「あなた度し難い変態よね」
「……言われなくても分かってますよ」
 大講義室の机の一つには男女が並んで座っていて、机に突っ伏したまま答えたのがぼくだ。
 丘にある大学の講義棟大講義室。窓の外は夕暮れ、講義もついさっき終わり、生徒も皆教室を出て行った。
 残っているのはぼくと夜沙子さんだけだ。
 というより彼女はそもそも院生で、さっきの講義は受けていない。実験後の暇な時間、たまたまぼくを見つけて、こうしてちょっかいを出しに来ているのだ。
 眼鏡に三つ編み、サイドを長く垂らした髪型。細い眼。薄くルージュを引いた鮮やかな口唇。鋭い印象を与える、ナイフのような美貌。悔しいことにぼくより高い身長には、これ以上ないくらい白衣姿が似合っている。ここが大学構内でなければ、さしずめ博士か医者だ。
 その麗しのドクター見習い、折爪(おりづめ)夜沙子は、ぼくの元・恋人だった。
 三年生のぼくより二つか三つ上(正確な年齢は教えてもらっていない)の彼女とぼくは、二年前から三ヶ月前までの間、所謂彼氏彼女の関係だった。
 別れた理由は単純明快で、ぼくに新しい彼女が出来たからだ。
「変態よね」
 また言われた。
 それは実際そうなので、ぼくはもう何も言わない。
「別にいいけれど、峰岸修平君。あなた、もう手は出したの?」
 夜沙子さんは、人を呼ぶ時は必ずフルネームで呼ぶ。
「出してません」
「社会人として褒めてあげるわ」
「オトコとしては?」
「褒めない。付き合い始めて二週間で私に手出しした男の癖に」
 ……そういうこともあった。
「っつーかアレ誘ってきたのは明らかに夜沙子さんからじゃないですか。しかも全く思ってもみないことに初めてだし」
「何でよ。いや誘ったのは私だけど、なんで初めてって分からなかったの? 私とあなたが付き合い始めたきっかけと、付き合う条件。考えれば分かると思うけど」
 条件──そう条件だ。或いはぼく達が死ぬまで固定された関係でいられたかもしれないと思わせる、そういう枷がかつてあった。
 それほどまでにぼく達にとっては重く、そして強く同調しえた理由。
 それ故に結んだ、恋人という名の契約(・・)
 結局、それは三ヶ月前に壊されたのだが。
 ……その理由が、ぼく達の関係に発したものであったのなら、ぼくも少しは変われていたということだろう。
「夜沙子さんほどの美人が処女だとは思えなかったんですよ」
 夜沙子さんの纏う空気には、出会った頃も今も変わらぬ色香が漂っている。その時夜沙子さんはまだ四年生だったのだが、初めて見た時も白衣姿だったので、生徒ではなく大学職員のほうだと思ってしまった。
 そんな彼女だったから、それまでに何人かお付き合いしたことぐらいあったのだろう、と勝手に思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。全くそのことを知らされていなかったぼくは、致してしまった後色んな意味でうろたえたのだった。
 だから彼女の男性経験は、今のところぼくだけということになる。
「別にいいけど。まぁ、あなたの今の彼女は明らかに未開通なんだし、間違えようがないわね。良かったじゃない」
 夜沙子さんは少しふてくされた様子で言う。いや、何が良いのか分からないけど。
「未開通とか言うのやめてくださいよ。生々しくて嫌です」
「ああでもそうとも限らないわよね。事件とかそういうことだってあるし。実父とか」
「真剣にやめてください」
 考えたくもない。
「ああ怖い顔。いやごめん、今のは流石に自分でもちょっとどうかと思った」
「なら言わないで下さい。夜沙子さんは思ったことをぽんぽん口に出しすぎです」
 前々から思っていたことだけど、これは彼女の悪い癖だ。
 ごめん、ともう一度夜沙子さんは謝る。
「もういいです。でも二度目はないですから」
 ふぅん、と夜沙子さんがこちらの眼を覗き込んでくる。
「愛してるのね、彼女」
「……好きってだけです」
 それから逃れるように、ぼくは肩を竦めて見せた。
 そう、とだけ答えて夜沙子さんは立ち上がった。
「愛せるようになるといいわね。でないと、私と別れた意味がない」
「頑張りますよ」
「バレないようにもね」
 言葉に含まれる冷めた笑みの正体を、ぼくは掴みかねた。
「二年間、ぼくと夜沙子さんの関係もバレなかったんですから。大丈夫ですよ」
