夏の夜に衝撃が響いた。
 ショットガンじみた効果音が聞こえてきそうなくらいのいいパンチだった。
「死ね! クズ!」
 凄い台詞だ。しかも強烈なボディブローを喰らってくず折れた俺に、手加減なしの蹴りの猛打を浴びせかけてくるこの容赦のなさ。げしげし、じゃなくてドスドスという、目一杯綿の詰まったクッションを麺棒で滅多刺しするかのような音を感じる。まぁ人間の身体なんて水の入った袋みたいなもんだし、実際、襲撃者に聞こえているのもそんな音だったろう。
 俺は、その音が狭い室内に響く間、ただひたすら身を縮めて耐えなくてはいけなかった。
 両腕で頭をガードし、膝を持ち上げて腹への直接攻撃を防ぐ。しかし脇腹はがら空きなので、そこへのダメージは無視しきれない。
 どちらにしろ、俺に耐える以外の選択肢がない以上、それも我慢しなきゃならない。
 子供に苛められている亀の心境だった。でもここに浦島太郎なんていやしない。助けの来ない亀にできるのは、ガキが飽きて帰ってくれるのを待つことだけだ。
 それは別に大変なことじゃない。少し耐えればすぐに終わる、その程度の時間しかかからない暴力行為だ、これは。
 案の定、蹴りの雨はすぐに止んだ。荒々しい息遣いだけが聞こえてくる。視線が合うとまた何かされそうだったので、俺は腕でさりげなく視界を塞いでいる。
 と思ったら最後にもう一発来た。無防備な脇腹に踵を思い切り打ち下ろし、しかもぐりぐりとひねりを加えてきた。
「テメェなんか大ッ嫌いだ!」
 またその台詞か。もう聞き飽きたぞ。
 腕の隙間から覗く小さな影は、苛立たしげに床を踏みつけながら、乱暴にドアを閉じて出て行った。
 階段を駆け下りていく音が聞こえなくなってから俺は身体を起こした。
「いてて……」
 あんにゃろう、本気で蹴りやがって。
 ふとドアに目をやると、力を入れすぎたのか、閉じずに逆に開いてしまっていた。
 くそ。
 俺もお前なんか嫌いだよ、バカ有希(ゆき)





- ALEXANDRITE -





「まったく、兄さんは苦労性だなぁ」
 俺の腰に湿布を張りながら、千歳が言った。
 どうやらさっき腰にも一撃貰っていたらしく、痛みが引いてくれない。というわけでいつも通り有希が家を出て行った頃を見計らって一階に下り、たまたま居合わせた千歳に湿布を張ってもらっていたのだ。
「で、今日の喧嘩の原因はなんだったんだ?」
 ほれ終わった、と腰の打ってない部分をぺちんと叩き、千歳。
「今日は……まぁ、いつも通りだな」
「いつも通りか」
 いつも通り、とは、俺達の間ではイコール『取るに足りない』ということだ。つまりその程度には、俺と有希の喧嘩は当たり前だということになる。
 いつもこうだ。ただでさえ仲良くないのに、つまらないことで口論になって、段々熱くなって、しまいにゃ暴力だ。その暴力も、有希から俺へと一方的に振るわれるものであり、その逆はない。喧嘩っていうよりドメスティックバイオレンスだなこれ。
「反省はしてないぞ」
 何かいいたげだった千歳に、俺は先んじた。どっちが悪いかとか言わないけど、反省だけはしない。反省したら負けかなと思っている。あいつにだけは負けるのは御免だからな。
 呆れたように千歳が息を吐き、続いてうつぶせになっている俺の服を捲り上げた。
「うわ、ちょ、何する変態」
「他にやられたところがないか見てるんだ。兄さんは動いちゃ駄目だ」
 ずりずりと服を捲り上げていく千歳。少しは恥じらいなさいっ、年頃の女の子なんだから。
 俺の妹である千歳は、お嬢様然とした長い黒髪に似合わず体育会系の精神をしている。座右の銘は為せば為るで、好きな言葉は根性、嫌いな言葉は諦めという筋金入りだ。そのせいなのか、両親が仕事で留守にすることが多い我が家では、すっかり母親役になっている。他の妹達への面倒見も良く、それどころか俺まで世話されている始末だった。お節介焼きなのだ。
