大切にしたいから遠ざける。他ならぬ自分が傷つけないように。


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 事が起こって、人生こんな事もあるのだな、とお互い思ったに違いない。
 事実は小説よりも奇なり、というのは確かだ。それを実感した。
 目の前には、お互い良く見ていた顔がある。
 あまりのことに声も出ないで、この期に及んでも、二人は顔を見合わせたまま突っ立っていた。


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 ふと視線を向ける。
 その先にいるのはいつだって君だ。取り立てて外界というものに興味を持とうとしない篠原和美が、唯一と言っていいほど興味を向けるものが君だった。
 肩にかかる、さらさらと触り心地の良さそうな黒髪と、目鼻立ちの整った顔。けれどそれらは黒縁の眼鏡に隠れて目立たない。それを象徴するかのように、喧騒の中でさえ、彼女の周りだけが、しんと静まり返るような錯覚を抱く少女。
 篠原可南子。僕と同じ名字の少女。
 
 僕は、彼女が欲しかった。
 
 時刻は昼休み。クラスの生徒の半分が学食に向かい、残りの半分が弁当を広げているところだった。かくいう僕も弁当組である。
 冷凍唐揚げに箸を伸ばしながら、僕は彼女の横顔を眺めていた。
 可南子の席は、窓際の一番後ろにある僕のところから、右に三つ、前に二つの位置にある。可南子もどうやら弁当らしく、机の上に小さな弁当箱を広げていた。……自分で作ったのだろうか。可南子の家は父子家庭らしいから、きっとそうなのだろう。勿論、彼女の父親が料理のできる人、ってこともありえるのだけれど。
 そんな取り留めのないことを考えながら、僕はその一挙動を注視し続ける。この席配置になってからずっとやっていたことだ。可南子もこちらの視線には気づいているかもしれないけれど、そんなの気にしてたんじゃ彼女のことなんて見れない。
 やめろと言われたら絶対やめると誓えるし、もしこのことで嫌われていても──僕はあまり気にしないだろう。
 僕は彼女が欲しかった。その言葉に偽りはない。
 恋ではない。僕は、そんな上等な感情を持つことができない。
 言ってしまえば、愛されるとか愛するとか、僕は『愛情』というものが実感できなかった。
 生まれて十七年、どうしてそうなったのかは覚えていない。父の顔を知らず、女手一つで育てられたという、それなりに珍しい境遇ではあるけれど、それは多分関係ない。
 言葉で説明するのは難しいけれど、兎に角僕は愛する/愛されることが分からなかった。
 母さんが、一人で切り盛りしながらここまで僕を育ててくれたことは、多分僕を「愛して」いなければできないことだとは「思う」。それが自然なのだということは分かっている。単純な例、よもや十七年間育てた上で人身売買に売り出すとか保険金殺人するとか、そういうことはないと思う。ここは日本だし、売るにしても殺すにしても、まだ僕が若い頃のほうがやりやすいだろう。
 そうでなくとも何か良からぬことを考えているのだと仮定はできるけれど、それが如何なる理由であれ、僕を必ずしも今まで扶養しなければならない理由はあまりないと思う。
 だから、普通に考えれば母さんは僕を愛しているのだろう。あくまで、仮定。
 ……ここまで考えて、やはり自分は馬鹿だと思った。母さんが僕を愛してくれているのなら、前述の妄想は、想定するだけでも彼女に対する侮辱だからだ。愛情を識らない僕でも、その程度の常識と、そんな自分を自嘲することぐらいは、あった。
 僕は可南子を「愛して」いなかった。なのに、僕の理性に拠らない部分が彼女を求めているのなら──それは単なる物欲であり、情欲でしかない。
 けれど、そんなモノの対象に可南子をするつもりもまたない。
 僕は彼女が欲しいけれど──欲しいからこそ、それを傷つけたくないと思う。
 或いはこれが、誰かを「愛する」ということなのだろうか。自分のものにしたいけれど、傷つけたくはない。ガラスケースに入れた人形みたいに、見えない壁を挟んで愛でる。……いいや、素肌に触れない愛も、またないのだろう。だからやっぱり、きっと違う。
 僕は、彼女を眺めるだけだ。
 それだけで僕は今のところ満足だったし。
 そうでないと、僕は彼女を壊してしまう。
 僕は今、可南子から離れた位置で可南子を眺めているという状態だから、それだけで満足できている。物理的な距離も、心の距離も。
 もし僕が彼女に近づくことがあるとすれば、──その時は、きっと僕が彼女を犯す時だろう。
 頭の中ではもう何度も何度も彼女を犯している。暴れても泣き叫んでも、それを力づくで押さえつけて、細い腕を折らんばかりに握り締めて。
 壊れるまで、犯している。
 僕は彼女が欲しいから、ガラスケース越しにでないと、触れるだけでも壊してしまう。
 ……僕の感情はやはり、物欲よりも情欲のほうが正しいのだろう。
 それを自制するだけの理性はある。けれど、自分だって健康な男だ。いつ、どんな理由でその箍が外れるとも知れない。
 だから、僕は眺めているだけでいい。物欲は所詮物欲だ。手に入らないものを求めて燃え上がることもあるだろうけど、逆に鎮火してしまうことだってある。僕は、自身の燻る火が完全に熱を喪うのを、ただ眺めて待っている。
 それだけで、僕も彼女も何の問題もなく過ごしていけるのならそれ以上のことはない。
 僕は可南子を眺めている。
 昼食を食べ終わり、彼女が本を開いてそれを読んで、昼休みが終わるまでずっと、僕は彼女を眺めていた。



