寝ずにレポート書いてるんだけどね、
大学
(
そっち
)
にある資料が必要になったから』
「って、それだと大学着いても夜じゃないですか。なんでまたわざわざそんな時間に」
『いいのよ。残りは研究室に泊り込んでやるつもりだったから。それにそっちには鏡瑠璃子がいる』
「鏡先輩ですか」
夜沙子さんと同輩の、ショートボブの闊達そうな女性を思い浮かべる。
『二人で手分けしてやってたんだけどね、そろそろあの子、寂しがる頃かと思って』
またしても小さな溜息が聞こえる。
夜沙子さんと鏡先輩、とても仲は良いのだが、鏡先輩のほうは親友だからという理由が通じないくらい夜沙子さんと一緒にいたがる。つまりは極度の寂しがり屋で、夜沙子さんに限らず四六時中誰かにひっついてないと安心できない人なのだった。
「あはは、それは大変ですね。分かりました、終わったらすぐ向かいます」
頼むわね、と言って夜沙子さんは通話を切った。
携帯をしまって、ふと視線を感じて柊のほうを向くと、彼は何やら複雑な視線をぼくに向けていた。
こう、言うなれば地べたを這いつくばる毛虫を見るような目つきで。
「な、何さ」
あんまりな扱いだったので、抗議の意味も込めて強く見返す。けれど柊はそれを受け流し、ふん、と鼻を鳴らした。
「いや、マメな男だなお前は。見事に躾けられたものだ」
昔のお前は良かった、などと述懐までし始めた。君はぼくの何を知っていると言うんだ。
「……あのね柊。別にぼくは命令されてやってるわけじゃないぞ」
「簡単に請け負う辺りが躾だと言うんだ」
むぅ。
それは確かに、柊の言う通りかもしれない。
そうかぼくは躾けられていたのか……って違うってば。
「そんなんじゃないって。家から大学まで送るだけだし」
「余計おかしい。普通、家から大学まで行くだけなのに人を使わんぞ」
「そうかなぁ」
言葉を濁してみるが、心の中では柊の言葉に頷いている。事実、記憶をそれほど深く掘り返してみるまでもなく、ぼくは夜沙子さんからの用事を安請け合いし続けている。それは二年前からでも三ヶ月前からでもあまり変わっていない。
「大体相手は元恋人だろう。もう少し距離を置かないか?」
「……いや、いやいや、反論させて。関係が終わっても先輩後輩に変わりはないんだし、色々お世話になった人でもあるし、付き合いは大事にするべきでしょ。礼儀として。──それに、そもそも」
ぼく達の関係は普通ではなかった。
最後まで言うまでもなく、そうだったな、と柊は察したように頷き、さっさと矛先を納めてしまった。
それ以降何かぼくに言ってくることもなく、食べかけだったカツカレー大盛りを崩しにかかる。原ほどではないが、柊も結構な健啖家だ。対してぼくは小食である。今日も肉うどん一杯とおにぎり二つのみだ。これでも、一時期に比べれば食べるようになったんだけどね。
茹で過ぎで歯応えの消滅した麺を啜りながら、柊の言葉を考えてみる。
……ぼくと夜沙子さんの『恋人関係』は、一般的なそれとは大きな隔たりのあるものだった。そこに普通の物差しを持ってきたところで、距離の長さだとか気持ちの大きさだとかを、正確に測れるはずもないのだ。
それに、ぼくは別にタダで用事を請け負っているわけじゃない。
代価はしかし金品などではなく、ぼくにしか価値のない精神的な糧。夜沙子さんと会うことそれ自体が、ぼくにとっては重要な意味を持つ。
それは二年前から引きずりっぱなしの、怖くて手放せない、手綱。言ってしまえば、ぼくは夜沙子さんから離れられないのだ。
何しろ彼女がいなければ、ぼくは
人間になれなかった
(
・・・・・・・・・
)
。
それを今も引きずっている。曖昧に返答していたけれど、柊の言葉はいちいち的を射ていた。ぼくと夜沙子さんの距離は、別れた二人にしては近すぎる。ともすれば、佳奈花との距離よりも。
正常な関係じゃない。
