吐く息が白い。
 今年の冬は寒くなりそうだな、とぼんやりと思いながらも、手足を動かし続ける。
 すっかり夜の帳が降りた街を走る。靴が硬いアスファルトを踏みしめ、視界が上下に揺れる。
 静かだ。
 夜の住宅街を通る車は少ない。空気が澄んでいた。
 ぽつんぽつんと立つ街灯が少し物悲しい。
 夜の街は好きだった。この世に自分しかいないような錯覚がして愉しかった。
 規則的に息を吐きながら、僕は児童公園に足を踏み入れる。
 本来人が集まることを目的として作られたそこは、余計寂しい感じがする。
 揺れないブランコ、誰もいない滑り台、何もない砂場。
 それらに何となく眼をやりながら、僕は息を整えながら公園の敷地を横切っていく。
 水飲み場で、夜気に冷えた水で口をゆすぐ。吐いて、もう一度口を付けて少しだけ飲んだ。
 ベンチに座って火照った身体を冷ます。
 ここまでが、僕が毎日走っているコースの折り返し地点だった。小学校の頃からずっと続けていて、運動をやってない今でも続けている。習慣みたいなものだった。
 右の拳を持ち上げて、強く握る。──鈍い痛みが走った。
 それは存在しない痛みだ。砕けた拳はもう完治していて、痛みを感じるはずはないのだから。
 或いはこの痛みも、欠かさず走り続けることも、自分の未練なのだろうか。
 ──そんなことはない。そんなもの感じてはいけない。
 深く、息を吐いた。
 立ち上がり、軽く屈伸運動する。手足の調子に問題はない。
 僕はまた走り出し、そして走りながら、明日のことに思いを馳せた。
 
 明日は、母さんが再婚する人と会う日だった。
 
 
 
 母さんは、息子の僕から見ても綺麗だ。
 歳も三十五と若い。ちなみに僕が今十六歳。母さんは十九の頃、僕を生んだ。
 父さんの話は一度も聞いたことがない。結婚したのか、そうでないのかも分からなかった。ただ、母さんが僕の祖父母──つまりは母さんの両親とあまり仲が良くない原因をそこから推察するのは簡単だった。
 そんなだから、僕は『父親』というものを知らない。
 母さんは女手一つで仕事もこなしながら、母としても父としても僕を育てようとしてくれた。
 そうやって頑張ってくれていた母さんのことが僕は大好きだった。今もそう。けれど、それでもやっぱり母さんは母さんなんだ。父さんにはどうしたってなれない。
 それが、今度できるかもしれない。
 戸惑いがないわけじゃないけどそれ以上に実感がなかった。当たり前だ。これまで日常になかったものが、いきなり日常に喰い込んでくるのだから。
 もっともそれに対する不快感はない。日々を普通に過ごせていればそれでいい僕にとって、父親という立ち位置の人間が増えたところで、それなりの付き合いをしていくだけだろう。ならそれでいい。日常に抱え込むものは、別に爆弾などではないのだから。
 
 
               /
 
 
 夕暮れ時、母さんに連れてこられたのは海沿いのホテルだった。
 僕の住む街は海に面していて、景色がとても綺麗だ。自然、それを望める場所にはこういう風に旅館やホテルが建てられていった。
 僕達が今いるのはそれなりに豪華なところで、通された場所もイタリア料理のレストランだった。
 ウェイターに窓際の席に通される。丁度夕陽が海岸線に沈むところで、とても綺麗だった。
 太陽が沈み切ったところで、僕は隣に座る母さんに聞いた。
「それで、あっちはいつ来るの?」
「待ち合わせの時間まではもう少しね。時間に厳格な人だから遅れることはまずないわねぇ」
 これまでも何度か、母さんは惚気話を僕にしてきた。長いだけであまり容量を得ない内容ばかりだったけれど、要約すると渋めのおじさんで会社が同じだったことが縁で付き合い始めたらしい。
「ふーん、いい人?」
「そりゃもう」
 何気なく言うと、途端母さんが眼を輝かせた。……藪蛇だったみたいだ。
 そこからまた惚気話が始まってしまった。僕は適当に相槌を打ちながら窓の外に眼を向ける。掠れた夕陽の残照が、夜の深い青と混ざり合って白く濁っていた。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるよ」
 まだ続いていた。
 ちゃんと相手をしてやらないとそろそろ怒るかもしれない、と思いつつ視線を隣に戻すと、
「あら、こんばんわ」
 その母さんは僕に後頭部を見せて、そう言った。
 視線をそちらに向けると、長身の中年男性が立っていた。ダークブルーのスーツに身を包んだ姿は、確かに母さんが言う通りナイスミドルといった感じだった。少し気難しそうではあるけれど、とりあえず悪い人には見えない。
 お子さんはどこだろう、と視線をずらすと、その陰に隠れてスカートの裾が見えていた。どうやら女の子だったらしい。つまり姉か妹ができるということになるんだろうか。
 どんな子だろう、と思っていると、都合良く男性が横にずれてくれた。
 僕は陰に隠れていた女の子を眼にし、
 
