夕海




 半分それは気まぐれだ。
 なまじ勉強が出来る分周囲の期待も大きく、それなりに見栄っ張りな両親は躍起になってか私を行く必要もない塾に行かせようとしている。
 行く気がないわけじゃない。寧ろ前々から行こうとは思っていた。私は知識を深めることを楽しく思う人間で、つまり傍から見れば希少種らしい『勉強好き』に分類されるようだが、同時に気まぐれで他人から強要されるのを嫌うという厄介な性癖の持ち主だったりもする。ついでに言えば、その強要されたことが、今まさに自分がしようとしていたことだと、できもしないどこぞの伝家の宝刀アルゼンチンバックブリーガーをかけたくなるくらい腹が立つ。さぁやるぞ、とありもしない気合を込めた途端、さっさとやれと急かされるようなことがあれば誰だって無論腹が立ち、込めた気合が殺意に変わるのも無理なきことと私は思う。これに対する人の意見など訊いたことがないから分からないのだけれど。
 なので勝手に親に塾に申し込まれてた時は手近にあったハサミを投げつけてやろうかと思った。アルゼンチンに至らなかったのは、相手が実の親であるというそれなりの情からであると言うことは多分言うまでもない。
 だから代わりに家出した。抵抗とか自己主張とか、まぁそんなものもちょっとばかり入っていたとは思うけど、半分は前述の通り気まぐれだ。残りの部分は気分転換か。そんなもの。
 三時間前のことだ。夏休み、盆も終わり残すは十日程度という時になって、私は愛用のスポーツバッグに着替えと財布と携帯を突っ込んで家を出た。
 そういうわけで私は海辺まで来ているわけだ。
 私の街は海に面していて元は港町だったのだが、最近のご多分に漏れず色々と土地開発がなされたりして、そして定石通り地元民とかの反対運動とかもあったりして、最終的には中途半端な学芸都市という形で落ち着いた中々素敵な経路を辿った街である。海に向かえば漁村としての趣があり、陸に向かえばビルが立ち並ぶ。奇妙な形で融合しているというか接合しているというか、どこか傾いだ感覚を抱かせる街であることは確かだと思う。
 とりあえず私がこの街が嫌いではないことだけは確かだ。うん。曲がりなりにも自分が育った場所だ。嫌いなどとは思えない。

 そしてその中でも、一番この海が好きだった。
 
 地元の人達のたゆまぬ努力によって、私の町の海は今もとても綺麗なままだ。徹底した管理体制がものを言って砂浜にはごみ一つ落ちていない。そもそも町の条例で、今私が歩いている場所は遊泳禁止ですらある。元より観光地でもないので支障はない。今の季節のような夏の夕暮れであれば、まだまだヨットやサーフボードや、塵芥或いは取れた水着などが波間に漂っていてもおかしくないのに、ただ潮騒だけが聞こえてとても静かで綺麗な海が見れるのは、そのお陰である。
 ──ああ、本当にきれいだ。
 腕時計で時間確認。現在午後七時ちょっと過ぎ。夏の日没の時間帯。海に太陽が沈み行く。その斜陽の光を海面に撒き散らしながら緩慢に緩慢に惜しむように、五十億年この星を照らし続け、そしてあと五十億年この星を照らしてくれる炎の塊は、海の中に身を沈めていく。それほど強い光を浴びながらも、大海は少しも熱せられることなく、静かに受け止めている。
 私が世界で一番好きな色だ。
 サンダルごと足を濡らす海水も気にならないまま、私はそれを眺めている。
「本当に──なんて、きれい」
 茫洋とそう呟く私は、きっと微笑んでいるのだろう。日頃私が無感動症と呼ばれていることから分かる通り、私は泣いたり笑ったりすることが少ない。別に無感情とかそういうわけでもなく、ただ顔に出ないだけだ。それを理解してくれる人は、そう多くはない。多くを求めることもないのだけれど。
 ただそれが私に怜悧とか冷静とか物静かとかいうイメージを与えるらしく、そして何故かそれが原因(と数少ない友人の克己は言う)で一部の奇特な男子諸君からは頻繁に誘いを受けたりもする。興味がないので無論全て断らせてもらっているが。でも、本当に奇特としか言いようがない。こんな無表情な人間のどこがいいんだろう。そもそも私に興味を向けているなら、私がどういった人間か大体分かっているだろうし、それなら私に恋心などというものを抱いていても無駄だということは充分悟れように。相手は選ぶべきだと思う。実に。
 克己に言うと、「それがいいんだろうね」などと返された。さっぱり訳が分からない。
 まぁ、そんな私が多分一番表情を浮かべていられるのが、多分この瞬間なのだろう。
 うん、それは悪くない感じがする。
「……うーみーはー広いーなー、大きーいーなー……」
 思わず、そんな使い古された歌を口ずさんでいた。
「行ーってーみたいーなー、よそのーくーにー……」
 謡うだけでどこか物寂しくなってくるのが、こういった歌、要は童謡の類の特性なのだと思う。誰しもがありもしない故郷や覚えてもいない風景に憧憬の念を抱いてしまう。──うん、これは恐ろしい。紛争の続く地域とか、戦場なんかで流しちゃったら、兵士が皆荷物まとめて帰ってしまいそうだ。ノーベル平和賞ものだと我ながら思う。
 ……ああ駄目か。故郷を護る為に戦っている場合は、余計後に引けなくなるだろうし。
 と。

