ヒュウ、と空気の漏れる音がした。
「──お嬢様?」
 頭の上から問いかけるテノールはあくまで静かに、冷ややかな朝の空気をわずかにも動かさない。
 姿見には、髪を梳かされていた少女(わたし)と、髪を梳いていた少年(そいつ)が映っている。少年は眠たげで、つい今、気遣わしげな言葉を吐いたとはとても思えないほど、その顔には何も浮かんでいなかった。
 瞼を半分伏せて否定の意を伝える。応える声もなく、櫛を動かす手を再開する。その手つきはただ優しく、私は髪を触られていることを忘れてしまいそうになる。
 窓の外、この洋館の庭からは、鳥の囀りさえ聞こえない。ただ柔らかな朝日だけが木立の影を並べ、四角く切り取られた光は私の右足を照らし、暖めている。
 静かだった。
 憎らしくなるくらいに。
「どこか痒いところございませんか」
 馬鹿が憎悪を乗算してくれた。
 相変わらず、気を遣っているのか分からない冗談を言うやつだ。いや本当に気を遣っているのであれば、今がそんな空気でないことは分かるはずなので、そうでない場合ただ単に性根から腐っているか、絶望的に空気が読めないかのどちらかであり、そしてこいつの場合は間違いなく前者だった。
 鏡に映るこいつの顔は、相変わらずにこりともしない──ように見えて、唇の端がさっきより三ミリ吊り上がっている。私の苛立ちを確かに感じ取り、こいつは今面白がっているのだ。笑いを堪えるほどに。
 ふと右足から熱が奪われた。鏡の世界から光が消える。
 窓を見ると、洋館の上の空を悠々と泳いでいく、銀色の龍がいた。
 蛇のように長大な身体に、背中には張子のような薄羽を広げ、航空力学を根底から無視して、それは飛行している。ぎりぎりまで近づけば、その表面に鱗などなく、ただ体色と同じ棒が幾何学的に張り巡らされ、その所々に真円の銀盤がくっついているのが確認できるだろう。
 それは羽の生えたフルートの龍だ。
 成程、今日は道理で鳥が鳴かない。窓を開けて耳を澄ませば、蚊が鳴くよりも小さく、赤子の産毛よりも柔らかな金属の音色が、空から聴こえてくることだろう。
「いい朝ですね」
 どこがだ馬鹿。
 ああ、まったく。何もかもが気に食わない。静けさに殺されてしまいそうだ。龍は──魔笛≠ヘ飛び去ってしまったが、彼の残響音のせいで、今しばらく鳥の鳴き声は聴けそうにない。聞こえてくるものといえばこの馬鹿の減らず口だけ。寧ろお前が黙れと言いたい。──言えないが。
 姿見の中の少女は、ひどく不機嫌そうだった。
 やがて視線は、自然と少女の喉元に吸い込まれていく。
 そこには、白い肌よりなお色のない、右から左へとはしる、一本の線。
 ヒュウ、と空気の漏れる音がした。





