愛してるのに近づけない。今の、遠い距離すら壊れるのが怖くて。


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 事が起こって、人生こんな事もあるのだな、とお互い思ったに違いない。
 事実は小説よりも奇なり、というのは確かだ。それを実感した。
 目の前には、お互い良く見ていた顔がある。
 あまりのことに声も出ないで、この期に及んでも、二人は顔を見合わせたまま突っ立っていた。


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 無感情、と評されたことがある。
 成程、外から見れば、私は多分そう見えるのに違いない。事実、私は人前で感情を表すのがひどく苦手だ。だからそう取られるのも無理ないことだと思う。
 表情に出すのが苦手、というだけで、無感情というわけではない。ただ自分がそうであることを自覚しているせいか、自然と普段の態度も淡白なものになっているのかもしれなかった。
 ……本のページをめくる。しかし、私の視線は文字を追わない。
 私は本を広げていながらも、本を読んでいるわけじゃなかった。暇さえあれば私は本を開くのだけれど、それは本を読む、という行為より、自分の思考に沈みたいから、ということのほうが多い。
 今もそう。目の前に広がる文字列は意味を成さない落書きと等価で、私の思考は私の中で循環し完結している。
 勿論本を読むのも好きなのだけれど、それより思考を巡らせることのほうが多かった。
「篠原さん」
 ふと、私の苗字を呼ぶ声がした。
 顔を上げると、クラスメイトのぎこちない笑顔があった。……確か、三木さんだったか。下の名前は覚えていない。話すこともないし。ただ、クラスの中でも面倒見の良い人間で、いつも誰かに笑顔を向けている人ということだけは覚えている。
 そんな人が私に何の用なのか。話しかけてくる理由が見当たらない。
「あ、あの……良かったら、今日、一緒に帰らない?」
 やはりぎこちない笑みを浮かべて、三木さんは私に言った。
「ごめんなさいね。私、今日掃除当番だから」
 丁重にお断りした。
「あ、そう、なんだ。えと、じゃ……ううん何でもない。じゃ、さよなら」
 煮え切らない口調で、三木さんは別れの言葉を告げる。私もそれに応えた。
「ええ、さよなら」
 教室を出て行く。廊下に出た途端、こつん、と他の女子生徒に頭を小突かれていた。だから言わんこっちゃない、とばかりに。
 私はそれを気にすることもなく、再び思考に没頭した。
 彼女にも、私は無感情に見えただろうか。私は彼女に応える時、全く表情を変えなかった。多分そうだろう。……だからどうということもないのだけれど。ただ、不快にさせてしまったのなら少し申し訳なかった。
 それから少しして、
「篠原さん」
 先程と同じ発音を、違う音域で言われた。
 どきりとした。忘れようもない声音。私は強く脈打ち始めた心臓から、何の影響も受ける事のない表情を向けた。
「篠原君……」
 思い描いていた通りの顔がそこにあった。
 かすかに耳が見えるくらいまで伸ばされた髪。表情は、それが常であると言うように今も緩んでいて、どことなく暖かさを感じさせる。
 細い肩。けれど、それは見かけに反して丈夫なはずだ。篠原君──和美君は、今でこそ無所属だけど、中学時代まで空手とかやっていたらしいから。──彼について、そういうことはよく知っていた。
 と、そんなことをしている場合ではない。どうして彼は私に声をかけてきたんだろう。その理由を察して、なるだけ不快にさせないようにしないと。ほかの人間にどう思われたって、この人だけにはそう思われたくない。
「……ああ、そういえば掃除当番だったっけ。ごめんなさいね」
 推測した答えを、穏やかな謝罪の言葉とともに紡ぐ。彼は小さく頷いた。良かった。間違っていなかったみたいだ。
「机下げよう。僕がモップがけするから篠原さんは掃いて。いい?」
「ええ」
 一も二もなく頷いた。
 二人で机を下げる。……ああ、それだけのことで息が詰まりそうになる。
 