「──ま、今の、あの子との関係が普通かって言われても首を縦に振れないし、現実にぼくが元恋人のお願いをホイホイ請け負っていることに変わりはないんだけど」
「だな。……一つ、訊きたいんだが」
「何?」
「お前、どっちを優先するんだ?」
つまり、佳奈花と夜沙子さんのどっちを優先するかってことなんだろうか。
「そりゃ言うまでもないことだけど、今の恋人」
「しかし今の状態をやめるつもりもない、と」
「まーね」
「……精々上手く立ち回れ」
柊は呆れ果てた眼でぼくを見る。
ま、そこら辺は、余人には計り知れない事情があるということにしておこう。
──と。唐突にぴたりと、原の動きが止まった。
「何だ、まだ話してたのか」
柊の言葉を聞いているのかいないのか、ごくんと原はナポリタン(二皿目)の最後の一口を飲み込んだ。
「なぁ、何か俺に失礼なこと言ってなかったか?」
遅いって。
†
本日の講義を全て終え、大学を出る。
適当に時間を潰して、佳奈花を迎えに行った。公園で寒さに震えながら佳奈花を迎え、お互いその日あったことを話したりしながら、帰途につく。
「この前の本はどのくらいまで読んだ?」
「まだ半分くらいです。暇を見つけては読んでるんですけど、あんまり進みません」
「いや、結構早いほうじゃないかな」
そうですか?と佳奈花が首を傾げた。
単にぼくの本を読むスピードが遅いだけかもしれないが、あの分量の本を三日で半分読めるのなら、早いほうだと思う。
「その調子だと、明後日くらいには持ってきたほうがいいかな」
塾は月・水・金なので、一週間に三回、ぼく達は顔を合わせる計算になる。三回も、なのか、三回しか、なのかは、微妙だけど。
「あ、そのことなんですけど」
少し言いにくそうに佳奈花が切り出した。
「明後日は塾お休みなんです。だから……」
「迎えに来なくていいんだね」
こくん、と小さく頷いて、細い声で言った。彼女らしく、遠慮がちに。
「ちょっと、寂しいです」
「……うん」
やっぱり、三回じゃ足りない。まして一緒にいられる時間も、密度も低いものであれば。
これはただ佳奈花を家まで送るという、それだけのことだ。別れ際の口づけを除いては、恋人らしいことなんて何一つしていないのだから。
それは、してやれない、と言い換えることもできる。人目を憚れずに二人で一緒にいられる時間も場所もなく、またぼく自身、そんな状況になることを積極的には望めない。
沈黙が生まれて、先にそれを破ったのは佳奈花だった。
「残念ですけど、仕方ないですよね。でも、修さんにお休みができて、かえって良かったかもしれません。いつも悪いですから……」
「そんなこと、ないんだけどね」
佳奈花の微苦笑を見ないよう、前を向いたままぼくは答えた。
この言葉は本心だった。塾の迎えをすると言い出したのはぼくのほうなのだし、苦になるはずもない。そんな提案をしたのだって、少しでも佳奈花と一緒にいたかったからだ。加えて、暗い夜道を女の子一人で歩かせるのに不安があった。
……まぁもっとも、一番の危険人物は今まさに佳奈花と並んで歩いている人間なんだけど。
ちらりと佳奈花を見る。さっきはああ言ったものの、落胆は隠しきれていない。それだけ、この塾の終わった後の時間が、この子にとって大きなウェイトを占めているということだ。
望むなら、用がなくても会うことはできるはずだ。佳奈花の母親が塾の休みの日まで把握しているかは正直怪しい。放課後どこかで待ち合わせをして、二人でどこかに出かける、という選択をすることは、不可能じゃない。
けれど、ぼくはそれを提案しなかった。
「本は金曜日に持ってくるよ」
「はい。それまでに四巻は全部読んじゃいますね」
「まぁ、焦らず読みなよ。返すのはいつでもいいから。でも早く読み終わるようだったら、同じ作者の他の小説も貸そっか?」
「お願いします」