- カナリア -





 この世界からそれまでの『音楽』が喪われたのは、およそ三十年前のことになる。
 ──目の前で、いきなりグランドピアノが音を立てて変形し、素材はそのままで無理矢理人を形作って喋りだしたら、どう思うだろうか。
 一番最初に起きたのは、つまりそんな出来事だった。
 それから世界中でそんな出来事が頻発した。ヴァイオリンが、フルートが、パイプオルガンが、おのおのが人や獣や想像上の動物のシルエットだけを再現し、楽器としての機能を残したまま、意思を持ち、動き始めた。
 馬鹿げた話だ。生まれた時から『彼ら』(特定の呼称は存在しない)が当たり前に存在していた私でさえそう思う。
 以来、音楽は人間の独占するものではなくなった。
 彼らは、自分の元の姿と同じ楽器を自在に操ることが出来た。手も触れず、そこにいるだけで楽器は自ら演奏を始めるのだ。喜びの音色を、怒りの連弾を、哀しみの旋律を、楽しみの音階を、奏で始める。
 彼らの存在理由は、『ただ演奏を楽しみたいから』。それだけだ。
 元は三味線だった奏士<cガルヨネコは、ポール・ゴーギャンの言葉になぞらえてこう言った。
『私達は此処から来て、何処へ行くこともない。此処にいて、ただ演奏し続ける』
 そのために生まれ、そのために存在し、死ぬときもまたそのために死ぬのだろう、と彼女は言った。
 そして、その演奏は誰にも止めることが出来ない。
 彼らの音色は、楽器が出せる限界を超え、可聴領域を遥かに突き抜けてしまう。
 端的に言えば、彼らは『音』を操る。音とは即ち空気を媒介に伝わる波であり、音階とはその波の周波数の違いによるものだ。彼らはそれを操る。反響、増幅、反射、屈折。幾重にも束ね、極限まで高めた音は、それ自体が既に破壊の力の固まりだ。
 それを知らしめたのが、二十七年前、ラ音を基調とする鍵盤打楽器の魔王、神ラ盤唱<Qヴォルクゲヴォイルがとある国で行った『公演』である。
 世界中から一万五千三百七十八の木琴・鉄琴などの鍵盤打楽器を拉致(・・)した彼は、南米の熱帯雨林の上で彼曰く「人生(?)最大にしてただ一度」の大規模な演奏を行った。その余波で日本の四国面積に匹敵するほどの熱帯雨林が、一夜にして文字通り消滅した。奏でられる音の振動によって、分子結合の段階からバラバラにされてしまったのだ。
 戦車や戦闘機でさえ近づくことが出来ず、最後の手段と打ち込まれたミサイルも彼に届く前に分解された。人間は彼の演奏を、ただ聴いていることしかできなかった。しかしその題名のない楽曲の音色は、齎された破壊とは裏腹に、深い森の奥にひっそりと佇む湖畔の如く澄み切っていて美しく、とても打楽器だけで演奏されているとは思えない感動があった、らしい。
 一週間ほど演奏して満足したのか、彼は楽器と一緒に何処かへ姿を消した。
 その一ヵ月後良く似た姿の何者かが、日本の歌舞伎町の路上で鉄琴を叩いている姿が目的されたが、間違いなく本人である。また彼が明けた熱帯雨林の大穴は、今や地元住民のなくてはならない水源と化しているとのことだ。
 ともあれ、人は彼らに太刀打ちできなかった。戦力の面でも、演奏の面でもだ。
 彼らはただ音楽を奏で続け、その音色は人を愉しませた。彼らに呼吸は必要なく、食事は必要なく、睡眠は必要なかった。音を奏でる自分自身と、音を伝える空気があれば彼らは十分だった。
 しかしそれでも、人に受け入れられた訳ではない。音楽そのものは素晴らしくとも、先述のゲヴォルクゲボイルのことがあるように、彼らは己の音楽のためなら時として人の迷惑を省みない。十日間も屋根の上でバイオリンを演奏され続けて不眠症になり、泣く泣くその奏者が去るまでホテル住まいを余儀なくされた男性もいる。時として死人が出る場合もある。
 またその音楽そのものも、人間の奏者から仕事を奪ってしまうようなことはなかった。何しろ彼らは基本的に自分と同じ楽器しか演奏しない。楽器が違う者同士では仲が悪いので、オーケストラを形成することもできない。センスが人間とは余りにもかけ離れていて、人間には理解できないことも多い。
 何より、彼らは歌を歌えない。
 楽器から生まれた彼らは、人の喉から発せられる音声を再現できないのだ。
 そういった面では、人は彼らには負けていない。いや、明確な勝ち負けを決める問題なのかどうかは分からないが、少なくとも、お株を全て奪われるということにはなっていない。
 結局のところ、訳が分からない、それに尽きる。彼らの存在意義も、誕生の理由も、敵か味方かさえ、誰も知らないのだから。だから行政機関は彼らに干渉することを放棄し、それをいいことに各メディアは彼らを利用できないかいつも画策している。何しろ彼らにはギャラが必要ない。演奏できる場があればよく、その演奏そのものも素晴らしいのであれば、利用しない手はない。まったく、人間は図太い生き物だ。
 テレビの中で一週間後の公演に向けて記者会見を受けている、元・和太鼓の殴鬼撲神<Sウシュウジサブロウタの片言の日本語を聞きながら、そんなことを思った。
 日本語苦手なのかこいつは。日本生まれなのに。
「あ、おれこいつのチケット貰ってますよ。行きますか?」
 行くか馬鹿。
 アジの干物をもりもり食べながら箸の先端でテレビ画面を指す行儀の悪い馬鹿野郎、鳥越(すなお)に、私──潤はできるだけ凶悪な視線を送った。
 名前と裏腹にひたすら性格の悪い直は、じゃあ処分しときますね、と懐から取り出した封筒をビリビリと真っ二つに破って丸めてゴミ箱に投げた。しかも外しやがった。その上拾いにも行かず食事を継続するときた。実にいい性格をしている。
 今のだって、こいつは私が絶対にゴウシュウジの公演に行かないと分かっていて、訊いてきたのだ。
 私は彼らが嫌いだ。
 言ってしまえば、この広い洋館に私と直が二人きりで生活しなければならなくなった原因も彼らにある。……いや、それ自体はさほど恨むことではないかもしれない。以前までと比べれば、不自由はあるものの今のほうが居心地はいい。
 だが私の喉が切り裂かれ、声を喪うに至った遠因は、やはり彼らだ。
 湯飲みのお茶を全部啜る。傷ついた喉で飲み込むのに少し難儀した。
 広いテーブルには私と直の二人だけ。元は広大なダイニングルームだったここは、二年をかけて、ただの庶民的な居住空間に様変わりしている。テレビが置かれソファーが運び込まれ、かつての豪奢さなど欠片も残っていない。
 二人で過ごすには、この館は広すぎる。
 部屋も八割がた使っていない。使用されているのはこのリビングダイニングとキッチン、そしてそれぞれの寝室を兼ねた自室だけ。あとは掃除もしていないので埃だらけだ。使用人を雇うつもりもない。
 空になった食器を、慣れた手つきで直が運んでいく。彼の姿がキッチンに消えてから、しばらくして水を流す音が聞こえてきた。
 洗い物が終わるまで十分とかかるまい。私はその間に、登校の準備をする。





