金曜日。
家に帰ると、珍しく父がいた。
「……お帰りなさい」
「ああ」
リビングで出くわした相手に対してはあまりにもぞんざいな言葉を私は投げかけ、しかし相手もまた二字で返した。
それがこの家での当然だった。
喉が渇いていた私は、冷蔵庫の中のお茶でも飲もうと思っていたのだけれど、やめた。一応冷蔵庫を開けて中を見るふりをしてから、すぐ閉じて、部屋を出た。
この男と同じ空気を吸っていたくなかった。
だというのに、
「可南子」
この男は私の名を呼んだ。
そうして呼ばれるのもいつ振りだろう。私の名など忘れていてくれたら良かったのに。
それでも、私は足を止めた。
「明日は五時頃に帰ってくる。準備しておいてくれ」
「──はい」
そんなこと言われるまでもない、とは口にしなかった。わざわざ波風立てることもないし、感情を向けるのも面倒だった。
……ああ、少しだけ、私はこの男の娘だということを実感した。
私は、父が感情を露わにしたのを見たことがない。私が感情を表に出せないように、この男も同じなのかもしれない。
それとも、感情なんてもの、この男にはないのだろうか。
それはないだろう、とすぐに否定した。
例え、どんなに父が無表情でも、お母さんと愛し合った結果として、私が生まれてきたのなら。私が和美君に恋をしているように。
それが、より一層私を不機嫌にさせる。
部屋に戻って鍵をかけた。鞄を投げ制服を脱ぎ捨てた。
ベッドに飛び込む。スプリングが軋んだ。枕を抱き締めて顔を埋める。
苛々する。
今更ながらに、あの男がここに居るという事実が酷く腹立たしくなった。
普段はここまで激しい苛立ちを覚えたりしない。ほんの二ヶ月程度前までは、まだ少しはましだったように思う。
原因は全て、明日あることに関わるものだ。
明日は、父の再婚相手と会う日だ。
再婚したい相手がいると伝えられたのが、二ヶ月前。図ったように、その日は両親が離婚した日だった。
──吐き気がした。
だって、二人は恋愛結婚したはずなのだ。お母さんからそう聞いた。愛し合って、連れ添って、その結果として私が生まれたのだ。
それでも、二人は別れた。
その原因の、母が精神的な病になった理由を私は知らない。見舞いに来ていた父方の祖母に、事故だったとだけは聞いたけれど、それ以上は教えてもらえなかった。
別れる前までの母のことはよく覚えていた。病室の母を訪ねると、母はいつも微笑って私を出迎えた。
そして私の前で
(
・・・・・・・
)
、
私の思い出を語り出す
(
・・・・・・・・・・
)
。
母は、私が篠原可南子であることが分からなかった。それだけでなく、母は父が父であることも分からなかった。……母の中では、私も父も、既に死んでいた。
彼女の中にはもう自分はいない。幼心に、私はそれを理解していた。
ただ私や父のことを語る母の姿はとても嬉しそうで──それだけ、彼女は私達を愛してくれていたのだと理解した。私も変わらず、母を愛していた。
けど、そんな状態の母と接するのは、やはり辛かった。父も辛かったと思う。母方の祖父母が離婚を申し出てきたのも分かるし、それを父が受け入れたのも今なら理解できる。無論、感情では受け入れられないけれど。
──だからせめて、母が好きでいた父のままでいて欲しかったのに。
勿論、人の心は変わる。父が他の誰かを好きになることを咎める権利は私にはない。
「それでも、私は、」
口にしたところで、収まる感情でもないけれど。
それでも私は赦せなかった。
ただ言っておけば、私は再婚に反対するつもりはなかった。相変わらず感情は赦さないけれど、理不尽に認めないほど子供でもない。したければ勝手に誰とでもすればいいのだ。私は関与しない。
但し関与しない代わりに、私もそれなりの行動は取らせてもらうつもりだった。
父は結婚相手と同居するだろう。でも私までそれに付ついていくつもりはない。私は私で、このままこの部屋に住むつもりだった。
このことはまだ父には言っていないが、多分文句は言わないだろう。……そういう男だ。今までも私を放っておいたのだから。
明日、全員が揃う場で言おう。相手方は気を悪くするかもしれないし、そのことは申し訳ないけれど、私はもう決めていた。それに相手方には、私と同じくらいの男の子がいると聞いた。そんな相手といきなり一緒に暮らすというのは、常識的に考えて同居を拒む理由としては充分だと思う。