「──だからって、黄泉の国には行こうと思うなよ?」

 いきなりそんな声が後ろから聞こえてきたのに驚かなかった私は、やっぱり無感動症なのかもしれない。
 謡うのをやめて振り向く。立っているのは青年。
 ──見惚れなかったと言えば嘘になるわけで。
 長身痩躯、とでも言おうか。身長は一六二センチの私に二〇〇ミリほど足したくらいで、体重は知る由もない。上半身は裸で下半身は色褪せたジーンズと、いかにも海にいますな感じである。ちなみに足は裸足。年齢は多分二十歳よりは下。髪は肩まで伸びていて、あまり手入れをしていないらしく艶がない。顔は上の中だけれど、眠たそうに半眼に細められた目と、真一文字に閉じた唇のせいで、放っておけば美青年であろうものを台無しにしている。頚が細いのがやけに目に留まる。ともすると私より細いんじゃないだろうか。
 それで、私に何の用なのだろう。ナンパ……とも思えない。目の前の男性にそういった雰囲気は皆無だ。敢えてつれない雰囲気を装っている風でもない。今の状態で素なのだろう。
「……違うのか?」
 男性がかすかに怪訝な表情を見せる。何が、違うんだろう。
 というか、それ以前に何が黄泉の国なのだろう。
 状況を整理する。思考する。私は海辺にいて、夕焼け見ながら謡ってて、そしたら後ろから声をかけられた、と。
 黄泉の国云々は、要は死ぬなと言っているのか。失礼な。こちとら死ぬまで死ぬつもりはない。では問題は彼が如何様にしてその言葉を発するに至ったかということ。そう思わせる要素はどこにあっただろうか。夕焼けと謡うことからはどうしてもそれに繋がり難いから、海が関係してくるのだろうか。
 海。水。で、死ぬな。
「……………………」
 黙考。
 ──ああ、そうか。
 きっかり十二秒で叩き出した結論から、彼の言葉への応答を導く。
「こんな荷物持って入水自殺しようなんてことはないと思いますが」
 多分彼は私がこんなところで茫洋と佇んでいるのを見て、今にも自殺しそうだと思ってしまったのだろう。本当に失礼な。傍から見れば今にも海に進み出そうなほど、私は危うかったのだろうか。無論そんなことはなく、無表情に言って視線を夕焼けに戻した。
「石とか詰まってないよな、そのバッグ」
「詰まってたらこうして持ててませんが」
 もしそうなら相当な重量になるだろう。それ以前に、入水自殺で石を詰めるのは基本的にポケットだ。まぁ、確かにスポーツバッグに詰めて襷掛けに担いで沈めば、確実性は増すのだろうけど。
「見ます?」
 それでも訝しげにこちらを見ていたようだったので、ジッパーを開けて中を開帳してみせる。中身は無論衣類と、端のほうに折り畳み傘と財布が見えるのみで、石などどこにも入っていない。
「……家出か」
 それだけで男性は自分がここにいる理由を看破してみせた。私は頷きながら、この男性に少なからず好感を持ったことを自覚した。頭の回転のいい人は嫌いじゃない。無論、私の境遇を一度見破った程度でそう判断するわけもなく、ただ現時点では、だ。
「それで、家出なら家出として、何であんたはこんなところにいる。夜を明かせるような場所はないけど、この辺」
 それは百も承知である。この街の地理は大体把握している。ただ、歩いていたら自然ここに足を運んでしまっただけのことだ。それ以外に理由はない。
「野宿しようなんて思うなよ。この辺は不良とかは来ないけど、それでもろくなもんじゃないからな」
 忠告してくれているのか、男性はそう言ってきた。
「ところで、あなたはどこに住んでいるんですか?」
 振り向いてそう訊いてみた。男性は一瞬虚を突かれたような顔をして、しかしすぐ元に戻り、答えた。
「この海岸をずっと南に進んでいったところの岩場のちょっとした洞窟みたいなとこ。今のところはな」
 洞窟。
 洞窟と言ったのかこの人は。
 思考停止。流石に私も呆気に取られてしまう。この時の私は相当間抜けな表情で彼を見ていたことだろう。後で後悔することになる。
 そんな私の様子に、男性は、む、とあからさまに不機嫌な表情を浮かべた。
「何だ、洞窟に住んでいて悪いか」
「悪くはないですけど。でも少なくとも私が今まで生きてきて洞窟に住んでる人を見たのは初めてですから」
 普通見ることもそうないと思うけれど。
 そんなことより、洞窟なんかに住んでいて不自由はないのだろうか。暗いし、狭いし、何より海の近くなら湿気がある。
「別に平気。俺半魚人だから」
 私がそう問うと男性はあっさりそんなことを言ってきた。またも思考停止。復旧まで何秒かかることやら。
「まぁ別にどうでもいいことだけどな。あんたも早く帰れよ。親御さんに心配かけんじゃねぇ」
 そう言って男性は言った通り南の方角に向かって歩き出した。
 私はしばらくそれを呆然と見送っていて、やがて歩き出した。
「…………」
 しかし身体がいい加減疲れている。今は大丈夫だけど、終いには倒れてしまう。……当然か。体力の限界というものはどうしてもあるものなのだから。
 ──ああ、しかし本当に疲れているらしい。当然のことをついつい考えてしまうほど、私の思考回路は磨耗している。
「…………」
「…………」
 だが思考できるうちが華である。コギト・エルゴ・スム。我思う故に我ありというのなら、復旧なき思考の全停止とは死なのだから。
 それなら思考できる限り思考すべきだ。存在の証明としても前進することとしても。思考停止に安住していては意味がない。眠るのは眠たい時だけで良く、眠たくないなら考えるべきだ。これが私の持論。そしてそれに従えば私は今眠い。
「……………………」
「……………………」
 いやだからぶっちゃけてしまえば早く休みたいということなのだけど。足場が岩ばかりで非常に歩きにくい。その上海水を被ってるから滑る。必然、足元を見ながら歩かねばならず、その際視界に入るフジツボやカメノテがしっかりと岩に張り付いている様を見ると、その技術をちょっとは学ばせて欲しい心境になってくる。
「………………………………」
「………………………………」
 と、私がそう思考しているうちに、男性は目的地に着いたようだ。
 成程、確かにそこは洞窟だ。垂直に切り立った崖に、ぽっかりと開いた丸い穴。綺麗に刳り貫かれたその形が、明らかに人工のものであることを物語っている。まさか彼が掘ったのだろうか。……いや、流石にそれはないか。
 彼──いや、今後固有名詞として半魚人と称することにする。半魚人はその洞窟に入っていった。やはりそれが彼の住処なのだろう。私もそれに続き、中に入った。
 中は無論暗い。夕焼けが差し込むのは入り口から二メートルまでで、そこから先は照らされない。どうやらそれなりに奥行きがあるらしく、とうとう前にいるはずの半魚人の背中すらも見失ってしまった。脚もとも心許ない。足元は申し訳程度に平らにされている程度なので、ともすれば転んでしまいそうだ。
 そんな風におっかなびっくり歩いていると、ふと奥に暖かい光が灯った。視線を向ければ、その先には箪笥の上に置かれた蝋燭に、半魚人が火を灯したところだった。
 その隣にはみっちりつまった本棚。下に目線を向ければ座布団と折り畳み式のテーブルがあり、脇には小学校の頃体育の授業で使ったようなマットレスと毛布やタオルケットが、何枚ずつか折り畳んである。周囲には水の入ったペットボトルだとか、木切れだとかマッチ箱だとか予備の蝋燭だとかが無造作に転がっている。
 驚いたことに、洞窟の最奥部であるらしいそこには、とりあえず人が住める程度の広さと設備が整っていた。大体六畳一間といったところか。
 そしてそれらの更に奥に──石造りのお社らしきものが見えていた。見たまんま、それはお社なのだろう。苔むさず、しかし新しいというわけでもなく、枯れた威厳とを漂わせ、それはそこにあった。
 社に備えられていたひび割れた花瓶に、半魚人がどこから取り出したのか一輪の花を挿した。私がずっとその様子を見ていると、ふと半魚人はこちらを一瞥し、しかしすぐに視線を反らしてマットレスの上に座って、手の届くところにあった……そう、キャンプで使うような小型のガスバーナーのようなガスコンロのようなものを取った。薬缶をその上に乗せ、ペットボトルの中の水をそれに注いだ。
 かちっ、と着火音がして、火が灯る。新しく灯った火は、洞窟内にまた不思議な陰影を与えていた。半魚人はそれを見届けて、手近にあった本を取りページを捲った。
 そこで、私はようやく自分が疲れていることを思い出して、マットから少し離れた地面にそのまま座り込んだ。そこで初めて思い至ったのだが、私は何も暇潰しの道具を持ってきていなかったのだ。途方に暮れる。思考に没頭するのも悪くないが、無論どうせなら外部から情報を取り入れ知識を増やしたい。一度読んだ本とかでもいいのだ。この際。読み返す度に前読んだ際の知識と考察を踏まえ、更に様々な方面に解釈できるのだから。
 だが今の私にはそれすらない。要は、今の私は暇人なのである。
 仕方がないのでつまらない思考に没頭しようとすると、
「おい」
 唐突に、半魚人が声をかけてきた。私はそちらに顔を向ける。
「別に今更訊かんでもいいことなんだろうけどな。俺についてきて何の用だ」
 唇だけを無機質に動かして半魚人は言う。視線は本に落としたままだ。最後の一線でどうでも良いと思っているような素振り。
「折角なのでここに泊めて貰おうと思って」
「馬鹿か」
 馬鹿と言われた。ショックだ。これまで私に馬鹿と言った人間は克己以外いない。少なくとも面と向かっては。
「私は至極真面目なつもりなんですけど」
「あー」
 半魚人が本を閉じ、俯いて唸った。
「敬語はやめてくれ。苦手だ」
 簡潔にそれだけ言う。……ふむ、そういうことなら私もそのほうが気が楽だ。元より礼儀正しい人間を演じていても、その通り礼儀正しいわけではないので、こっちも使わないなら使わないほうが楽である。
「私は至極真面目なつもりだけど」
 改めて言い直す。
「友達んとことか泊まろうと思わんのか。お前は。それともいないのか」
「友達はいるけど、どうせ今の時間帯は家にいないもの」
 その友達とは克己のことで、今の時間帯彼女は塾に行っているはずだった。そもそも克己のことは私の両親も知っていて、親同士の交流もそれなりにあるので、私が家出した旨はとっくに伝わっているはずだ。克己には悪いが、そんなとこに行くのは、自ら網に飛び込む魚と何が変わろう。
 親戚宅とかも同様。かと言ってホテルとかに泊まるほどの金もないし、第一それは家出っぽくないのだ。
「まぁ確かにな」
 それを言うと、半魚人は同意した。丁度薬缶のお湯が沸騰したようで、火を止めて半魚人は粉末コーヒーを入れたカップにお湯を注いだ。香ばしい匂いが満ちる。
「基本は野宿だ。土管とか路地裏とか資材の隙間とかな。それでこそ家出っつーか何つーか」
「話、分かるね」
「褒めたってそう簡単に納得はしないがな」
 そう言われた。
「褒めてない。心外だな、ただの正直な感想なのに」
 本心だった。そもそも私は他人をおだてて何かを得ようとするのは嫌いだ。半魚人がその言葉をどう受け取ったかは知らないが、ああそう、とだけ答えた。
「それじゃ改めて交渉するわ。私をここに泊めてくれない?」
「率直だな。おい」
 笑うでもなく、半魚人は言う。カチャカチャとティースプーンでカップをかき混ぜる音がする。
「もっと他のところとか思いつかんのか」
「言われるまでもなく思考済み」
「結果は?」
「現時点でここが最良と判断したの」
「……そうかい」
 それきり半魚人は何も言わなくなってしまう。折れたのか単に面倒臭くなったのか。多分前者三割後者六割その他一割といったところだろう。
 まぁともあれ今夜の宿の確保は出来たわけだ。
「──ほれ」
 一安心していた私に、湯気の立つコーヒーカップが差し出されていた。思わず受け取ると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「……キリマンジャロ?」
「分かるのか。通だな」
 通かどうかはともかくとして、私はコーヒーが大好きだった。夏にホットというのは少々辟易するが、ありがたいので貰っておく。
「砂糖はいいのか?」
 ずい、と半魚人の手が砂糖のたっぷり入った瓶を差し出す。……とりたて鱗が生えてるとか、水かきの面積が広いわけじゃなさそうだ。
「いい。私ブラックが好きだから」
 飲むとその強烈な苦味で頭がクリアになる。それも飽和するほど濃いコーヒーがいい。思考が隅々まで冴え渡る感覚は、とても気持ちがいい。
 一口つけたところ、どうやらこのコーヒーもまた結構濃いらしく、私としては嬉しい限りだ。
「そうか」
 それだけ頷くと、半魚人も自分の分のコーヒーを飲み始めた。私と同じくブラックで。
「……半魚人もブラック好きなの?」
「何だその半魚人ってのは」
 視線はまた本に落ちている。──というか半魚人は、先程から一度もこっちに視線を向けていない。話す時は人の目を見て話せと言われなかったのだろうか、この自称半魚人は。
「だって半魚人なんでしょ。自分で言ってた」
「いやそりゃそうなんだが、俺にも一応普通に名前あるぞ」
 まぁそれはそうだろう。半魚人だからって名前まで半魚人ということはあるまい。半魚人とは種族名でしかないのだから。けど私は彼の名前を知らないのだから仕方がない。
「それなら名前を教えてくれない?」
 そう言うと、しかし半魚人は沈黙した。しばし、待つ。
「半魚人でいい」
 そんなことを言ってきた。……名前を言いたくない事情でもあるのだろうか。
「あんたの名前は?」
 同じことを問い返してきたが、私は名も名乗らぬような人間(半魚人か)に名前を教える気はない。こういうのはやはり、等価交換でなければ。
「人間でいい」
 私は言った。少し憮然とした表情ながらも、半魚人は頷く。
 そもそも、この場所においてはそれぞれの固有名詞など関係ないのではないかとさえ思えてくる。認識できる限りの周囲を世界と言うのなら、今この世界には私と半魚人の二人しかいない。名前とはある一つの種類の中で、更に細かい区別に使われるものだから、その種類が一つしかない場合、名前と種類名の存在意義は等価となる。ならば、私の名前も半魚人の名前も、ここでは意味をなくしてしまう。
 ……うん、本当に疲れてるみたいだ。こんなとりとめもないことを考えている。たった三時間程度歩き回っただけなのに、情けない。私は、体力にはどうも自信がないのだ。
「疲れたからもう寝る」
「飯は?」
 丁度カップ麺にお湯を注ごうとしていた半魚人が問う。
「要らない」
「そうかい」
 答えに応じるように半魚人は立ち上がり、尻の下に敷いていたマットを一枚、私の前に敷いた。
「枕がないのは勘弁な。タオルでも丸めて代用しとけ」
 言いながら毛布を放り投げる。私はそれを受け取り、言われた通りバッグの中のタオルを丸めて枕にした。
 寝転がる。マットは硬く、寝心地がいいとは決して言えない。それでも岩肌や土の上に直に寝転がるよりましなので、文句はない。
 毛布を身体にかけて、時間確認。まだ午後の八時を少し過ぎたくらい。いつも寝るのは日付が変わってからだから、相当早い。まぁ健康には良いか。
 まどろみが押し寄せてくる。その前に一つ、訊きたいことがあった。
「ねぇ」
 ん、と半魚人がやはり視線を向けず応答する
「半魚人もコーヒーはブラック好きなの?」
 そんな他愛のない質問をする。名前云々で、先程つい流されてしまったどうでも良い問いだ。
 ただそれが、無性に今気になった。それだけのこと。
 半魚人が返事する。
「そうさな。俺もブラックが好きだ」
 そう答えた。
 私は、訊いた割に、そう、とだけ気のない返事をして、そのまま眠りの淵に沈んでいった。
 