 ごきげんようの声が朝の正門にこだまする。
 県内有数のお嬢様学校では当たり前の光景である。
「ごきげんよう、お姉様」
「良い朝ですね。ごきげんようお姉様」
「今日もお美しいですねお姉様」
 ……いや、まぁ。
 総勢十名以上の下級生に取り囲まれるのが当たり前かと言えば微妙だが、私の場合それも仕方ない……のか?
 こんな時に限って直は何も言わない。執事じみた服に身を包み、狸の置物の如く無言を貫き、さりげなく下級生から私をガードしている。いいSPになれそうだ。
 男子禁制の女の園に、どうして直が入れるのかというのには、勿論理由がある。
 下級生を引きずりながら下駄箱に到着し、何とか教室に到着する。
「あら、ごきげんよう姫様」
「ごきげんよう」
 たおやかな笑みを向けてくる同級生達。……姫様、などという呼び方も本当はやめて欲しいのだが、私は喋れないので勿論そんな要求は通らない。そしてそう呼ばれてしまうだけの理由もあった。
 中には『姫姉様』などと呼んでくる下級生もいる。私はナウシカかと言いたい。言えないが。
 口々に朝の挨拶を送ってくる友人達に、私は一人一人に笑みを返していく。微笑んでくれるのは嬉しいが、こちらの返答に頬を赤らめるのはやめていただきたい。私はノーマルだ。
 声を喪ってからというもの、私は同級生の女子に道ならぬ恋のきざはしを与えてしまうほどに、表情で語る術に長けてしまった。そんなことを直に話した(無論、筆談で)ら、『生まれた時に尻尾切った犬は瞳で感情を伝えてくるって言うからそんな感じですかね』などとのたまったので、全力で蹴りを入れた。蹴られた直は涙目で脛を擦りながら、『どうせお嬢様のいいところは見た目だけなんですから、寧ろ喋らないほうがウケはいいですよ』などと言いやがったので、私はとうとうプッツンして、泣くまで殴るのをやめなかった。
 笑い話である。
 さておき、朝のホームルームだ。私は窓際の一番後ろで、居眠りには絶好のポイントだが、そんなはしたない真似など出来ようはずもない。
 ちなみに直は、授業の間ずっと私の後ろに立っている。いい気味だが、本人は屁でもないようで、丸々二十四時間立たせておいても大丈夫そうなのがかなり癪だった。
 連絡事項も済み、授業の準備に取り掛かる。一限目は声楽だった。当たり前だが、私は参加できない。が、授業に出ないわけにも行かない。
 音楽室に向かう途中で直と別れ、アラアラ窓の外を蝶々が舞っておりますわウフフ級の毒気のない友人達の話に耳を傾ける。
 お嬢様学校に通っている私だったが、実のところ生粋のお嬢様というわけではない。家だけは無駄に大きいが、小学校までは普通の学校に通っていた。中学生になって、エスカレーター式のこの学校に入ったのだが、最初の頃は何かと苦労したものだ。今ではいい思い出である。
 先生が来る前に、直がティーポットとカップを持ってきた。私は音楽室の後ろのほうに陣取り、椅子にゆったりと腰掛けて、本来授業中にあるまじきティーブレイク空間を形成する。
 この学校に、障害者を蔑むような阿呆はいない。がしかし、逆に気を遣いすぎる人間は大勢いる。私はそういう類の気遣いが大嫌いな人間だった。心配してくれるのはありがたいが、曇りなき善意は時としてそれを受ける側の人間の息を詰まらせてしまう。
 なので、私は私に許された権能を余すところなく用いて、それを取り払っている。
 始業のチャイムが鳴る。今日は声楽のテストがある日だ。クラスメイト達が一人ずつ壇上に並び、先生の伴奏に合わせて歌う。私はそれを最後尾から、優雅に紅茶を飲みながら眺める。それで充分なのだ。
 純粋な彼女達の気遣いを、私は無粋を以て相殺する。本来なら言語道断な授業中ティータイムだが、『あの人なら仕方ない』という空気を作り出すことによって、全員にそれとなく認めさせているのだ。ちなみに先生方には、あらかじめ話を通してあるので問題ない。
 もっとも、どちらにせよ私は歌うべきではないのかもしれない。私の歌は影響が大きすぎる。
 ……『彼ら』が生まれて十年後、ある一人の少女が彼らに打ち勝った。
 それは全く偶発的な出来事だった。
 ゲヴォルクゲヴォイル以上の規模の演奏を、都市のど真ん中で行おうとした者がいた。名を弦楽王朝<Iフィニクス。悪い意味で名の知れたチェロの魔王だった。彼は各地でコンサートを開き、その度に隕石が落ちたクレーターじみた破壊の痕跡を残していた。
 彼らの誕生から十年が経ち、彼らも彼らなりに人との付き合い方を調整していった中で、一番好き勝手していたやつだった。
 そんな彼が演奏すれば、当然大勢の人が死ぬ。後の試算によれば、最悪地殻が消し飛びマントルが露出しかねないほどの大規模災害になる可能性があったという。
 しかしそうはならなかった。
 魔王が降り立ったのは歩行者横断中のスクランブル交差点の真ん中で、その正面には十七歳の少女がいた。皆、オフィニクスの姿と危険度は知っていたから、彼の全身の弦が震え始めるのを見て一目散に逃げ出したが、その少女はその場から動けなかった。
 茫然自失のまま彼女が出した声は、
『あ』
 それだけだった。
 それだけの発音が、しかし魔王の演奏を打ち消した。
 音とは、波だ。同位相の波が重なれば増幅し、逆位相の波が重なれば消滅する。彼女は無意識のうちにそれを行ったのだ。
 そこから先のことは記録に残されていない。目撃者は誰もおらず、彼女自身も何も語ろうとはしなかった。ただ遠くから、演奏ではない、魔王の哄笑が聞こえていたという証言だけが残っている。
 残されたのはオフィニクスだったものと、後に『歌姫』と呼ばれることになる無傷の少女だけだった。
 人の身で、彼らと同様に音を操るものが、その時生まれたのだった。
 それから、彼らがかつてそうであったように、世界中で何人もの歌姫が生まれた。その能力に目覚めるのは何故か女性だけで、元々の歌唱能力は関係なく、何の予兆も脈絡もない。
 彼らを止められるかもしれない人材が生まれたことを世界は喜んだが、しかし最も喜んだのは誰であろう、彼ら自身だった。
 狂喜、と言ってもいい。己を殺すかもしれない存在の誕生を、彼らは心から祝福したのだ。
 彼らは即刻、オフィニクスを破壊した少女の保護を国に求めた。彼女が幸いになるよう取り計らい、そして後に同じような人間が生まれた場合、それらも全て同じようにせよ、と。頷かなければ今すぐここで演奏してやる、とまで言ったらしいから、とんだ脅迫だ。
 それほどまでに、歌えない彼らは待ち望んでいたのだろう。自分達の演奏に合わせて歌える人間を。
 殺されることは、彼らにとって問題ではなかった。演奏を存在意義とする彼らにとって、己の全身全霊をかけた演奏に付き合える人間の存在は、願ってもないことだったのだ。
 彼らはこれまで通り活動を続ける傍ら、時として歌姫と共に演奏をしに来る者が現れる旨を、各国政府に伝えた。頭に銃を突きつけられているも同然の人間達に、拒否権などあろうはずもない。
 まぁ国としても、ゲヴォルクゲヴォイル級の災害を引き起こされるよりは、歌姫一人が相手をしてくれたほうがいいのだろう。最悪でも人間が一人死ぬだけだ。
 でもそれは、とうの歌姫にとって全く冗談ではない話だ。
 彼らにセッションを申し込まれるというのは、殺し合いの申し込みとほとんど違わない。彼らが作り上げた空間で、彼らの演奏に合わせて歌う。その終わりは、自分が死ぬか、相手を殺すか、相手が飽きて帰ってくれるかのどれかしかない。彼らの遊びに、歌姫は命を賭けて付き合わなければならないのだ。
 どうして生まれたのか分からない歌姫は、どうして生まれたのか分からない彼らを慰撫するための体のいいおもちゃだ。
 無論、歌姫も黙っているわけではない。何故か歌姫になるのはハングリー精神の強い少女が多いらしく、一番最初に歌姫になった少女は、立ち向かってくる彼らをばったばったと薙ぎ倒しつつ、他の何人かの歌姫と一緒に本物の歌手になって、メジャーデビューまで果たしてしまった。彼女達のベストアルバム『狼は生きろ、豚は死ね』は、今もイスラム教圏を除く全世界で大人気である。
 そして私も、十二歳の頃、歌姫になった。
 ある朝目覚めてみれば自分がそう(・・)なのだという自覚があった。私はその日の内に様々な手続きを済ませられ、家族から引き離されて、戦闘訓練という名の歌のレッスンを受けさせられた。そしてレッスンが終わった二週間後に、初めて彼らにセッションを申し込まれたのだ。
 勿論勝った。だがそこに昂揚感は微塵もない。全身傷だらけになった対戦相手は、実に楽しそうに私と握手をして帰ってしまったが、私に残されたのは疲労感と虚脱感とやり場のない怒りだけだった。
 そのまま何もかもがうやむやのうちに小学校を卒業し、たまたま近くにあった現在の学校の中等部に編入されることになった。
 これは父の取り計らいだった。純粋培養のお嬢様達は、歌姫に対する偏見も少ないだろう、という目論みだ。これは見事に当たり、私はお嬢様らしく振舞わなければならないこと以外、何不自由ない学生生活を今まで送ってこれた。周囲から向けられる尊敬と羨望の眼差しが少々負担だが、好意を向けられて悪い気はしない。
 だが、両親は家を出て行った。そして本来なら寮に入るべきところを、私は特例として自宅通学になった。
 事実上の隔離だった。
 以来、私は召し使いになった直と、あの広すぎる洋館で暮らしている。
 だから私は、彼らが嫌いだ。彼らがいなければ、人間はそれまで通りに暮らせていただろうし、私が歌姫になることも、家族がばらばらになることも、家族が家族でなくなることも、きっとなかった。
 その延長線上で、私の声が奪われることも。
 歌えなくなった歌姫は、歌姫ではない。鳴かない小鳥が見向きもされないように。
 それでも私は、今も歌姫を続けている。
 ……長い回想の間に、一人目が歌い終わったようだ。拍手の音で中々いい歌声だったことが分かる。
 ちらりと、壇上に立つ少女が私を見た。クラスでも一番私に対して熱烈な、西岡佳也子さんだ。
 反応に困って、何気なく微笑みを送ってみると、顔が茹ダコみたいに真っ赤になった。だからそういう反応はやめて欲しい。
 不自由はないとさっき語ったばかりだが、私は早速、それを撤回したくなった。