 ちなみに、妹は千歳以外に二人いる。なら有希と俺の関係は何なのかというと、それについては誰もが口を閉ざさざるを得ない。俺と有希は、要するに双子なのだった。
 戸籍上は一応俺が兄ということになっているが、有希はそれを認めていないし、俺だってそうだ。何しろどっちが先に生まれたのか、両親ですら知りはしない。
 ここで少し、うちの家族について説明しておこう。ややこしい関係だからな。
 俺と有希は、そもそも捨て子だった。孤児院の前に、ヘソの緒がついたまま、二人一緒に毛布に包まれて捨てられていた。だから、俺と有希のどっちが先だったか知らない。
 一歳になる頃、今の両親に引き取られた。両親はどちらも二十三歳の頃に結婚してから十年ほど子供が生まれなくて、俺達を引き取ったのだそうだ。
 かくして俺達は両親に引き取られ、ようやくお互いに、人並みの家族を手に入れた。
 ──が、何の運命の悪戯か、その直後に妊娠していることが発覚した。それが千歳だった。
 それからもあれよという間に二人妹が増えた。今じゃ両親と、男一人女四人の七人家族。親父も母さんもすっかりいい年になってしまい、養育費など頭を抱えたくなるような問題は山ほどあるだろうに、こんなに子供ができて幸せだ、と言ってくれる。ありがたいことに。
 ちなみに、俺と有希が他の姉妹と血が繋がっていないことを、彼女達は知らない。
 ともあれ、この家では長男と長女が他の誰とも血のつながりを持っていないという、ある種奇妙な状況になっており、しかもそれが今まで何の問題もなく継続されてきた。
 俺と有希の関係を除いては。
「そもそも兄さんは、なんで姉さんと仲が悪いんだ? いや、何度も訊いてきたことだけど」
 べたべたと俺の背中を撫で回してくる千歳。俺はもう諦めモードに入ってされるがままだ。
「さーなー」
 俺はだらけた声で答えた。
 忘れてしまったのではなく、答える気がなかった。それは俺と有希の、他の家族との間にある隔たりを口にすることになる。
 何より、俺自身が単に口にしたくなかった。
 俺と有希の不仲の原因。それは他の家族とではなく、俺と有希との間にある隔たりそのものだ。それは俺達だけで決着をつけるべきことだし、だから、他の誰にも触れさせるつもりはなかった。親父達は分かってるかもしれないけれど、ならば尚更、あの人達は何も言ってこないだろう。
「……まぁいいけど」
 千歳は不満そうだった。世話焼きで、人一倍家族を愛しているこいつは、どうも俺と有希を仲直りさせたがっているようだ。その心意気はありがたいが、この件には関わらせるつもりはない。
 こいつは妹というより姉のほうが似合っているな。面倒見はいいし、料理も上手い。料理の先生役は俺だったのに、今じゃ俺や母さんとタメ張れる。俺としては自分の負担が減るのでかなり嬉しい。
 千歳が姉だったら俺は思う存分甘えていたことだろう。あと数年して包容力が身につけば、最早怖れるものはないって感じだ。あとはもう少し、おしとやかさを身につけてくれればな。
「ついでだしこのままマッサージしてしまおう」
 と言っていきなり俺に馬乗りになってきやがった。
「おいこらちょっとまぁふん」
 ずぷりと背中の秘孔を突かれてしまった。ちょ、ちょっと色っぽい声が出たな、今。
「に、兄さん。そんな恥ずかしい声出しちゃ駄目じゃないか」
 ドスドスとツボを突きまくるその百裂拳は照れ隠しのつもりですか。
 ああでも、マジ気持ちいい。べこべこに歪んだ鉄板が延べ直されていく感じだ。その比喩はかなり正しいと思う。癒される……。
 その安楽に瞼が重くなってくる。指圧もプロ級とは、ほんとよくできた妹だなこいつ。
 眠気に誘われるまま、意識が深い眠りに落ちようとしたところで、
「ただいまー!」
 元気のいい声に、俺も千歳も揃って顔を上げた。末の妹が帰ってきたのである。
 どたばたガラガラッと帰宅からリビングに突入するまでの動作をシームレスに行い、真菜はもう一度「ただいま!」と言った。
「うん、お帰り。冷蔵庫にジュースがある。手を洗ってきなさい」