 一人だけぼくの友人は関係を知っていたようだが、彼は例外だ。異常に勘が良い上に、どういう経緯で築いたのか分からないコネクションが多数ある。
「私の友人達は全員知ってたわ。奇特なのが多いから話題にならなかっただけでね」
 マジか。
「……本当、頑張ります」
「そうしなさい」
 それを最後に夜沙子さんは大講義室を出た。
 ぼくはその足音が聞こえなくなり、更に五分ほど経ってから出た。
 時刻は午後五時三十分。自転車がパンクしてしまっているので、今日は歩きだ。車を使っても良かったが、ガソリン代が勿体無かった。
 いつもより早めに大学を出る。今からなら、丁度彼女の塾が終わる時間帯に到着することができるだろう。



 ぼくの恋人は、十歳の女の子だ。










 修さん、と幼い声がぼくを呼んだ。ぼくはそれに軽く手を振って答える。
 後ろでに小さなバッグを提げた少女が、小走りに駆けてくる。
 ウェーブがかかってふわふわと触り心地のよさそうな栗色の髪を肩で切り揃え、この前ぼくがあげた青いヘアバンドをしている。上は毛糸のセーター、下は膝までのデニムスカートと、白とピンクのストライプ模様のオーバーニーソックスを穿いた少女。
 吐き出す息は白く、寒さに頬を赤くしながらも、嬉しそうに微笑んでいた。
 柔らかそうな唇や、小さな鼻、長い睫毛は、実年齢より彼女をやや幼く見えさせる。身長も同じ年頃の少女の平均にやや足りていないので、下手をすればもっと下の年齢に見えてもおかしくない。
 背中に背負っている真っ赤なランドセルが、まだ彼女が小学生であることの証明。
 こんばんわ、とその少女がぼくの前で立ち止まり、言う。
 この、冬月佳奈花という名の少女が、ぼくの今の『恋人』だった。
「お疲れ様」
 公園のベンチから立ち上がりながら、佳奈花を労う。
 この公園は佳奈花が通っている塾の丁度真ん前にあって、塾の帰りはいつもここで待ち合わせをしている。
 街灯が少ないこの公園でわざわざ待ち合わせをする理由は、明るい塾側からはここに誰がいるか確認しにくいからだ。彼女も、大学生のぼくと付き合っていることは他の誰にも秘密にしている。
 佳奈花は走って生じた熱を放出するように、夜の空に向けて息を吐いていた。息は白く尾を引き、消えていく。
「帰ろっか」
「はい」
 ぼく達は並んで歩き出す。
 塾から出てくる子達に見つからないように、公園の敷地内を斜めに通って出る。
「寒いですね」
 佳奈花は、自分の吐いた白い息を見て呟いた。
「うん。いつもに比べて、今年は冬が早いみたいだ。佳奈花ちゃんは寒いの苦手だから大変だね」
 ──ぼくはこの子を呼ぶ時、呼び捨てではなく、意識的にちゃん付けして呼ぶ。そのことを彼女は残念に思っているようだが、ぼくにとっては自分で引いた境界線だ。
「はい、お母さんに厚着ばかりさせられてたから、苦手になっちゃいました」
 困りました、と笑う。
 可愛い子が寒くないよう、ついつい厚着させてしまうのも親心ということか。
「寒いの苦手だと今の季節大変だよねぇ」
「修さんは平気なんですか?」
「両親が寒い所の出身だったからかは分からないけど、寒さには強いよ」
 いいなぁ、と羨ましそうに佳奈花は口を尖らせる。ぼくは困ったように笑いながら言った。
「……あはは。そうでもないよ、逆に暑いのは駄目なんだ」
 そうなのだ。昔から薄着で過ごしてきたせいなのか、それとも遺伝的なものなのか寒さには強いのだが、反対に暑さに対しては全くと言っていいほど耐性がない。温度が上がると服を着ているのすら煩わしくなってくる。
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。しかも住んでるアパートが風通し悪くてね。クーラーつけると電気代もったいないし」
 学生にとって、これは割と切実な問題である。大学の学費、アパートの家賃までは払ってもらっているが、食費電気代水道代他諸費は全て自分で賄っているので、無駄遣いはできないのだ。
 とはいえ、ぼくは割と恵まれているほうなのだろう。中には学費まで自分で入れている知り合いもいる。
「だから夏は大変でね。部屋にいる時は殆ど裸だったり」
「はっ──」
 ボッと音が聞こえそうなくらい、一瞬で佳奈花の顔が色を変える。
 それを髪で隠すように佳奈花は俯くが、残念ながら遅かった。ぼくは覗き込むように頭を下げながら、意地悪に言う。