改めてそう結論付けて、私は目を閉じた。
リビングには父がいる。一緒に食卓を囲みたいなどとは思わなかった。
/
翌日、夜。十一月の日没は早い。
連れて来られた先はとあるホテルだった。
私の住む街は海に面している。砂浜は市の方針で大半が遊泳禁止になってはいたが、そのお陰でいつも綺麗な景観が望めた。当然、海岸線に沿って旅館やホテルが建てられていく。
私が今いるのもその一つ、それなりに高級で、中にレストランを幾つも抱えた大きなホテルだった。
父は飾り気のないダークブルーのスーツ姿。私は白いブラウスとプリーツスカートという、至って普通の格好だった。
少し距離を取りながら、父の後ろについてロビーを抜ける。向かうイタリア料理のレストランは、ホテル二階部分にあった。
レストランの入り口を潜ると、すっとウェイターが寄ってきた。父が何事かを告げると、そのウェイターが先導し出す。話の内容を聞くに、もう先方は来ているようだった。
先導される先は窓際の席だった。丁度海が望める場所で、黒い海に、ぽつんと一つ船の灯りが浮かんでいた。
私はなるだけ父の後ろに隠れ、席のほうを見ないようにしながら窓の外を眺めていると、
「あら、こんばんわ」
鈴を転がすような声が聞こえた。
視線をそちらに向けると、テーブルについている女性が一人。その向こうにもう一つ席があるが、父の陰になって見えない。
若い、と思った。父はもう四十を過ぎているから相手もそれなりかと思ったが、見た目、三十代前半くらいにしか見えなかった。
そうなると女性の子供というのも、まだ小さいのだろうか。少し興味が湧いた。父の脇から顔を覗かせようとすると、丁度、父が退いてくれた。
視界が開けて、私は女性の隣に座る人物を目にし、
息を止めた。
最初に浮かんだのは、何で、という疑問だった。
混乱はしなかった。というより、頭の歯車がすっぽりと外れてしまっていた。疑問が思考されることはなく、ぐるぐると空転するばかり。
それは向こうも同じようで、眼鏡の向こうの眼を大きく開いて自失しているようだった。
──どうして和美君がここにいるの。
視線の先にいるのは、篠原和美その人だった。
「さ、二人とも座って」
そこに女性の声が割り込んでくる。父が女性の正面に座った。私もそれにつられるようにすとんと椅子に腰を下ろした。
女性が自己紹介をし始めるが言葉は頭に入ってこない。ただ情報だけをまだ本調子でない私の脳が収集して、整理していく。
篠原貞子、三十五歳。実際若かったらしい。仕事は父と同じで、つまり職場恋愛だったらしい。
それから彼女は父を自分の子──和美君に紹介し、そして私と父に和美君のことを紹介した。
「……はじめまして」
彼がそう言って頭を下げる。父は小さく頷き、篠原忠紀です、と短く自己紹介した。
「──はじめまして。可南子です」
私も頭を下げる。はじめまして、と貞子さんも頭を下げた。
丁度良くそこに料理が運ばれてくる。
「冷めないうちに頂きましょうか。乾杯する?」
明るい顔で貞子さんが言う。が、それを、普段滅多に喋らない父が制した。
「流石にそれは……」
「ああ、まぁそうよね」
言い切らないうちに理解して、少し申し訳なさそうな顔になる。……成程というか、当然、仲は良いらしい。
「ええとね、それでまず訊いておきたいんだけれど」
表情を改めて、貞子さんが私を見た。掌を組み、穏やかさの中に僅かに怯えを含ませた微笑で。
「あなたのお父さんと、私、結婚しても良いかしら」
そう訊いてきた。
「私からも訊いておきたい。和美君はどう思っている?」
寡黙な父がこんな長い台詞を言うのもいつ振りだろうか。問われた和美君は、マイペースにオードブルのサラダをつついていた。
「あー、反対する理由はないですね。特に」
それだけ答え、私を見た。
「──私も異議はないです」
私も短く答え、グラスに注がれた水を飲んだ。
良かった、と私の母になる女性が胸を撫で下ろすのを視界の端に捉えていた。
「それじゃあ、これからよろしくね、可南子ちゃん」
こちらこそ、と答えておいて、はたと思い出した。
──同居の問題。
どうしよう。今更思い出した。やっぱりまだショックが強すぎて本調子じゃないのかもしれない。