 五時間目も六時間目も終わって、帰りのホームルームまで全部終わった。
 教室の掃除はホームルームの後にあって、出席番号順に男女一人ずつ回ってくる。
 ちなみに僕のクラスは男子と女子の数が同じではないので、掃除の時に組む相手というのは毎回変わってくる。
 それで喜ばしいことに、と言うか何と言うか、今日の掃除当番は、僕と可南子の二人だった。
 教室の掃除は単純だ。手順としては、最初に机を全部下げて、それから床を掃いてモップをかける。前半分が終わったら次は後ろ半分。最後に机を戻し、ゴミを棄てて終わる。
 まばらになる教室の人影。彼女はまた本を読んでいる。僕も席に座ったまま、それを見ていた。
 ふと、彼女に話し掛ける人物があった。クラスの女子。名前はなんだったっけ。男子は覚えてるけど、女子までは手が回らない。元々あんまり交流もないし。
 その女子は可南子と二言三言言葉を交わすと、手を振って廊下に出た。一緒に帰る約束でもしたんだろうか。廊下では友人と思しき数名が、戻ってきた女子に何か言った。眉根を寄せているところからすると、怒っているのだろうか。多分、待たせていたんだろう。
 そう言えば、と思いついた。可南子には、特定の付き合ってる同性の仲間がいない。
 この年頃の女子は、いつの間にか数名でグループを結成している。勿論、男子にもそういったものがないわけではないのだけれど、女子のそれはより結束力が強く、そして他者を好んで受け付けようとしない。狭い枠組みの仲間意識。
 けれど可南子は、そういった、いつも一緒にいるような人間がいないのだ。
 いつも一人。ずっと一人。
 でも、彼女にとってそれは大したことじゃないんだろう。仲間外れにされているわけでもない。基本的に、可南子は人と一定の距離を保って接しているように見えた。
 一人でいることが好き、というイメージは、物静かで、本ばかり読んでいる彼女のイメージにとても合っているように思えた。
 もしそうなら、少し嬉しい。僕自身、どちらかというと一人でいることが好きな人間だからだ。友達と一緒に笑っているのも楽しいけれど、例えば夜に一人で散歩したり、公園のベンチに一人座って空を眺めたりするのは、とても好きだった。
 もっとも、お互い一人でいることが好きだったら、例え一緒にいてもお互い黙ったまま、それぞれ「一人」でいることに没頭しているだろう。
 互いに不可侵。可南子とならそれもいいと思える自分がいた。
 或いは。それが一番望ましい状況なのかもしれない。情欲を掻き立てるものなんか何もなくて、ただ不干渉に側に居るだけ。
 ……それは、悪くない。そう思えた。
 やがて、教室には僕と彼女以外いなくなる。彼女は本を読むことに集中しているようで、誰もいなくなってもまだ読んでいた。
 僕もずっとその様子を眺めていたかったけれど、そうしていたんじゃ日が暮れてしまう。秋の日は釣瓶落とし。日が落ちるのは、存外に早い。
 立ち上がり、可南子の斜め後ろまで歩いて立ち止まった。
 ここまで来ても何の反応も示さない。相当没頭しているようだった。
「篠原さん」
 名字で呼ぶ。名前で呼ぶことはできない。そんな間柄でもない。
 ぴくりと可南子の肩が跳ね、僕を振り返った。
「篠原君……ああ、そういえば掃除当番だったっけ。ごめんなさいね」
 こちらが何かを言う前に、可南子は察してくれた。可南子は頭がいい。というより回転が速いのだろう。とんちを利かせた問題なんかをすらすら解いていく。なので大抵、こちらがモノを言う前に理解してくれるので、話す側としては楽だった。
「机下げよう。僕がモップがけするから篠原さんは掃いて。いい?」
「ええ」
 頷いて、可南子は本を仕舞い立ち上がる。
 それから先会話はなかった。
 かたんかたんと机を運ぶ音が聞こえ、グラウンドから、運動部の掛け声が遠く響いてくる。
 日はもう傾いている。後一時間もすればすっかり暗くなってしまうだろう。
 斜光の教室の中、ただ僕と可南子の二人だけ。
 会話がないのはいい。距離が縮まらなくて済むから。
