ハイロウ





「あ」
 改めて、視界に収まりきらないくらい巨大な蒼穹が自分の上にあることを確認して、私はまた『こりゃ駄目だ』と悟った。
 毎年、よく飽きもせずに続けているものだと自分でも思う。けれどこれをやらないと私の夏の始まりは来ないような気がするし、何より、折角あるものを使いもせずに仕舞い続けているのはもったいない。そして意味がない。
 そんな意気込みがあれば結果が変わるというわけでもないのだけれど。
 かくして私は落下する。跳ぶ→落ちる。これ物理法則の必定。
 全天に広がる青空は加速度的に遠ざかり、視界の端に現れた茶色い崖と杉の先端が落ちる私を嘲笑うように天へ伸びていく。
 一瞬、私の下にはまだ若い杉があってこのまま落ちたら串刺しになるなぁ、と想像して嫌な気分になり、けれど落下地点は前もって予測していたのでそんなことにはならないと分かっていた。
 重力加速度に身を任せれば、いっそ頬を通り過ぎる猛暑の空気が心地良かった。真っ白なワンピースの裾がばたばたとはためく様は、干されたシーツが旋風に弄ばれるようで面白かった。
 それでも、落ちることが自分の選んだ結果であっても、良い気分になどなれるはずもない。
 あの空を飛べることの優越に比べれば!
 唇を噛み締めながら諦めを味わった。諦めは味気なかった。
 そうして落ちる。予想していた結末がやはり予想通りの結末になりゆくことの退屈を紛らわそうと腕を伸ばしかけた。それが伸びきる前に、私の視界は緑の中に埋没した。
 ばん。背中から叩きつけられた。腐葉土と苔と青草の折り重なったクッションとはいえ、女子高生一人を抱きとめるにはやや貧弱だった。
「いたーい……」
 当たり前だった。
 背中と腰をしたたかに打ちつけたものの、骨に異常はないようだ。私の身体はこうして跳んで落ちるためにあるんじゃないかと思いたくなるくらいの頑丈さだ。
 ポケットの中に手を入れる。平べったい直方体のボディを触ると電子音が返ってきた。しまっておいた情報端末も無事なようだ。これで端末だけ壊れていたら私の身体は強化セラミック以上の強度ということになる。
 青空にフォーカスされていた眼を、もっと手前の崖の先端に合わせる。高度一〇メートル。飛距離……五メートルくらいか。助走をつけて全力で跳んでこの程度。私の身体は本当に丈夫なだけか。
 私はなだらかな斜面に頭を下に向けて倒れているようで、全身の血液が首の辺りに溜まっていくのが分かった。ちょっと苦しい。
 血行を良くしようと、倒れたままうーんと伸びをする。首から尻まで背骨を反らすと、世界が逆さまに見えた。と、
「…………」
「…………」
 目が合った。
 さらさらと流れる水の音が二人の間にはあった。
 何のことはない、私が落ちてきたのは沢にほど近い場所で、そこでたまたま人がいたのだ。珍しい、こんなところにまで踏み込んでくるのは余程の物好き(つまり私)くらいのものだと思っていたけれど。
 ぱちくりと目を瞬かせて改めてよく見てみると、その人は私と同じくらいの歳だと思われる男の子で、手には釣竿を持っていた。この辺は何が釣れるのだろう。
 男の子もまた私と同じように、物珍しそうに私を見ていた。気持ちは分からないでもない。自分以外の人間がこんなところにいるなんて、普通思いはしないからだ。……川で釣りをしている人と、崖から真っ逆さまに落ちてきた人。どちらが珍しいかといえば、そりゃあ、私なのだろうが。
 人前でいつまでも転がっているのも失礼だ。沈黙を良いことに私は緩慢な動作で身を起こした。普段ならぱっと起き上がることもできたのだけど、どうやら足首を捻ってしまったらしくて、激しい動作をすると痛みが走りそうだったのだ。
 両足を投げ出すようにして座り、背中の羽を一打ちして所々くっついた葉っぱを払った。背中から落ちて下敷きになったのに、異常は全く見られない。一見すると私の身体では一番脆そうな部分なのだけど。
 そんな私でも足を挫いてしまったことは仕方ない。関節はどうあっても鍛えることができないからだ。
 そうする間もずっと、彼は喋らなかった。どう声をかけていいものか考えているようだった。
 なので、私から切り出した。
「こんにちわ、いい天気ですね」