 千歳が優しい言葉と笑顔で、俺は片手を上げるだけの動作で応じた。千歳の言葉に、真菜はリビングを飛び出し、どたどたがたんざばざばどたばたどたっと舞い戻ってきた。
「小学生は元気だなぁ」
 冷蔵庫に突進する優良健康児を見ながら俺は言った。今年小学三年生になった我が家の四女は、今日も有り余るほどに元気だ。
「ちー(ねえ)、何してるの?」
 冷蔵庫からオレンジジュースを取り出したところで、ようやく真菜はこちらの状況に興味を持ったらしい。
「うん、マッサージをしているんだ。兄さん今日も姉さんと喧嘩したから」
「また?」
 小学生にまで呆れの声を向けられた。少しいじけそうになっていると、真菜が開けっ放しにしていたリビングのドアから桐子が俺を見下ろしていた。
 三女、桐子。中学二年生になるこいつは、真菜とは対照的に物静かで何をするにも静寂を好む。そんなタイプだった。
 身長は姉妹の中で一番高い。桐子は千歳と一つ違いの妹だが、発育のせいで桐子のほうが上に見られることが多い。
「……ただいま」
「おかえり」
 真っ先に気づいた俺がまず応じた。それに続いて、真菜と千歳がそれぞれ出迎えの言葉を送った。
「また喧嘩?」
 ただでさえ低温な桐子の瞳が、更に温度を下げて俺を見下ろした。いいさ、もう慣れた。そう思っておこう。
「それにしたって」
 指圧を再開しながら千歳が言った。
「兄さんも少しは姉さんに反撃すればいいのに。いや、暴力を奨励するわけじゃないけど、組み敷くぐらいのことはできるだろう?」
 そりゃあ、俺のほうが男だし力もあるし背も高いし、単純な腕力勝負なら有希に負ける道理はない。あいつも同年代の女子じゃそれなりに強いほうなんだろうけど、所詮、普通の女の子だ。
 千歳は別だが。柔よく剛を制すってやつだ。
 ともあれ、反撃に出ようとすればいくらでもできるのだが、俺にはそれをしない理由がちゃんとある。
駒代(こましろ)家家訓、その一」
 俺は呟くように言った。最初に応じたのは千歳だった。
「家族に優しくする」
「その二」
「男は女を守るもの、だっけ?」
 次は真菜が答えた。
「その三」
「いのちだいじに」
 おいそれは違うだろ桐子。
「冗談」
 そうかい。まぁ三はいいや。
「まあそれが、俺が有希の暴力を甘んじて受ける理由だな。あいつは家族で女だ。一度に家訓二つも破ったらが親父が怖い。超怖い」
 いささか時代遅れな家訓(ちなみに十まである)であるが、結構前からうちに伝わってるものみたいで、こういうのにうるさい親父は頑なにこれを守り通そうとするのだ。まあ大体当たり前のことばかりだから、それのせいで何か困ったことになったことはあまりないのだが。俺自身、女を殴るような趣味はないし、家族を殴れるほど落ちぶれてもいない。
 しかし妹達はそこのところを分かってくれなかったようだ。
「うーん、へたれだ」
「へたれ」
「へたれだね」
 うるさいやい。
 いいさ、仕方のないことだ。女系家族じゃ男の肩身は狭いもんだよな。多分。
 そんなことよりも、真菜と桐子が帰ってきたってことはもう六時だ。そろそろ夕飯の支度をしなくては。今日は土曜日だが、親父も母さんも仕事でいない。夕食を作るのは俺か千歳の仕事になる。
 背中から千歳をどかし、冷蔵庫の中身をチェックする。うむ、材料には事欠かない。肉は豚コマしかないけどまぁいいだろ。
「今日は兄さんが作るのか?」
「ああ」
 料理でもしてないと鬱憤が晴れないからな。溜め込むのは良くない、色々と。
「じゃあ今日は私の出る幕はないか。頑張ってくれ」
「おい、下拵えくらい手伝ってくれたっていいじゃないか」
 遠慮する、と手を振って千歳は出て行ってしまった。兄さんは寂しいぞ。
 ま、くさっていても仕方がない。とにかく夕食を作ろう。
 ちらと時計を見る。料理の完成には、大体一時間くらいかかるだろう。そのぐらいには、きっとあいつも帰ってくるだろうさ。



 案の定、有希は夕食が出来上がる五分前に帰ってきた。なんてタイミングの良さだ。双子だからって俺の行動パターンまで読んでるんじゃなかろうか。