最初は断るつもりでいた。
今は状況が違う。だって和美君なのだ。好きな人と一緒に住むことになるかもしれないのだ。
何でまたこんな漫画みたいな展開になる。今になって頭が痛くなってきた。
「ところで、可南子ちゃんは一緒に住んで大丈夫?」
来た。
「一応忠紀さんは、私の家で暮らしてもいいって言ってくれてるけれど……」
糞親父め。
いや、それともここは感謝するべきところなんだろうか。いけない。その程度の判断もつかなくなってる。
「母さん、女の子に向かっていきなりそう訊くのはあんまりだと思う」
和美君が割り込んできた。
「あらどうして?」
「いや僕男だし、これでも。一緒に暮らすことになったら色々と問題がありそうな気が」
気を使ってか、和美君がそう助け舟を出してくれた。
「そう? 可南子ちゃん」
再びこちらに問いかけてくる。
「私は──」
どうするべきだろうか。確かに問題はあるだろう、色々と。年頃の男女だ。取り返しのつかない事態に発展することも考えられる。いや寧ろそれは望ましいような気がしないでもない、けれど。ああもう。
ただ、『どうするべきか』ではなく、『どうしたいか』で言うなら、
「──別に、構いません」
答えた。
和美君がひどく驚いたような顔をした。貞子さんはほら見なさい、と和美君をつついている。
言って、何となく取り返しのつかないことをしてしまった気もするが、今更取り消せるはずもない。
「じゃ決まりね。引越しの段取りとかどうしよっか」
不安だったことは全部解消されたのか、貞子さんは明るい顔になって話し始めた。子供みたいな人だ。悪い人じゃなさそうだけど。
メインディッシュが運ばれてくる。愉しそうに喋る貞子さんを和美君が相手している。親子の仲もいいらしい。うちとは大違いだ。
「そう言えば可南子ちゃんは学校どこに通ってるの?」
ふとそんなことを訊かれた。一緒に住むのに遠いと大変よね、と首を傾げる。無論、貞子さんのそれは杞憂に終わる。
「朝凪高校ですけど」
「あら、和美と同じ学校なのね」
「てゆーかクラスも同じだし」
和美君がぽつりと漏らした呟きに、えぇ、と貞子さんは驚いている。当然だ。私達も驚いている。
「えーと……物凄い偶然ね?」
それはもう。
ここにきて、私は和美君と姓が同じだったことを感謝した。いきなり姓が変わったりしたらたちまち話題になってしまう。そういうのは面倒臭かった。
「じゃあ学校に関しては問題ないわね。そういうことだから和美、ちゃんと道案内してあげなさいよ」
「あー、一緒に登校することになるのか、それじゃ」
心臓が高く鳴った。
一緒に、
登校。
そうか、そういうことになるのか。
「案内するのはいいけど、何て言えばいいのかなぁ」
和美君は唸る。
「照れてる?」
「や、そんなことはないけど」
「じゃあ何が不服なのよ。こんな可愛い子なのに」
「いや、一緒に登校したらしたで、それはそれで囃されそうだし。篠原さ──可南子さんは、そういうのって嫌じゃない?」
「構わないわ」
寧ろ上等だった。
「別に疚しいところは何もないんだし、気にすることはないと思うけれど?」
無関心な振りを装って逃げ道を断っておく。
「まぁ、そりゃね」
明らかに渋々といった感じで、和美君は引き下がってくれた。気を遣ってくれたことは嬉しかった。
その後は雑談に入った。やはり貞子さんが主体で、それに和美君や私、そして時折父が口を挟むという形だった。
「ちょっと外の空気吸ってくるよ」
デザートまで食べ終わったところで、和美君が席を立った。
「あら、置いてけぼり?」
「喋りすぎて疲れた」
母さんの相手は特に、と肩を竦める。どういう意味よ、と非難がましい貞子さんの視線を無視して、彼はテーブルの向こうに歩いていった。
「……私も失礼します」
「可南子ちゃんも?」
残念そうな顔をされた。
「御手洗いです。それに、和美君と話したいこともありますし」
「ああ、そういうことならいってらっしゃいな。積もる話もあるだろうし」
既に山積みになっている。
「お二人もごゆっくりどうぞ」
私も席を立ち、和美君の姿を探した。
所々に仕切りがあるとはいえ、店内はそんなに広くない。出入り口近くのウェイターに訊いてみても和美君は外に出ていないようだった。
確かここにはテラスがあったはずだ。案内される時に見つけていた。彼がいるとすればそこだろう。