 今日も全ての授業が終わり、ごきげんようを一身に受けながら家路についた。家からそんなに離れていないので、通学は徒歩である。
「晩御飯何にしますか。今冷蔵庫にある材料だと、チンジャオロースーとかできますけど」
 直は私がピーマン嫌いなのを知っていてそんなことを言ってくる。
 私の無言の抗議を受け取り、しかし直は肩を竦めただけだった。実力行使に出てやろうかと拳に力を溜めていると、
「見つけた!」
 そんな声が、夕暮れの誰もいない住宅街に響いた。
 声のした方を見ると、そこには、
「…………」
 そこには……何?
「表現に困る造詣だ」
 直が呟いた。私も同意したい。
 強いて言えば、縦に縮めてひっくり返したトランペットだろうか。全長は百四十センチほど。細長い胴体に子供の落書きみたいな球体状の頭がくっつき、ふにゃふにゃと関節のなさそうな腕が生えていて、音の出るところからは代わりに脚が突き出て地面に立っている。
 トランペットの擬人化というには余りにもそのまんま過ぎて、逆にどう扱えばいいのか困る。
 多分、こいつも『彼ら』の一人なんだろうが、それにしては形状が不完全だ。彼らは素材は兎も角、シルエットはそれぞれバランスの取れたものになる。今日の朝、空を飛んでいた魔笛<Pテルカトルのように、人気の高い造詣を持つものも少なくない。
 そういった点から見れば、目の前の彼(?)は見るからに不完全だった。
「見つけた! イドーちゃんと見つけた! 偉いよイドー! だよねジュン? ジュンだよね? ……間違ってないよね?」
 こちらの困惑などお構いなしに、イドーという名であるらしいそれはハイテンションに飛び跳ね、しかし途中でいきなり不安そうにこちらを見てきた。とはいえイドーの顔は銀色の球体に、目と口と思しき長方形が三つ空いているだけなので表情はなく、単にその仕草からそう読み取れただけだ。
「ジュン違うの? ねぇ。……あれ?」
 不安そうだ。しかもガタガタ震え始めた。何だかかわいそうなので私が潤ですよと言ってやりたいところだったが、生憎私は喋れない。仕方ないので隣の直を肘でつついた。直はいかにも面倒くさそうに一歩前に出た。半身に私を隠すように。……こういうところのさりげない気配りがより一層むかつく。
「お嬢様に何か用か」
「オジョウサマに用はないよ! イドーが用があるのはジュンだけ!」
 むきー!と両腕を振り回しながら癇癪を起こすイドー。子供かこいつは。
「そのお嬢様が潤だ」
「……そうなの?」
「そうそう。これ潤。お前正解」
 仮にも自分の主を指差してこれとはなんだ。あとで殴る。
「やったぁ!」
 ぴょんぴょん跳ねて喜ぶイドー。慣れてくると結構微笑ましいが、用件が全く前に進まない。
「で、何の用だ」
 ぴたりとイドーの動きが止まり、そして十秒後。
「忘れた!」
「お嬢様こいつ殴っていいですか」
 うん殴れ。
 迷いのない踏み込みから繰り出される直の右フックが、イドーの頬(?)を正確に捉えた。吹っ飛んだイドーは、ガキーンと漫画みたいな効果音を出して電柱にぶつかり、そのまま動かなくなった。
「おお痛ぇ……やっぱ金属なんだ」
 右手をぷらぷらさせながら直がぼやいた。珍妙なやつだったが、素材はやっぱり金属らしい。
 珍妙物体は、今の一撃で気絶してしまったようで、起き上がらない。
 ……気絶? まともな生命かどうかも分からない奴らが?
「何なんですかねこいつ」
 時折びくりと痙攣するという、やけに人間じみた動作をするイドー。
 イドーは、『彼ら』と同じではないのだろうか。普通、何の歌もない物理干渉は、彼らには通用しない。全くの不意打ちだったとしても、自動的に防御演奏するのが彼らだ。直のパンチをもろに喰らったイドーは、その形状からしても、彼らのようには見えない。
「持って帰りますか?」
 やめとけ。
 何となく、あまり係わり合いにならないほうがいいと思う。家路を急ごう。