 そして帰ってくるなり食卓につく有希。いつもと変わらない、むっつりと不機嫌そうな顔。ベリーショートの髪の下にあっては、寝不足の猫科動物を思わせる表情になっていた。
 そんなやつにおかえりなどという言葉をかけるつもりはない。こいつだってきっと同じ気分だ。さっきまで喧嘩してたやつとにこやかに言葉を交わせるとしたら、それはよっぽど図々しいか、ただのアホだ。
「……うむ」
 スープの味よし。麺の茹で具合もよし。俺は自室で待機しているであろう真菜と桐子を呼びにいった。
 部屋では、寝転がって本を読む桐子の上に、小亀よろしく真菜が同じ姿勢で少女マンガを読んでいた。桐子、文句があったら言ったほうがいいぞ。
「別にいい」
 さいですか。
 こいつも顔には出にくいが、唯一の妹である真菜のことはそれなりに可愛がっているのであった。真菜も、自分に適度に無関心でいてくれる桐子によく懐いている。千歳はちょっとばかし小言がうるさいからな。
 その千歳はというと、ちょうど風呂掃除を終えたところだった。飯だと告げて俺はキッチンに戻る。
 人数分のドンブリを取り出し、チャンポンを盛り付けていく。都合良く冷蔵庫に麺があったからな。具は豚コマに、キャベツ人参もやし、真菜の好きなコーンも入れてある。スープは市販のやつだ。
 付け合せに味噌汁と、昨日母さんが大量に作ってまだ余っているポテトサラダ。使いかけのキャベツを全部使ってしまったせいで余ってしまったチャンポンの具は、俺と有希がおかわりする分を残して、焼肉用の味噌だれと絡めて回鍋肉(ホイコーロー)(偽)にする。これだけあれば充分だろう。
 配膳している間に家族が揃った。俺もエプロンを外し、席につく。
「じゃあ、いただきます」
『いただきます』
 四つの高い声が唱和する。このときばかりは有希もちゃんと手を合わせてお辞儀をする。食事の前にいただきます、は昔っから言われてきたことだしな。本人の性根がどうあろうと、関係ないのである。
 有希は早速とばかりにウスターソースを手に取り、ポテトサラダにかけた。量多すぎじゃないか、血圧上がるぞただでさえ高いのに。──と口に出したりはせず、差し出されたウスターソースの瓶を受け取る。俺もチャンポンにかけていた胡椒とラー油を渡してやった。やっぱチャンポンにはこれだよね。
「兄さん、私にもウスターソース貨してくれないか」
 定位置に戻そうとしたソースを、隣の千歳が欲してきた。俺は手放しかけたそれを千歳に渡そうとして──それを横から有希が掻っ攫い、千歳に差し出した。
「ありがとう、姉さん」
 にこっと笑う千歳。嫌味のないいい笑顔だ。
 だというのに有希ときたら、視線すらやらずに麺を啜ることに没頭している。お前の表情筋は怒り以外には反応せんのか。千歳の優しさと穏やかさと家族を想う気持ちをお前も見習え。
 まあ有希も、別に姉妹と仲が悪いわけじゃないんだけどな。無口仲間だからなのか、桐子に勉強教えてやったりしているし。数は少ないが友達だっている。放課後や休日は普通に遊びに行ったりするし。
 その分、負の感情は俺が一手に引き受ける羽目になっているのだが。
 千歳がウスターソースをチャンポンにかけていたのは全力スルー。
「……おい有希、肉ばっか取るな」
「うるせぇ、あたしの勝手だバカ亜樹」
 回鍋肉(偽)の上で俺と有希の箸が火花を散らした。お前ほんと肉好きだな。俺も好きだが。
「野菜も食えよ。肌に悪いぞ」
 その一言が効いたのか、有希は眉根に皺を寄せながらも渋々と野菜を自分の皿に入れた。うむ、それで良し。
 ……後にして思えば、それで少し気を良くしてしまったのがいけなかったに違いない。
「大体お前は偏食しすぎなんだ。昔から好き嫌い多かったし。だから背も──」
 あ、やべ。
 口を閉ざそうとしてももう遅い。俺の顔面にソースまみれのポテトサラダがパイ投げよろしく正面衝突。鼻に、鼻にポテトが! 俺の鼻がマッシュポテト製造機に!