 …………………………。
 …………………………。
 …………………………。
 
 夢は見なかった。
 
               ◇
 
「────────────────」
 目を覚ますとそこは真っ暗で、まだ夜だった。
 直後、ここはいつも暗いのだと思い出した。
 闇の中で身を起こす。寝る前、右隣に置いていたはずのスポーツバッグを手探りに探る。ジッパーを開け、手を突っ込んで、やがて硬質の感覚に爪が当たる。円筒形のそれを取り出し、底部近くについているスイッチを押した。
 かちん、と音がして、天井が強く狭い光に照らされた。
「…………」
 六畳程度の狭い空間。本棚と、テーブルと、箪笥。石造りのお社。洞窟の最奥部。
 この空間の主たる自称人外生物は、どうやらいないようだ。
 枕元に置いていた腕時計を手に取る。私の腕時計は黒く武骨なもので、とても丈夫で色々と多機能なので、私はとてもこれが気に入っている。克己に言わせれば、年頃の少女が身に付けるようなものではないらしいけれど。
 ともあれ時間確認。
 現在時刻──午前九時。つまり総睡眠時間は十三時間。
 ……久々に、長く寝てしまったようだ。寝過ぎて身体が重くすらある。軽い頭痛までする。日頃短い睡眠で過ごしているせいか、過度の睡眠は、どうも身体に良くない。
 懐中電灯を切る。換えの電池を買うのを忘れていたから、できるだけ使用は控えることにした。
 暗闇の中で着替える。下着も替えてないので結果全裸になることになるが、誰もいないので気にしない。手探りで適当に選んだ服に着替える。どうせ似たようなものばかりしか持ってきていないし、持っていない。
 着替えを終えて、することもないので壁に手をつきながら出口に向かう。案の定何度も足を取られそうになって、ケチらず懐中電灯持って来ればよかったと少しだけ後悔した。
 美しい夕日が見られる分、ここは朝日が当たらない。丁度日陰になっているのだ。
「起きたか。おはよう」
 声がかかる。その方向に首を回すと、洞窟の入り口から少し離れた岩に半魚人が座って、手に釣竿を持って糸を垂らしていた。服は膝から下のないジーンズとランニングシャツ。背中から見るだけで、その薄い布の下の身体の精錬された様が窺える。
「おはよう。釣れる?」
 挨拶を返し、近寄りながらとりあえず訊いた。半魚人は無言でリールを巻き、糸を引き上げた。先端の先には、まだ小さく蠢いている小海老が一匹。
「この辺にゃろくな魚がいねぇ」
 そうぼやいた。聞けば小海老はその辺りの浅瀬に生息しているものを適当に拾ってきたらしい。
「あんまり余計な金使いたくないしな、暇があればこうして釣りして食料調達してんだよ」
 何故釣りをしているのかと問えば、そう答えた。
「…………」
 岩の上にあぐらをかいて座る半魚人の背中を、私はずっと眺めながら、考えていた。
 果たしてそれを言うべきかと。訊くべきかと。出来る限り、これは自分で解決すべき問題なのであろうし、そもそも訊くこと自体が私の恥になりかねない。
 しかし聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥という言葉もある。訊かぬままで一生残るような恥を晒すくらいなら、いっそ今訊いてしまったほうが良いのかもしれない。
 だがそれでも躊躇する。もし訊いた結果が思える限り最悪の結果だとしても、私は絶望も羞恥も抱かないだろうが、それが私の人生の中で相当嫌なことの部類に入るのは変わりなく、そしてその可能性も割と高い。とはいえ、こうして考えあぐねているよりは、さっさとどんな形であれ何か実行したほうが良いのではなかろうかとも思うのだ。
 そのまま二分間考え込み──結局、訊くことにした。
「ねぇ半魚人」
「何だ」
 一拍、置く。
「……トイレ、どこ」
 振り返らずに彼は答えた。
「んなもんねーよ。この先ちょっと進みゃちょっとした林に上がれるから、そこで用足してこい」
 最悪だった。
 
 言われた通り林の茂みの中で用を足してきた。克己に知れたら「乙女がなんてことを!」とでも叫んで卒倒するかもしれない。私が彼女の定義する乙女であるかどうかはともかくとして、とりあえず上下水道普及率もそれなりに高いこの国に置いて、よもや野外で用を足すというようなことを体験するとは。物凄く貴重すぎる体験をさせてもらった。……同時に、もう二度と体験したくないことでもあるが。
 しかし私が家出人であり、こんなところにいる以上、ある程度は仕方のないことだと、既に諦観の念すら浮かんできていた。元々、諦めの早い人間である。
 戻ってきた私は何も言わず半魚人の隣に座った。波は静かで、岩は幸い濡れていない。
「釣れる?」
 さっきと同じ問いに、先程と同じ動作で結果を示す。針の先の小海老の動きは、まだまだ元気だ。
 ざわざわと、囁きのような潮騒のみが耳に届く。私はこの音も好きだった。
 生物は海から生まれたという。人は胎から生まれるという。テレビのノイズで赤ん坊が泣き止むのは、それが母の胎内にいた頃聴いていた、血液の流れる音に似ているからだという。
 だから、海の奏でるこの潮騒は、こんなにも人のこころを安らかにしてくれるのだろう。
 旋律と呼ぶには一定性がなく、雑音と呼ぶには優し過ぎる。そんな音の集合体にして集積体。
 この音の中で、自由に、それこそ自由に、魚と同じように泳ぎ続けられていたら、どんなに幸せだろう。そんなことを思った。
 ……だというのに、常日頃から海中を泳ぎ回っているはずの半魚人は、今こうして釣りに興じているわけだ。
「ねぇ、半魚人」
「何だ」
「半魚人て、本当に半魚人?」
 しばし、彼は沈黙し、
「質問の意図するところが分からんのだが」
 そう言った。
「要は、あなたは本当に人間じゃなくて、半魚人なのかって訊きたいの。あなたは私に半魚人と名乗ったけれど、証明してもらっていない以上それは自称でしかないもの」
「ああ、成程」
 得心がいった、という風に、しかし表情は微塵も変えず、ただ小さく頷いた。
「証明つったってな。先天的に泳ぎが上手くて、水中でもやたら長く息が続くとかそんくらいだし」
「長くってどれくらい?」
「俺は五分くらいか。俺の親父は二十分はいけるって言ってたけど、どうだかな。見たことはない」
 五分。それだけでも充分長いだろう。とりあえずそれなりに人知は超えている。
 ただ決定打になるものがないと思う。実際そのくらい息を止められていられる人もいないわけではないのだし。だからもっと確実な証明が欲しい。例えば、
「鱗生えてたり鰓あったり水かきがあったり肌が緑だったりしないの?」
「阿呆か」
 昨夜に続き、今度は阿呆とまで言われた。中々失礼な物言いをしてくれる。この半魚人は。
「そんな顕著なもんじゃねぇよ。確かに半魚人っつーと全身に鱗生やしてたり顔が魚っぽかったりするけどな、いや確かにそんな奴もいるけど、とりあえず俺は、っつーか俺の種族は違うんだよ」
「ふぅん……」
 半魚人にも色々な種類があるんだろうか。
「人魚も半魚人の一種?」
「違う。人魚は人魚で一つの種。俺達も俺達で半魚人っつー名前の一つの種だ。そもそも人魚に男はいねぇよ」
「へぇ、伝説とかの通りなんだ」
 確かに男の人魚なんて見たくもないが。
「じゃあ人魚ってどうやって繁殖するの?」
「さぁな。知らん。交流があるわけでもねぇし。実際見てないだけで、男もいるのかもしれんしな。……事実、ギリシャ神話のポセイドンやその息子トリトンは、下半身が魚として伝えられることも少なくない。だから形としてはさっき言った男の人魚になるな」
 ああ、それなら少しは知っている。確か何かで、下半身が魚で、手に三叉の槍を携えた筋骨隆々の男の人魚のようなものを見た気がする。あれがポセイドンかトリトンなのだろうか。
「あとお前の思い描いてる標準的な半魚人は、どっちかっつーとディープワンだな。魚っぽいらしいし、顔」
「らしい? 半魚人はその……ディープワン? 見たことないの?」
「ない。あいつら深海に住んでるし。ついでに人魚もついぞお目にかかったことはない。どっちも日本じゃ珍しいし、それ以前に俺達は人間の町で人間と同じように暮らしてんだ。海がメインじゃねぇ」
「半魚人なのに?」
「半魚人なのに、だ。……言っとくが、俺達はそんなあからさまに人外やってますなんてもんじゃないぞ? 水中じゃ確かに人間並以上だがな、それだけ。鮫に襲われりゃ当然喰われる。……自分で言ってて哀しいが、両生人類ってとこか」
 なら言わなければいいのに、とは突っ込まないことにする。
「三百年四百年前は、何か変な力持ってて海神様とか崇められてたらしいがな。最近じゃすっかり人間と一緒に暮らしてる。違和感なくな。実際、普通に生活してても人間と変わらねぇし。人間も俺らも始終べったり水に浸かってるわけでもねぇし」
「へぇ」
 驚嘆というか感心というか。
 半魚人達は人間と同じように生活しているという。知らぬ間に人でないものが人の社会に混じっているのだ。それも摂理を捻じ曲げてでなくごく自然に当然に。
 面白い、と私は思った。つまりは、それぞれの知り合いの中の誰かが半魚人であるのかも知れないわけだ。そう考えると、訳もなく無性に楽しくなってくる。
 ……無論、この青年が半魚人であり、言っていること全てが真実であると仮定した上でのことではあるけれど。
「結局半魚人が半魚人であるって証明はないわけだ」
「まぁ、そうなるな」
 素直に半魚人は認めた。
「実際大学のダチとかにも俺ぁ常々半魚人って言ってるんだがな、信じるやつぁ一人もいない。泳ぎが得意ってだけじゃ当然だな」
「大学……」
 呆けた声を出す。大学に通う半魚人。鱗まみれの身体の上から服を羽織り、靴は流石に履けなくて水かきの広がった足をずるぺたずるぺた言わせながら構内を歩く。そして通りすがった友人達に、水かきのついた手でおはようと挨拶し魚の顔が笑みを──いやだからそれは違うと言うに。
「おかしいか?」
「いや、別に」
 まぁ、人の中で生活しているなら、大学ぐらい通っていてもおかしくない。
「……ていうか、人間社会の中で生活してるんなら、何でこんなところに住んでるの?」
 人間と同じように生活していると言うのなら、別にこんな洞窟に住む必要もないと思うのだ。もし海が物凄く好きだとしても、だからってこんなトイレも満足にないようなところに住もうとするだろうか。
「金が要るんだ」
 そう半魚人は言った。
「お金?」
 ああ、と半魚人は頷く。
「バイクが欲しいんだが、いかんせん金がない。だから生活切り詰めようと思ったんだが、常日頃から割と金なくてな。一応俺だって現役大学生で、本当ならアパート住んでんだよ。学費とかは親持ちなんだけど、それ以外の生活費は全部バイトで稼いでる。二、三個掛け持ちしてるんだが、それでもやっぱり割と苦しくて、とてもじゃないがバイク買う金なんて貯まんねぇ。──で、アパート出て、家賃をバイク代に当てることにした」
 呆れ果てた。
 いや別に他人の生き方にどうこう口出しするつもりはないが、この半魚人はバイクのためにこんなところで生活していたというのか。
 まぁ本当に欲しいのだったら、誰しもそれくらいのことはやってのけるのだろう。
「そんなに欲しいんだ。バイク」
「欲しい」
 即答する。よほど欲しいのだろう。
「……それで、そのためにどのくらいここで生活してるの?」
「四月からだから、今五ヶ月目だな。食費とかもここで釣れる魚とかで減らしてるから、結構貯まってきた」
「よくそこまでもつわね」
 今度は素直に感心して言う。
「住めば都っつーだろ。そんなもんだ」
 半魚人は軽く答え──ぴっ、と釣竿を跳ね上げた。
「…………ちっ」
 舌打ち。
 糸の先端には、海老が頭だけを残してぶら下がっている。
「合わせ損ねた。結構、でかそうだったんだがな」
 淡々とした口調には、わずかながら確かに悔しさが含まれていた。
 かりかりと糸を巻き取り、
「持ってろ」
 言うなり釣竿を私に放り投げ、上半身に纏っていたランニングシャツを脱ぐ。
 細く引き締まった、しかし内の確実に精錬された筋肉を内包する身体。思わず見惚れてしまった自分を不覚に思う。
「どうするつもり?」
 釣竿のリールを適当に弄びながら私は問うた。半魚人は、横に置いてあった木と金属を組み合わせた細長い棒──銛を手に取る。
「埒があかん。やっぱ自分で取ってくる」
 ──飛び込んだ。
 塩辛い水飛沫が私の顔を濡らす。私はそれに顔をしかめながら、急速に遠ざかる彼の影を見ていた。
 潜水。凄まじい速度で彼は陸を離れていく。水を吸って重いはずのジーンズをものともせず、片手には銛を携えたままで。
 遠く、既に日向に出た位置で再び飛沫。彼が頭を出す。息を深く吸い込んで再び潜水。飛び散る水の粒子が朝日を浴びてきらきらと煌く。
 飛沫。飛沫。何度も水面に跳ねる姿はさながら魚の如くに。
 ……ああ、今だけは、彼が半魚人であると──水を纏い水にまつろい水をまつろわせる者であると確かに認識できた。それほどまでに、今の彼は、非の打ち所がないほどにしなやかに力強く美しい。
 海中を自由に泳ぎ回り、
 手にした銛で獲物を狙うその様は、
 まさに海神のように。
 私はその光景から目を離さない。離せない。
 彼が再び陸に上がってくるまで、離せなかった。
 