 その直感が正しかったことを、イドーの話をもっとちゃんと聞いておくべきだったことと共に、後々私は実感することになる。





 温かみのない家に到着する。
 誰もいない家に、温度はない。それはこの五年間変わりのないことだ。
 直の調理を手伝い、一緒に食事をして、学校で出された宿題をこなす頃には、もう九時を過ぎている。お肌の調子が気になる年頃の娘として、そろそろ寝たいところだが、
「お嬢様」
 そこに絶妙のタイミングで、直が私の部屋を訪れた。
 私は既にネグリジェに着替えていて、寝る準備も万端整っている。そんな今から無防備な姿を晒すであろう婦女子の部屋を訪れるとは何のつもりだ馬鹿野郎。
 見る見る不機嫌を表現していく私の顔を、けれどいつもは浮かべない笑みで見返しながら、直はきっちりと封がされた白い封筒を差し出してきた。
「お父様からです」
 ────。
「帰宅時に届いているのを確認していましたが、渡すのを忘れていました。読まれますか?」
 本当に、こいつは。
 心底性根が腐っている。
 私がそれを絶対読まないと知っていて、こうして差し出してくるのだ。それも就寝直前という、絶妙のタイミングを見計らって。
 っていうかお前も寝巻きじゃねぇか。最初からこいつは、そのつもり(・・・・・)だったのだ。
 私はつかつかと直に歩み寄って、その手から手紙を奪い取る。そして自分の机の中から、常備しているマッチ箱を取り出し、一本つまんで火をつけた。
 手紙の端に、マッチの火が燃え移る。私はそれを、今日の朝直が中身を片付けたばかりの金属のゴミ箱に投げ入れた。
 紙とインクが燃える匂いと、ゴミ箱から出でる赤い光が、私達の頬を幽かに撫でる。
 私は直を一瞥し、そのまま手を引いてベッドに倒れ込んだ。直は何の抵抗もせず、私の隣にその身を沈める。かち合った顔は、一方は不機嫌そのもので、もう一方は飼い主に構ってもらった仔犬のように頬を綻ばせている。そんなに嬉しそうな顔をするな、馬鹿。
「────」
 紡がれた言葉は、ひどく懐かしい音色をしていた。
 私はそれを塞ぐように、直の頭を胸に掻き抱いた。直も私の腰に手を回し、軽く抱き締めてくる。その腕の感触を、不覚にも心地良いと思いつつ、私はネグリジェのボタンを歯で外そうとしていた直のつむじにエルボーをぶちかまし、反応がなくなったのを確かめてから眠りについた。





 翌日。
 頭をどつかれた直はしかしピンシャンしていて、朝からご機嫌だった。表情は無表情だが、その裏にあるものを読み取れないほど付き合いは短くない。そんな直に視線で殺意を送りつつ髪を梳かせ、朝餉を食べて準備をし、登校した。
 その日も、いつも通りの一日になるのだと思っていた。
 無論、こう前置きしている以上、そうはならなかったということなのだが。