 息を止めた。
 
 最初に浮かんだのは、何で、という疑問だ。
 何で、彼女がここにいる。
 何のことはない。そこにいたのは僕が良く見知った女の子だったのだ。
 ──どうして可南子がここにいる。
 再婚相手の連れ子というのは、つまり、篠原可南子だった。
 驚きと同時に頭が痛くなってきた。それは可南子も同じようで、見るからに全身が固まっていた。
「さ、二人とも座って」
 立ったままだった二人に母さんが席を勧める。男性は普通に、可南子はややぎこちない足取りで、それぞれ母さんと僕の対面に座った。
 それを緊張とでも捉えたのだろうか、まずは母さんが口火を切った。
「はじめまして、篠原貞子です。三十五歳なんですよ、これでも」
 普通母の年齢を聞いたら皆驚くものだが、今の可南子にはそれも効果はないようだった。
「お父さんのほうとは、会社が同じで知り合ったの。お付き合いしてもう一年にはなるかしら。──こっちは私の息子の和美」
「……はじめまして」
 紹介され、頭を下げた。男性は小さく頷いて、篠原忠紀です、と自己紹介。
「──はじめまして。可南子です」
 可南子もそれだけ名乗る。はじめまして、と母さんが応じた。
 各自紹介が終わったところで、料理が運ばれてきた。前菜のサラダとスープだ。
「冷めないうちに頂きましょうか。乾杯する?」
 殊更明るい顔で母さんが言う。流石にそれはアレだろう、と諌めようとすると、忠紀さんが代弁した。
「流石にそれは……」
「ああ、まぁそうよね」
 言い切らないうちに理解して引き下がる。それくらいの遣り取りでも通じる仲、ということだ。
「ええとね、それでまず訊いておきたいんだけれど」
 母さんが微笑する。だが、外面ほど内心は穏やかではないだろう。これから問うことは、こういう場での最大の難関なのだから。サラダをつつきながら、僕はその様子を眺める。 
「あなたのお父さんと、私、結婚しても良いかしら」
 母さんらしいストレートな物言いだった。回りくどいよりはいい。
 と、
「私からも訊いておきたい。和美君はどう思っている?」
 そこで僕に視線が集まった。忠紀さんが聞いてきたのだ。
「あー、反対する理由はないですね。特に」
 迷うでもなく答えた。
「──私も異議はないです」
 同じように可南子が答える。眼に見えて、母さんはほっとしたようだった。
 両方の子供の了承を得たことで、母さんと忠紀さんの再婚は決まったようなものだ。母さんが危惧していたドラマみたいな展開もない。相手が可南子の父親だったのには驚いたが、とりあえずめでたく家族になった、というところか。
 ……って、待て。それってつまり、
「──ところで、可南子ちゃんは一緒に住んで大丈夫?」
 そうだった。
 脱力のあまりフォークを取り落としそうになる。二人が再婚するということは、一緒に住むということでもある。遠距離結婚というのもあるにはあるが、結婚というものは基本的に相手と一緒にいたいからするものだ。この場合それは考えられない。
「一応忠紀さんは、私の家で暮らしてもいいって言ってくれてるけれど……」
 マジか。
 まずい。それはまずい。一緒に住むということは多分可南子も一緒に住むということだ。それは僕の彼女に対する在り方を大きく阻害する。距離が近すぎる。
 しかも家というのは一つの閉鎖された場所だ。母さんと同じ会社ということは、多分忠紀さんも帰りが遅かったりするんだろう。つまり場合によっては、僕と可南子が二人きりになることも多いというわけで。そういう状況で自制心を効かせられるか、と問われれば少々心許ない。 