「ここ私有地」
「嘘ぉ」
 すげぇ。私は素直に驚いた。どこのお坊ちゃまなんだこの人。
「あいや、俺のじゃなくてだな。友達の実家がこの山の持ち主なんだ。俺はその友達と一緒にここに遊びに来てるわけ」
「なぁんだ」
 目の前にとんでもない金持ちがいると思って気後れしてしまいそうだったが、そうじゃないのなら気安いものだ。
 聞くところによると彼は深谷浩一といい、この近くの高校に通う高校二年生らしい。ちなみに名前はコウイチじゃなくてヒロイチと読む。少し気の抜けた感じのする愛嬌のある名前だと思う。
 私も自分が藤乃四季という名前であることを明かした。私はここから少し離れたところの女子校に通う、浩一と同じ二年生だ。
 私は浩一の隣で岩に腰かけ、両足を川の中に突っ込んでいる。足を捻ったことは言っていない。自分で崖から落ちて怪我しただなんて情けないったらありゃしないからだ。
 と、そうだ。そう言えばまだ私がここにいる理由を言っていなかった。私と彼が無言で見つめあう羽目になったのもそれにあるのだから、浩一だって内心訊きたくてしょうがないんじゃないだろうか。
「それであんた、なんであんなところにいたんだ」
 そら来た。
 私が崖から跳んだ理由、本当になんでもないことなのだが、できるだけ格好つけて私は言ってみた。
「空を飛んでみたかったの」
 凄い顔をされた。
 ドナドナされる仔牛を見る目よりいくらか穏やかな、食肉加工されてパック詰めされた牛バラ肉(半額)を見るような目つきだったが、色んな意味で生温い目なのでかなり居心地悪い。なんていうか、哀れみと諦めが混ざってる。
「そんな顔しないでよ、なんだか自分が物凄く恥ずかしくなってくる」
「それで合ってる」
 と言って浩一は川面に視線を戻してしまった。あれ、もしかして完全に諦められちゃったんだろうか、私。
「いや、私は真剣だったんだって。折角背中に羽があるのに飛べないのはおかしい」
「飛べるほうがおかしいわ。あんたが〈翼魔(デーモン)〉なのは見りゃ分かるけど、今まで飛べたやつなんて一人もいないんだぞ」
「だから私が第一人者に」
「永遠に一人目は出ないな」
 むぅ、と私はふてくされてみせる。私の気持ちに応えるようにばさりと羽が羽ばたいた。身体は浮き上がらなかった。
 それでも私は空を飛びたいのだ。
 人が空に憧れて幾星霜。ライト兄弟が飛行機を発明して三百年。そして、人がヒトから変わってから百年。
 未だに人は生身で空を飛べない。私のように、背中に羽が生えている者でも不可能だ。分からないでもないし、考えるまでもない。私達は鳥ではないのだから、飛べるはずがないのだ。
「それでも飛びたいのー!」
 ばっしゃばっしゃと水面を叩いた。
「うおおやめろ魚が逃げる」
 元から釣れてないくせに何言ってんだ。
「あんたがいたからだ。さっきまで釣れてた」
 負け惜しみを。
 しかし水の飛沫の冷たさを感じる頃になって、私は癇癪を止めざるをえなかった。跳ね返ってきた飛沫がワンピースを濡らしてひどくエロいことになりそうだったからだ。
 代わりに私は浩一に訊いた。
「あなたは空を飛びたいと思ったことはないの?」
「ねーなー。山ん中かけずり回ってるほうがよっぽど面白い。あんたみたいに羽もないし、元々飛べるとは思ってない」
「あなたは何?」
「〈火竜(ドレイク)〉」
「ふぅん、山火事にしないでよ」
 そこまでの火力はねぇよ、と言って、浩一は竿を引き上げた。糸の先にはびちびちと元気良く跳ねる魚がいた。
「なんだ釣れてんじゃん。釣り上手いね」
「ここいらの魚は警戒心が薄いな。普通、川魚ってのは一度逃げ出したら中々戻ってこないものなんだけど」
 浩一は手際良く針を外してクーラーボックスに放り込んだ。近寄って中を覗いてみると、中では四匹が窮屈そうに泳いでいた。一番元気がいいのが今吊り上げた魚なのだろう。どうやら負け惜しみじゃなかったらしい。
 生きている魚を見るのは中々ない経験だったのでまじまじと見ていると、浩一は不意にパタンとクーラーボックスの蓋を閉じてしまった。私の抗議の目線を受け流し、浩一はボックスを持ち上げる。釣り道具はとっくに片付けられていた。
「どこ行くの?」
「もう昼過ぎだろ。俺は昼飯担当。さっき言った友達が待ってるんだ」
 そう背中で言ってすたすた歩き出した。と思ったら、すたすたすたすたぐらいで立ち止まり、振り返る。
「あんたも食べるか」
「いいの?」
「ここに来てるのは、俺入れて三人だからな。一匹余る。それにあんた、今から帰るにしたって、歩きじゃ一時間ぐらいかかるだろ」
 まぁそのくらいはかかるだろう。正確な時間は計ってないが、駅を降りてかなり歩いたと思う。実を言えばお弁当を持ってくるのを忘れたのを今思い出した。お腹もいい具合に空いている。足はといえば、歩くのに支障はない程度には回復していた。
「それじゃまぁ、遠慮なく」
 私は浩一の隣に並んで歩き出した。
 川沿いに下っていく。さらさら流れる水の音が耳に心地良い。こんな風になんの抵抗も障害もなく、人生も空も渡り歩いていければいいのにと思う。でも、どうあっも人間は人間なのだからそう上手くいくはずもない。
 私達はクーラーボックスの中の魚だ。中途半端に身動きが取れる程度の自由は保証されている。外に出してもらえないまま。
 そんなものだ。そのことについて、特に思うことはない。それなりに退屈でそれなりに楽しければ、それでいいと思う。
 ただ私が唯一承服しかねるのは、空を飛べないというそのことだけ。
 住処は高密度ポリエチレンの箱でもいいけど、蓋がされているのは気に喰わない。
 私の心は空にある──なぁんて、格好いいこと思ってみたり。
 などと取り留めのないことを考えながら歩いていると、やがて視界が開けた。
 平地には大きめのテントが一つ張られていた。その少し離れたところから、ぱちぱちと火の爆ぜる音が聞こえてくる。
「おう、釣れたか」
 よく通る野太い声が聞こえた。テントから熊が出てきた。
 そう思ってしまうくらい大柄な男性だった。いや、顔を見るとそんなに老けていない。寧ろまだあどけなさを残していると言ってもいい。私や浩一よりも若干年上のようだが、多分、この人が浩一の友人なのだろうと当たりをつけた。男性が背を伸ばすと、私より明らかに四〇センチ以上デカい。何喰ったらこんなになるんだ。
 そしてもう一人、テントから出てきた。こちらは眼鏡をかけた線の細い少年で、明らかに私より年下だ。小学校高学年くらいだろう。
 その少年が先に私に気付き、目が合う。きょとんとした表情で私を見るが、その瞳はイルカかクジラを思わせる賢そうな印象を抱かせた。
「うん、その人は?」
 森の熊さんがようやく私に気付いた。私はできるだけ友好的に微笑を浮かべて、軽く手を上げた。
 浩一がクーラーボックスを下ろしながら、事情を説明した。
「さっきそこで拾った」
 拾われてねぇよ。
「冗談だ。さっき崖から落ちてきた」
「大丈夫なのか?」
 問いは私に向けられてのものだ。私は軽くへーきへーきと答えた。
 それでも熊さんはまだ心配そうな目線を私に向けていたが、浩一の声がそれを遮った。
「昼飯の準備しよう。純一も颯太も腹減ったろ。詳しい話は、本人から聞くさ」
 おうそうだった、と熊さん──もとい、恐らく純一氏はいそいそとクーラーボックスに小走りに駆け寄った。
「この人も一緒に飯食うけどいいよな。魚、四匹いるし」
「ヒロ兄ちゃんはそれで足りるの?」
 声を上げたのは颯太少年だ。
「あー、いいさ。夜にはバーベキューするんだ。少しぐらい腹減ってたほうが丁度いい」
 という言葉の割に、少し歯切れ悪く言った。そういえば浩一は〈火竜〉だから、結構食べるのだろう。
「もしかして私お邪魔だったかな」
「いや、誘ったのはこっちだ。構わない」
 そう言ってはくれるが、少し申し訳ない。私は部外者なので場違いもいいところだ。今からでも食事の誘いを辞して帰るべきなんじゃないかと思う。
 しかしそうこうして迷っているうちに、純一氏の手によって串に刺された魚が運ばれてきて、焚き火の側の地面に突き刺された。喘ぐように広げた口から串を通された魚を見て、私は杉の若木に突き刺さった自分を幻視してしまった。
 それが顔に出てしまったのだろう。純一氏が声をかけてきた。
「魚は嫌いだったかな」
「ううん、好き」
 なら良かった、と純一氏は快活に笑った。こうして私は逃げ道を失ってしまったのである。
 焚き火から少し離れたところにシートを敷き、私達はそこで円の形に座った。
「自己紹介が必要かな?」
 ん、と首を傾げて純一氏が訊いてきた。私は頷く。
「じゃあ簡単にだが。オレは鷲尾大学の一年で坂東純一。ここはオレの爺さんの山なんだが、毎年キャンプに来てるんだ。去年までは親同伴だったんだけど、今年はオレが免許取ったから三人だけでな」
 純一氏は一気に捲し立て、でこいつらが、と浩一と隣の少年をそれぞれ指した。
「さっきも紹介したけど、深谷浩一な。ヒロでいい」
「純一の弟の颯太です。小学六年生です」
 ぺこりと頭を下げる颯太君。素直そうないい子だ。私にも妹がいるけれど、ひねくれていて全然可愛くないのでちょっと羨ましい。
 純一氏は笑いながら颯太君を指差した。
「こいつかなり頭良くてな、来年からは飛び級で大学通うことになってるんだ」
 兄ちゃんやめてよ、と颯太君が迷惑そうに眉を顰めた。耳が少し赤くなっている。照れ隠しなのだろう。
 しかし飛び級で大学生とは、かなり凄い。ひょっとしなくても私より頭がいいんじゃないだろうか。
「違ってたらごめん。もしかして颯太君は〈精霊(ゴースト)〉?」
 はい、と颯太君は頷く。
「ちなみにオレは〈走鬼(オーガー)〉でな。顔つきとか身体つきとか似てないのもそのせいだ」
「いや、兄ちゃんは筋トレしすぎ……」
 颯太君が控えめにツッコミを入れるが、純一氏はただ笑うだけだった。
 実際純一氏は正に筋骨隆々といった言葉の体現者みたいな体格をしている。無駄なく引き締まり、健康的に日焼けした身体はどこの格闘家かといった感じだ。髪は定規で測ったみたいな角刈りだ。
「うん? ああ、大学じゃレスリング部に入ってるよ。昔は空手とボクシングと柔道も一通りやったけど」
 何気なく訊いてみると純一氏はそう答えた。しかも全部段位持ち。本当に格闘家だったらしい。
「山篭りとかするんですか?」
「いや、それはやったことないなぁ。……ふむ、でも面白いかもしれん。今度やるかな、冬にでも」
 と、純一氏は予想外に真面目に考え込み始めた。すると、颯太君が何故だか困ったような笑顔を見せた。
「あんまり兄ちゃんを焚きつけないで下さい。ろくなことにならないんだから、えーと……」
 颯太君が不意に困ったような顔をする。ああ、そうだ、私はまだ名乗っていない。
「藤乃四季です。高二です」
「そうか。よろしく、四季さん」
 純一氏が白い歯を見せて笑い、手を差し伸べてくる。私もよろしく、と手を差し出し握手した。無骨な大きい手だった。
 颯太君とも握手する。
「私のことはお姉ちゃんって呼んでいいよ」
「四季お姉ちゃん?」
「いや、お姉ちゃんだけで」
「うーん? まぁいいですけど」
 首を傾げながら颯太君は口の中でお姉ちゃん、お姉ちゃんと繰り返している。私の妹はもう私をお姉ちゃんと呼んでくれないのでちょっと寂しいのだ。ノスタルジー。
 ここで純一氏が席を立ち、魚の様子を見に行った。その間中颯太君は口の中で慣れない言葉を転がしていた。
「なんだかお邪魔しちゃったようで、悪いね」
 私が浩一、もといヒロに言うと、彼は肩を竦めた。
「いいよ、俺ら賑やかなのが好きなんだ。男ばかりで飽き飽きしてたってのもあるが」
「ふうん? 下心か」
「俺も男だしな。純一は筋肉馬鹿だからどうでもいいかもしれんが」
「誰が筋肉馬鹿だって?」
 ゴン、と音がしてヒロの頭が勢い良く前に傾いだ。
 笑い顔のまま彼の頭を小突いた純一氏は、缶詰をいくつか抱えていた。
「折角のお客さんだ。奮発しよう」
 と言って、彼は手際良く缶詰を開けていく。ふとヒロのほうを見ると片手で顔の下半分を覆うようにしていた。
 馬鹿力め、とくぐもった声で彼は純一氏を睨みつけて立ち上がった。ぽたりと足元に落ちたのは暗紅色の液体だった。
「ああ、すまん。まだ強すぎたか」
 申し訳なさそうに驚くという器用な表情を作って純一氏が言う。彼自身はほんのちょっとのつもりだったようで、しきりに自分の手を閉じたり開いたりしながら眉を寄せている。
 ヒロは川で顔を洗っている。臭いをかぎつけて本物の熊が寄ってきたりしないだろうか。絶滅危惧種がこんなところにいるとも思えないが。
「どうもいかん。打撃を(とお)す癖がついてしまっているようでな、加減しているつもりなんだが……」
「徹さない癖をつけなおすしかないんじゃないの? 元々のスペックが違うんだから、少しズレてるくらいで丁度いいよ、兄ちゃんのは」
 力がありすぎるのも考えものだよね、と颯太君は嘆息した。
「ま、それはさておき飯にしよう! 魚はもうちょっとかかりそうだがな!」
 大きな声で思いっきり誤魔化した。そこにヒロが戻ってきて、後で覚えてろよ、と視線だけで純一氏に訴えた。純一氏は無視した。
 徳用品のカンパンの袋が開けられ、四人の真ん中に置かれる。その周囲には魚や肉の缶詰が並んだ。
「こんなん持ってきてたのか。今時カンパンとはレトロだな」
 ヒロが言う。確かにカンパンなんか滅多に見ない。昨今、アウトドアに持っていくなら圧縮パンの缶詰なんかが主流である。
「魚釣って焼いてる時点で充分レトロだと思うけれど……」
 と颯太君。彼はフルーツの缶詰に手を伸ばしている。
 私は遠慮してカンパンに手を伸ばす。食べる直前に匂いを嗅いでみる。ゴマの香りが香ばしかった。
 一つ口に放り込んで咀嚼するのに難儀していると、ふと純一氏が声をかけてきた。
「そういえば四季さんはどうしてここに? 女の子が一人で入ってくるような場所ではないだろう」
「あー、そうでもないっていうか……毎年来てたわけで」
 しかも私有地に、である。目の前にいるのは土地の所有者だ。実際にはその親族だが私にとっては同じことである。
「毎年?」
「はい、無断で入ってすいません」
 頭を下げると、純一氏は慌てたように手を振った。
「ああいや、それを咎めるつもりはないよ。爺さんの土地といっても何かに使っているわけでも手入れしているわけでもないし、本当、ほったらかしなんだ、ここ」
 とは言っても人の土地に無断で侵入したのは事実なわけで、なら遠慮なく、と開き直れるほど私は図太くない。ただずっと頭を下げているわけにもいかないので、とりあえず顔を上げた。
「そうじゃなくてだな、毎年来ている、と言ったが、その理由は知っておきたいんだ」
「空を飛びたいんだそうだ」
 私が何か言う前に、ヒロが先んじた。このやろう。そこは私が遠くを見つめながらちょっと儚げに述懐すべきシーンのはずだ。
 きょとん、と純一氏と颯太君が仲良く同じ表情を見せた。こうして見ると二人が兄弟なんだと良く分かる。
 ヒロに言われてしまったが、私は軽く息を吐いて、改めて言った。
「ええ、空を飛びたいんです。だから崖からぴょーんと」
 あ、ほんとそっくりだ。この呆れ顔。
 しばし二人はそのままだったが、やがて我に返った。
「えーと、それを毎年?」
「はい」
「それは……うーん……」
 迷いなく答えた私に、さしもの純一氏も返答に窮したようだった。
 ……毎年自分がやっていることが益体のないことだという自覚はある。空を飛べるはずなどないということなどヒロに言われるまでもなく分かりきっていることだ。そこまで私は馬鹿じゃない。分かっていてやってる点については馬鹿かもしれないけれど。
 どうあれ、私は空への憧れを棄て切れないのだ。なまじ背中に羽があるせいなのかは分からないけれど、背中に羽がある程度で空を飛びたがるのならこの世は投身自殺未遂で溢れ返っているに違いない。だからこの憧れは私固有のものであり、例え私が〈翼魔〉でなく、他のいずれかであったとしても抱いていたであろう想いなのだ。
 しばらく考え込む素振りをしていた純一氏が、うむ、と一つ頷いた。何かしらの決着が自分の中でついたらしい。
「四季さんは毎年やっているというが、いつもここで?」
「はい、日にちは前後しますけど、大体夏休み入ってからすぐに。まぁ跳べば落ちるってことは分かってるんですけどね。ずっとやってたから、やらないのはすわりが悪い」
 私にとっては年中行事の一つなのだ。盆正月や節句と同じような通過儀礼。
「今まで鉢合わせなかったのが不思議だな。俺ら、毎年今頃はここでキャンプしてんだが」
 ビーフジャーキーを齧りながらヒロが言う。
「まぁ跳んで落ちたら後は帰るだけだったからねぇ」
「わざわざそれだけのために、ここに?」
 と颯太君。うんまぁその通りなんだけど、そう純粋な疑問を口にされるとほんと自分のやっていることが馬鹿らしいことのように思えてくるというか。いや実際そうなのだから、この際そろそろ恥じらいというものを自覚してやめてしまうというのも選択肢の一つなのかもしれない。
「まぁね。ここを選んだのは本当に偶然。飛ぶのに丁度いい場所探して歩いてたら、ここに行き当たった」
「自殺者が飛び降りる場所探してるみたいじゃねぇか」
 ヒロが露骨に嫌そうな顔をする。
「死ぬ気はないし、多分死なないよ。身体、頑丈だから」
 そこで私は、この話題はお終いというように両手を広げてみせた。
 私は動機を語ることはしなかった。飛びたい、それ以外に理由がないからだった。もっともらしい理由をつけて空への憧れを語ることはできるし、それでこの三人を納得させることは出来るだろう。けれどそれはしない。したくない。自分の中で燻る言葉に出来ないものを無理矢理言葉にしてしまったら、それは言葉に出来ないはずのものまで「嘘」という形を得てしまう気がした。
 そうやって穢したくないと思う程度には、私は空が好きなのだろう。
 そうしているうちに魚が焼けた。純一氏がそれを取り分け、私達はそれをはふはふ言いながら食べた。味付けは塩のみだ。こういうワイルドな食事をするのは初めてだったけど、悪くなかった。
 四人全員が魚を食べ終わる頃、ふと颯太君が言った。
「けど面白そうだよね、空を飛ぶのって」
「なんだ、お前まで空飛んでみたいとか言うんじゃないだろうな」
 とっくに魚を食べ終えていたヒロが、カンパンの残りを全部口に押し込みながら言う。私もまだ食べたかったのに。
「別に僕は飛びたくはないよ。肉体労働は嫌いだもん。ただヒトが生身で空を飛べるかってことには興味があるね」
「そういや颯太は航空力学専攻するんだっけ」
「うん。人一人が装着できる小型の飛行支援ユニットなんかも作ってみたいなぁ」
 楽しそうな笑みを浮かべて颯太君は夢を語る。
 将来の夢がはっきりしているのはいいことだ。私にはまだなんのビジョンも見えていない。見たくないのかもしれない。やりたいことなど、それこそ空を飛ぶことしかなかった。私が空を飛びたがるのも、或いは逃避の一種なのだろうか。
 少しメランコリーな気分になりながら私が麦茶を啜っていると、金持ちが気まぐれにぽんと札束を募金箱に突っ込むくらいに気軽く純一氏が言った。
「じゃあ、飛んでみるか」
「はぁ?」
 声はヒロのものだ。私は他の三人が私の言葉を聞いてそうなったように、呆気に取られていた。
「うん、いや今の話を聞いてて思ったんだがな、やってやれんことはないと思うんだ。なんせほら、ここには四種全部が揃っているだろう?」
 と言って、彼は私達を見渡した。
 確かに、要素で言うなら必要なものは全て揃っている。
〈翼魔〉、〈火竜〉、〈走鬼〉、〈精霊〉。
 空を飛ぶために必要な四要素。
 あのなぁ、とヒロが呆れに満ちた口調で純一氏を諌めた。顔には『絶対嫌だ』とサインペンで書いてある。
「それは一人に四つが在ってこそ成立するものだって、純一習わなかったか? 俺達のコレ(・・)は本来複雑に絡み合い連携されるべきだったはずの断片(ガラクタ)であって、単に積み重ねるだけじゃ意味ないんだぞ? 本当に脳味噌まで筋肉なのか? 暑さにやられた? 常識的じゃない」
 川の流れのように淀みなく、ヒロの声が純一氏に覆い被さる。
「兄ちゃん、いつもこうなんですよ。面白そうなことがあるとすぐ飛びつくんだから」
 隣に座る颯太君がぼそぼそと耳打ちしてくれた。その顔は何故か少し楽しげだ。私は何となくこの三人の関係が読めてきた。
 多分、こういう状況はいつものことなのだろう。先程の彼の反応や、焚きつけないで、という颯太君の言葉からもそれが分かる。そして迷惑を被るのは主にヒロで、颯太君はそれを遠目に眺めているだけなのだ。
「もしかして、こうなること予想して話題を振ったの?」
 少しだけ、と颯太君は悪戯っぽく笑う。やれやれ、この少年、とんだ食わせ者だ。
 ヒロのジト目を一身に受ける純一氏は、いやいや、と身体の前で手を振って、やんわりと宥めた。
「俺もそんな単純なことじゃないとは分かっているさ。だが面白いとは思わないか?」
「興味ないよ。空飛ぶことなんてな」
 じゃあ颯太はどうだ、と純一氏は弟に話題を振った。颯太君は予め用意していたであろう言葉を口にした。
「僕はやってみたいね。さっき言った通り興味あるし」
「おい本気か二人とも。俺ぁ前みたいな尻拭いはごめんだぞ」
 多数決で不利になったヒロは、迷惑そうに眉根を寄せた。前に何があったのかは知らないが、私は、こうして事前に純一氏を説得しようとして失敗するのも、その後の後始末をする羽目になるのも彼の役回りなのだと勝手に理解した。
 そんなヒロに対し、純一氏は何故だかニヨニヨと似合わない卑猥な笑みを浮かべていた。
「いいのかぁ? 好感度上げるチャンスなのに」
「ばっ」
 ヒロが仰け反るように身を引いた。
「お前黒いストレートロングの子が好みって言ってたじゃないか、前に。しかも結構可愛い。そんな子が崖から落ちてきて『空を飛びたい』だぞ? ロマンスの香りがするじゃあないか」
 大袈裟に両手を広げてみせて、言う。純一氏は、どうやら見た目に似合わずロマンチストらしい。ていうか夢見がちだ。熊みたいなのに。
「そりゃ前に言ったけど本人の前でそういうこと言うなよ。意味ないだろ」
 ヒロはぼそぼそと喋る。純一氏は笑っている。
「そもそも四季さんをここに連れてきたのはお前だ。恨むなら自分の下心を恨め」
「アホかなんで自分の本能を恨なくちゃいけないんだ。発端はこいつだが提案はお前だし原因は颯太だ。そもそも俺は協力するとも言ってない。やるなら三人でやれ」
 ムスッとした表情でヒロは腕を組んだ。徹底抗戦の構えである。
 しかし純一氏はにまにま笑いを崩さない。そしてわざとヒロに聞こえるように、こそこそ喋るふりをして私に言った。
「四季さん、こう、身を屈めて上目遣いしながらお願いしてみるといい。こいつ絶対断りきれないから」
 余計なこと言うなバカとヒロが叫ぶ。見れば颯太君も純一氏と同じ笑みを浮かべていた。やっぱり似ている。
 それはさておき。
 これは、決定権が私に委ねられていると思っていいのだろう。私が甘く『お願い』と囁くだけでヒロが陥落するのであれば、逆に私がそうしない限りこいつは絶対うんとは言わないのだ。顔の文字は既に極太マジックに変わっている。
 ヒロがどう思っているかはさておき、彼がさっき言ったことは全く正しい。私達が生来持つ四種の力は、あるべきだったはずのものが分散したひとかけら。それを集めただけで正常に機能する保証はないのだ。
 常識的じゃない、その通りだ。ロマンスひとつで空が飛べるのなら、地に足がついていないという比喩は意味を失うじゃないか。
 ──なんてね。
 考える振りをしたってしょうがない。
 真面目に考えればその通りだとは思うのだ。でも、『空を飛べるかもしれない』、その可能性が提示されただけで、私の心はさっきからわくわくしっぱなしなのだ。その気持ちに嘘はつけない。
 第一、私がそんな常識的に従うような人間だったら、崖から跳んだりしていない。この三人とも出会っていなかった。
 私は今とてもとても楽しい。今まで、自分一人では辿り着けなかった場所が見えてきたから。
 なら、どうするかは決まっている。
 私はしなをつくり、そうっとヒロににじり寄った。上目遣いに彼を見上げながら、声を吐息に乗せて、
「ねぇヒロ……お願い」
 反応は劇的だった。ヒロはアンモニアを吸ったフェノールフタレイン液のように顔を真っ赤にして硬直した。外側からは純一氏と颯太君がやんやの喝采を上げる。
「いいぞ四季さん!」
「お姉ちゃん色っぽーい」
 私は照れを誤魔化すように、やだもう、と手を振った。自分でやっといてなんだがかなり恥ずかしいなこれ。
「やっぱり私こういうの駄目だなぁ」
「いや今のは中々可愛かったぞ」
 うんうん、と純一氏がしきりに頷き、颯太君が迎合する。褒め言葉と受け取ることにして私は二人に笑顔を送り、またヒロに向き直った。
「で、協力してくれるのかな? ヒ・ロ・くん?」
 今度は年上のお姉さんのイメージで攻めてみる。サービスに、ちょん、と指先でヒロの鼻先を押した。
 それがプッシュスイッチにでもなっていたのか、さっき止まったはずの鼻血が勢い良く噴き出した。うわぁ。
「くそ、不覚……!」
 それで我に返ったヒロは慌てて川に駆けていった。
 ……やっといてなんだけど、彼は将来大丈夫だろうか。そこら辺のお姉さんにコロっと騙されてしまいそうで心配だ。
 しばらくして戻ってきたヒロに、純一氏は追い討ちをかけるように言った。
「ヒロ、ここで引き下がったら男じゃないぞう?」
「男じゃなけりゃ良かったよ」
 そうぼやきつつも、彼は協力することを了承した。無論、苦い顔をしたままで。