 三限目の、数学の授業中のことだった。
 私の席からは、校舎の正面に位置するグラウンドが良く見える。今は一年三組の生徒達がマラソンで汗を流しているところだった。
 と、グラウンドの中心に何かが落ちてきた。小石やボールなどではない。人の大きさをしたものが、遥か上空から一直線に落下して、音もなく降り立ったのだ。
 そのあまりの自然さに、最初はマラソンをしている下級生達も気づかなかったようだ。
 だがやがて、一番近かった一人が気づき、声も上げず一目散に駆け出した。その様子に異常を感じ取った周囲の同級生達もまた、その異常の原因に気づき、次々と遠ざかっていく。
 ──『彼ら』に遭遇したら、何はともあれ距離を取る。
 これは当たり前の行動だった。彼らは何をするか分からない。いや、演奏しかしないが、それがただの演奏か、破壊の音色かは、分からないのだ。
 一般的に安全とされる百メートルまで下がったところで、生徒達は恐る恐る振り返った。私から言わせればその距離も全然安全ではないのだが、今はそんなことを言っている場合ではない。教室の生徒達も、既に異常に気づいている。
「先生」
 私が席を立つのと、授業中全く口を利かないはずの直が発言するのは同時だった。
「全校生徒に避難勧告を。──彼は、俺達を所望しているようです」
 それ(・・)と視線が合った。
 それは、全身に解いたチューバを巻きつけたような姿をしていた。
 細い身体に捻じ曲がった金属管が巻きつき、胸の中心には三つのバルブがついている。右肩には空気を吹き込む円錐(テーパ)管が三つ。左肩にはトランペットの朝顔(ベル)が生え、上腕部は金色の豪奢な装飾に覆われていた。首にはばらばらにした鍵盤がネックレス状に連なっている。腰の左右には、剣のようにトロンボーンのスライドがくっついていて、膝から下は金属管が横に連なって、まるでブーツのような足を形作っている。両手五指もやはり金属管で出来ていて、人間の爪の部分は、笛のように抉れている。太股や他の『地肌』の部分は真っ黒だった。
 全体的に豪奢な身体に対し、頭部は意外なほどシンプルだった。金の王冠と金の杯が合体し、杯の表面に目を表す細長い長方形の穴が二つ、空いている。それは昨日のイドーを思い起こさせるが、しかしその奥から覗くものは、得体の知れない何かだった。
 そして何よりも特徴的なのが、背中から生えた天を衝く六本のパイプオルガンの金属管。
 その名を知らない者はいない。今まで一度として彼の声を聞いた人間はおらず、時折現れては、荘厳な演奏のみを残して去っていくもの。
金管魔王ヾt.シュテファン。
 その名の通りありとあらゆる金管楽器を従える、ドイツはパッサウ、聖シュテファン大聖堂にあった世界最大のパイプオルガンから生まれた魔王だ。
 シュテファンを一度強く睨み、そして振り返った。直は既に準備を整えている。その手に握られた袱紗を受け取り、私は長い髪を懐から取り出したリボンで結い上げた。
 歩き出す。見送るクラスメイト達に不安を与えぬよう、凛然と教室を出て行く。後ろからついてくる直を気配だけで確認し、振り返ることはない。
 シュテファンの真正面に位置する昇降口から、私は出る。迷いなく歩を進め、背中に浴びる視線の重みを勇気へと変換して、私は魔王の前に立つ。
 シュテファンが腰を折り、紳士のように一礼した。私もスカートの端をつまんで応える。
 袱紗の紐を解き、それを抜いた。
 それは柄のないレイピアのようだ。持ち手と刀身だけがあり、武器としては全く意味をなしていない。
 演奏者がいるならば、それと対峙するのは指揮者である。
 私が握るこの剣が、魔王の演奏を支配する指揮剣(タクト)だ。
 シュテファンが軽く腕を振るうと、私達を中心として一辺が五十メートルの立方体の結界が現れた。彼らと歌姫のセッションの際には、無闇に周囲に被害を与えぬよう、こういったものが敷かれるのが暗黙の了解となっている。
「気をつけて」
 背後に立つ直が、そんなことを言ってきた。私はそれを聞いて、不意に笑い出したい衝動に駆られる。
 気をつけろ? 気をつけろだって? どの口がそんなことを言う。私が気をつけなきゃいけないとしたら、それは一体誰のせいだと思っているんだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 ──魔王の背中から、音色が流れ始めた。
 ヨハン・セバスティアン・バッハ作、『小フーガト短調』。パイプオルガンの名曲だ。
 静かで重たい音色は、しかし文字通り音速の衝撃となって私に襲い掛かる。音が聞こえた瞬間には、その衝撃は私を撫でているのだ。
 私の左右の大地が、断崖絶壁のように抉れ消し飛ぶ。
 既に私の腕はタクトを振り、衝撃の音色を弾いている。真鍮(ブラス)のタクトは、私の内側にある振動を増幅して出力する。歌を歌えない私が彼らを相手にするために必要な武器だ。
 刺突剣(レイピア)のように突き入れれば音を弾く壁を生み、鋭剣(サーベル)と振れば土を砕く波を放つ。
 だがそれもいつまでもは持たない。相手は魔王、全世界に三百四十八名いる『彼ら』の中でも、現在たった六名しかいない最高位の力の持ち主だ。加えて小フーガト短調は、時間の経過と共にその重厚さ、その苛烈さを増していく。
 乗算されていく重圧。遁走曲(フーガ)の名の通り、オルガンの音色でできた鼠の群れは、黄金色のハメルンの笛吹きに追い立てられて、私の足を齧っていく。か細い白樺を倒すのに、そう時間もかかるまい。
 だから、私は息を吸った。
 ああ、歌うのは一体いつ振りだろうか。壊れた喉には負担が大きすぎる、私の『音』。それを出す機会を与えてくれたことは、シュテファン、唐突過ぎるお前の来訪を歓迎してやってもいい。
「ァ」
 私の喉は、まともな発音ができない。精々出せるのは母音だけで、歌詞のある歌を歌うことはできない。
 だがそれは『歌えない』ことではない。
 聴かせてやる、私の歌声を。
 声を喪った私が、それでも歌姫であり続ける理由を。
「────────ッ!!」
 三十六小節に入ったフーガに、喉から搾り出した無音の叫びをぶつけた。可聴領域を越えた音声で、フーガ本来の音色を侵さぬまま、その上にある破壊の波だけを打ち消していく。カバーし切れなかった部分はタクトで散らし、私はシュテファンの演奏に拮抗する。
 私達のセッション(たたかい)は、殴る蹴るなどの直接的なものではない。
 互いの音をぶつけ合い、相手の音を打ち負かすことで勝敗が決する。音色を合わせて相殺しながら、その中にまた違う音色を差し込んでいく。
 命を懸けたコーラスは、だからこそ彼らにとってこの上ない甘美であり、私達にとっては全てが死線の綱渡りだ。
 そして私の場合は、更に違う。本来の声を喪った私の喉は、しかし可聴領域外の音のみを、声なき叫びとして発することを可能にした。直は犬笛みたいなものですねと揶揄したが、あながち間違ってもいない。
 だから私はまだ歌姫だ。人々を安らがせる音色は奏でられなくとも、一番守りたい馬鹿野郎を守ることはできるのだから。
 叩き付けるように連鎖していた曲調が、変化する。転じてこれは『目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ』。やはりバッハだ。曲調の変化と同時に波のパターンも変化する。私は無音の叫びを調整し、それに対応する。顔をしかめながら。
 ……人間が彼らに対抗する点で、不利な点が一つある。
 それは人間は息切れするという点だ。ブレスを挟んでいても、その瞬間音は発されなくなるわけだから、そこには一瞬とはいえ隙が生じる。彼らのように全身が音を奏でる機構でない以上、それは仕方のないことだった。
 故に肝要なのは、相手の曲の調子に合わせて的確なブレスを挟んで歌うこと。そしてできるだけ短気決戦を心掛けることだ。彼らと違い、人間には体力の限界もある。
 それは私も例外ではなく、更に、私は他の歌姫よりも制限時間が短い。一度壊れた喉は、いつまた止まるか分からない、導火線の隠れた爆弾のようなものだから。
 曲が変化する。『トッカータとフーガ ニ短調』。シュテファンはバッハのメドレーを演奏している。私は彼が曲目を変えるたびに、喉を調整しなくてはならない。
 重なり合う優しい音色と、聞こえない破壊の波。空気中を一秒三百四十メートルで駆け抜ける波濤の連鎖は、確実に私を押している。土煙に塗れて見えない足元は、私の周りと背後を残して崩れてしまった。今私は、崖の先端にいるのだ。
 耐え切れない。そんな予感があった。でも、それでも私は歌い続けなくてはならない。後ろには馬鹿がいる。私から声を奪った馬鹿がいる(・・・・・・・・・・・・・)。それを、この音色の前に立たせるわけにはいかない。
 ──ふと。
 能面のようなシュテファンの顔に、私は。
 笑みを見た気がした。
 演奏が一瞬、停止した。破壊の嵐が晴れ、砂埃の舞っていた結界内に一瞬だけ青空が垣間見えた。
 シュテファンの背中の六本のパイプが、真っ直ぐに伸ばし揃えた指と共に、一斉に天を向いた。
 シュテファンが両腕を振り下ろす。五指が空気を引っかき、指先から吸入された空気が音色となって迸る。右肩の円錐(テーパ)管が呼吸を行い、空気が全身を駆け巡って、左肩のトランペットが高らかに鳴り響いた。
 腰のトロンボーンが重奏し、鍵盤の首飾りは踊り狂い、金属のブーツは小鳥の囀りで歌いだす。
 既存の曲ではない、金管魔王ヾt.シュテファン自身の作曲によるオリジナル。題名のない、自分自身を楽器とした全身全霊の大合奏!
「ォ──」
 それに対抗すべく息を吸い、私は。