 芋の塊に塞がれた視界の向こうで椅子を蹴飛ばして乱暴に駆けていく音が聞こえた。俺は顔に張り付いた皿を剥がしつつ、先程の自分の行動を振り返った。
 うん。
 今のは俺が悪かった。
 有希は、身長のことに触れられると間髪入れずにキレる。気にする気持ちは分かる。母さん含めて五人いるうちの女性陣で、有希の身長は下から二番目だ。一番下の真菜にしたって、成長期の真っ最中。いつ追い抜かれてもおかしくない、まさに崖っぷちなのである。
 暴力沙汰に発展しなかったのは不幸中の幸いかな。妹達の前でおおっぴらに暴力を振るうような真似を、あいつはしない。とは言っても、
「今のは兄さんが悪いぞ」
「悪い」
「最悪ー」
「……いや、分かってる。うん」
 結局こうしてなじられるわけで。今回ばかりは全面的に俺が悪いのだから、言い訳のしようもないのだが。珍しくあいつが素直に応じたもんだから、他の妹に対してと同じように言ってしまった。不覚である。
 とりあえず顔に張り付いたポテトサラダをどうにかするか。あいつの食べかけとはいえ、捨てるのも勿体なかったので、そのまま口に入れた。
「兄さんと姉さんは、ほんともう少し仲良くできないものかな」
 もりもりと芋を咀嚼する俺の横で、心底呆れのため息を吐きながら千歳が言った。
「と言われてもな、自分で言うのもなんだがもう習慣化しちまってる気がするし。お互い自分の意見を曲げないもんだから、どうしてもな」
「そこまで分かってるなら、兄さんが我慢すればいいんじゃないか?」
 なんだ千歳、今日はやけにつっかかってくるな。そこまでして俺と有希と仲直りさせたいのか。
 そう訊くと、力強く頷かれてしまった。いや、気持ちはありがたいんだけどなー、でもなー。
「わたしも、あー(にい)とゆー姉が仲良くしてるトコ見てみたいなぁ。一度も見たことないもん」
 と、ちょっと寂しそうに真菜が言った。うぅむ。それを言われると弱い。何しろ真菜が物心つく前から俺と有希は喧嘩しっぱなしなんだし。こんな兄と姉を持った割には、真菜もまっすぐに育ってくれたもんだ。
 そんな良くできた妹に、仲の悪い姿しか見せたことがないというのは、結構申し訳なく思っていたのだ。
 俺は意見を求めるように、桐子にちらりと視線を向けてみた。
「静かだと、本を読むのにいい」
 よしお前はどうでもいい。
 しかし、どうしたもんかね。妹達の気持ちを無下にするのもあれだが、今更関係を修復するっつーのもどうだ。不自然だろ。
 いや、でも、別に仲良くする必要はないんだよな。要は喧嘩しなきゃいいんだし。俺がちょっと我慢するだけで殴られる回数が減るんなら、それほど悪いことじゃないと思う。……あいつに膝を屈するような気がするのは癪だがっ。
 まあ、いいさ。これから社会に出れば我慢しなきゃならんことなんて山ほど出てくるんだ。いい勉強になると思おう。
「……分かったよ。できるだけ頑張ってみるさ。妹の頼みだしな」
 おおー、と千歳と真菜から声が上がった。
「よし! それでは今日から早速『亜樹兄さんと有希姉さんの仲良しキャンペーン』を開始する!」
 その名前はねぇよ。
「我ら姉妹は、兄さんの努力を全力でサポートすることを誓う! いいな?」
 おーう、と笑顔でハイタッチを交わす三人娘。というか桐花、お前までノリノリなんだな。