 私は、彼に恋していた。

 本当にどうしようもないくらい、篠原可南子は篠原和美が好きだったのだ。氷の面のように変化することのない表情のまま、私は彼を想っていた。
 けど、だからこそ、私は嫌われていないか不安になる。私の一挙一動が、彼を困らせないか心配する。……笑わせる。普段は自分の淡白さを改めようともしないのに、私は、篠原和美という人間にだけは、ほんの少しだけでも嫌われたくないと願っている。
 できるだけ音を立てぬよう机を運んでいく。うるさいのは誰だって嫌いだろう。校庭から遠く響く運動部の掛け声も気にせずに慎重に。
 何とか運び終わって、気づけば陽はもう傾いている。
 ……和美君と、二人きり。今更ながらにそれを意識して、私は心の奥底が熱を帯びるのを自覚した。
 いけない。滞りなく仕事を終わらせないと。私は箒を手にし、床を掃き始めた。後ろから、私の後を追うように和美君が床を掃いていく。
 後ろからついてくる彼の上履きが、床を鳴らす。その音がやけに耳に残響する。他の音は聞こえない。
 彼は、私の背中を見ているだろうか。妄想の視線が背筋を這って、けれどそれは不快などではなく。
 教室の半分まで終わって、今度は後ろ半分。また二人して机を動かしていく。そして同じように掃除して、何事もなく完了した。
「篠原さんは先に帰ってていいよ。ゴミ、僕が捨てとくから」
 箒を掃除用具用のロッカーに仕舞っていると、和美君はそんなことを言ってきた。私は咄嗟に切り返す。
「別にいいわ。時間も余ってるし」
 本当は、帰ったら帰ったでやることがないわけじゃないのだけど、そう言った。少しでも、二人でいる時間を長引かせたかったのだ。
「一緒に帰る約束してたんじゃないの?」
 そう言われ、私はふと首を傾げる。一緒に帰る約束なんて誰ともしていないのだけれど。できることなら和美君としたいものだが、生憎、帰る方向が逆だった。
 って、そうじゃなくて。
 思考を遡らせていくうちに、私は思い至った。
「誘われはしたけれどね。断ったわ」
 和美君は多分、私が三木さんに話しかけられているのを見ていたのだろう。
「どうして?」
 率直に、ゴミ箱を二つとも持ちながら和美君が問うた。
「一緒に帰る理由がないもの」
 私もまた率直に応えた。少し冷たい言い方だったろうか。いやそれは兎も角、
「だから時間なら──」
 言いながら、私は和美君からゴミ箱を奪い取ろうとする。と、するりと逃げられてしまった。……む、どういうつもりなんだろう。
「ま、どっちにしろ力仕事は男の仕事だよ。それに、」
「それに?」
 気遣ってくれているのは嬉しかったけど、途中で途切れた言葉の続きが気になった。
 かと思えば、今度は和美君の動きが目に見えて止まった。……どうしたんだろう。私の顔に変なものでもついていたんだろうか。
「どうかした?」
 再度問う。いやなんでも、と和美君は簡潔に答えて、少しだけ視線を逸らした。突っ込みすぎただろうか。私は、そう、とだけ答えて、それ以上聞こうとはしなかった。
 だからって、引き下がるつもりはなかった。──後で、この時の自分の言動を思い返して、死ぬほど恥ずかしい思いをするのだけど。
「でも手伝うわ。時間は余ってるし──、余った時間をだらだら使うよりは、篠原君と話してたほうが楽しそうだから」
 言ってから失敗した、と思った。いくらなんでも、今の台詞は我ながらあんまりだ。今更弁解することもできず、生来無表情だった私の顔は更にがちがちに固まった。