 ──声を発することができなかった。

 喉が引きつり、歌うことを拒否した。埋め込まれた爆弾が炸裂し、私の喉を機能停止に追いやった。
 それは、ほんの一瞬の硬直だったかもしれない。百分の一秒の命令無視だったかもしれない。
 だが距離十メートルの対峙において、コンマゼロイチの遅れは、どうしようもなく致命的で。
『音楽』が迫る。この世のものとは思えない美しい音色は、私を飲み込み──





「 いざや来たれ お前はいかずち 」





 その瞬間、シュテファンの演奏は、直のための伴奏になる。
 音と歌声だけが残り、破壊は全て失われた。
 私は振り返った。その瞬間、私の手からタクトが奪われる。私からタクトを奪った直は、そ知らぬ顔でウインクをしてみせた。崖の先端に気軽く足をかけ、シュテファンの演奏に合わせて歌いながら。
 ああ、私は。
 決してお前にだけは、歌わせたくなかったのに。

「 振り返れば 谷底にはお前の姉がいる
  手には財 背には宝 頭に冠 胸には衣 」

 彼らに対抗できるのは、歌姫と呼ばれる女性達だけだ。歌姫だけが彼らと同様に破壊の波を発し、彼らとの拮抗を可能にする。
 そのはずだった。

「 投げ打って お前の姉を救わんと欲すれば
  お前はひとつの いなずまになる 」

 無論、直は歌姫ではない。彼は自らの声で破壊を齎すことはできない。
 だが、ただの人間でもなかった。

「 落ちよ 落ちよ 落ちよ 落ちよ
  空を裂き 天を灼き お前の望みを叶えてしまえ
  だが気をつけよ 人の子よ
  お前の熱はきっと お前とお前の姉をも 灼いてしまうだろうから 」

 吟遊詩人。私はそう呼んでいる。
 彼らの演奏と自分の歌をぶつけ合うのではなく、彼らの演奏に合わせて即興の歌を歌うもの。
 これまでただ一人として存在しなかった、彼ら以上の異常だった。

「 嘆く前に 助けを呼べ
  請うがいい どこのだれにでもいいから
  望まば願え 叶わずの意思と理解しながらも
  どうせお前は 弱いのだから 」

 だから私は、直を守りたかった。私に残されたたった一人の家族を、母親の違う弟を、決して私と同じ土俵には立たせたくなかった。
 私の母は私を産んですぐに死んだ。その後父は再婚し、私には一つ下の弟が生まれた。
 新しい母は前妻の子である私を疎んじた。けれど弟は、よく私を慕ってくれた。そんな弟の手前、母も私を無下に扱うことはできなかった。
 それが崩れたのは、私が歌姫になったからだ。
 これ幸いと母は私から離れようと父に進言し、父はそれを呑んだ。そのことで父を恨んでなどいない。父が歌姫としての私を恐れていたことを、その時の私は理解していた。
 そして家には私だけが残されて──しかし一週間後、家出をしてきた弟が半ば強引に住み着いた。
 ただし弟ではなく、召し使いとして。
 歌姫には、一人だけだが自らのサポートとして自由に人を選べる権利が与えられる。無論相手の承諾も必要だが、そこには本人同士の意志確認が必要なだけで、それ以外の何者をもそれを阻害することはできない。
 そして私は、弟と──直と二人で戦い続けた。直も近所の学校に通いながら、私の戦いをサポートした。
 そんな折だ。私が直の能力に気づいたのは。私は一度、直に救われている。