佳奈花は嬉しそうに笑った。ぼくもそれを見て同じように笑った。
家の近くまで来ると、既に家の中の明かりが灯っているのが分かった。どうやら今日は、佳奈花のお母さんも早く帰ってこれたらしい。
「じゃ、今日はここまでだね」
家の手前の曲がり角で足を止める。万一、佳奈花のお母さんに見られるようなことでもあったら大変だ。
はい、と頷いて佳奈花がぼくを見上げてきた。
佳奈花の両肩に手を乗せて、腰を屈める。いつもの通り、額に触れるだけの口付けをする。
触れた箇所から伝わってくる熱。
今日は、一度も手を繋がなかった。その熱を得られなかったことがひどく残念だ。その悔いは自分で決めた距離であり、それはそう自らの中で定義しなければ近づきたがる、ぼく自身への戒めだ。
だからこれは必要なことなのだと、ぼくはぼくに言い訳する。
ぼくは、この子に近づいてはいけないのだと。
恋人なのに? ──恋人なのに。或いは、恋人だからこそ。この子の恋人だからこそ。
他ならぬぼく自身が
(
・・・・・・・・・
)
、
この子を傷つけてしまわないように
(
・・・・・・・・・・・・・・・・
)
。
唇が離れる。視線の先には照れくさそうな笑顔。──この笑顔をずっと見ていたいと思う。
愛しさから、ぼくは佳奈花の髪を撫でた。くすぐったそうに佳奈花が眼を細める。
「それじゃ、今日はこれで」
「はい、おやすみなさい、修さん」
「うん、おやすみ」
ぺこりと一度お辞儀をして佳奈花は家のほうに歩いていく。ぼくはその背中を眼で追う。
と、その途中、ふと佳奈花は足を止めてこちらを振り向いた。
「修さん」
頬を赤らめたまま、佳奈花は、
「いつかお母さんにも、私達のことちゃんと言えるといいですね」
そう言って、小走りに自分の家へと駆けていった。
その背中を見送りながら、ぼくは呟いた。
「……難しい話だよ、それは」
本当に。
そんなこと、君も分かっているだろうに。
いや、分かっているからこそ、かな。
佳奈花の姿が家に入って見えなくなってから、ぼくは自転車に乗り、走り出す。今日は少し風が強い。頬を撫でていく空気はとても冷たかった。
ぼく達の関係が、他人に認められることはないだろう。大学生の男が小学生の少女と付き合っているなどというのは、検証するまでもなく異常だ。
例えそこにどんなに純粋な愛情があったとしても、周りの人間はその通りには見てくれない。ぼくと佳奈花が付き合うということは、そういうことだ。
佳奈花の母親がどんな人かは知らない。けれどまず間違いなく、ぼくと佳奈花の関係を良くは思わないだろう。佳奈花が口にした望みは、あまりにも遠すぎる場所にあるものだ。
ぼくだって、本当に、何の気兼ねなく佳奈花と一緒にいられたらどんなにいいかと思う。
でもそれを許してくれるほど社会の懐は広くなく。
そしてまた、ぼくの想いも純粋とは言えない。
アパートに到着する。駐輪場に自転車を止め、錆びかけた階段を上って自分の部屋に入る。
ぼくの住むアパートは郊外にあるが、家賃の安さからか全部屋埋まっている。一つの階につき五部屋の三階建て。一階の三部屋分を大家さんが居住スペースとして使っているのを除けば、全部で十二部屋ある。ぼくが住んでいるのは、その三階の一番端っこの部屋だった。
築二十年ということもあって見た目はボロくなっているが、どうやらかなり頑丈に造られているようで、罅が入ったりしているところはほとんどない。壁が厚いので隣室や下の階の音が聞こえてくることもない。近くに大きな道路や線路もなく、夜も静かだ。ぼくはかなりこのアパートが気に入っている。
室内は当然暗い。狭い玄関を上がり、部屋の明かりをつけもせず、ベッドのある方向に荷物を放り投げる。ボスンという着地音を確認。
すぐに部屋を出て、時刻を確認する。夜沙子さんの指定した時刻までにはまだ結構ある。ゆっくり行っても充分間に合うが、ぼくは何かに急きたてられるように動いていた。