「少し見直した」
 私は正直にそう漏らす。私は体育座りで、あぐらをかいている半魚人と向き合っている。その間では、数分前に半魚人によって捉えられた名前も知らない魚が串に刺さって焼かれている。魚の脂の爆ぜる音が、時たま聞こえていた。
「何が」
「半魚人のこと。さっきの泳ぎ、とても綺麗だったもの。私はあなたに対する認識を改めた」
「そりゃ、ありがたいこって」
 他人事のように半魚人は薄い反応をする。とりたて嬉しいことではないのだろう。そう察する。
 彼にとっては泳げることが当たり前なのであり、それを評価されたところで嬉しくもないのかもしれない。──私がそうであるように。
 私は勉強が好きだ。故にテストでは高い点ばかりを取っている。だから私にとってはそれが当然であり、褒められる謂われはこれっぽっちもないのだ。なのに周囲は凄いという。偉いという。何が凄く、偉いのだろう。
 ちら、と視線を半魚人に向けた。茫洋とした表情、瞳。私の言葉を、何とも思っていない顔。
 ……ああ、そうか。そこで私は唐突に理解する。
 人は、自分より優性にあるものを『凄い』と感じるのだろう。自分より凄いと、自分より偉いと。敬愛、感心、感激、感動、畏怖、崇敬、羨望、嫉妬。そんな感情を抱くのだろう。
 それは私が彼に向けた言葉にしてもきっと同じだ。彼は私の予想以上に綺麗だった。それ故に出た感想も、彼にとっては取るに足りない言葉でしかないのだろう。そしてそれはこれまでの私。どれだけの賞賛を向けられようと、それが当然である以上その言葉は虚空に消える。
 私は思う。それは、とても虚しいのではないかと。今まで生きてきて初めて、そう私は自覚する。
 傲慢なことを考える。目の前の彼は、私の鏡像なのではないかと。私と同じように、たいした努力もなくあらかじめ秀でており、故に賛美を、慟哭を理解できない、虚しいものなのではないかと。──なればこそ、私は彼を見て私を省みることができた。鏡を見て服装を正すように、彼を見て私は私の中身を知った。
 ──本当に、傲慢な思い上がりだ。彼が、私と同じであることなどないのに。彼は私ではなく、私は彼ではない。同じ人間など存在しない。なのに私は、彼を鏡像であると、自らの分身に等しい存在であると思っている。珍しく自嘲したい気分になって、私は立てた膝の間に顔を埋めて、口元だけで嗤った。
「──何を笑ってんだ?」
 怪訝そうな声。しかし顔は無表情に違いない。いつもと変わりなく。
「私は嫌な女だな、って思った」
 とうとう堪え切れず、口の端からくつくつと乾いた嗤い声が漏れ出した。
「そうか」
 半魚人は興味もなさそうに、いつもと同じようにそれだけ答えた。
 私は魚が焼き上がるまでずっと笑っていて、半魚人は焼き上がってからも変わらず無表情だった。
 
 魚を仲良く半分にして、遅めの朝食を終えた。名前も知らない魚はとても美味しかった。
「バイト行ってくるわ」
 食後、いったん洞窟の奥に戻った半魚人はそう言った。時間は午前十時半。既に半裸ではなく、普通の格好に着替え、足にもスニーカーを履いていた。
「帰ってくるのは六時過ぎになると思う。それまで適当に過ごしてろ。本棚の本読んでも構わんけど、できるだけ蝋燭は使うなよ」
「分かった。いってらっしゃい」
 おう、とだけ答えて、半魚人は歩き出した。私はそれをしばらく見送って、溜息一つ。立ち上がって、洞窟の中に引っ込んでいった。
 また何度も足を取られそうになる。一番奥についたのは、自分のスポーツバッグに躓いたことで知れた。
 懐中電灯を取り出し本棚を探る。
 本には潮風で劣化するのを防ぐためか、全部ビニールのブックカバーがしてあり、本棚自体も薄いビニールのカーテンがかかっていた。ここまできちんとやるってことは、本好きなのだろうか。
 並べられた本は一見整然としていて、しかしそうでもない。大体は種類ごとに大別されているようだが、文庫の中に哲学書があったり、心理学と数学書が隣り合って並んでいる。最初はきちんと並んでいたのに、取り出して読むうちに元の場所に戻すのが面倒になって、空いている場所から本を差し込んでいったというような感じだ。
 とりあえず文庫を数冊取り出して、私は出口に向かった。やはり何度も躓いた。
 洞窟の出入り口。私はそこの南側の壁に背を預けて、本を読み始めた。本の数は五冊。一冊一時間半として、充分暇潰しにはなるだろう──

                ◇

「あ痛っ」
 がくん、と身体が揺れた。私はそれで目を覚ます。
 次いで背骨辺りに鈍い痛みが染み出してきた。
「いや悪い。蹴っちまった」
 これっぽっちも反省していないような謝罪の声に、私は身を起こしてきょろきょろと周囲を見渡した。
 見上げればすぐそこに半魚人の長身がある。手には、私が読み終えたまま放置していた本。見下ろされてるみたいで何だか不愉快になって、私はすぐさま立ち上がる。癖で時間を確認すると、もう七時だった。
 私が寝転がっていたのは、洞窟入り口から最奥までのちょうど中間辺りだ。でも、何でこんなところに寝ているのかさっぱり覚えていない。確か午後三時頃に本を読み終わって、ついつい眠くなってしまったのだ。そこから意識がないところを見るとやっぱりそのまま眠ってしまったのだろう。それで私が何でこんなところにいるかというと……やっぱり私の寝相が悪いんだろうか。事実、毎朝毎朝ベッドから落ちることが私の目覚まし代わりなのだから。
 しかしこの癖は早々に改善すべきだと自分でも思う。落ちて首の骨でも折ったら洒落にならないもの。
「しかしまぁ、よくこんなところで寝れるもんだな」
 半魚人がぼやく。曰く、私は通路を塞ぐようにして丸くなって眠っていたらしい。実際、私の服はところどころ泥だらけで、特に下にしていた右半身の汚れが酷かった。
「とりあえず顔洗って着替えろ。汚れたまんまじゃ気持ち悪いだろ。汗もかいてるだろうし」
 半魚人の言う通り、全身に汗をかいていてべとべとして確かに気持ち悪かった。頭は頭で、思考に霞がかかったようで働きがぎこちない。
 