 その後、私はとりあえず家に帰ることになった。ヒロ達はまだ数日間はここにいるとのことで、私は明日またここに来ることにして、その場を去った。
 キャンプに付き合うのも面白そうだったけれど、準備も何もしていないし、流石に私でも男三人と山の中で夜を過ごすというのには抵抗があった。
 手を振って三人のキャンプ場を後にする時、純一氏と颯太君は笑顔で手を振ってくれた。ヒロは最後までぶすくれた表情のままだった。
 今、私は市街を横断するリニアの上にいる。
 途中、市街のほうに寄って端末にお金を下ろして、その途中で学校の友人に会って一緒にショッピングをしていたせいですっかり遅くなってしまった。私の足元には膨らんだ買い物袋が二つ、ある。
 窓枠にもたれて右から左へ流れていく景色を見る。時速三二〇キロで走るローカルリニアからは、外の世界は水の流れと等しい。景色を楽しむ暇もありはしない。一駅間は平均一分。駅での停車時間のほうが長いくらいだ。
 今はこのリニアは、次の駅まで唯一、三分以上かかる駅間を走行している。
 スライドし続ける視界の中、いつまでたっても消えてしまわないものがあった。
 一つは太陽。遠いビル街の狭間に沈みゆく灼熱は、夕方になってその熱を失い、世界を緩やかに眠りの温度へと下げていく。
 そしてもう一つは、太陽を中心から縦に貫くように立った天地を結ぶ線。地面から生えたそれは重力を快活に笑い飛ばしながら天へと伸びて、やがて紫の空に溶けて見えなくなる。
 人は空を飛べないまま、それでも空に到達し、越えた。
 現在、世界に七基が存在する軌道エレベータ、の五つ目。現在建設中の二つを除けば最新の一基にして、赤道直下以外に建設された始めての軌道エレベータ。現在フル回転で稼働中であり、今なお建設中だ。静止軌道上のコロニーからは、定期的に有人探査艇が出されている。月のテラフォーミング計画もようやく始動にこぎつけた、と一年前ニュースで言っていた。百年前からの混乱のせいで止まっていた開発計画も、ようやく当初の予定に追いつきつつあるようだ。
 ……およそ二百二十年前、二〇八〇年代に入ると、様々な分野で技術の頭打ちが始まった。研究によって打ち出された新理論に対しそれを実現するための材料の供給がおっつかなくなったのだ。ウサギがカメになったみたいな歩みの中で、それでも技術者達が諦めずに新たな技術を確立させていき、人類の火星への到達を実現、そしてついに赤道直下以外での軌道エレベータの建設を可能とする技術と材料が完成したところで、ウサギもカメも歩みを止めずにはいられないようなことが起きた。
 ある日、世界中の人間に羽が生えた。
 実際に羽が生えたのは全体の四分の一だったけど、残りの四分の三にもそれぞれ違う変化が現れた。
 そして、世界中の人々全員が、その変化の意味を、理由を、全て等しく理解していた。
 私達は〈天使(エンゼル)〉の出来損ない。
 どこかの誰か、或いは誰か達が実現しようとした数式が失敗した結果。ヒトを天使に押し上げるはずの儀式は、中途半端な位置で止まった上に、四つの要素に分散されてしまったのだ。
 即ち、
 天翔けるための二枚羽、〈翼魔(デーモン)〉。
 飛び立つための運動性、〈走鬼(オーガー)〉。
 空を飛ぶための精神性、〈精霊(ゴースト)〉。
 前に進むための推進力、〈火竜(ドレイク)〉。
 これらを考えるに当たって、正八面体を想像するといい。向かい合うニ頂点に一本の軸を通して天地を定める。
 かつて私達は地にあった。それを、四方向から引っ張り上げることで天の位置まで打ち上げよう(・・・・・・)というのが、〈天使〉の数式だった。
 しかし結局それは失敗し──到達できなかった私達は、天でも地でもない宙ぶらりんの位置で、仕方なく周囲の四頂点のどれかに向かう羽目になった。
 そうして私達のご先祖様は、ある日突然それまでの人間をやめざるを得なくなったのだ。
 そんなんだったから、世界中で混乱が起きた。先進国の大統領から原住民の少女にまで、全ての人が一斉に自分が人間ではなくなったと気付いてしまったのだから、何も起きるなというのも無理な話だ。
 ただ、それが言いがかりめいた暴論を理由にした戦争なんかに通じることは、なかった。何しろ自分以外の人間まで等しくそうなってしまったことを知っていたので、誰が原因かなんて特定のしようもなかったのだ。
 降り注ぐ雨に人為的な意図などない。文句の言いようもない。文字通り平等に降り注いだその異常は、ただみんなに、変わってしまった自分自身と、そのことを納得してしまっている意識への戸惑いを与えた。
 混乱はやがて収束した。普段はすごく仲の悪い国々が、何故かそのときだけは強力に連携しあって、事態の回復に努めた。
 その甲斐あって十年もしないうちにどこも大体落ち着いた。ただ、やはり一時的にとは言え世界中がマヒ状態に陥ったせいで、ただでさえ止まりがちだった技術の進歩はここで完全な一時停止を余儀なくされた。各種の要素に合わせた法整備に時間がかかったせいもある。
 私達に与えられた四つの要素は、天使の力が分割されただけあってそれぞれ違う。
〈走鬼〉は、地上から飛び立ち身体を支えるための力が、身体能力の向上として。〈精霊〉は、空中での姿勢制御のための意識容量が、高度な情報処理能力として。〈火竜〉は、空を飛ぶための飛行機のエンジンのような推進力が、手足から発せられる爆炎として。そして〈翼魔〉には、空を飛ぶためにあった天使の翼が、そのままの形で。
 だから私は足りていない。空を飛ぶための四分の一しか満たしていない。何故だか、やけに頑丈な身体ではあるけれど。
 羽が生えた程度で──空を飛べるわけが、ない。
 そうでなくても、他の要素も中途半端なものだ。どれも『普通よりちょっと上』な程度でしかない。一番物騒そうな〈火竜〉でさえ、精々、防犯ガラスを罅割れさせることが出来る程度だ。百年前ならまだしも、現在では銀行強盗の役にも立たない。
 純一氏はかなりの力持ちのようだが、あれはただの鍛えすぎだ。
 私達は天使の出来損ない。
 四人集まったところで、実際に飛べるかどうかなんて分からない。
「……ふふん」
 意味もなく笑いが漏れた。くだらないことを考えているな、と思った。
 どのような結論に達したところで、私の気持ちは変わらないのだから。
 けれど逆に言えば、確固とした私の周りをぐるぐる回っている私自身の疑いが、確かに今もある。私の中には、できるかもしれないという大きな楽観と、無理かもしれないという小さな諦観が同居している。楽しみなのは事実、でもどこかで可能とは信じていない。
 やりにくい人間だ、我ながらそう思う。もっと単純な馬鹿だったら、私は迷いもせず、しょっちゅう飛び降りてばかりだっただろうに。
 ま、そんなあっぱらぱーにはなりたくなんかないけど、さ。
 ──窓の外を、動かないものが一つ増えた。
 リニアに寄り添うように飛翔するハヤセツバメだ。鏃のように尖った小さな身体は空気の壁の中を貫くように飛んでいく。自由に。
 羨ましいね。
 私は口の中でそう呟いた。その言葉を聞き取ったかどうかは定かではないが、人工の新種ツバメは私に一瞥をくれることもなく、風の流れから身体を反らして新たな流れに乗り、そしてすぐに私の視界から消えていった。