ぼくの車は青いミニバンだ。一人で乗るにはちょっと広いけど、仲間と一緒に遠出する時なんかは重宝する。今年も、前期の期末テストが終わってすぐに、原や柊らの男友達と色んな所に遊びに行った。八月の初めには、夜沙子さんと二人きりで、海近くの旅館に泊りがけの旅行をしたりしたっけ。
……ああ、そう言えばあれが夜沙子さんとどこかに行った最後だった。その後すぐ、ぼくは佳奈花に告白されたのだ。
それからもこうして夜沙子さんを乗せてどこかに送り迎えすることはあっても、二人きりでどこかに行ったりすることはない。恋人同士ではないのだから。
今から車を出す理由も、ただ夜沙子さんを大学に送るだけだ。それ以上の意味はない。
「……未練、ね」
こうしてもう新しい恋人がいるのに前の恋人のことを思うのは、確かに未練と言われても仕方がない。
でも未練じゃない。
ぼくが夜沙子さんに抱くのは、未練ではなく、依存と呼ぶべきものだ。
依存故にこうして犬みたいに夜沙子さんの言いつけに従うのだとすれば……まぁ、それは躾けられたのかもしれない。本当に。ただ、そこにそれなりの理由があることは申し添えておく。言い訳に過ぎないのだろうけれど。
ともあれ、ぼくは車に乗り込み、発進させる。
坂道の多い狭い道路を、国道のほうに向かって注意深く抜けていく。
国道に出れば後は早い。そのまま十分ほど道なりに走り続けて、途中一回だけ曲がると、すぐに夜沙子さんの住んでいるマンションに辿り着く。
七階建ての分譲マンションである。全体的にシックな色調でまとまって、見るからに高級感溢れる建物だった。駐車場もぼくのアパートとは比べ物にならないくらい広い。
玄関口にはテンキーのパスワードによるロックがかけられていて、天井付近には吊り下げ型と埋め込み型の監視カメラが設置されている。セキュリティもばっちりだ。
当然、ぼくは中に入るためのパスワードなど知らないので、玄関口で夜沙子さんの住む407号室を呼び出す。
『もしもし?』
「ぼくです」
『ああ、はいはい。すぐ降りてくるから待ってて』
通話が切られ、程なく夜沙子さんがホールに現れた。流石に今は白衣は着ていない。
夜通しでレポートを書いていたというが、そこには一ミリグラムの疲労も見出せず、いつも通りの怜悧さを保っていた。
「お待たせ。さ、行きましょうか」
颯爽、という動きで車に乗り込む。動作がきびきびとしているので、夜沙子さんはいちいち格好良い。男女を問わず人気が高いのも当然というものだ。同時に、挙動と同じく言動も考え方もはっきりしている人なので、いまいちとっつきづらいとも言われているのだけれど。
そんな周囲の評判を全く気にしていないのも、また夜沙子さんらしい。それでいてちゃんと他人のことも考えている。ぼくみたいな余裕のない人間からすれば、夜沙子さんはほとんど完璧超人だ。他の人にしてもそうだろう。
弱点がないわけではないが、それはぼくだけが知っていればいいことだ。
車に乗り込み発進させ、早速、昼間から気になっていたことを訊いた。
「柊にぼくとあの子のこと教えたの、夜沙子さんですか?」
「ええ」
わずかな逡巡もなく夜沙子さんは答えた。
「駄目だった?」
「いえ、口止めした覚えもありませんし、柊にならどうせそのうちバレてたでしょうから構いませんよ。それに、柊のほうから訊いてきたんでしょう?」
「そ。ついこの前、図書館で彼と顔を合わせる機会があったんだけど、『最近峰岸の様子が違うが何かあったのか』ってね」
バレバレだったか。対向車のハイビームに目を細めつつぼくは思う。
流石と言おうか、柊に隠し事は通じないようだ。大した勘の鋭さだ。
「柊健二君は物事をよく見る人だしね。勘は、蓄積された経験による無意識の判断だから、それだけあなたというものをよく見ていたということよ。勿論、それ以外のものも」