「母さん、女の子に向かっていきなりそう訊くのはあんまりだと思う」
 とりあえず、可南子を真意を確かめないと。必ずしも彼女が一緒に住みたいと思っているかどうかはまだ分からない。
「あらどうして?」
「いや僕男だし、これでも。一緒に暮らすことになったら色々と問題がありそうな気が」
 というか僕が一番の問題なような気が。
「そう? 可南子ちゃん」
 母さんが可南子に問いかける。可南子はしばし黙考し、答えた。
「私は──別に、構いません」
 頭が痛くなってきた。ほら見なさい、と母さんが肘でつついてくる。ほっといてくれ。
「じゃ決まりね。引越しの段取りとかどうしよっか」
 明るい声で母さんが言う。僕は逆に床に沈みそうだった。
 そこにメインディッシュが運ばれてきた。話が一段楽する瞬間を見計らって料理を運んできているのだとしたら、このレストランはとても気配りができている。余計なお世話レベルで。
 料理をつつきながら、僕は絶え間なく喋る母さんの相手をしていた。可南子もあまり喋るほうではないし、忠紀さんも寡黙そうだった。親子だからやっぱり似ているんだろうか。ちなみに自分と母さんはあまり似てないと思う。顔は兎も角として、母さんが明るく活発的な分、僕は落ち着いていったと思う。
「そう言えば可南子ちゃんは学校どこに通ってるの?」
 雑談の中でふと母さんが口にした。
「朝凪高校ですけど」
「あら、和美と同じ学校なのね」
「てゆーかクラスも同じだし」
 ぽつりと呟いてやった。えぇ、と母さんが驚いた。それもそうだ。一番驚いてるのは僕らだけど。
「えーと……物凄い偶然ね?」
 それはもう。
 二人の姓が同じで良かった、と思った。多分可南子も同じことを考えているだろう。いきなり姓が変わったりしたら周囲が五月蝿くなるだろう。ゴシップ好きの友人も多い。僕だけなら兎も角、可南子までそういうのに巻き込むのは忍びなかった。これなら、先生が言わない限り他人に知れることはないだろう。
「じゃあ学校に関しては問題ないわね。そういうことだから和美、ちゃんと道案内してあげなさいよ」
「あー、一緒に登校することになるのか、それじゃ」
 頭を押さえたくなった。まぁ、可南子はうちの近くの地理なんて知らないだろうし、その辺りは仕方ない、のだが、
「案内するのはいいけど、何て言えばいいのかなぁ」
 唸る。二人で登校するというのも、何だか距離が近づきすぎてお互いの警戒心が薄まりそうでまずい気がする。……いやそれ以上に友達(特に克己)に見られたらえらいことになりそうというのもあるけれど。
「照れてる?」
「や、そんなことはないけど」
 とりあえず否定しておいた。
「じゃあ何が不服なのよ。こんな可愛い子なのに」
「いや、一緒に登校したらしたで、それはそれで囃されそうだし。篠原さ」ん、と言いそうになって、「──可南子さんは、そういうのって嫌じゃない?」
 言い直した。篠原さん、じゃ紛らわしい。
「構わないわ。別に疚しいところは何もないんだし、気にすることはないと思うけれど?」
「まぁ、そりゃね」
 彼女の言うことは正しい。僕達は家族になるのであって、だから一緒に登校してもおかしいことではない。寧ろ疚しい想いがあるのは僕のほうで、それをどうにか逸らそうと必死になっているんだけど。
 その後は単なる雑談になった。喋るのは母さん主体で、それに三人が受け答えしていく形になった。
 