 次の日も、私はあの山に行った。今日の服装はデニムのハーフパンツに薄いピンクのカットソー。ワンピースを着るのは跳ぶときだけだと決めている。
 山に向かう途中で差し入れを買い、草いきれの中をずんずん進んでいく。
 ちなみに差し入れの内容は、缶詰や保存食糧が主である。こんな所にまで出来合いの弁当を持ってくるような無粋はしない。
 三十分も歩けば、ここ数年ですっかり見慣れたものが見えてきた。私は崖のほうには上らず、いつものルートを逸れて森のほうへと下っていく。沢の音が聞こえてくるようになってきたところで、木の間にテントが見えた。
 丁度お昼時だったらしく、三人はカレーを食べていた。ついでなので私もご相伴に預かろう。これは無粋に当たらない。
「──具体的なプランは、キャンプが終わってからだね」
 口周りをカレーで汚しながら、構わず颯太君が喋る。
「場所の選別や、天候条件なんかも考慮に入れなきゃならないし。計算だけならワークステーションなしでも出来るけど、より正確なものにしたいし」
「計算って具体的にどんなことやるの?」
「うーんと」
 颯太君はスプーンを置いて口元を適当に拭い、近くにあった棒切れを拾った。
「実際に人間を飛ばすのは結構大変なんだよね。何しろ重い上に、空気抵抗が大きいから。仮に全長一七〇センチで質量五〇キログラムの成人男性の背中に翼を生やして飛ばそうとすると、理論的に考えて必要な翼の大きさは──」
 棒切れでがりがりと地面が引っ掻かれ、いくつもの数式が描かれていく。
「──でも実際にはそんなのは不可能。そこを僕達のそれぞれの要素で、足りない部分を補い合うわけ。そのためには各個人がクリアしなくちゃならないレベルがあって」
 足で式を消しては、またその上に重ねていく。
「それがこうなる。これでまず、各人の体調がベストな場合の継続飛行可能な距離を算出して、それに風向き、気圧、高度なんかによる影響を加減算していくと、実質的な大体の飛行距離が出てくるの」
 私もヒロも純一氏も、颯太君の描く数式を真剣な眼差しで注視していた。が。
「で、天候条件なんかは流石に僕でも分からないから、結局はワークステーションの助けが必要になるわけね。分かった?」
「ああ、さっぱり理解できないってことは分かった」
 神妙な面持ちでヒロが言った。
「ヒロ兄は馬鹿だなぁ」
 素で言った颯太君に、なんだとこのやろう、とヒロが食ってかかるが、私も純一氏も止めようとはしなかった。同じようにさっぱり理解できなかったからである。
 しかしヒロに同調すると私達まで馬鹿になってしまうのでそれもしない。まぁここは、うっかり口を滑らせてしまった颯太君にはそれ相応の報いというものを受けてもらおう。
 別に意地悪なんかじゃない。彼の将来を思ってのことであって、そこには疚しい思いだとかちょっとカチンと来たとかそういうことはない。全くない。耳を上下に引っ張られて痛がっている少年を見ながらそう思った。