「そういう夜沙子さんも柊のこと結構よく見てますよね」
一応、ぼく・柊・原と、夜沙子さんと鏡先輩とは共通の知り合いだが、それにしても、まるで柊のことを良く知っていると言わんばかりだ。
「気が合うのよ」
それは何となく分かる。どっちもクール系だしね。ぼくの知らないところで二人が交流を深めていてもなんの不思議もない。
「妬いてるの?」
「いえ全然」
夜沙子さんは少し鼻白んだようだった。そんな顔されても本当なのだからしょうがない。
「でもそれは夜沙子さんだって同じじゃないですか」
「そうね」
納得したように頷かれた。
「付き合っていた当時であってもどうだったか分からないのに、別れた今となっては尚更だわ。……その割に、まだ私なしではやっていけないみたいだけど」
「これでも、一年くらい前よりは随分とマシになりましたよ」
信号停止。横断歩道を渡る人影を視線で追いながら、ぼくは続けた。
「あの頃はそれこそべったりでしたからね」
「それが今じゃすっかり手がかからなくなったものだわ。良いことだけど。人間、二年程度でも結構変わるものね。いえ、あなたと知り合った時点から数えると、二年半か」
「二年半もかかった、じゃないですか」
「二年半程度、よ」
そこは譲れないとばかりに夜沙子さんは言った。
車が発進する。停止していた車が、緩やかにスピードを取り戻していく。
「やっぱりね、人が変わるのには時間がかかるし、かけなくてはいけない。急激な変化は負担が大きすぎるの。その結果が──」
ぼくだ。
夜沙子さんに対する依存。
ぼくは夜沙子さんから離れられない。姿が見えていないと不安になる。
夜沙子さんとの付き合いの中で、ぼくはようやく人間になれた。人間に戻ることができた。だから、そうしてくれたこの人から、恋人だったとかそういうのを抜きにしても、離れられない。未だに怖いのだ。この人がいなくなったら、またあの頃の自分に戻ってしまうんじゃないか、と。
それは許容できるものではなかった。佳奈花が好きな今は尚更に。誰かを好きになるという感情すら摩滅していた自分になど戻りたいとも思わない。
それでも以前に比べればかなりマシになったほうだ。今は、電話なりメールなりで存在確認ができれば充分だ。一週間に一回くらい、こうして二人だけで会話できれば尚良い。
「所詮、私はあなたのトランキランザなのね」
「そこまでとは言いませんけど。大切な──友達ですよ。柊や原と同じく」
優先順位は違うけれど。
順位付けをすれば佳奈花が一番で、次が夜沙子さんで、続いて柊、原と続く。
「それが正しいわ。恋人は大切にしなくちゃね」
「ええ──凄く、大切ですよ」
それは、心からそう思う。
夜沙子さんは肩を竦めたようだった。
「お熱いことで」
「どーも」
ハンドルを切ると、大学に通じる坂にさしかかった。そろそろ、このドライブも終わりだ。
「……ぼくのような人間が、おこがましいとも思うんですけどね」
「そうね。普通なら笑い話になってるとこだわ、変態さん?」
微妙にニュアンスを違えて、夜沙子さんは言う。ここで初めて夜沙子さんは笑った。
「今言われるとだいぶキツいです」
「だから言ったのよ」
「──ありがとうございます」
「いえいえ」
会話を交わすうちに車は大学の駐車場に入る。ぼくは建物に近いところに車を停めた。夜沙子さんが車から降り、ぼくに声をかけた。
「送ってくれてありがと。行ってくる」
「行ってらっしゃい。帰りは一人でお願いしますね」
「善処するわ。──頑張りなさいね、色々と」
「そうします。色々と」
そしてやはり颯爽と夜沙子さんは歩き出した。
ほとんど全ての明かりが落とされ、黒い巨塔のような建物の下でさえ、夜沙子さんははっきりとその存在感を示していた。
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