「想像した?」
「し──してません」
 佳奈花は小さく言った。その声はちゃんと届いていたが、しかしぼくは、わざとらしく耳に手を添え、しかもちょっと濃い顔を作って、
「んん〜? 聞こえんなぁぁぁぁ」
「してませんッ」
 さっきより強く(でもやっぱり控えめだ)、佳奈花が否定する。
 楽しさと微笑ましさから、ぼくの口元が自然と笑みの形を取っていく。
 最近は小学生でも精神的成長が早く(女の子は特に)、大人びた子が多いと言うが、どうやら佳奈花はその中には含まれていないようで、かなり初心だ。
 これは佳奈花が子供っぽいということではなく、知識はあっても免疫がないのである。知識はある、という意味ではちゃんと歳相応、ということなのかもしれないが。
「じゃあ何で顔が赤くなったのかなー」
 ぅ、と詰まって佳奈花は数秒間沈黙する。
「さ──寒かったからです。私寒がりですから」
 沈思黙考した末の言い訳がそれだった。
「ま、そういうことにしておこう」
 うぅ、と不満そうに佳奈花が唸る。ちょっと涙目。佳奈花は結構泣き虫だ。
「何だか、今日は意地悪ですね」
「いや、大体いつもこんなんだけど」
 赤面した顔や怒った顔が可愛くてつい、などとは言えない。──と、
「ほい」
 佳奈花の身体を引き寄せる。ちりりん、とベルを鳴らして、後ろから来た自転車が通り過ぎた。
「あ、すいません」
「ん」
 引き寄せられてよろめいた佳奈花が、ぼくの左腕にしがみつくようにして身体を支えた。ランドセルは隙間から本の背表紙が覗くくらいぎっしり詰まっていて、見るからに重そうだ。見えている背表紙の一つには、図書館のものであることを示すシールが張ってある。
「何か本借りたの?」
「あ、見えちゃいましたか? 小説ですよ」
 聞いたタイトルはぼくも読んだことがあるものだ。舞台は未来、他惑星系に移住した地球人と、侵略宇宙人との戦いを描く長編SFである。ハードカバーで全五巻の結構長いやつだ。内容は戦いそのものよりも、戦闘兵器に搭載された故人の人格コピーAIと新米操縦士の交流に重点が置かれているため、ハードな描写もそれほどなく、思春期の少年少女にもお勧めできる作品である。
 でもそれを佳奈花が読むというのは意外というか……結構読むものの趣味が広いのだろうか。歳相応に少女漫画や恋愛小説は好きみたいだけど、歴史小説も読むって言ってたし。文学少女の誕生は近い。
「借りたのは何巻?」
「四巻です。三巻がいいところで終わっちゃったからずっと気になってたんですど、学校の図書館、本が入ってくるの遅いから」
 余程待ち侘びていたのだろう、さっきの不機嫌もどこへやら、とても嬉しそうににこにこと微笑んでいる。
「それ読み終わったら、最終巻貸そうか?」
「持ってるんですか?」
 持ってるというか、実はその作者の作品は全部持っていたりする。
「うん。どうする?」
「あ、じゃあお願いします。……でも、内容は絶対言わないで下さいね?」
 佳奈花の視線にちょっと力が篭もる。言わない言わない、とぼくは笑いながら返す。流石にそこまで酷いことはやらない。本は初めて読む時が一番面白いのだ。折角佳奈花が楽しみにしているのに、それを邪魔してはいけない。意地悪や悪戯は、取り返しがつく範囲でやめておくべきもので、それ以上は悪行になる。
 ふと気付く。左腕から重みが消えていない。佳奈花はぼくの左腕を掴んだまま離さないで、それについては何も言わず、ぼくと並んで歩いている。それをわざわざ振り解く理由もなかったので、ぼくも追求はしなかった。──思えばこうして触れることも、何回目だろうか。
 辺りから背の高い建物が少なくなり、比例するように街灯の数も減ってくる。車道もいつの間にか二車線になっていた。
 ぼく達はその日あったことなどを話しながら、大通りを逸れて住宅街へと入っていく。
「今日、塾はどうだった?」
「今日はこの前のテストを返されたんです。点数、上がってました」
「そりゃ良かった。でも最近テスト多いよね」
「六年生はもっと多いみたいですよ」
「ああそうか、中学受験あるもんね」
 塾に通うからには、有名私立なんかに進学を希望している子が多いのだろう。佳奈花はそのまま近くの市立中学に入学すると聞いているが。
「クラスの皆も、半分くらいは色んなとこに進学するみたいです。……卒業したら離れ離れになっちゃうのは、ちょっと嫌です」