 その日は夕方まで居座って、帰った。
 それが三日ほど続くことになる。昼頃に山に登って昼食をご相伴に預かり、計画についての具体的な話を練ったり他愛もない会話をしたり釣りを教えてもらったり。そして夕方には帰宅し、また次の日遊びに行く。
 変化があったのは、四日目のことだ。
 三日目の夕方、雲行きが怪しかったので天気予報を見てみると、小型の台風が急激に進路を変えてこちらに向かってきていることが分かった。到達は明日の昼頃だった。
 次の日、私はワンピースを着て家を出た。



 ぽつぽつと雨が降り始めた頃、山の入口に着いた。
 丁度そこにヒロ達三人が降りてきた。相当急いで降りてきたようで、身体のあちこちに葉っぱをくっつけている。
「おお四季さんか、すまんがキャンプは終わりだ。どうも強い雨が降りそうだ」
 強引にたたんだテントと炊飯道具を担いだ純一氏が慌てた様子で言った。
「台風が来るそうですよ。ていうかもう来てます」
「なんと。そりゃ知らんかった」
 もう、と颯太君が純一氏の腰を叩く。
「だから衛星無線(サテラジ)くらい持ってこようって言ったじゃん」
「あんなのあったら興が削がれるじゃないか」
「こういうことがあるかもしれないから持って行こうって言ったんだよ僕は!」
 喧嘩が勃発しそうだったので、まぁまぁと私が二人を宥める。
「それより、移動するなら早くしたほうがいいと思いますよ。街のほうはもう渋滞が始まってました」
「あぁ、そうだな。下に車があるから、とりあえずそこまで走るぞ」
 純一氏は荷物を担ぎなおし、ヒロと颯太君に促した。二人は頷く。
 クーラーボックスを担いでいたヒロが、私に向き直った。
「あんたも来い。これから歩いて帰るのも大変だぞ」
「ううん、私は大丈夫」
 そう言って私は手に持った傘を掲げて見せ、草むらに足を踏み入れた。
「──おい」
 その声を無視して私は山に入る。
 ぼうぼうに生い茂った草は、湿り気を帯びて腕や脚に張り付いた。それを無視しながら私は山の斜面を登っていく。
 高度に比例するように雨は強くなっていく。梢から滴り落ちる雨が肩を濡らす。それらを全て無視する。
「ふっ、はっ──」
 息切れする。風の中で呼吸をするのは存外に難しかった。それでも足を止めず私は登る。
 見慣れた獣道も、この天気の中では違って見える。足元が見えない。先が見えない。光が少ない。鳥のさえずる音も虫の鳴くお供聞こえない。
 いつもより時間をかけて私は崖まで辿り着いた。
 雨が強い。後ろから叩きつける重い風が、濡れた髪をかき乱して視界を奪う。
 崖まで、十メートル。助走距離には少し足りないだろうか。視線の先、途切れた地面の向こうには灰色の空が山の向こうまで広がっている。
 いい天気だ。
 ばん、と音を立てて役立たずの羽を広げた。折りたためば背中に納まる両の羽は、広げれば私の身長を上回る。
「あんた、何考えてる」
 背後からかかる声に振り向くと、不機嫌そうな表情でヒロが立っていた。傘も差さず。
 何を考えている、と言われても、折角だから、としか答えようがないのはどうしたものか。
 結局私は答えなかった。答えたらヒロに羽交い絞めにされて止められそうな気配がしたからだ。
 木製の柄を軽く捻ると、絞られていた傘がばさりと解ける。自由になった傘の骨が風にあおられてぱたぱたと動いた。
 私は崖に向き直り、
「おい!」
 走った。
 一歩目から全力だった。
 サンダルで地面を蹴り飛ばす。
 傘を、風車(ドラゴン)に槍を向けるドンキホーテのように真っ直ぐに突き出して、走る。
 歩数計算は完璧。切り立った崖の縁に指を引っ掛け。
 跳んだ。
 瞬間、傘を広げる。
 背中から吹き抜ける風が傘に衝突し、そのまま前進しようとする。私の身体ごと上空へ持ち上げられる。
 がむしゃらに振るった羽は役に立たなかった。風を捉えるには、あまりに細すぎるのだ。
 浮遊感。風と雨と地面と空の間に、そのとき、私は確かに浮かんでいた。
 でも、それは、
「飛んでない」
 呟きは誰にも聞こえなかった。雨の音に掻き消され私にすら届かない。
 放物線の頂点を通り過ぎた身体が、自由落下を開始する。押し上げる風が傘をみしみしと軋ませた。落ちる速度が緩められ、けれどそれも長くは続かない。
 空気の厚みに耐えられなくなった傘がとうとう裏返る。それと同時、私はわずかに残っていた浮遊感の全てを失った。今度こそ落ちる。
 羽を閉じた。傘は手放さない。脇を締め落下の衝撃に備える。予想される落下地点に大きな障害物はない。突風でも吹いて、木の幹にでも叩きつけられたら別だけど。
 そうこうしているうちに視界の緑が多くなって、足が枝に触れた。
 突っ込んだ。傘が木の枝に引っかかって手を離れた。
 ざざざざと枝葉と身体が擦れ合う音がして、地面が見えて、そして、落ちた。
 四日前の落下よりも強い衝撃が全身を襲う。私は身体の側面から落ちた。右腕が折り曲げられて、ボールのように身体が跳ねた。そのままごろごろと地面を転がっていく。世界がぐるぐる回る。濡れた枯葉が身体に張り付いた。
 どん、と木の根元にぶつかって、ようやく止まった。
 頭がくらくらする。散々転がりまわされて、三半規管がいかれてしまった。私はなんとか身体を仰向けにし、上を見上げた。
 木の間から覗く曇天からは、しとしとなんて生易しいさなどない雨が叩きつけてくる。
 そのまましばらく空を見上げていた。鳥の代わりに草や葉っぱが空を舞っている。
 左の耳に、雨の音に紛れてばしゃばしゃという音が聞こえた。水を掻き分ける音だ。
 億劫な動作でそちらを振り向くと、川の手前に、何故だか怒っているような顔をしたヒロがいた。手には、私がついさっき手放した傘を持っている。
「何考えてるんだあんたは」
 開口一番、彼はそう言った。そしてそれ以上言葉を重ねることはなかった。それは私の答えを待っているようでもあったし、呆れてものも言えないようでもあった。私は起き上がり、彼に答えた。
「台風の日に跳ぶなんて、滅多にできないことだったから、つい」
「だからってマジに跳ぶなよな。怪我したら冗談にもなりゃしないんだぞ」
「心配してくれてるの?」
「呆れてんだッ」
 そう言いつつ、彼の口調は怒っている者のそれだった。
「それも、下心かな」
 意地悪に訊くと、彼は一瞬素の表情に戻り、またすぐに眉をいからせた。
「阿呆か。あんたみたいな馬鹿に惚れる男なんていやしないよ」
「なのにわざわざ迎えに来てくれたんだ」
 野垂れ死にされたら寝覚めが悪い、と言って、ヒロは近寄ってきた。
「立てるか? 帰るぞ。これ以上風が強くなったら流石にまずい」
 私は前回のように足を挫いたりしていなかったから、立ち上がろうと思えばすぐにでも立ち上がれたのだが、それをせずに、ただこう言った。
「飛距離」
「あ?」
「伸びたよ」
 顔を上げ、木に隠れて見えない崖に視線を向けた。前回は川の手前に落ちたけれど、今日は川の向こう側だ。十メートル以上も飛距離が伸びている。
「……訊くのを忘れてた。あんた、なんでそんなに空を飛びたい」
「さぁね」
「真面目に答えろ」
 真面目だよ、と答えた。
「いや本当に分からないんだよね。自分がなんでこんなに空飛びたがってるのか」
 そう、全然分からない。
 気付いた時には空に憧れていた。理由は全く思い出せない。もしかしたら、元々ないのかもしれない。一番古い記憶は五歳のとき、幼稚園の滑り台から飛び降りた記憶だ。少なくともそれ以前、それこそ物心つく前から、私は空を飛びたがっていた。
 元々身体が頑丈だったせいで、結構無茶をした。小学校低学年の頃なんかは遊具から飛び降りるのが日課だった。そして傷一つ負わなかった。
 私の丈夫さは医者の折り紙つきの異常だ。四つの要素のいずれにも属さない異常だった。もしかしたら、それらとは関係のない別の何かじゃないのか、とも言われた。結局その理由は解明されることなく、私はこれ幸いとばかりに今も飛ぼうとしては落ちている。
 それこそ、私はこの丈夫すぎる身体が、そのためにあるんじゃないかと思うくらいに──
「あんたは」
 ぽつりと、ヒロが言う。雨に紛れて聞こえにくい声だった。
「空を飛ぶ理由を知りたいのか」
「別に」
 私ははっきりと答えた。
「理由なんてどうでもいいよ。飛びたいことに変わりはない」
 できるかどうか分からない、なんて分かっていても、そうであるように。
「それに多分だけど、飛びたい理由なんて一生分からないよ。それだけは分かる」
 そして私はそれでいいと思っている。あってもなくても変わらないようなものを探すような暇があったら、もっと前向きなことを考える。それこそ、現実的な空を飛ぶ方法とかね。
 ただ、たまに思うことはある。
「鳥に生まれれば話は早かったのに」
「あん?」
 ヒロが訝しげに眉をひそめた。
「好きなだけ空飛んで虫食べて卵産んで温めて孵らせて育てて死んで。信じちゃいないけど、信じたりしないけど、たまに私の前世は鳥だったんじゃないかって思うよ」
 それこそ、飛んでばかりいたんじゃないかと。何も考えずに。
 鳥だった私が死んで、人間に生まれ変わって、それでも、飛んでいた頃の自分を忘れられないんじゃないかと、益体もないことを考えた。 
「だったら鳥だったあんたはもう飛ぶのが嫌になったんだろ」
 不意に、ヒロがそんなことを言った。
「鳥は飛びたいから飛んでるんじゃなくて、飛ぶことしかできないんだ。あんたは『飛びたい』んだろう。じゃあ違う」
 ヒロは私に立つように促した。私が立ち上がると、傘を押し付けてきた。裏返っていたかさはやや強引にだが元に戻されている。骨が一本、少し曲がっていた。
 全身ずぶ濡れで泥だらけなのに今さら傘を差してもしょうがない気がするけれど、私はちゃんとそれを頭の上に翳した。ぽつぽつと滴り落ちてくる水の音が耳に心地良かった。
 私は問う。
「励ましてくれてるの?」
「馬鹿にしてるんだよ」
「鳥を?」
「あんたをだ」
 素っ気無い態度でそう言って、ヒロは山を降り始めた。私もそれに続く。
 会話はなかった。ヒロは傘を差しておらず、今じゃ私以上に濡れ鼠だ。草を掻き分けながらヒロは進む。私の傘が引っかからないように、できるだけ開けた場所を辿りながら。
 その背中を見ながら、私は呟くように言った。
「私の前世が鳥で、飛ぶことが嫌になったのなら」
「うん?」
「嫌になったものを今更欲しがってる私はきっと凄くわがままだ」
 ヒロは、かもしれないな、とだけ答えた。
 そしてしばらく考えるような間を置いて、こう訊いてきた。
「今のままで、空が飛べたら、どうなんだ」
 人間である私のままで、鳥のように空を飛べたなら。
 それは。
「──凄く贅沢で、幸せなんだよ。きっと」