 
 
「ちょっと外の空気吸ってくるよ」
 デザートまで全部食べ終わって、僕は席を立った。
「あら、置いてけぼり?」
「喋りすぎて疲れた。母さんの相手は特に」
 正直に言った。
「どういう意味よ」
 子供みたいな非難じみた視線を無視して、僕はテーブルの間をすり抜けて行った。確かここには、テラスがあったはずだ。
 そう歩かないうちにテラスへの出入り口を見つける。
 外に出ると、冷たい潮風が全身を包む。テラスには席がいくつかあったが、寒いせいか僕以外誰の姿も見えない。
 はぁ、と息で手を暖めながら、手すりに肘をついて海を眺めた。真っ暗な海は何も見えず、遠くから波の音が聞こえてくる。
 ──可南子。
 どんな運命なのか、一緒に暮らすことになってしまった。そのことを思うとまた頭が痛くなってきた。
 可南子と一緒にいるのが嫌というわけではない。彼女と話す機会が増えるのは愉しそうだった。会話は好きだ。
 ただ問題は、僕が彼女を欲しているということで。
 近くにいればいるだけ、僕は彼女を強く求める。磁石みたいに。
 そして一度でも触れてしまったら、僕は彼女を壊してしまう。それが嫌だった。
 昨日までの他人が、いきなり家族になってしまうのだ。距離の置き方が、これまで以上に難しくなるのは間違いなかった。
「……難儀だなぁ」
 ぽつりと呟く。そうとしか言えない状況だった。
「──和美君」
 そんなことを思っていると、その僕を悩ませている張本人がやってきた。
「ああ、篠原さん」
 振り返って応えた。一瞬、可南子が眉を跳ねさせたようだったが気のせいだろうか。
「隣、いいかしら」
「どーぞ」
 拒む理由はないので、素直に了承した。
 腕が触れ合いそうなくらい距離が近い。
 そう言えば、と思う。私服姿の可南子を見るのはこれが初めてだった。少し新鮮だ。刹那、抱き締めてしまいたい衝動に駆られるが、それは押さえ込んだ。
 奇妙な状況だった。学校でもあまり会話しない二人が、こうして並んで海を眺めている。
「──驚いたよ」
 抱いた感想を率直に口にした。
「まさか母さんの再婚相手が君のお父さんとは思わなかった」
「それはこっちの台詞。うちの父が、ね」
 お互い、驚いているのは一緒だ。
「素敵なお母さんね」
 ふとそんなことを言われて、思わず苦笑する。
 母さんに会った人は、皆大抵そんな感想を抱く。が、実際一緒に暮らしているとまた違うものだ。普段は大方の第一印象どおり、素敵で良い母なのだけど、時々突拍子のないことを言い出したりして、手綱を握るのに苦労する。
「そんなでもないよ。まぁ、いい母さんではあるけどね。仕事であんまり家にはいないけど、その分居る時は家が明るくていい」
「羨ましいわね。うちの、無愛想だから」
「あー、気難しそうだったね」
 見た感じ確かに厳格そうだった。可南子が物静かなのも、やっぱり父親の影響なんだろうか。
 何となく会話が途切れそうな気がして、再度、僕は問うた。
「……ね、篠原さん、本当にいいの?」
「何が?」
「一緒に暮らすってこと。住んでた家とか引き払っちゃうことになるんでしょ?」
「……そういうのはあんまり気にならないわ」
 にべもなく言われた。あんまり住んでいた家に愛着はないのか。それとも前々から決めていたのだろうか。
「でもさ、普通同年代の男と一緒に住むのって嫌じゃないのかな。篠原さんはその辺りどうなの?」
 見知らぬ人間ではないとはいえ、いきなり同い年の兄弟が出来たりしても戸惑うだけじゃないんだろうか。その疑問と、少しの悪あがきから僕は訊いた。
 が、可南子は答えず別のことを口にした。
「名前」
「?」
 名前?
「……家族になるのに、名字で呼び合うのもおかしいでしょ。名前で呼んで」
「あー」
 そうか。確かに、家族になるのにそれではおかしいだろう。彼女が気にするのも無理はない。
「えーと、可南子」思わず呼び捨てそうになって、慌てて続けた「さん?」
「何かしら、和美君」
 どきりとした。
 名前を呼ばれたというそれだけなのに、急に目の前の可南子が可愛く見えて──欲しくなった。何とかそれを頭の中で振り払って、先の問いの答えを求めた。
「で、可南子さんはどうなの?」
 可南子は視線を海に向けた。
「さっきも構わないって言ったはずだけど。同じ部屋で暮らすわけでもないんでしょう?」
 在り得ないし僕が許さない、そんなの。
「そりゃあね。多分、母さんはうちの使ってない部屋を片付けるつもりだと思う。ちなみに僕の部屋の隣だけど」
 僕の部屋は二階で、部屋は二つあるのだが、片方は物置と化してしまっている。中はほとんどがらくただ。
「ならいいわ。それに、和美君はそういうこと・・・・・・する人じゃないって信じてるし」
 珍しく、──本当に珍しく可南子が笑った。少しだけ意地悪そうな笑顔で、相手を信じている者の笑み。それを見て、また可南子が欲しくなった。
 改めて、そういうことする人間予備軍でごめんなさい。これからずっとこんな調子なのかと思うと、もう苦笑するしかなかった。精神的に色々大変なことになりそうだ。 
「まぁ、そう言われたら、ね」
「じゃあ大丈夫ね。──ああ、それと念の為言っておくけれど」
 少しだけ改まって、可南子は僕に言う。
「別に誰だっていいってわけじゃないわ。本当は最初、同居は断るつもりだったし」
「じゃあどうして?」
「和美君は信頼できる人だと思うから」
 ……そう言われたら、もう僕が我慢するしかないじゃないか。僕はまた苦笑する。そこまで言い切られてしまっては、僕も応えないわけにはいかない。
 まったく……大きな爆弾を抱え込んだみたいだ。
「困ったな。滅多な姿は見せられない」
 いっそ本当に家族として振舞えるようになれれば、僕の中のこの情欲も消えてくれるのだろうか。
「私も同じよ、それは」
「ま、何ていうか」
 手すりから身を起こし、可南子を正面から見据えた。
「まだあんまり実感湧かないけど……よろしく」
 手を差し伸べた。家族になる証として、家族として振舞う誓いとして、握手を求める。
 一瞬躊躇し、可南子は僕の手を握ってきた。
「……こちらこそ」
 握った手は、思っていたより小さかった。

 
                /
 
 
 十一月、僕達は家族になった。










 back



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送