 だから、すっきりしようと思った。

 す、といつもの自分からは考えられないような俊敏さで半魚人の脇をすり抜けた。そのまま疾駆する。出口に向かって。背後から聞こえる声など無視する。履いていたサンダルも途中で脱いでいた。洞窟を抜ける。夕日が眼を刺す。海が煌いている。私は真っ直ぐに進む。朝、半魚人の座っていた岩に足を掛けて、
 跳んだ。
 自分でもこれ以上ないってくらいに跳んだ。今まで走り幅跳びで飛距離が三メートルを越えたことのなかった私が、この時ばかりはきっとそれを五〇センチばかりオーバーしていた。自分で自分に及第点を与えたくなるくらい見事に跳んだ。
 そして、私は当然落下する。
 水音が耳の中に流れ込んできた水のせいで濁る。視界を空気の泡が満たしていた。足がつかない。水を吸った服の重みで沈む私に、すぐに鼻腔と思わず開いた口の中にまで塩辛い海が流れ込んでくる。思わず喘ぎながら、私はそれすらもきっと楽しく思っていた。
 泡が晴れて、海面が見えた。海面越しに夕日が見えて、それはとてもとても綺麗だった。プリズムを通してみた光のように、太陽が乱反射してまるで星屑のように私を魅せてくれた。
 息が苦しくなってくる。私はそろそろ助けを呼ぼうと、必死で手を振り上げた。海面でばしゃばしゃと音がする。それを聞きながら、私は彼が飛び込んでくるであろう方向に頭を向けた。
 濁った水音。
 彼が飛び込んできた。服も脱がぬままに。
 いつの間にか私は沖のほうに流されていたようで、彼は少しばかり私から離れていた。しかし彼はすぐに追いついてくるだろう。だって彼は半魚人、水の中を真の住処とする、水の住人なのだから。
 果たして彼はすぐに私を見つけ、こちらに向かって泳いできた。
 夕日の映る海の中を、彼は真っ直ぐ急速に、しかしその中に優美さすら含ませながら泳いでくる。
 足は尾鰭のように滑らかに水を掻き、手は身をくねらせる魚そのもの。髪を背びれのように後ろに流しながら、彼は私に向かってくる。
 ああ、本当に。本当に、その泳ぐ様の美しさは。
「──ぶはっ!」
 彼の手が私の服の首根っこを掴んで、彼の頭が浮き上がるのと同時に海面に引きずり上げられた。呼吸。肺が酸素を渇望している。二酸化炭素の代わりに水を吐き、飛沫と一緒に空気を吸い込む。
「阿呆か」
 怒声でも非難でもなく、ただ相変わらず、呆れたような疲れたような声が耳朶を打つ。水がまだ入っているせいか、声は妙に残留して聞こえた。
「溺れる気かお前は。馬鹿」
 私はその内容をあまり聞いてなかった。私はただ朱に染まる空を見上げていた。
 視線を半魚人に向ける。濡れた髪に隠れた表情は憮然としていて、しかしその中に幾許かの安堵が見えるのは気のせいだろうか。
 もう一度空を見上げた。空は変わらず、とても綺麗な色を私に見せてくれている。
「──っくく」
 それが私の笑い声だと気づくのに、私は数瞬を要した。
 横目で見た半魚人は、不可解そうに私を見ている。
「くくっ、はは。あははははははははははははははははははははは……!」
 私は壊れてしまったんだろうか。
 ついぞこんな大声で笑ったことのない私が、気まぐれと言うには奇矯すぎる勢いで海に飛び込み、ずぶ濡れになって天を仰いで笑っている。
 ふと思う。本当に──私は今までの人生を勿体なく過ごしていたのかも知れない。たかだか十六年程度の人生だけれど、心底そう思う。授業の水泳は冷たいばかりで、一度たりとも楽しいと思ったことなんてなかった。
 そんな私が、この足もつかない海の上で、とても楽しそうに嬉しそうに笑っている。
 だって仕方ないじゃないか。こんなにも冷たくて、気持ちよくて、すっきりしたのは、きっと生まれて初めてなんだもの──

 ぱちぱちと目の前で火が爆ぜている。
 今日、火を見るのはこれで二度目だった。ただし今火に焼かれている魚はない。濡れた私の服が、下着も含めてそろって並んで乾かされている最中である。私も私で、素肌の上から特大のバスタオルにくるまって、火に当たって冷えた身体を温めている。
 日はとうに落ちて、水平線の向こうだけが仄かに明るいだけで、もう夜と言って差し支えない時間帯だ。
 隣に座る半魚人は、上半身裸で本を読みながら、片手間にかちゃかちゃとマグカップに液体を注いだり匙でかき混ぜたり火で暖めたりしている。
 私の髪の毛は長いから、乾くのに時間がかかる。まだ頬に張り付いたままだった髪の毛を引き剥がしながら、そのうちこの髪を切ってしまおうと決意した。
「ん」
 と、目の前にマグカップが差し出された。中の液体は温かそうに湯気を立ち上らせ、ほんのり甘い香りが私の鼻腔をくすぐる──
「──って、これ、お酒混ぜてるでしょ」
 甘い香りに紛れて入ってきた明らかな酒精に、私は顔をしかめつつ突き返した。
「まぁな。カルーアミルクってやつだ。本当は冷ますんだが、冷えた身体には温かいほうがいいだろ」
 返されたマグカップを私に押し戻しながら、にべもなく半魚人は言う。
「未成年の飲酒はどうかと思うんだけど」
「雪山遭難の時とかそんなん言わねぇだろが。状況は違うがまぁいいだろ別に。寒いのは事実だろうし」
 まぁ、それは私も肯定せざるをえない。火に当たっているといっても全身が暖まるわけでもなく、背中側は小刻みに震えていた。
「そんなにアルコール強くしてねぇから。飲んどけ」
 こく、と一口、渋々飲んだそれは、遺憾ながら存外に甘く、美味しかった。カルーアミルクに含まれるアルコールが、喉を灼き食道を通って、全身を内側から暖めてくれるのが分かる。その感触がどうにも心地良くて、私は二口目を口にした。
「暖まるだろ」
「うん」
 素直に頷く。
「飲んだらさっさと着替えてきな。洞窟ん中で」
「着替えなら、別にここだっていいじゃない」
「お前は阿呆か」
 言い捨てられた。
「羞恥心ってものがないのかお前には」
「さぁ、あると思うけど」
 ならさっさと服持って中行け、と半魚人は行った。
「だってここ離れたら寒いもの」
「酒飲んで暖まってるだろが。我慢しろ。……つかお前は俺が何を言わんとしているのか分かってるのか?」
「さぁ、予想はつくけど」
「言ってみろ」
「──『そんな無防備でいると襲いたくなる』?」
「正解」
 こちらを見もせずに言ってくる。視線はひたすら本に向けられている。
「へぇ、半魚人も人間の女に欲情するんだ」
「そりゃあな。言ったろ、ほとんど人間と変わらんって。ガキだって作れる」
「生物学上の問題は?」
「ないっぽい。実際俺の叔母さん人間と結婚してるけどな、ガキゃあ順調に生意気に育ってるぞ」
 何か思うところがあるのか、注視せねば分からないほど薄く、半魚人の顔に苦渋の色が浮かぶ。
 私は火を見ながら妄想を掻き立てる。夫は青年実業家。妻は半魚人というより人魚と言ったほうが良さそうな美女。家は無駄に大きな豪邸で、裏には妻の強い要望でプールがあって、妻と子供は夏の季節になると暇さえあればそこで泳いでいる。夫は妻の正体を知ってか知らずか、ただ微笑ましそうにそれを眺めている──
「……だから俺はさっさと着替えろって言ってるんだが」
 半魚人の声で我に返る。
「でないとマジで襲っちまうぞ」
 そんなことを言うのに、半魚人はこっちを見ようともせず、無表情に本に視線を落としている。
「襲えば? 私は構わないけど」
 対抗してでも冗談でもなく、自然とそんな言葉が滑り出ていた。
「…………酔ったかお前。或いは痴女か」
 失礼な。私は彼に向かって、バスタオルのまま正座して座り直した。丸っきり『お説教』のポーズだった。
「酔ってないと思うし、痴女どころかまだ処女よ」
「なら尚更そんなこと言うもんじゃないと思うが」
「別に。私は多分自分が処女であるとかないとか、究極的には気にしないと思うの。貞操観念がないわけじゃないけど、貞操観念がないわけじゃないけど、もし他人に襲われたって、私は他の人よりも早く立ち直れると思う。私にとって一番大切なのは私が思考することだもの。私の身体が犯されたって、私の思考が侵されなければ、私はきっと平気だと思うの。勿論私は未経験だから全部推測の域を出ないのだけれど」
 呼吸のために息を吸う。
「それでも私にとって私が思考することが一番大切なのであって、それ以外は二の次なの。命だって、死んだ後幽霊になってまだ私が私として自我を保ってられるのなら、それも思考より下だわ。うん。私は何より私が私であると認識することだけを求めてるんだと思うの。……でもだからって私を襲った人間を許せるわけでもないの。二の次って言ったって、それどうでもいいってことと同義にはならないから。やっぱり襲われるのは、嫌だわ」
 いつになく私は饒舌になっていた。……やっぱり、酔ってるんだろうか。どこか霞のかかった頭で考えた。……うん、霞がかかってるって時点で、きっと私は酔ってるんだ。今までお酒の類なんて正月のお神酒しか飲んだことなくて、飲むたびに頭痛がしたり倒れたりしたのは覚えてる。
「さっき言ったのと違うぞ」
 そこでようやく半魚人が口を挟んだ。私は否定する。
「一見すればそうかもしれないけれど、違うの」
 そして私は言う。
「私は、あなたのことが気に入ってるもの」
 沈黙は一秒と続かない。
「ほぅ、俺に惚れたか」
 そこでようやくこちらを向いて半魚人はそんなことを言ってくる。真顔で。
「さぁ、それは分からないの。だって私はこれまで誰かに恋愛感情を抱いたことなんてないもの。だから私は、何を以て『恋してる』なんて言えるか分からない。ただあなたを気に入ってるってことだけは確かなの。それが好意か関心か共感か何か分からないけれど。でも私は、きっとあなたになら襲われたとしてもまだ平気だわ。ほら、それがどんな形であれ好意を抱いた人間には、誰しも甘くなるものだし」
 ずず、とカルーアミルクを啜りながら言う。……本当に、私は酔っているみたいだ。身体も熱いし喉も熱い。それに何より、普段の私はこんなこと喋らない。
「だからきっと、私はあなたになら襲われても許せると思う」
 そう言って、カップを置いて私は別のタオルの上で乾かしていた服を引き寄せた。あんなことを言ったとはいえ、いつまでも裸でいるわけにはいかない。私は半魚人に背を向けて、バスタオルを剥がして立ち上がって着替え始めた。後ろを見られるが気にしない。それ以前にこの半魚人は見もしない。
 下着を着ようとするけれど、酔いのせいか手がもつれて上手くいかない。
「本当に、そう思うか?」
 ……ここで、彼が私を押し倒して今の台詞を言っているのなら、木曜夜九時からやっているあまり面白くないメロドラマのワンシーンみたくなっていた(とはいえ私はろくに見たことがないから我ながら多分に偏見があると思うが)だろうが、半魚人は相変わらず本に目を向けているようだ。
「私は冗談なんて言わないから」
「そうかい」
 丁度私の着替えが終わって、それで会話は終わった。上着まで着終えた私は、すとんと半魚人の隣に腰を降ろした。
 ──私達のこの会話が欲情も興奮も赤面も伴わないのは、私達がとても冷めているからだろう。とはいえ彼の心の中までは知れないので、とりあえず少なくとも私は。言葉の中に冗談はないのに、しかし実行に移しはしない。欲情とかそういったものはどちらかと言うと感情的なものだから、それが外にあまり出ない私(達)は、その衝動に流されることもない。
 冷めている。ただその冷たさは氷の冷たさではなく、乾燥した無関心の冷気だ。ドライアイス。誌的に言うなら、夜の冷たい砂の温度。例えばそんなものだ。
 そんな砂粒が、この狭い世界に二つだけ。相手を熱することも冷ますこともなく、ただ同じ温度を保っている。──その雰囲気が、堪らなく心地良い。
 私は上機嫌になって、手を当てた唇の形は確かに笑みを刻んでいた。
 不意に、視界が揺れる。そう言えば私は酔っていたんだった。今更ながらに火照った体を再認識して、そのまま自分を支え切れず、こてんと半魚人に倒れ掛かった。
「危ねぇ」
 私が肩にぶつかったことで本を取り落としそうになった半魚人は、非難がましい目をこちらに向けてくる。私としてはそれどころではなくて、ただひどく眠かった。
「眠いのか?」
 察してか、半魚人が言う。
「ん……」
 最早まともに受け答えする気力もなく、私はそれだけ答えた。
「寝るんなら中で寝ろや。俺は運ばんぞ」
 そんなことされたら風邪を引いてしまう、と言おうと思ったが、やめた。ただ、ちょっとばかり言いたいことがあった。
「ねぇ、半魚人」
「何だ」
「私達はね、きっと損をしてると思うの」
 あ? と聞き返してくる。私は構わず続けた。
「褒められても、それが当然であるのだから、私は褒められても何が褒められるに値するのか、分からなかった」
 朝思ったことを私はそのまま口にする。
「だから私はきっと損をしてきた……貰えるもの、貰っといて、喜べないなんて……それは貰いたくても貰えない人に対して、とても悪い気がしたの。素直に喜ばなかった分……私はきっと損してた。悪いこと、してた」
「……もうちょっと纏めて分かりやすく話せ」
「無理。眠いから。だから聞き流していいから、とりあえず話させて」
 半魚人は無言。私はそれを肯定と受け取り、続けた。
「嘘でも笑いかけるなり謙虚な振りをして見せるなり何なりしてあげれば良かった。でももう後の祭り。ほんと滑稽」
 自嘲の嗤いが込み上げてくる。
「半魚人は違う? 答えてくれなくていい。半魚人はそう思ったことある? 私は今日の朝初めて気づいた。私とあなたが同じだなんて、傲慢なことまで考えた。私とあなたは結局違う人間で、そんなことないのにね。だからごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
 もう支離滅裂で、自分が何を言っているのかさえ分からなくなってきた。何を謝ろうとしているのかさえ分からなくなってきた。
 勝手に鏡像だなんて思ってしまった半魚人に対してか、
 これまで私が知らぬうちに感情を踏みにじってきてしまった人達に対してか。
 優越故の劣等感というものを、私は自覚していた。今まで見下ろしていた地上の下、奈落の底まで、半分自分で望んで突き落とされたような感覚。茫洋とそんなことを考えながら、私は自分の口がごめんなさいごめんなさいと紡いでいるのだけを自覚する。
 ああ──本当に訳がわからない。これは全部お酒のせいだ。私が私らしくなくなっているのも、何もかも。そうなると私らしさとは一体どんなものだと思ってしまって、そんなの自分で出る答えではないと思ってしまって、もう何もかも面倒臭くなって、私は意識を睡魔に放り投げてよこしてやった。