 机を全部下げ終わって、可南子が掃き始める。その後を追うようにして、僕はモップをかけていった。
 きゅっきゅっと上履きが、濡れて摩擦係数の大きくなった床の上で鳴る。
 陽は沈んでいき、作業は続く。
 下げた机を今度は上げる。後ろ半分も同じように掃除して、元の通り机を並べなおした。
 何事もなく掃除は終わる。後はゴミ捨てだけだ。
「篠原さんは先に帰ってていいよ。ゴミ、僕が捨てとくから」
 さっきの子達が可南子を待ってるかもしれないので、進んで請け負った。ゴミ箱は二つ。満杯でも、持てない重さじゃない。
「別にいいわ。時間も余ってるし」
「一緒に帰る約束してたんじゃないの?」
 訊いた。可南子はわずかに首を傾げ、ああ、と了解したように声を発した。
「誘われはしたけれどね。断ったわ」
「どうして?」
 言いながらも、僕はゴミ箱を二つ持った。
「一緒に帰る理由がないもの」
 淡々と可南子は言った。……まぁ、複数の女の子と仲良く帰る可南子なんて想像できない。失礼とは思うけど。
 だから、と手を伸ばしてゴミ箱を一つ奪おうとした可南子から、おっと、と僕は逃れた。
 一瞬可南子が、む、と複雑な表情をした。
「ま、どっちにしろ力仕事は男の仕事だよ。それに、」
 少しくらいいいとこ見せたいし、という言葉は飲み込んだ。その言葉は駄目だ。彼女との距離を縮めてしまう可能性が高い。自然とそんな言葉が口をついて出そうになった自分を、僕は嗜めた。
「それに、何?」
 首を傾げて訊いてくる可南子。本人は知っているのか知らないのか、そうやって首を傾げる様子は妙に可愛い。普段笑ったりしないから、そういう不意に可愛いところを見せられると、弱い。目の毒だった。
 自ら遠ざけようとする努力は、今のところ、逆にこういうちょっとした出来事でさえ、彼女への所有欲を掻き立てかねない。火が消えるのは、まだ当分先のことになりそうだった。
「どうかした?」
「いやなんでも」
 沈黙を怪訝に思ってか、可南子が訊いてきた。ありがたいことに、そう、とそれだけで可南子は引き下がってくれた。
「でも手伝うわ。時間は余ってるし、余った時間をだらだら使うよりは、篠原君と話してたほうが楽しそうだから」
 そんなことを真顔で言われて、僕は今度こそ止まってしまった。その隙に、さっと可南子の手がゴミ箱を奪った。
 代わりに自我を取り返した。
「まぁいいけど。……それにこっちにしたって、篠原さんといれたほうが嬉しいからね」
 言葉を止めるのが間に合わなかった。言って、少し後悔した。
 怜悧な声が返ってくる。
「冗談でしょ?」
「冗談だよ」
 即座に切り替えした。冗談じゃないよ、とまた言いそうになった口を今度は自制できた。──まったく、僕はどうしても彼女を欲しているらしい。手に入れたら壊すのに。
 そんなことは、僕の理性が赦さなかった。
 そこから先は会話もなかった。ゴミ箱の中身をゴミ袋にぶち込んで指定された場所に置いた。
 無言のまま教室に帰り、それぞれ鞄を持った。
 ふと窓の外を見ればまだ運動部がジョギングをしている。掛け声はやはり、夕日に希釈されたように遠い。
 可南子が教室を出る。僕はそれを見送る。
 教室を出て、そこで彼女は振り返った。
「────また明日」
 再開を前提とした別れの言葉。思えば、連絡事項などを除いて、彼女が自分から話しかけてくれたのはこれが初めてだった。
「ああ、また明日ね」
 自分でも分かるほどにこやかに笑いながら僕はそう返した。
 ふいと彼女の姿が消えた。
 ……僕は嬉しかった。そうやって、可南子が声をかけてくれたというそれだけのことが。
 何気ない、ただの挨拶のはずなのに。
 彼女を求める僕の心は、それで充足してしまった。
 自分の求めを、どれだけ抑えようとしても──彼女がくれた言葉を、嬉しいと思う気持ちだけは誤魔化しようがない。 
 仕方のない人間だな、と思いつつ、僕も鞄を手に取り──少し待って、教室の窓から、可南子が校門をくぐるのを見送ってから、教室を出ることにした。