 どんな顔をしているだろう、と思って和美君を見ると、何か狐に抓まれたように呆気に取られていた。……やっぱり、失敗だったか。
 けれど、そのせいか彼の手は全くの無防備になっていた。ここまできたらもう半ばやけくそで、私は素早く彼の手からゴミ箱を一つ、奪い取っていた。
 二秒経って、和美君は復帰した。
「まぁいいけど。……それにこっちにしたって、篠原さんといれたほうが嬉しいからね」
 ──心臓が、
 止まるかと思った。
 実際、少しは止まっていたかもしれないし、明らかに思考のほうは停止していた。
 ただ──止まった頭の思考の頭の代わりに、私の条件反射機能は、怜悧に問い返していた。
「冗談でしょ?」
 と。
 或いは、冗談じゃないよ、と彼が答えてくれることを期待して。
 けれど結局、彼は冗談だよ、と答えた。……それが、少し痛かった。
 それからは会話もなく、二人でゴミを捨てに行った。話してたほうが楽しい、と言ったのは自分なのに、何も喋らなかった。それだけさっきの会話はダメージが大きかったのだ。切り出したのは自分のほうなのに。
 無言のまま教室に帰り、それぞれ鞄を持った。
 彼のほうを見ず、そのまま教室を去ろうとする。ただ、その瞬間後悔のようなものが頭を掠めた。いや、正確にはその予感だろう。このまま何も話さなかったら、後悔するのは自分だろう、と。
 教室と廊下の境界を跨ぎ、足を進め──そこで、私は踏みとどまった。
 振り返って、ただの一言。
「────また明日」
 文字にして五つ、それだけの発音を残して逃げようと急ぐ足を、私はまた強引に引き止めた。
「ああ、また明日ね」
 優しい微笑を浮かべて、和美君はそう返してくれた。
 体温の急激な上昇を自覚する。拙い。私はふいと顔を背け、廊下を早足で歩き出した。それでも脳裏に、しっかりと彼の笑顔を焼き付けたまま。
 赤くなった顔を見られなかっただろうか。もし見られていたら、恥ずかしいことこの上ない。私は脇見もせず廊下を早歩きし階段を駆け下り、下駄箱に上履きをぶちこんで代わりに靴を取り出して履いた。
 そこでようやく落ち着く。冷静になる。
 動悸を静めるように胸の上に手を置き、深呼吸を三回。……よし、落ち着いた。
 普段通りの、身も心も冷静な私に戻る。誰の前にあっても、静かなままであれるように。校舎を出る。
 運動部の邪魔にならないよう、校庭の脇のほうを通っていく。私立で、中途半端に田舎の学校だから、この学校の校庭はやけに広い。何しろテニスと野球とサッカーがいっぺんにできるくらいなのだ。学校全体の面積の半分以上を占めていた。
 その校庭の端を歩きながら、私はふと二階の自分の教室を振り返ろうとして──やめた。もしかしたら、まだ和美君がいるかもしれないからだ。それでたまたまこっちを見ていたりしたらあれだ、気まずい。
 そう思った途端、私は教室の窓から私の後ろ姿を眺めている和美君を幻視した。
 ──ストップ。こういう都合のいい妄想は、彼に失礼だ。赤くなりかけた頬を押さえながら、私は頭の働きを止めようと試みる。
 けど、一度暴走を始めた回路は止まることを知らない。そのままありえない願望を連鎖的に生産し続けていく。
 結局、私は赤い顔のまま、自宅へと帰ることになってしまった。
 勿論、一度たりとも教室を振り返ったりはしなかった。