 ただ私が眠りに落ちる直前で、
 ──俺は、今初めて気づいた。
 そんな声が聞こえた気がした。

 そして私は眠りに落ちる。
 夢は見なかった。

               ◇

 ………………………………………………………………………………。
 …………………………………………………。
 ……………………………。
 …………………。
 目を覚ます。
 視界は相変わらず暗かった。
 いや、確かに暗かったけど、薄暗いというだけで、暗闇ではなかった。一本の蝋燭の明かりが、ぼんやりと狭い空間の中を照らしている。
「起きたか?」
 声。その方向に顔を傾けると、半魚人がちゃぶ台に頬杖を突いてこっちを見ていた。
 身を起こすと頭に鈍痛が走る。顔をしかめて頭を押さえた。身体の節々も痛い。寝すぎたときによく出る症状だ。
「どれくらい寝てた?」
 軽くとんとんと頭を叩きながら、訊いた。
「大体二十時間ってところか。お前、実は物凄い下戸だろ」
「二十時間……」
 呆れた。私はそれだけずっと眠っていたのか。
 くんくんと身体の匂いを嗅いで、顔をしかめた。そう言えば二日もお風呂に入っていない。
「半魚人、この辺り、銭湯か何かない?」
「あるにはある。ちょっと遠いがな。……行きたいのか?」
「うん。流石にこう何日も入ってないとね。いい加減、臭い」
 正直に述べた。半魚人は、だろうな、と頷く。
「分かった。じゃ行くか」
 言うなり立ち上がり、箪笥を引き出して無造作に着替えを放り出していく。私もスポーツバッグから着替えを取り出して、大き目のビニール袋に入れた。
 私が用意できたのを確認して、半魚人は蝋燭の火を消し、洞窟の出入り口へ歩き始めた。私もその後を追う。
 外に出て、岩場を歩いていく。私がここに来たときとは逆の道程を辿り、やがて砂浜に出た。半魚人はサンダルを履いた足を、砂浜から上がる方向に足を進める。ガードレールを跨ぐと、横にまっすぐ伸びたアスファルトの道がある。半魚人はその道を西に歩いて行った。
 少しすると、アスファルトの道が海側に四角く広がっていた。海が眺められるように作られた駐車場だ。彼はそれを横切り、一番隅っこにあった、ビニールシートを被せた自転車に向かった。
 ビニールシートを剥がすと、ご丁寧に荷台部分まで付いた立派なママチャリが姿を現した。半魚人は鳴れた手つきで鍵穴に鍵を差し込み、回す。かしゃん、と音がしてロックが外れた。
「乗れ」
 荷台を指差して言う。私は頷いて、荷台に腰掛け、半魚人の腰に手を回した。
 ゆっくり、自転車は走り出す。海岸線の道路を、そこに流れる柔らかな潮風を纏いながら。
 頬を撫でる風の気持ち良さに目を細めながら、私は目の前に広がる半魚人の背中を見た。
 痩身である割に大きく、力強く感じられる背中だった。ペダルを漕ぐ度に、白いTシャツの下で身体が兼ねている。
 ……やっぱり、男の人なんだ。
 照れるでも笑うでもなく、ただ、安心できる背中だと感じた。
 私はそれと気取られぬくらい少しだけ、腰に巻いた腕に力を込めた。

 十五分程度で、自転車は目的地に到着した。現在時刻はちょうど六時。時間が早いせいか、それとも単に流行ってないのか、私達の他に客はいないようだった。
 入り口で分かれてそれぞれ男湯と女湯に入る。服を脱ぎ、番台に座っていた優しそうな老婆に代金を渡して浴場に入った。視界一杯に広がる真っ白な湯気を抜ける。やっぱり私の他に、客は誰もいなかった。
 三日分、念入りに身体を洗って、私は浴槽に浸かった。
「──ふぅ」
 思わず吐息が漏れる。これはもう、人がお風呂に入る時の習性だろう。
 温かいお湯が、細胞の一つ一つまで浸透していく感覚。──心地良い。
 正に身も心も洗われる。そんな感じだ。
 ちゃぷ、と指先で水面を弄びながら、私はもう一度深く息を吐いた。
「──よぉ、そっちはどうだ?」
 唐突に、上から無愛想な声が降ってきた。間違いなく半魚人のもの。女湯は間に大きな衝立を挟んで、上部の空間が男湯と繋がっているらしかった。どうやら向こうにも他の客はいないらしい。でなければ、わざわざこうして向こうから声を掛けてくることもないだろう。
「いいお湯」
 そこはかとなく脱力した声で私は答えた。
「おー、そりゃ良かった」
 衝立越しに聞こえる半魚人の声も、どこか緩んでいた。顔が見えない分、尚更声の色が分かってしまう。
 ざばぁ、と向こう側からお湯の溢れる音がした。彼が浴槽を上がったのだろう。
「先に上がっとく。外で待ってる」
 もう上がるの? と問い返そうとして、逆だったことに気づく。私の入浴時間が長いだけだ。
「分かった。なるべく早く上がる」
「別にゆっくりしてていいぞ」
 引き戸が開いて、閉じる音。半魚人も浴室を出たのだろう。
「ふぅ──」
 もう一度吐息して、肩まで身体を沈める。私はそのまましばらく、茫としていた。

 結局私がお湯から上がったのは、それから大体二十分くらい経ってからのことだった。ビニール袋から取り出した新しい下着と服に着替え、入る時に脱いだほうを入れて、外に出た。
「おう、遅かったな」
 自販機の横の壁に背を預けていた半魚人が、私の姿を認めて声を掛けてきた。
「待たせて悪かったわ」
「別に、気にしちゃいねぇ」
 言って、半魚人は手に持っていた炭酸飲料を一気に喉に流し込んだ。うわ、私にはとても出来ない真似だ。絶対途中でむせる。
 飲み干された缶が、かこん、と小気味良い音を立ててくずかごに投げ入れられる。
「んじゃ、ま」
 半魚人の手の中で、小さな鍵が一回転した。
「帰るか」
 