 妹達の気遣いは嬉しいのだが、俺としてはほっとけと言いたかった。余計なお世話って感じだ。
 ま、頑張ってはみるけどね。










 ──とは言ったものの。
 結局俺が何もしないまま、その日は終わってしまった。
 何かできるような状況でもなかったしな。怒ってる有希にわざわざ声でもかけようもんなら、火に油を注ぐ結果となりかねない。ほっときゃ鎮火するんだから、何もしないのが一番なのだ。この辺の距離の取りかたには、かなり年季が入ってるぜ、俺達。
 というわけで、翌日の日曜日、午前十時。俺は遅めの朝食をとりながら、有希と仲良くする方法について考えてみた。
 ぶっちゃけ何も思い浮かばない。
 そもそも最後に仲良くしてたのっていつだったっけな。いや、そもそも俺あいつの笑った顔とか見たことあったっけ。
 今の関係の原因になった出来事が起きたのが確か小学三年生のときだったから、もう八年にもなる。俺も有希も、今や高校二年生だ。
 納豆ご飯をかき込みながら必死に記憶を掘り返すが、思い出せない。昔っから表情に乏しかったよな、あいつ。俺も決して豊かなほうとは言えないが、人並みの反応は返せるつもりだ。
 ……あー、少し記憶が蘇ってきたぞ。
 仲が良いとか悪いとか以前に、俺らは小さい頃、何があってもずっと一緒にいたんだっけ。いつも二人でワンセット。お互いがお互いの片割れだったから、離れる気にもならなかった。離れるという選択肢すら浮かばなかった。小学校に入るまでは特にそれが顕著だったな。思い出したくはないが、小学校入ってからもしばらくは一緒に風呂入ってた気もする。
 あのときまでは。
 そう考えると、あの事件はそれほど悪いことではなかったんじゃないか、と思えてくる。あれがきっかけになって、俺達はようやく一人で立てるようになったんだから。それが片割れへの反発心ゆえの意地だったにしても。
 ……尚更、仲良くする方法が思い浮かばなくなってきた。意識して仲良くした記憶がないんだから仕方ない。有希以外と喧嘩したこともないから、仲直りの方法も知らない。一緒に風呂に入れとでも? バカ言え、間違いなく殺される。
 考えていたら朝っぱらから頭痛くなってきた。なんで俺がここまでせにゃならんのだ。別にいいじゃん仲悪くても。
 などと思っていると、二階から有希が下りてきた。いつも通りの不機嫌そうな顔だったが、今日は寝不足の色が濃いな。夜更かししたのか。あとせめて下になんか穿け。パンツ見せんな。
 ──といった小言が出そうなのを、ぐっと堪えた。いくらなんでも初っ端から計画破綻なんてことになったら、千歳達から何言われるか分かったものではない。
「おはよう」
 なので、そう声をかけてみた。日がすっかり昇ってから起きてきた妹に「おはよう」、これくらいならば不自然にはなるまい。かなり皮肉な言い方だが、まともに朝の挨拶すらしない俺達にしてみれば大進歩なのだ。有希は更に不機嫌そうな顔になって「うるせぇ」とでも言ってくるに違いない。
 と、思っていたのだが。
「────────」
 いつまでたっても返事がないのでふと有希の顔を見てみると、猫が豆鉄砲食らったみたいな顔で俺を見ていた。
 あまりにその姿が以外だったので、俺はついこんなことを口走ってしまった。
「おいどうしたズボン穿け露出狂」
 さあどう来る!