 山を下りきると、RV車に乗った純一氏と颯太君が待っていてくれた。
「全く無茶をするなぁ。二人とも」
 苦笑いしながら純一氏は私達に車に乗るように促し、タオルを差し出してくる。
 車が発進する。雨はもうかなり強くなっていて、フロントガラスのエアワイパーがあんまり意味を成していない。
「四季さんが山に入ってすぐに、ヒロも追いかけたんだが。山の中で追いかけっこでもしていたのか?」
「違うよ。こいつが山登るの速すぎるんだ」
 そうだろうか。私は普通に真っ直ぐ登っているつもりだったんだけど。
「あんたな、草とか木の枝とか一切無視して進んでたろうが。普通は足取られたり引っ掛けたりして多少は歩みを緩めそうなもんなんだけど」
「まぁ、頑丈だから」
 私はそう言ったが、ヒロはどうも納得がいかないらしい。山に慣れているはずの自分よりも私が速かったことのほうが気に食わないのだろうか。
 純一氏は、将来は優秀な登山家になりそうだなぁ、などと言いながら車を運転している。
「とりあえず、これから一旦オレの家に行こう。そっちのほうが近い。四季さんを送るのは、もう少し雨が弱まってからだな」
 すいすいと車は進んでいく。純一氏は大通りのほうには出ずに、山沿いの農道を選んだ。狭い道を、こんな雨風の中を好んで進むような車もなかったので、渋滞している大通りを抜けるよりも早い。
 二十分ほどで、坂東兄弟の家に到着する。
「でかっ」
 私は思わず口に出していた。敷地はぐるりと白い塀に囲まれていて、中の様子は見えない。
「さ、入って入って」
 と颯太君が促して門を開いた。門の先には延々と飛び石が続いていて、遠くに家屋が見える。門と家の間は……五〇メートルくらいだろうか。なんて広さだ。
「一体どんな悪いことしたらこんな家が建つんですか」
 私が割と真剣に言うと、あっはっはと純一氏は笑った。
「先祖から受け継いでるだけの土地だよ。家も古いだけだしな。最後に改修してから、五十年以上は経っている」
 五十年前に改修されたということは、家自体はそれより前からあるということだ。あの山が純一氏のお爺さんの土地というのは正直話半分に聞いていたのだけれど、こんな広い家を持っているなら納得だ。
 純一氏に招き入れられ敷地内に入ると、改めてその広さを思い知った。よく手入れされた庭の木や、鯉の泳ぐ池がある。今時こんなお屋敷には中々お目にかかれない。
 ようやく玄関である。ただいまー、と純一氏と颯太君が声を揃えると、奥から割烹着姿の中年女性がぱたぱたと走ってきた。柔和そうな顔の女性だった。
「お帰りなさい二人とも。浩一さんも。お風呂沸いてるから……あら、そちらの人は?」
 女性の視線が私に向く。私は慌ててお辞儀をした。
「初めまして、藤乃四季といいます。先日純一さん達と知り合って、キャンプ場に遊びに来ていたんです」
「ああ、そうでしたの。それはまぁ……なんだか、やけにお洋服が汚れていますけど」
「転んだんです」
 そういうことにしておこう。
「それじゃあ、藤乃さんからお先にお風呂使ってくださいな。悪いけどみんなは我慢しててね」
 こちらに、と女性は私を促す。私はもう一度お辞儀をして、靴を脱いで上がらせていただいた。
「母さん、丁重に扱ってあげてくれ。ヒロのいい人なんだ」
 何言ってんだ脳筋バカとヒロが純一氏の太腿に勢い良くローキックを決めるが、純一氏は無視した。痛くも痒くもなさそうである。
「あらまぁそれはそれは」
 にこにこと、純一氏のお母様は楽しそうに笑った。息子二人とよく似ている。
 ヒロが、後で覚えてろよ、と言った。純一氏は無視した。