 アスファルトの道を駆け抜ける。暖まった身体を風が撫でて、来た時とは別の意味で気持ち良かった。
 ちょうど夕日が沈んでいくところで、水面が綺麗な朱に染まっている。昨日や一昨日と変わらぬ、とても綺麗な色。
 私がそれに見とれている間にも、自転車は悠々と道を進んでいく。
「──あれ?」
 ふと目の前を横切った景色を見咎め、私は声を上げた。
「ねぇ、今駐車場通り過ぎなかった?」
「過ぎたな」
 にべもなく肯定された。そして私が次に何か言うより早く、ハンドルが切られていた。
 切られた先は、事故か何かあったのか、そこだけガードレールがなかった。
 自転車は砂浜に突っ込んでいく。無論自転車が、それもママチャリが砂浜を走れるように出来ているわけもなく、がたがたと車体を揺らして、私のお尻を思いっきり痛めつけながら、それでも前に進んでいった。私は振り落とされないように、しっかりと半魚人の腰を抱き締めていた。
 文句を言おうにも身体全体が振動してしまって声が出ない。懸命に声を紡ごうとしているうちに、がくんと一度大きく車体が揺れて──転んだ。
 視界が反転する。私と半魚人は揃って砂浜の上に投げ出された。本能的に受身を取り、ごろごろと砂の上を転がる。最後は仰向けになって倒れた。ちょっと離れたところに半魚人と自転車がそれぞれ転がっていて、ただ全員空を見上げていた。
 それが十数秒間。真っ先に起き上がったのは半魚人で、起こした自転車を海に向けて押し出した。私も起き上がり、その後を追う。
 波打ち際の手前で自転車を横向きに留め、それに背を預けるような格好で半魚人は座り込んだ。私もその横に腰を下ろし、並んで海を眺めた。
 互いに無言。潮騒だけが耳に届く。穏やかに緩やかに流れる海のおと。
 私の好きなおと。どうかすると、泣きたくなるくらいに──
「────ねぇ」
 先に口を開いたのは私だった。
「半魚人は、私達が出会ったことに意味はあったと思う?」
 我ながら何てことを訊くんだと思った。そんなの、自分でもナンセンスだと思ったからだ。
「さぁな」
 彼はまったく、ここ三日と同じ態度で答えた。無表情に無関心に、けれど答えは返してくれる。
「あると言えばあるし、ないと言えばないんだろうな。意味はあるかどうかではなく、見出せるかどうか──って俺が高校の頃の先生は言ってたな。実際そうだろ」
 一拍置いて、言う。
「──で、お前は意味があったと思うか?」
 沈黙。
「……さぁ、あったんじゃないかな。何となく」
 思えば自己啓発みたいなものだったと思う。人の振り見て我が振り直せ、というか何と言うか。彼を鏡像に見立てることで、私は私の中を見ることができた。その変化が得るもので、それが意味だと言うのなら、確かにこの半魚人と出会ったとこには意味があったんだと思う。
「なら、そうなんだろ。それでいいと思っとけ」
「うん。そうする」
 私は素直に頷いた。再び、沈黙が舞い降りる。
 海を見つめた。波はほとんどなく、夕日の光が海を一面照らしている。
 まるでその様は黄金色の平原のようで、ひどく私の心を懐かしくさせる。
 思えば、私はずっとこの海を見ていたような気がする。小さい頃から、暇さえあればこうして海に来て、沈み行く太陽をじっと見ていた。そのせいで、何度も親に叱られたりしたけれど、それでやめるはずもなかった。
 だってそれはただただ綺麗で、私の心を捉えて離さないのだから。
 けれど最近は何やかやと忙しくて、こうしてじっくり夕日を眺めることもなかった。本当にいつぶりだろうか。こうして、太陽が沈み行くのを見届けるのは。しかも三日連続で。
 だから──だから、またしばらく見ることはないだろう。私は立ち上がった。
「帰る」
「帰れ」
 唐突に宣言したはずの私に、半魚人は即座に切り返した。一回くらい聞き返してくると思ったのに。
 私がそう思ったのは本当に突然で、いきなり家に帰りたくなってしまった。とはいえ心当たりがないわけでもなく、さっき感じた懐かしさにほだされてしまったのだろう。不覚にも。あんな無粋な親でも、やっぱり私にとっては親なんだろう。今は、ひどく会いたかった。
 そんな事情を半魚人が知るはずもないから、もしかすると顔に出ていたのかもしれない。それとも私がそろそろ帰ると言い出す頃だと予測していたのだろうか。それだったらちょと、あれだ。むかつく。
 溜息をついて再び座った。親からの電話を無視するため切りっ放しだった携帯電話の電源を入れ、アドレス帳を呼び出した。引き出したのは克己の携帯の番号だ。口裏を合わせてもらわなければならない。流石に、男(自称半魚人だけど)と一緒に洞窟で二人きりでいたなんて言ったら、親に卒倒されかねない。
「おい」
 半魚人が呼ぶ。
「何?」
 通話ボタンを押すと同時に私が答え、
 頭を鷲掴みにされて首が九十度曲がったかと思うと、
「────」
 彼の顔が間近にあって、一瞬遅れて彼の唇が私のそれに押し当てられていることに気づいた。
 互いに眼は開いたまま。ロマンスもへったくれもなく、互いに互いの瞳を覗き込んでいる。
 舌を入れることも離すこともなく、ただ感触だけを確かめ合うように止まっていた。私は既に驚愕から回復していたけれど、動けなかった。私を動かそうとする思考が、ことごとく凍結していたから。
 流れ込んでくる情報は、私の頭を掴む手の感触と、覗き込む瞳の黒と、触れ合う唇の感触と、そこから伝わる冷たい体温。それだけなのに──私の思考は過負荷に耐えかねてほとんど停止してしまっている。メモリが喰い潰されている。再起動も上手くいかない。フリーズ。フリーズしている。こうして思考している私は、最後に残ったメモリの隙間。いけない。思考を主とする私にとってその侵食は何よりも苦痛であり屈辱であり憎悪の対象ですらある。なのに、私の思考を塗り潰すこれは、決して嫌悪の対象となりえず、寧ろ、寧ろ────
「────」
 情報が途絶える。始まりと同じほど唐突に終わる。
 顔はまだ至近距離にあるものの、既に唇は離れていた。次いで手も頭を放し、私はようやく解放された。
 どちらからともなく視線を戻し、半魚人はまた海を眺め始めた。私はそこで携帯電話が通話状態になっていたことを思い出し、慌てて液晶を確認する。当然とっくに克己との通話は切れており、通話時間は一分十三秒と表示されていた。それだけの時間、私は止まっていたのか。
 私は電話を切り、手の甲でごしごしと口元を拭った。
「半魚人」
 立ち上がり、歩き出しながら私は言う。
「昨夜の発言、撤回しとく」
 昨夜の、とは勿論、半魚人になら犯されていい、というものだ。私はそれを撤回する。全身全霊を以て撤回する。だって、ただ身体の一部分が触れ合っていた、それだけなのに、私の一番大切なはずの思考は、容易く停止してしまったんだもの──
 …………ああ、これはどうしたことだろう。私は彼を憎めない。
 私の思考を侵した者を、私は誰であろうと許せないはずなのに、私は彼を憎めない。腕ひしぎ十字固めを極めたくなるほど私は半魚人を憎悪しているはずなのに。していていいはずなのに。
 なのに私は、こんなにも彼を憎めない。
 他の人間に対してはこんなことはなかったのに。親でさえ、私の意志を踏み躙った時は嫌ったのに。なのに私は、彼だけを嫌えない。
 彼だから私は憎めないのか、彼だけを私は憎めないのか。
 彼だから私の思考が止まったのか、彼だけが私の思考を止められるのか。
 ああ──もう何がなんだか。
 歩みは止めず、天を仰ぎながら私は頭を押さえた。
 ──電子音。
 甲高いその音に我に返った私は、すぐさま携帯電話を取り出した。それが克己からのものであると確認すると、私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あー、やっと通じた』
 安堵したような呆れたような、ソプラノの女性の声。
『ちょっとー、心配したよ? さっきそっちからかかってきたくせに、何も言ってこないしさ』
「悪かったわ。ちょっと取り込んじゃってて」
 うん、確かに取り込んでた。
『まぁいいや。それで、何か用なんでしょ。予想は大体つくけど』
「ええ、多分予想している通りだわ」
 長い付き合いなので、言わんとするところは互いに分かる。私が家出していることも、向こうに連絡は行っているはずだし。
「今から家に戻るところ。家に帰ったら親には克己のところに泊まってたって言うから。口裏合わせて。親御さんにもよろしく」
『ん。らじゃー』
 気軽に承ってくれた。私は一人頷きつつ、細心の注意を払って岩場を歩いていく。
『それで訊きたいんだけど、今までどこに泊まってたの?』
 そう訊かれた。まぁ、予想はしていたけれど。
「教えるの面倒臭い」
『いいじゃないか、あたしら親友でしょ?』
 からからと笑いながら克己は言ってくる。……まぁ親友という点は認めるけれど、こんな時にその言葉を持ち出すのはちょっと卑怯だ。それを言われると、私は断れなくなる。私は溜息を吐いて、答えた。
「半魚人のとこよ」
『は?』
 思いっきり訊き返された。それはそうだろう。
「そろそろ電波通じなくなるから切るわね。それじゃ」
『え、ちょっと待てやこら──!』
 電話を切ってついでに電源も切る。ポケットに突っ込んで、私は洞窟の中に足を踏み入れた。もうすっかりこの暗がり慣れてしまっていて、一度も躓くことなく一番奥に辿り着いた。
 足の感触でスポーツバッグを見つけて、懐中電灯を取り出す。スイッチを入れて、脱いだ服を詰め込んだ。
 バッグを抱えて出ようとしたところで、ちゃぶ台の上に一冊の本を見つけた。栞が挟まれているところを見ると、半魚人の読みかけなのだろう。
 ──いいことを思いついた。
 私はそれを手に取り──バッグに入れて、小さく笑った。せめてもの仕返し、というわけだ。
 私はやけに楽しい気分になって洞窟を出た。
 岩場を抜け、砂浜に出て、相変わらず海を眺めている半魚人を視認する。私は無言でその方向に歩き、半魚人の後ろを通り過ぎようとして──
「うぁ痛っ」
 自転車を思い切り蹴飛ばしてやった。
 がしゃーん、と派手な音を立てて自転車が半魚人の背に倒れ掛かる。私はそれを眼で確かめることもなく、ほったらかしにして走り出した。
 一度海に視線を向ける。ちょうど、夕日が全部沈んでしまうところだった。

               ◇

 結局家に帰った私は両親にひどく叱られた。けれど向こうも自分達が勝手に塾に申し込んだのが原因と察しているらしく、それほど長くはかからなかった。あまつさえ塾入会は取り消すなどと言ってきたので、それはやめさせた。私は彼らが私の意志を無視して塾に申し込んだのが気に入らなかっただけであって、塾には行きたかったのだから。
 それを聞いて両親はやけに嬉しそうだった。彼らがどう解釈したかは、まぁこの際どうでもいい。塾には、二学期になってから行くことになった。