 パンチか、キックか、それとも意表をついて頭突きか! 受け止める準備はばっちりだぞ! ノーガードで。
 しかし有希は何もしてこなかった。ビキビキと音が聞こえそうなほどの凶相で俺を睨んだあと、さっさとシャワーを浴びにいってしまった。
 んだよ、調子狂うなぁ。やっぱ慣れないことはするもんじゃないな。朝の挨拶すら俺達にとってはハードルが高かったのか。
 うーん。しばらくは、小言を抑制する方向でいってみるかな。何かを言うより何も言わないほうが簡単だし、あいつも俺の小言に付き合わなくていいから気が楽だろ。
 俺は自分の食器を片付けると、有希が朝食を食べに現れる前に退散した。



「というわけで千歳の知恵と力を借りたい」
「構わないが」
 一階の自室で勉強していた千歳は、苦笑と共に答えた。
 ちなみに今は眼鏡装着中だ。実に似合っている。
「言いだしっぺである以上協力は惜しまないからな。で、私は何をすればいいんだ?」
「俺の代わりに小言を言う」
「……あまり意味がないと思うがなぁ」
 む、そうか?
「私達から見れば、特に注意するようなことはないからな。昨日もそうだったけど、兄さんがうるさすぎるだけだと思うぞ。あれじゃまるで母親だ。そういうのが姉さんの気に障るんじゃないか」
 うーん、そうなのか。自覚はないがな。
 なんだかんだと言いつつ、俺はあいつのことを気にしすぎているのか? どうにかあらを探して足元掬ってやろうという気持ちが強いのかもしれん。そりゃ喧嘩の原因にもなるわ。
「なんだ、よく分かってるじゃないか」
 千歳は何がおかしいのか、けらけらと笑っている。
「私は身長のことに触れるような失敗は犯さないしな」
 はいはい、それは俺が悪かったよ。
「軽いことじゃないぞ、兄さん。自分のコンプレックスを刺激されたら誰だって怒る。ましてや姉さんは女の子なんだから、そういうのには人一倍敏感なんだぞ」
 あいつが女の子ねぇ。人前にパンツ丸出しで姿現すようなやつに女を見出せるんだろうか。
「そこは家族だからということで、甘えが出ているんだと思う。……いやまぁ、私もあれはどうかと思うけど」
「そんな困ったような顔をする必要もないだろ。家族なんだし、俺見たって別にどうとも思わんぞ」
 見慣れてるしな。
「そうはいかない」
 千歳は語気を強めた。
「兄さんは近くにいるから気づかないかもしれないけど、姉さんだってちゃんと女性的な身体つきになってきているんだぞ? どちらかといえばスレンダーだけど、肩も腰も細いし、同性の私から見ても綺麗な身体をしている」
「チチはないけどな」
「そういう直接的な表現はやめたほうが……」
 千歳の頬がほんのり赤く染まる。こういう話の免疫がないのであった。
「黙ってれば姉さん綺麗なんだから、そのうち他の男性から告白されてもおかしくないと思うがな。やっぱり兄さんには分からないかもしれないが」
 俺はその話がどう俺に関係してくるのか分からんがね。
「兄さんがいつか間違い犯すんじゃないかと思って」
「いや、それはないな」
「どうかな。姉さん、愛想は悪いけど顔は可愛いんだし、髪伸ばせばきっと──」
千歳(・・)
 びくん、と千歳が俺の視線の先で、全身を強張らせている。
「…………ッ、すまない」
 千歳が勢い良く頭を下げた。
「……いいよ、別に。俺のことじゃないしな」
 じゃあなんで俺は心臓の動悸が収まらないんだろうな。
「もう特に話すことはないかな。とりあえず俺は小言は言わない。桐子と真菜にも伝えといて。だからどうってことでもないけど」
「分かった」
 顔を上げ、千歳は頷いた。
 俺は千歳の部屋を出て、財布を取って家を出た。
 自転車を出していると、白いセダンが車庫に入ってきた。親父達が仕事から帰ってきたのだ。
「おかえり」
 車から降りた二人に声をかける。