 ただいま、と言っても返事はない。
 靴を脱いで部屋に上がる。マンションの七階、誰も迎えるもののないこの部屋が私の家だった。
 外はすっかり暗い。学校からここまで、結構距離がある。
 電気もつけないまま廊下を通り抜けリビングに出る。そこでは、私を出迎えるように電話機の留守電ボタンが赤く明滅していた。
 押す。一件です、と声がして、聞き慣れた声が耳に響いた。
『私だ。この間の件については済まなかったと思っている。了承してくれたとはいえ、早めに言わなかった私が悪かった。土曜には帰る。それまでに整理をしておいてほしい。また時間のある時に連絡する』
 聞き慣れた、一度電気的に変換された父の声。
 留守電はいつも一方的だ。携帯のメールよりも。
 メールは着てすぐ返せばすぐにまた返事が来る。けど留守電は、時間が経過してから聞かれることを前提としている。かけなおしたところで、すぐに返事があるとは限らない。──相手がそこにいるとは限らない。
 留守電ランプが消えて、この部屋で私を迎えてくれるものはもう何もない。
 食欲がなかった。今日の晩御飯はいらない。
 自室に戻って、スタンドの電気をつけて椅子に座った。
 宿題と予習復習をしながら、私は今日のことに思いを馳せた。
 ──今日は、篠原君と話ができた。
 それが嬉しい。彼にどう思われているかは知らないけれど、変化の少ない私の日常にとってそれは潤いだった。
 だがそれも、さっきの電話の声を思い返した途端に渇いてしまう。
 正直、今日あの声は聞きたくなかった。一応自分の父である人の声。
 けれど、私はあの男を父親とは思いたくなかった。
 別に暴行されたとか、そんな陰惨な過去によるものではない。ただ私は──お母さんを捨てたあの男が大嫌いだった。
 私が幼い頃、両親は離婚した。原因はお母さんが精神的な病を患ったせいで、母方の祖父母が切り出してきたのだ。
 それを、父は承諾し──私は父親のほうに引き取られた。
 お母さんに子供を育てる能力がなかったのは、分かる。だから父親に引き取られたというのも納得がいった。
 ただ私は、父が、いくら向こうの親から言われたとはいえ、それまで連れ添った妻と別れてしまったのが許せなかった。父がお母さんを愛していたのかいなかったのかは分からない。ただもし、愛していたのなら、どんな状態になったって連れ添うべきなんじゃないだろうか。
 それに、例えどんな風になったって──お母さんは、私にとってはいつも優しい母で在り続けてくれたのだから。
 それでも、私は父のために生きようと思った。
 小学校の頃は父方の祖母が訪れては私の世話をしてくれたし、父も三日に一回は早く帰ってきて一緒にご飯を食べていた。
 その祖母も小学校高学年の時に死に、私が中学、高校と育っていくと、父と一緒にいることはなくなった。つい一年前、父は会社に近いところにアパートを借りてそこで暮らしていて、私が生まれてずっと住んできたこの部屋には、もう私しかいない。
 父の負担にならないよう、友達の誘いも断ってずっと家で帰りを待った小学生の私。
 父のいない家を守ろうと、友達も作らずずっと家に居続けた中学生の私。
 そして今高校生になって、気づけば私の周りには一人の人間もいなかった。そして──私には、それが当然になっていた。
 そんな在り方が間違っていたかどうか、私は知らない。寂しくもなかった。父のためにそうあり続けたのも、自分の勝手であって、応えてくれない父を責める気はなかった。
 けれど結局、最後に残ったのは、
 私が父を大嫌いだということ。
 そして今回のことだって────。
 みしり、と手の中でシャープペンシルが軋んだ。その感触で我に返る。
 深く、息を吐く。
 ……やめよう。今日は勉強もお終いだ。私はペンシルを投げ置いた。
「……ん」
 カラダが、熱い。
 夕方、和美君と話していた時から篭もった熱だ。それは明確に情欲の形になって、私の下腹部を加熱する。
 ただなんでもない会話をしただけなのに。ただそれだけのことで、私の身体は熱を帯びていた。
 卑しい女だ、私は。
 暇さえあれば、彼が私に触れてくれる妄想をする。
 その手が、その腕が私を抱き締める感覚を幻想して、自ら快楽に溺れる。
 この手は私の手じゃなくて、彼の手で。
 それが、私の身体を這い回る──
 そんな身勝手な妄想に任せた快楽に、私は毎夜の如く沈んでいた。
 でも、今日は──
 ともすればそこに伸びそうな手を自制しつつ、頭と身体を冷やすために、私は浴室へ向かった。
 今日は、折角彼と話せたのだ。そんな日まで、帰り際にみた彼の笑顔まで、せめて今夜くらいは自らの卑しさで穢してしまいたくなかった。


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 そして、土曜日。
 
「……はじめまして」
「──はじめまして」

 お互い、間抜けな表情でそう挨拶した。










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