 一年とちょっと後には友人達と別れることになる。それを思ったからか、言葉の後半で眉尻が下がってしまった。
「でも、中学校に上がったら初めて制服着ることになりますから、それはちょっと楽しみですね」
「小学校は私服だもんね。制服姿の佳奈花ちゃんってのも新鮮でいいかも」
「じゃあ、貰ったら一番に見せてあげますね!」
 満面の笑みで言ってくれた。
 その顔は本当に嬉しそうで、思わず抱き締めてしまいたくなるくらい、可愛かった。
「嬉しいけど、最初はお母さんに見せてあげなよ。きっと誰より待ち望んでる」
 ぼくは自然と浮かぶ笑みを強引に苦笑の形にしながら言う。
 佳奈花は舞い上がった自分を宥めるように、小さく照れ笑いを浮かべる。
「あ、そうですね。じゃあ、修さんは二番目に見せてあげます」
「それは是非。……そう言えば、今日はお母さんは?」
「遅くなるってメールが来ました。十二時過ぎくらいに帰ってくるって。晩御飯は作ってくれてるみたいですから」
 声は寂しげで、それでも佳奈花は、母親の帰りが遅いことに恨み言を述べたりはしない。
 佳奈花の父親はいない。物心つく前に死んでしまったらしい。だから佳奈花の母親は一人で佳奈花を育てながら家計を切り盛りしている。そんな母親の大変さを、佳奈花はちゃんと分かっている。
 健気な子だ。──ぼくには勿体無いくらい。
 ぼくの手は、自然と彼女の頭に伸びていた。指先が柔らかな髪に沈み、その熱を感じた。
「わ、どうかしましたか?」
 佳奈花は少し驚くものの、振り払おうとはしない。
「いや……このヘアバンドつけてくれてるんだな、って」
 指先を、髪を優しくかき混ぜるように動かす。佳奈花が心地良さそうに眼を細めた。
「はい、このくらいのものなら、お母さんにも自分で買ったって言えますから。……自慢できないのは残念ですけど」
「そうだね、ちょっと、残念だ」
 ぼく達の関係は、誰にも知られてはいけない。
 健気で賢明な少女は、その理由も、意味も分かった上で、ぼくと付き合っている。
 ……告白してきたのはこの子からで、ぼくはそれを受け入れた。
 そしてぼく達は恋人同士になって、けれど、そこには足りないものがいくつもある。
 唇同士のキスもなく、精々が手を繋ぐだけ。それすらも、ぼくから求めることもなければ、彼女がねだることもない。今のように、不慮の事態でそうなってしまった場合にのみ、それを理由(いいわけ)にして離れない。
 目立つようなプレゼントは送れないし、デートも出来ない。
 恋人と呼ぶには遠い距離が、今のぼく達だ。……けれどぼくは、それでいいと思っている。今の関係が佳奈花の思い描くそれからは遠いものだと知った上で、尚。
 そうしているうちに、彼女の家の前に着いた。
「今日はこれでお別れですね」
 佳奈花は腕を解き、くるりと回って、後ろ手に手を組んでぼくを見上げてくる。
「うん、じゃあ、今日はこれで」
 言って、ぼくは身を屈める。
 周りに人がいないことは、予め確認している。行為そのものは二秒にも満たない。
 瞼を閉じた佳奈花の前髪を持ち上げ、額に、軽く触れるだけの口付けをする。
 別れの挨拶。
 付き合い始めてから唯一、佳奈花が自分からぼくに望んだこと。
 これはきっとこの子が欲した証なのだろうと思いながら、ぼくは自分の境界ぎりぎりまで踏み込んで口付ける。
 唇を、離す。
 位置関係が元に戻る。四〇センチ下の佳奈花は、ほんのりと赤い顔に幸せそうな微笑を浮かべ、自分の額を撫でた。
「それじゃ、おやすみ。また月曜日ね」
「修さんも、おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げ、佳奈花は自分の家に入っていく。
 ドアを閉める時にもう一度、おやすみなさい、と言って、佳奈花はドアを閉じた。
 玄関の明かりが点く。程なく、家の中の明かりが次々と窓から漏れ出てくる。
 けれど今まで誰もいなかった部屋の温度はとても低く、そして温度以上の寒さがそこにはある。
 誰もいない家の冷たさというものを、ぼくは良く知っていた。
 二階の佳奈花の部屋の明かりが点くのを確認して、ぼくはその場を去った。










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