壁沿いに歩いて、出入り口を見つける。ガラス張りの扉を開けると、一瞬、秋風が頬を掠めた。
彼は風を浴びながら、遠く海を眺めていた。
「和美君」
呼ぶと、一瞬間を置いてからこちらを振り返った。
「ああ、篠原さん」
ふと違和感を覚えた。
「隣、いいかしら」
「どーぞ」
自分でも驚くほど自然に、私は彼の隣に立つ。
ただ寒いからなのか、それとも色んなことがありすぎて感覚が麻痺しているのだろうか。腕が触れ合いそうなほど近いのに、私は熱を帯びない。
「驚いたよ」
和美君が言う。
「まさか母さんの再婚相手が君のお父さんとは思わなかった」
「それはこっちの台詞。うちの父が、ね」
あんな素敵な女性と恋仲になれたことが不思議だった。
「素敵なお母さんね」
父とは大違いだ。そんなでもないよ、と彼は苦笑する。
「まぁ、いい母さんではあるけどね。仕事であんまり家にはいないけど、その分居る時は家が明るくていい」
「羨ましいわね。うちの、無愛想だから」
「あー、気難しそうだったね」
また苦笑し、彼は手すりに体重を預け、海を見た。私も海を見る。何も見えなかった。
「……ね、篠原さん、本当にいいの?」
「何が?」
また違和感を感じつつ、問い返した。
「一緒に暮らすってこと。住んでた家とか引き払っちゃうことになるんでしょ?」
それは、
「そういうのはあんまり気にならないわ」
あの温かみのない部屋に、別段拘泥するものなどない。私以外の体温など、もうあそこにはない。
「でもさ、普通同年代の男と一緒に住むのって嫌じゃないのかな。篠原さんはその辺りどうなの?」
三度目に至り、ようやく私はその違和感に気づいた。さっきは呼んでくれたのに、今は違うから。
質問に答えるべきなのだろうが、その前に私は言うことにした。
「名前」
「?」
首を傾げられた。
「……家族になるのに、名字で呼び合うのもおかしいでしょ。名前で呼んで」
そこまで言って、彼はようやく得心がいったらしく、あー、と声を発した。
「えーと、可南子、さん?」
胸が高鳴った。
彼がただ、私の名前を呼んでくれただけなのに。
それだけで、私は幸せになれた。
「何かしら、──和美君」
躊躇しかけた喉を無理矢理動かして、上擦らないように、私も彼の名を呼んだ。姓ではなく、心の中で彼を呼ぶ時と同じように
自然に言えただろうか、聞こえただろうか。少し不安だった。
彼は気にしたようでもなく、ちょっと新鮮だな、と呟いた。私もそう思う。
和美君、と口の中で繰り返し、その響きを刻み込むように、いとおしげに彼の名を呼んだ。
「で、可南子さんはどうなの?」
何が? ──ああ、質問か。
私は海を見ながら答える。
「さっきも構わないって言ったはずだけど。同じ部屋で暮らすわけでもないんでしょう?」
流石にそれはないだろう。望まないわけではないけれど。
「そりゃあね。多分、母さんはうちの使ってない部屋を片付けるつもりだと思う。ちなみに僕の部屋の隣だけど」
「ならいいわ。それに、和美君は
そういうこと
(
・・・・・・
)
する人じゃないって信じてるし」
少しだけ──ほんの少しだけ、私は笑っていたと思う。意地悪そうに。
彼はちょっと困ったような苦笑を見せた。
「まぁ、そう言われたら、ね」
「じゃあ大丈夫ね」
それと、と言って、私は付け加えた。──ああ、こういうことを言おうとしている時点で、私はやはり昂揚しているのかもしれない。
「念の為言っておくけれど、別に誰だっていいってわけじゃないわ。本当は最初、同居は断るつもりだったし」
「じゃあどうして?」
あなたが好きだから。
「和美君は信頼できる人だと思うから」
本音を、言えるはずもない。
和美君は一瞬きょとんとして、また苦笑した。
「困ったな。滅多な姿は見せられない」
「私も同じよ、それは」
実にそう思う。
「ま、何ていうか」
手すりから身を起こし、彼は私を正面から見た。
「まだあんまり実感湧かないけど……よろしく」
手が差し伸べられる。私は一瞬躊躇して、そっと彼の手を握った。
「……こちらこそ」
握った手は、思っていたより大きかった。
/
十一月、私達は家族になった。
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