「 さあ いかずちとなれ
  焼け焦げた お前の姉を手に入れたくば 」

 その時、十三歳の私は決心した。直を絶対に戦わせない。この世界に巻き込まない。
 そのためにそれまで以上に私は戦い続けたのだが、それが逆に、直を追い詰めてしまった。

「 さあ いかずちとなれ
  泣き叫ぶ お前の手の中に姉はある 」

 十五歳の時、直は私の喉を切り裂いた。私を歌姫として戦わせないために。
 どちらも相手を戦わせたくなかったから起きた、悲劇というには余りにも滑稽な笑い話だ。
 直は、多分、その後自分がどのような処罰を受けるか、全て了解の上でその行為を行ったに違いない。頚動脈に触れずに声帯だけを切り裂くなど、余程の努力がなければできないことだ。
 だから私が、自分の不注意でついた傷だと救急隊員に告げた時の直の顔は見物だった。
 以来、直はスネてしまったのだろう、多分。名前の通りだった性格がものの見事に捻くれてしまった。私の嫌がることばかりをして、絶対に私を姉とは呼ばず、ことあるごとに私が嫌がる顔を見て愉しんでいる。

「 ──それともお前は 生身のままで 谷底に飛び込むのか 」

 この、まるで私と自身を揶揄するような詩も直なりの皮肉だ。
 そのくせ内に秘めた想いは、いつまでも変わらずずっと同じなのだからたちが悪い。──私の想いがそうであるように、だ。
 いつしか、シュテファンの演奏は終わっていた。
 見れば左肩のラッパが欠けている。私や直によるものではない。私の波はシュテファンに届いていなかったし、直の詩はただ相手の演奏を無効化するだけのものだ。
 シュテファンは、不思議そうに自らの左肩を撫で、
「──フム」
 声を発した。
「噂に聞いた『沈黙の歌姫』と手合わせ願うべく馳せ参じたのだが、よもや貴殿のような人物と出会うとは。いやはや、このシュテファン、柄にもなく昂ぶってしまったようだ。自慢のトランペットが割れてしまった」
 今まで誰も聞いたことのなかった声で、シュテファンは饒舌に喋っている。
「……喋れるんじゃねぇかよ」
 私の気持ちを直が代弁した。
「喋れるとも。単に今まで言葉を交わす価値のある者に出会わなかったというだけだ。その点、君達は実に面白かった。善哉善哉」
 表情のない顔からは何も読み取れないが、声は楽しげだった。
「あんたな……あんまり唐突に来られても、俺もあね、……お嬢様も困るんだが」
 直、今ちょっと姉貴って言いそうになっただろう。そのまま言ってしまえばよかったのに。
「む? 昨日のうちに遣いは出しておいたはずだが?」
「遣い?」
 直と二人して首を傾げ、
「──あ。あのイドーとかいう」
「そうそう。何だあやつめ、用件を伝えてなかったのか?」
「忘れたって言ってたから、殴った」
 もうちょっと誤魔化して言え馬鹿。お前はともかく私は淑女だ。誤解される。
 しかしシュテファンは取り立てて気分を害した様子もなく、寧ろより一層楽しげな声で、
「成程成程、あやつめ、帰ってくるなり縮こまっているから何かと思えば、そういうことか。ソトコワイソトコワイとぶつくさ呟いておったぞ」
 それはまた……悪いことをしたというか。
 流石に直も反省したようで、ばつが悪そうに頬を掻いている。
「まぁあやつには良い経験になっただろう。何事も経験だ」
 うむうむとやけに人間じみた動作で頷いているシュテファンだったが、こちらには色々と疑問もある。
「あいつはなんだったんだ?」
「我の一部だ。楽器を一つ切り離してな、自我を持たせてみた」
「……器用だな、あんた」
 いやいや、と謙遜するシュテファン。そこからは、つい先ほど私の生命を脅かしたとは思えない友愛が見て取れる。
 だが、彼らはそういったモノだ。彼らの生死の概念は、人間とは違う。殺した歌姫の屍に、楽しげに握手をして帰るのが、彼らにとっての当たり前だ。その点については、私達と彼らは永遠に分かり合えないだろう。
「いやしかし、実に楽しかった。また手合わせ願いたいものだ」
「遠慮したいなこっちは」
 まったくだ。
「それとシュテファン、頼みがある」
「ふむ?」
「俺のことは、他の奴らには言わないでくれよ、絶対。でないとお嬢様が無茶して死にかねん」
 私を親指で指し、言う直。……そういう気遣いが余計なのだ。
「ふむ、事情は知らんが、あい分かった。私としても共に歌える相手を失うのは惜しい。沈黙の歌姫よ、汝が『歌声』、まことに美しかった」
 実に嬉しくない。
「さて、我はそろそろ去るとしよう」
 彼がそう言うなり、空が翳った。
 見上げたそこには、巨大な鯨が浮かんでいる。全身が金属製で、背中にはそれぞれ高さの違うパイプオルガンの管が剣山のように突き立っている。まるで峻険な山脈を思わせるいでたちだった。
 あれが多分、シュテファンの本体だ。今ここに立っているのは、あの巨体から削りだしたほんの一部でしかない。
「ではな、また」
「……二度と会いたくねぇよ」
 直の減らず口に手を振るだけで応え、シュテファンは鯨の中に吸い込まれていった。
 鯨は速やかに空を泳ぎ、山の向こうに消えていった。
 残されたのは私と直だけだ。結界は解かれ、合奏終了の報は生徒達にも伝わっているだろうが、まだ皆が戻ってくるまでには時間がある。
 平らだった運動場は荒れ果てて、私達のいる場所は、二人きりの壇上のように周囲から孤立している。
 直は座り込んだままだった私に手を貸し、立ち上がらせながらこう言った。笑って。
「お疲れ様、姉貴」
 ……こういう時だけそう呼ぶ、お前のそういうところが私は嫌いなんだ。
 私は直の手を乱暴に振り解いた。
 その時の私の顔は、きっと赤かったに違いない。









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