 結果から言えば私はお風呂に入る前より疲れてしまった。
 何しろ総ヒノキ造りな上にとても広いので、慣れない私は圧倒されてしまったのだ。お湯の湯加減などは申し分なかったのだけれど。
 少しげんなりしながらお風呂から上がると、既に洗濯・乾燥を済ませた私の服が置いてあった。お母様がやってくれたのだろう。素晴らしい気配りだ。
 お手伝いの人に案内された先は、颯太君の部屋だった。驚いたことに我が家の居間より広い。ヒロと純一氏はお茶を飲んでおり、颯太君は自分のデスクについてディスプレイとにらめっこをしていた。
 入れ替わりにヒロが風呂に入ることになった。他の二人はあまり濡れていないので後回しだ。
 私としては、自分の残り湯に他人、それも男が入るのは乙女心としてはちょっと複雑なのだが、あんな広い風呂でそんな小さなことを言っても仕方がないので胸に秘めておくことにした。
 五分ほどでヒロはお風呂から上がってきた。
「早過ぎない?」
「女の風呂が長いんだよ」
 わしわしと髪を乱暴に拭いながらヒロはそうのたまった。女の私にしてみれば男性のお風呂が短すぎるのだ。もうちょっとお肌のお手入れとかに気を使ったほうがいいと思う。
「全員揃ったし、そろそろ始めようか」
 颯太君が椅子から飛び降りる。私達はテーブルを囲んで座り、その上に颯太君が見慣れない地図を広げた。
「今回の候補地の地図」
 颯太君は言った。
「それと、お姉ちゃんの体重教えてくれないかな」
「……なんてこと訊くのかな君は」
 私が睨むと、少年は慌てたように手をぱたつかせ、
「飛行距離の計算に使うだけだってば! それ以外には使わないから、ほんと!」
 どうやら女性に体重を聞くことの失礼さは分かってくれているようで、お姉さんは一安心です。よろしい、と答え、私は颯太君にだけ耳打ちした。
「……へぇ、お姉ちゃんって意外と重」
 はったおした。
 さておき、颯太君はもう一度デスクについて、何やら計算をし始めた。たたたん、と軽快なキータッチは三分ほど続き、やがて颯太君は大きく頷いた。
「それじゃ、計画を説明するね」
 そう話す颯太君はとても楽しそうだ。そこに純一氏が声をかける。
「それより颯太、この地図は」
「うん、兄ちゃんは気付いたみたいだね」
 私とヒロは何のことかさっぱり分からず、頭にはてなマークを浮かべていた。
「この場所はね、軌道エレベータから南に三〇キロメートル進んだ山の地図だよ」
 それは見れば分かる。地図の端のほうには聞き慣れた地名が幾つかと、軌道エレベータがあり、他はほとんど緑色に塗り潰されていた。
「んでね」
 颯太君はサインペンを取り出し、地図の端のほう──西側に線を引いた。
「この辺りまでがウチの爺ちゃんの土地」
「……広いなぁ」
 私は思わず唸った。この兄弟のお爺さんって一体何者なんだ。
 続いて颯太君は、東側にある水色の領域を丸で囲んだ。
「そして、ここが着陸地点」
「おい、そこ池だろ。着陸じゃないんじゃないか」
 ヒロがツッコミを入れる。颯太君は冷静に答えた。
「じゃあ着水地点。それに池じゃなくて湖。計算したらここしかないんだよ。予測される速度を考慮すると陸地じゃ危険すぎるし、他にいい場所もないんだ」
「そもそもなんで山の中なんだよ。他の所からでもいいじゃないか」
「何か問題になったとき、よそ様の土地から飛んだってなったら色々面倒でしょ。着水地点のこの湖も、ギリギリ国立公園の範囲内に入ってるしね。まぁ人来ないけど。だから──」
 颯太君は西側の坂東家所有の山林に、一箇所、小さな丸を描いた。そしてその丸から、湖まで真っ直ぐに直線を引いた。
「爺ちゃんの土地から飛んで、人の来ない国立公園に落ちる。これなら、他のところで飛ぶよりはまだいいよ」
「それだけじゃないだろう?」
 と、それまで黙っていた純一氏が言った。楽しそうに。
 ご明察、と颯太君が笑みを返す。
「実はね」
 颯太君は再びペンを走らせる。軌道エレベータの周辺を中心にして、南に長く伸びた半分だけの楕円を描く。その楕円は、航路を示す直線を越えて伸びている。
「ここまで全部、軌道エレベータ施設の敷地ってことになってる」
「……広すぎないか? この山の中、何にもないんだろ」
 ヒロがもっともな疑問を口にした。確かに、この広さは無駄過ぎる。
 軌道エレベータ施設は山の麓に建設されており、およそ半径五キロメートルに渡ってその構造物が建設されている。ちょっとした一つの街だ。軌道エレベータそのものも、根っこの部分は逆さにひっくり返した細長い漏斗のような形状をしており、地上四百階ぐらいまでは様々な企業のオフィスや、一般人解放の娯楽施設が入っている。
 しかし施設が集中しているのはその周辺だけで、後は何もない。この山が敷地に入っているなら、そこにも然るべき施設を建設するはずだと思うのだけど……
「実はあるんだよ、ここには」
 颯太君が、とっておきの秘密を喋る子供のように(子供だが)、笑いを堪える様子で続ける。
「あるって、何も書いてないじゃないかここ」
「地図上にはね」
 含みを持たせた口調だ。純一氏は全て了解しているのか、何も言ってこない。
「少し調べればすぐ分かることなんだけど、随分昔、それこそ、軌道エレベータが建設され始めた直後からあった噂があるんだ。といっても、そんな大したものじゃないんだけど」
 颯太君は語り始めた。
「それ曰くね、この山の中には巨大な『絵』があるらしいんだ」
「絵?」
 私とヒロが口を揃えた。
「そう。なんの絵かは知らないけど、大きさは凡そ直径三キロメートルの巨大な絵が。でも、何故かその存在は公表されず、こうして地図にも記されていない。それに、知ってる? この辺りは個人所有の飛行機械を飛ばすことが禁止されている。軌道エレベータ施設への事故を防ぐという名目でね。勿論、その禁止空域にはこの山の中も入ってる」
 颯太君は、航路と軌道エレベータの敷地が重なったところに丸を描いた。そこに、件の『絵』があるのだろう。
「それに、まだ不思議なことはあるんだ。軌道エレベータ内部には、一般人向けの展望台なんかも数多く設置されているよね。お姉ちゃん、行ったことは?」
「小学校の頃に一回行ったよ。確か、二百階くらいまで登ったかなぁ」
「気付いたことは何かある?」
 にまにまと、颯太君は笑っている。
 私はしばらく記憶を掘り返してみたが、颯太君が期待するような怪しいことは思い当たらず、やがてお手上げのポーズをした。
「実はね、軌道エレベータの展望台、それにレストランや娯楽施設の窓からは、決して見ることができないポイントがあるんだ」
「おかしいだろそれ。あんだけでかくて広くて高いのに、見れない場所があるって」
 ヒロが言う。私も、颯太君の言葉には半信半疑だった。
「でもあるんだよ。巧妙に計算されていて中々気付かないし、何より見れなくてもあんまり困らないから、みんな気付かないんだけどね」
 颯太君は、生徒に意外な歴史を教える世界史教師のような表情を作る。
「中にオフィスが点在しているせいで、娯楽施設やレストランなんかも点在している。だからそれぞれ違った方向に展望窓が開かれているんだけど、南側のある一方向(・・・・・・・・)だけは、どの窓からも見えない構造になっている」
 ……そんなことがあるのだろうか。俄かには信じがたい話だ。
 でももしそれが本当なら──私にも大体言いたいことが分かってきた。
「つまり、その見えない場所というのが、さっきの『絵』の場所ということ?」
「そういうこと」
 颯太君は頷いた。そこに、待て、というヒロの声がかかる。
「確か軌道エレベータ内には、ワンフロア丸々展望台になった場所があったはずだ。三六〇度パノラマビューとかなんとか」
「残念。あれがあるのは二百五十階なんだけど、窓の外側に人が作業するための足場が設けてあるんだ。その足場のせいで、『絵』のある場所はぎりぎり見えない」
「巧妙だな」
 ヒロがどこか感心すらした様子で息を吐いた。颯太君はにっこり笑う。それにしてもさっきから笑ってばかりだけど、その笑顔の種類も豊かな子だ。
「ここでもう一つ、興味深い話をしておくとね。実はここの軌道エレベータのだけじゃなく、他の六基にも、同じように『見えない場所』というのはあるんだ」
「それは、建設途中の二つにも?」
「完成しないと分からないけど、多分ね。だから他の場所にも、多分『絵』か、或いはまた別のものがあるんだと思う」
 ……成程、ね。
「つまり、お前はこいつの『空を飛びたい』って願いにかこつけて、それが実際にあるのか確認したいわけか。ちょっと気に食わん」
 ヒロが半眼で言う。颯太君は少し困ったような表情をした。意外だ。まるで彼は私のことで怒っているように見える。
「僕としてはついでのつもりなんだけど。お姉ちゃんが嫌なら、また別の場所を考えるよ。幾つか候補地は見つけてあるし」
 どうする?と颯太君の瞳が私に問うてくる。
 ふむ。まぁ、私としては飛べればなんでもいいし、それに、ちょっとその『絵』とやらに興味もある。地上に描かれた巨大な絵といえば思い浮かぶのはナスカの地上絵だが、あれは空を飛ばなければ見ることができないという代物だった。となれば、山中の『絵』とやらも、そうやって本来は空から見ることを目的とされているんじゃないだろうか。
「私はオッケーだよ。異議なし」
「それじゃ決まりだね」
 颯太君は一度大きく頷き、純一氏とヒロを交互に見た。純一氏は快活に、ヒロは渋々と、首を縦に振った。
「まぁ、俺もこいつがいいって言うんなら文句は言わないよ。でそれはいいとして颯太、お前の目的は分かったけど、肝心の飛ぶ方法はどうするんだ」
「それはこれから説明するんだよ」
 待ってました、とばかりに颯太君が笑った。あ、なんか黒いものを感じるなぁ。
 それから颯太君による飛び方の説明がなされたのだが、そこで私は颯太君の笑みに混じった黒さの理由に気付いた。成程これは人が悪い。
 案の定、ヒロは露骨に嫌な顔をしてこれまで以上に強く反発したものの、けれど周りに押されて了承せざるを得なかった。
 そうして、決行日が決まった。
 三日後の晴れの日、月曜日。
 私達は、空を飛ぶ。










 私達四人は、広々とした丘の上に立っていた。
 私は例のワンピース姿だったけど、腰には太い特殊繊維のベルトが巻かれている。ヒロの腰にも同様のものがあった。
 颯太君の提案した飛行方法はこのようなものだった。
 まず、颯太君が予め風速を測定する小型機械を飛ばし、地上付近と空中の風速を随時計測する。また私の離陸後、インカムを通じて指示を与える役目も負っている。
 空を飛ぶのは、私と、そしてヒロだ。理由は後述するが、彼が一番嫌がったのはこれが原因だった。
 そして純一氏の役目は『発射台』だ。その並外れた腕力で持って、私とヒロを上空に全力で放り投げるのだ。天使が空を飛ぶための力を、その通りに使おうというのである。
 そして私とヒロが空を飛ぶ。
「お姉ちゃんの羽は飛ぶためじゃなくて、グライダーみたいに空中を滑空するためにあるんだ。そんな細っこいので身体を支えられるわけがないじゃない。元々、人間の身体は飛ぶために作られてないんだから」
 颯太君はそう説明した。
「だからそれは姿勢制御用の安定翼なんだよ。推進はヒロ兄の役割」
 つまり、ヒロを下に私を上にして固定して、私が〈翼魔〉の羽で姿勢制御を担当、ヒロが〈火竜〉の火力で推進を担当、ということだ。
 聞けばヒロの〈火竜〉は、毎年行われる測定テストでは八九点とかなりの点数を残している。平均的な〈火竜〉点数が四〇点であることを考えればかなりの火力だ。森を燃やすほどの火力はないが、颯太君によれば私達二人を飛ばす推進力としては充分らしい。
「無駄遣いしなければ、いけるはずだよ。考えられうる限り最高の条件が揃ったと考えれば、最大航続距離は五〇キロメートルにも及ぶはずだからね。今回の距離は約二〇キロだから、やってやれない距離じゃない。減速するタイミングはこっちで指示するよ」
 ということらしい。
 それぞれが準備に取り掛かった。颯太君は持ち出してきたノート端末の画面を見つめ、純一氏はストレッチをしている。
 私とヒロは、
「さぁ、そろそろ覚悟決めてこれ取り付けようよ」
「……おい、立場が逆じゃないか。少しは恥ずかしがれ」
 そういうヒロのほうがよっぽど赤い顔をしているのだった。案外うぶなやつだ。
 私ははいはい、と適当に答えて彼の後ろに回り、ベルトとベルトを固定した。自然、私はヒロに抱きつく格好になる。
「うお、ちょ、胸が」
「当ててんのよ」
 慌てふためくヒロの様子は、言っては怒るだろうが可愛かった。耳まで真っ赤だ。
「あー、君達、そういうのは後にしなさい、後に」
 遠慮がちに純一氏が言った。