 そして夏休みの最終日、私は今町の図書館にいる。
 向かい合って座るのは、私の親友である、日向克己だ。ツインテールの栗毛と、大きく可愛らしい眼の少女。身長は私より低い。
 それで私達が図書館に来て何をしているかというと、勿論夏休みの宿題をしているからである。もっとも宿題は全部克巳のもので、私はその手伝いをしているだけだ。
 数学のノートに走らせるシャーペンを止め、私は克己のほうを見た。克己は必死に漢字の書き取りをしている。
「克己」
 呼ばれて、克己の顔が上がる。私はそれと同時に身を乗り出し、彼女の顎に手を添え、唇を重ねた。
 十秒、二十秒、三十秒……五十六秒で克己が私の手を払い除け、離れた。
「……いきなり何すんのさ」
 口元を必死に拭いながら、非難がましい眼をこちらに向けてくる。顔はこころなし紅い。
「あなたは初めてじゃないんだし、別にいいじゃない。もう孝義君と何度もしているでしょうに」
 こともなげに言い放つ。
「いやそうだけどそうじゃなくってっ」
 自分の恋人の名前を出されてか、克己の顔の色は本格的に高潮した。そしてきょろきょろと周囲を見回す。心配しなくても、この図書館に私達以外の利用者はいない。それどころか司書の人さえ頻繁に席を外す始末だ。クーラーがついている程度で、それ以外ろくなもののない町立図書館なんてこんなものだ。
 私は自分の唇を指でなぞって、その感触を確かめる。ただ柔らかく、ただ温かい何ら変わらない、人間の一器官。
「……変わらなかったな」
 ぼやく。あの時、半魚人にされた時のように、思考が止まることは一瞬たりともなかった。寧ろ止まっていたのは克己のほうだったし。それとも、やはり相手からされるのと自分からするのでは違うのだろうか。
「ねぇ克己」
「何?」
 克己はまだ口元を拭っていた。……そんなに嫌か。
 気を取り直し、私は訊く。
「絶対に憎めない、嫌えない人って、いると思う?」
 きょとん、とした顔で克己はこちらを見てくる。私はそれを真っ直ぐに見返していた。
 しばらく経って、ふむ、と克己は得心がいったという風に頷いた。
「そうかそうか。あんたにもやっとできたんだ」
 やけに嬉しそうに克己は言う。一体、何が出来たと言うんだろう。
「大切な人、だよ」
 にこにこと──否、にやにやと笑いながら克己は言ってくる。
「あたしゃ思うんだけどさ、人間ってのは自分が大切に思う人──っつーか、好きな人だけは絶対に憎めないものなんだよ。きっとね。犯されよーが殺されよーが、全部許してしまえる」
 うんうんと頷きながら、克己は言う。
「まぁあたしにとっての孝義だね、それは。あいつにならあたし何されたって平気だもん。もういっそあれだわ、殺されたいほど愛してる?」
 そう言って、きゃー、と言いながら頬を押さえた。彼女のノロケはいつものことなので、こちらもいつも通り完全に無視することにする。
 ──憎めない相手は、好きな人だという。
 ならばあの半魚人は、私にとっての『好きな人』なのだろうか。──けれど私は恋愛感情というものが分からない。
 恋をすることとはどんなことなのだろうか。
 独占欲か、支配欲か、無償の愛か、欲情か。
 だけど私にはそれが分からない。何故なら、誰も、何も、私にそれを教えてくれないから。
 恋愛が何であるのか、ということを誰も教えてくれない。恋することは恋すること、そんなことばかり言っている。私には、そんなの分からないのに。
 だから私に、この解は出せない。
 まだ紅い顔で身を捩じらせている克巳をよそに、私は窓の外に揺れる木を眺めていた。

               ◇

 そして時が過ぎるのは早いもので。

               ◇

 あれから早くも一年が経った。受験に向けて時間が加速していくように感じられたせいもあるだろうが、本当に早い一年だったと思う。取り立てて何の事件もなかったことだし。
 その日も私は図書館で勉強していた。いつもいる克己が今日はいないので(彼女には悪いが)勉強に集中できる。
 ──ただ司書さんが、添乗に吊り下げられた教材用のテレビをつけているのは、ちょっとばかり気に喰わなかったが。
 職権乱用だと思う。とりあえず気にしないことにして、勉強を進めた。
 ──着水音。
 突然耳朶に滑り込んだその音に、私は思わず顔を上げた。一瞬で、一年前のあの記憶が呼び起こされたからだ。
 顔を上げた先には司書さんとテレビがある。どうやら音量調節を間違えたようで、ぺこぺことこちらに頭を下げながら音量を元に戻している。
 テレビであっていたのは、水泳競技の大会だった。種目は自由形二百メートル。
 私の視線は、それに釘付けになっていた。
 八つ並んだレーン、その四番目に、一人だけやけに早く泳いでいる人がいた。まだ一回目のターンを終えたばかりだというのに、二位の人との差が五メートル以上ついている。その速さもさることながら、そのフォームに、私は見覚えがあった。
 早くありながら崩れることなく、ペースを崩すことなく、綺麗に、まるで魚のように──
 四レーンの人が結局首位独走のままに競技は終わった。プールから上がって、水泳キャップとゴーグルを外したその下の顔は──忘れようもない、あの半魚人の顔だった。
「ああ……確かにあなたは半魚人だったわ」
 一人、そう呟いた。客観的に見るとよく分かる。彼の泳ぎの速さと美しさ。彼の前では、他の選手の泳ぎなど(彼らには悪いが)児戯にも等しいと、そう思ってしまう。本当にそれは、まるで神話の中のトリトンのよう。
 アナウンサーの声も聞こえず、私はずっと彼を見ていた。プールサイドにあったバスタオルを手に取り、頭を拭きながらベンチに座る。そこに監督らしい人がやってきて、ペットボトルを差し出しながら、労うように軽く肩を叩いた。
 画面の下に、選手の名前が出る。
 ──私立芦崎大学・二年・松ヶ枝櫂──
 それが、彼の名前だった。私はその名を口の中で何度も反復する。
 そしてもう一つ、私はあの時のことを思い出していた。身を乗り出したせいでテーブルに広がっていた髪を、私は見つめた。

               ◇

 洞窟から出た私は、潮の匂いを目一杯吸い込んだ。肺を満たしていく冷たい大気が、とても気持ち良い。季節は三月の終わり。年が明け、受験を無事に終えた私は、一年半ぶりにここに来ていた。
「流石に、もういないか」
 呟く。手には、あの時私が持ち出した半魚人の本。返しに来たのだけれど、洞窟の中は既に引き払われていて、お社以外何もなかった。
 仕方ない、と溜息を吐き、帰ろうとした時、
「久し振りだな」
 相も変わらず無愛想な声が聞こえた。
「──バイク買えた?」
 私は声の方向に振り向き、言った。艶のない黒髪、眠たげな眼。あの頃と変わらない姿で、半魚人が立っていた。背中には釣竿を背負っている。
「買えた」
 簡潔に半魚人は答えた。そう、と私は頷き、海に眼を向けた。
 夕日の沈む時間帯。やはり私は、この時間が一番好きだ。
「髪切ったんだな」
 隣に立った半魚人は言った。
「うん。水に落ちた後とか、頬に張り付いて冷たくて鬱陶しいもの」
 私の髪は肩で切り揃えられていた。去年の夏休みの終わりに一気にばっさり切ってもらって、以来この髪型だ。
 そうかい、と彼は無関心そうに頷いた。これもまた、変わっていない。
「どうして俺の本を持っていった?」
 次はそう訊かれた。
「さぁ……あなたのこと、忘れたくなかったからかしら」
「お前はそんなしおらしい奴じゃないと思ってたが」
「冗談よ」
 にべもなく私は告げる。
「冗談は言わないんじゃなかったのか?」
 半魚人はそう問うてきた。私がいつそんなことを言っただろうか。とんと覚えは──
 ──ああ、あった。
「……驚いた。そんなつまらないことまで覚えてたんだ」
 あの夏休みに、確かに私は言っていた。焚き火に当たりながら、冗談なんて言わない、と。
 そんな、本人さえ覚えていないような取るに足りないことをこの半魚人は覚えていた。
 私は何故か、それをひどく嬉しいと思う。唇の端が笑みの形になっているのを自覚しながら、私は頷いた。
「……うん、そうね。あの頃の私なら冗談何て言わなかったわ」
 その私がつまらない冗談を言うようになったのは、きっと私が変わったからなんだろう。
 そして私を変えたのは、きっとこの無愛想な半魚人なのだ。
「櫂」
 私は、半年前から胸に刻み付けていた名で彼を呼んだ。流石にこれには驚いたようで、彼は眼を見開いて私を見た。
「私、あなたと同じ大学に入ることになったわ」
 自分でも分かるほど楽しげに告げる。
 私が受験したのは、彼と同じ芦崎大学だった。無論、合格している。
「……何で、俺の名前知ってんだ?」
 不思議そうに、彼は問うた。
「夏休みにテレビであってたから。水泳の大会。それに、あなたが出てた」
 ああ、と彼は呻いた。
「あれテレビ放送されてたんだっけな……まさかお前が見てるとは思わなかった」
「偶然よ。単なる」
 そう、それは単なる偶然なのだ。私が彼の名前を知れたのも、私が前から入ろうと思っていた大学に彼がいたのも。
 ここで私とこの半魚人が出会ったのも、また偶然だ。──それを、私はとても楽しく思う。
「そういうことで、来年度からよろしくお願いします。先輩」
 冗談めかして言うと、案の定、敬語はやめろ、と渋い顔をされた。
 私達はしばらく、そのまま並んで海を見ていた。
 夕日が沈んでいく姿は、いつだって変わらない。小さい頃も、一昨年の夏も、今も。
 地球に海が出来てからずっと、変わらず太陽は、その光を海原に散らして沈んでいったのだろう。これからもまだしばらくの間は。
「──不公平だ」
 ぼそりと、そんな声が聞こえた。
「何?」
 それが私の声でないのなら無論それは半魚人の言葉だ。この狭い世界には、私達しかいないのだから。
「不公平だって言ったんだ。お前は俺の名前を知ったのに、俺はまだお前の名前知らない。言ったよな、名乗りもしない奴に名前は教えない、って」
 確かに言った。覚えている。
 ふと思った。彼が名前を教えてくれなかったのは、自分が『松ヶ枝櫂』であるということを知られたくなかったからではないだろうか。あの時のテレビを見ていた限りでは、彼はそれなりに有名らしいし。名前を知られてちやほやされるのが嫌だったんじゃないかと思う。だから、彼は教えてくれなかったのかもしれない。
 まぁ、これもまた推測の域を出ないのだけれど。
「──そうじゃないの?」
 私はそれを率直に尋ねてみた。
「……まぁ、大方当たりだな」
 半魚人は肯定した。そしてすぐに話題を戻す。
「まぁ、それはともかくとしてだ。結局お前は俺の名前知っちゃったんだから、不公平だろ。だから──」
 言葉が止まる。
「だから?」
 私は少し意地悪に、先を促した。
 半魚人はそっぽを向きながら、小さな声で言う。
「だから、お前の名前も教えろ」
 彼がそう言った瞬間、私はまた笑っていた。
 心がひどく躍り、浮つく感覚。それはとても心地良いもので、私は小躍りしたくなる。
 この感覚を恋というのか、それはまだ分からない。まだ解はでない。
 けれどそれは別に今すぐでなくたっていいだろう。ここを離れれば永遠の別れ、というわけではない。来年になって、私が大学に通うようになれば、この半魚人とは別の場所で別の形で顔を合わせることになるのだろうから。
 それとて、太陽と海すらそうであるように永遠のものではないけれど、きっと見つけ出すには充分な時間だ。
 それまでに、ゆっくり紐解いていけばいい。私は、そう思う。
 そうして私は、とてもとても心地良い潮風に包まれて、笑いながら彼に私の名を告げるのだ。













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