「ただいま」
「お帰り」
 聞き慣れた声が出迎えた。
 今日は母さん、家にいるらしい。
 キッチンに顔を出すと、台所に立って料理をしている母さんがいた。
「早かったんだね」
 冷蔵庫を開け、牛乳を取り出しながら言った。
「ええ。溜まってた仕事も片付いたし、今日は昼までね。……って和美、パックに直接口つけて飲まない。行儀悪いわよ」
「もう飲み干した」
 言って、僕はカラになった牛乳パックを母さんに投げてよこした。
 もう、と言いながらも、母さんはそれを受け取る。
「そうそう和美、週末空けておいてね。一応、会うことになってるから」
「ああ────」
 ふと、思いを馳せた。
 週末の予定、というのは他でもない。母さんが再婚する人と、お互いの家族を連れての顔合わせだ。
 仕事ばかりのキャリアウーマンだとばかり思っていたけれど、やはり母さんも女ということなんだろう。いつの間にか恋人できていたらしい。数ヶ月前に打診を貰って、それからお互いの都合がつかず顔合わせが先延ばしになっていたのだ。
「けど、本当にいいの? 和美、いきなり他人が『お父さん』になって嫌じゃない?」
「別に。まぁその人を父さんって呼べるかどうかは分からないけどね、母さんが好きで、結婚したいと思ってるんならそれでいいんじゃないかな。もう何度も言ったけど」
 自分みたいにまともに恋愛もできない人間よりは、そうやって人を愛せる母さんのほうがきっと上等なのだし。
「でもほら、やっぱり土壇場で反発されたりとか」
「ドラマの見過ぎ」
 苦笑ながらに僕は返した。
「寧ろ、そういうことなら相手の人の家族はどうなの? そっちのほうが心配だけどね」
 どうやら向こうにも、子供が一人いるらしい。性別は女性。年齢は聞いてないから、姉と妹どちらが出来るのかはわからない。
 或いは、今回の顔合わせはお互いの子供に相手の家族と対面させ、最終的な判断をつけるものなのかもしれない。合意の上ならそれで良し。駄目だった場合はまた振り出しに戻る、ということだ。勿論推測なのだけれど、話を聞く限り向こうの男性も結構子供のことを考えているそうだから、ありえなくはない。
「大丈夫とは思うけどねぇ。私もお子さんには会ったことないから、どうとも言えないんだけど」
 その辺のことは母さんにも分からないらしい。
「ま、僕は気にしないから安心していいよ」
 言い残して、僕は自分の部屋に向かった。
「晩御飯は七時頃よ」
「了解ー」
 階下からの声に答えつつ、僕は階段を上っていった。
 部屋に入る。テーブルの上に鞄を放り投げて、僕はベッドに飛び込んだ。ぼふん、とスプリングが身体を受け止める。
 ……今日も平和だった。
 掃除当番で可南子と一緒になれたのは、ちょっとした幸運だった。それ以外は何事もなく、普通の一日だった。
 授業で分からないところも特にない。
 毎日が充実している、というわけでは必ずしもないが、だからって満足してないでもなかった。元よりそういうことに対する欲は薄い。興味もない。日々を何事もなく過ごせるだけで丁度良い──と思うのは、やっぱりこの歳にしては爺臭い思考だろうか。
 けど実際そうなのでしょうがない。……こうやってすぐに諦めてしまうのも、まぁどうかとは思うんだけど。
 それでもそういう部分もひっくるめて『僕』なのだし、それを否定する気にはなれない。自分を全肯定してるわけじゃあないんだけど、それでも友人達と違うことくらい、自分でも分かっていた。
 良く言えば落ち着いた人間。
 悪く言えば淡白に過ぎる。
 更に言えば枯れた年寄り。
 篠原和美は、つまりそんな人間だった。
 表面上は兎も角、ナカミはいつも無欲で無関心。母さんが再婚することに正直あまり興味を持てないのも、多分それからなのだろう。それが今のところ、自己分析の末に得た結果だった。勿論それが主観である以上、信頼性は六割を切る。
 ……どうしてまた、今日に限ってこんなことを考えてしまうのだろう。
 それは多分可南子と話をしたからだ。外界に対してあまり興味を持とうとしない僕が、唯一といっていいほど欲求を向ける対象なのだから。
 こうしてその名を思い浮かべるだけで、僕は苦しくなる。欲しくなる。
 篠原可南子。僕が求めているヒト。──愛してはいないヒト。


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 そして、土曜日。
 
「……はじめまして」
「──はじめまして」

 お互い、間抜けな表情でそう挨拶した。










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