 全員の準備が整った。
 私とヒロは現在純一氏の肩に担がれており、いつでもスタートできる状態だ。私はしっかりとヒロに抱きついている。ここまで来ればヒロも何も言わなかった。あとは颯太君の指示を待つだけである。
「おい純一。間違っても下に叩きつけるなよ。お前の馬鹿力でやられたらぺしゃんこになる」
「安心しろ、前もってサンドバッグで練習したからな」
 はっはっはと快活に笑うが、ヒロは不安を拭えないようだった。
 私も不安だった。本当に飛べるのか、ここに来て、そんな不安が浮かんだ。あれほど熱烈だった空を前にしての高揚感も、今はそれと等価になってしまっている。
「大丈夫だよ」
 颯太君が私達を見上げて言った。深く、知性の宿る瞳で。
「僕達なら必ず飛べる」
 ──〈精霊〉。空を飛ぶための精神性。
 不思議なことに、その言葉だけで、私の中から不安が消えた。私はうん、と小さく頷いて見せた。
「兄ちゃん、そろそろだよ」
「おう」
 颯太君が端末に向き直り、沈黙した。私達ももう誰も喋らなかった。
 さわさわと草が風に揺れる音がする。潮騒の中、それに混じって、後ろのほうから打ち付けるような音が聞こえてくる。
 足の指先が、圧縮された空気を感じ取り、
「──スタートッ!!」
 颯太君が叫んだ。純一氏が草を蹴った。私達の背後から吹き付けた突風と、私達の速度が同じになって、耳は全ての音を失った。
 見る見る崖が、空が迫ってくる。五〇メートルの助走距離を純一氏の太い足が駆け抜け──裸足の指先が、強く、地面を噛んだ。
 飛翔する・・・・
 砲弾のように私達は打ち上げられ、
 ──ぶちん。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
 四人が間抜けな声を漏らした。
 何かが千切れるような音。それは、私とヒロを繋ぐベルト、そのヒロ側のものが千切れた音だった。
「こ、」
 ひきつった声をヒロが漏らした。
「んの脳筋クソ馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ────────────────────────!!!」
 叫び声は全て地上に置き去りにされた。
 私は必死にヒロにしがみついた。ぶわぁっと嫌な汗が全身に浮かんで、風にすっ飛ばされた。
 私とヒロの身体は凄まじい勢いで上昇していく。合わせて一〇〇キロ超過の質量が、である。純一氏は本当、常識離れした腕力の持ち主だ。
 空に浮かぶ雲よりも真っ白になった思考に、突然声が飛び込んできた。
『ヒロ兄! ヒロ兄! 飛んで飛んで!』
 颯太君の声にヒロは我を取り戻す。気付けば私達は放物線の頂点近くにいた。何度も跳んでいた私だから分かる、減速と落下の兆候があった。
 ヒロの手足から赤い陽炎が立ち昇り、そして一瞬後、透明な爆炎が迸った。
 消えかけていた速度が回復する。上昇から水平飛行へと。私はヒロにひしと抱きついたまま、背中の羽を水平に保った。
 風が耳を痛いほどに打ち付ける。その中でも、颯太君の声ははっきりと届いた。
『大丈夫二人とも。どっちか落ちたりしてない?』
「なんとかな。そこの筋肉ダルマに地獄に落ちろと言っておいてくれ」
 ヒロが答えた。
『軽口叩けるなら大丈夫だね。じゃ、指示出すからそれに従って』
 ああ、とヒロが答えた。
『そのままの姿勢を維持しながら、速度を少しずつ落としていって。……うんそう。お姉ちゃんも聞こえてるよね。右の羽をほんの少しだけ上げて左旋回──水平に戻して。そのままで』
 颯太君の細かな指示通りに火力を調整し、羽の角度を変える。速度を会話できる程度にまで落とし、安定飛行に入ると、ようやく、声を出す程度の余裕が生まれた。
「──すごい」
 最初に出した声は、自分でも分かるくらい震えていた。
「空飛んでる」
「ああ」
 ヒロの声も震えている。
 私の中では色んな感情が次々に爆発を繰り返していた。
 高揚、満足感、達成感、恐怖、不安。
 そういったもろもろのものがあって、ただ一番強く感じるのは、『気持ちいい』というただそれだけだった。私はそれを素直に口に出した。
「気持ちいい」
「ああ」
 多分この時、私とヒロの心はこれ以上ないくらい通じ合っていた。お互いの温度も感じないくらい、私達は一緒に空を感じていた。
『──ヒロ兄、お姉ちゃん。そろそろ見えてくるよ』
 颯太君の声。私とヒロは地上に目を向けた。前方、木々が絨毯のように多い尽くし、その少し盛り上がった向こう側に、わずかに白いものが見えた。
 木々の峰を越える。
 そこには──
 天使の絵があった。真っ白な、けれど所々塗装の剥げたパラボラの表面に描かれた、膝を抱いて眠る天使。
 円形の中に窮屈そうに納まった、捕えられた天使だった。
 すげ、と呆けたような感嘆の吐息をヒロは漏らした。
 けれど、私はそれを聞いていなかった。
 同じ息を漏らすこともなかった。ただ息を詰めていた。
 パラボラの全体を視界に納めたヒロは気付かなかったのだろう。私だけがそれを見た。
 天使の絵の中心、すり鉢のようなパラボラの底、そこに。
 本物の天使がいた(・・・・・・・・)
 パラボラの四方から伸びる長い長い鎖に両手足を繋がれた、背中に三対の()を持つ少女。
 背中のものが余計にあることを除けば、それは私と変わらない〈翼魔〉の姿だ。でも、何故だろう。私はそれが私達とは全然まったくこれっぽっちも同じものではないと気付いてしまっていた。少なくとも、悪魔(デーモン)などという呼称は絶対的なまでに相応しくなかった。
 ……高度一〇〇〇メートル。頑丈さ以外に取り得のない私は、けれどその少女の手足の長さから顔のつくりまで見えていた。
 天使は私を見上げている。表情はないけれど、私達を見ている。
 それも一瞬だった。直径三キロのパラボラの上を、私達はあっという間に通り過ぎる。
『……そろそろだよ、ヒロ兄、火力弱めて。お姉ちゃんは羽を立てて──』
 そんな声が聞こえてくるまで、私とヒロは忘我していた。それぞれ、違う理由で。



 ヒロは手足を地上に向け、その方向に爆炎を放射して落下速度を緩めている。私は羽の角度を微妙に調整しながら、前方に見える湖に向かって進行方向を調整している。
『そのまま速度落として、でも落としすぎないで! 森に落ちたらやばいからね!』
「このやろ、そんなこと分かってるっての……!」
 ぼやきながらヒロは賢明に手足の位置を調整する。湖がぐんぐん近づいてくる。地上がすぐそこに迫っている。
『高度三〇メートル。あと十秒で着水! 衝撃防御!』
「無茶言うなぁ!」
 まぁ生身で衝撃防御もくそもない。
 そうこうしているうちに、湖はもう目前まで迫っていた。
『五! 四!』
 カウントが始まり、私は、
『三!』
「えぁ?」
 颯太君とヒロの声が重なる。
 私は、
『二!』
 ヒロを抱きかかえるように自分の位置を変えた。
『一!』
 お前、とヒロが声を出す暇もなく、
 着水した。
 これまでとは比べ物にならない衝撃が全身を襲った。
 走行中のジェットスキーから落ちればこんな感じなのかな、と洗濯機の中のような視界の中でぼんやり思った。



 そこから記憶が少し飛んでいた。
 はっとして目を覚ましたときには、私は湖の岸付近にヒロ共々浮かんでいた。一晩中寝ていたような気もするが、実際にはほんの数秒間だったのだろう。
 ヒロはまだ気絶していた。庇った私より庇われたヒロのほうが気絶してるってどうなんだ。
 仕方がないので引っ張って泳いで岸に持ち上げる。服が水を吸って結構重かったが、ど根性。
 岸に上げて、座って一息つくと同時、
「うおおぅ!」
 と耳元で鶏に鳴かれたみたいな勢いでヒロが遠ざかった。
 うるさかったので湖に蹴り飛ばした。
「うぉ!? ちょ、何やってるんだてめぇ!」
 ようやく現状を理解したヒロがばしゃばしゃと水を叩くが、私は手を差し伸べるようなことはしなかった。
 ただ、笑っていた。
 自分でも分かるくらい幸せそうに笑っていた。
 理由はよく分からない。飛べたことが嬉しいのか、そうじゃないのかも分からなかった。そして空を飛びたがっていた理由も、結局分からなかった。
 ただ訳もなく嬉しくて幸せで楽しかった。それでいいんじゃないかと思う。
 ああ。
 私は本当に贅沢者だ。
 ──空を見上げる。
 さっきまで私達があれほど必死に飛んでいた青空は、これまでと変わりなく、ゆったりとした時間の中にあった。
 あの天使も、かつてはあの空に在ったのだろうか。
 鎖に繋がれて、天使は何を思っているのだろうか。
 ……世界に七基ある軌道エレベーター。軌道エレベーターの周辺に必ずある空白地帯。そこに繋がれた本物の天使。
 そこに関連性を見出すのは容易だ。
 でも、私はそんなの、今はどうでも良かった。
 ただ空を見上げて思った。

「もう一度、飛んでみたいなぁ」
 勘弁してくれ、とヒロが呻いた。










 ────さて。
 その後日、私達四人は今回のことが原因になって大勢の人に追い掛け回されたり、軌道エレベータに侵入したり、あの天使との邂逅をしたりと、一生忘れられない夏を経験することになるのだが──
 それはまた、別の話である。









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