 三十三歳のときに俺と有希を引き取った二人は、もう五十歳にもなる。しかしその姿には全く衰えは見出せず、未だ三十代後半の若々しさを保っている。
「ああ、ただいま。変化はなかったか?」
 俺より少し上の目線が俺に訊いてきた。親父の厳格そうな顔の目元には、うっすらとクマがある。
「特に何もなかったよ。昨日は冷蔵庫のチャンポン使ったけど」
 俺は母さんも見ながら言った。
「あら、そう? じゃああとで買い物に行かないといけないわね」
「キャベツ全部使った」
「はいはい」
 母さんは親父に荷物を持たせて、家に入ろうとする。
 俺は、千歳命名・『亜樹兄さんと有希姉さんの仲良しキャンペーン』のことを言おうかと思って、やっぱりやめた。わざわざ言うようなことでもあるまい。あんまり長くはもたんかもしれんしな。
「ちょっと出かけてくる」
「遅くならないようにね」
「夕食までには戻るよ」
 言い残して、俺は自転車をこぎ出した。窓からちらりと家の中を覗くと、有希がトーストを食べているのが見えた。



 友達の家に行ってだべってたらもう六時過ぎになっていた。
 大急ぎで家に帰ると、既に夕食の準備は整っていた。今日のメニューはチキンカツと焼き茄子。小鉢には冷奴が盛られている。
『いただきます』
 家族七人が全員揃って飯を食うのも四日ぶりだ。
 千歳がソースをカツにかけている。だから多いんだよっ。皿に溜まってるじゃねーか! そう叫びたい心をぐっと抑えてソースを受け取る。
 今度は冷奴に醤油をかけ始めた。
 だから! 多いんだっつーの! というかてめぇ冷奴はいつも最後に食べるじゃねぇか! 醤油は食べる寸前にかけろよ! 水分出ちゃうだろ! ──という言葉をご飯と一緒に飲み込んだ。
 うう、小言禁止というのは以外とストレス溜まるなぁ。
 そして言わなければ言わないだけ、余計に有希の仕草が気になってしまうのだ。箸を扱う細い指先、肉を齧る白い歯、湯飲みに当たる柔らかな唇。
「……んだよ、なんか用かよ」
 はっとして気づくと、有希が猛禽の瞳でこっちを睨んでいた。我知らずこいつを凝視していたらしい。何か返さないとあまりにも不自然だが、俺は小言は言わないと決めているのである。口の端についたソースが気になってしょうがない。
「お前、明日の数学の課題やってるか?」
「やった」
「あとで見せろ」
「嫌だ。自分でやれ」
 そう言って有希は視線を背けた。今ので納得してもらえたらしい。
 しかし、数学の課題を見せて欲しいというのは実は本心だったりする。まだやってないんだよね、俺。
 まぁ自分でやるしかなかろう。
「ごちそうさま」
 というわけでちゃっちゃっと食事を終え、俺は席を立った。
「あら亜樹、お茶はいいの?」
 母さんが急須を持って訊いてくる。
「今はいーや。あとで飲むかもしれないから、ポットにお湯残しといて」
「はいはい」
 さて、それじゃあ課題を片付けなければ。
 俺の部屋は二階にある。有希はその隣だ。ちなみに二階には四部屋あり、俺と有希の部屋以外は物置になっている。千歳と桐子と真菜は一階に部屋がある。千歳は和室を、桐子と真菜は二人で一つの部屋を使っている。俺と有希が大学に入って家を出たら、空いた部屋を桐子と真菜が使う予定だ。千歳は今の和室がいたく気にっているようで、動く気はないらしい。
 そして俺は、あと一年半ほどの期限付きの自室で、机に向かって課題をしているわけだが、これが全く手につかなかったりする。
 有希との関係修復について考えていたからだった。
 今日一日の行動(といっても積極的にやったことといえば朝の挨拶ぐらい)を振り返るに、もう少し慎重に行くべきだろうかという考えが浮かんだ。あいつ勘鋭いし、おまけに双子だからな。お互い、ちょっとした変化でもすぐに分かってしまうのだ。
 ……なんでこうも俺は真剣に考えてるんだろうね。そりゃまぁ喧嘩なんてしないに越したことはないが、何したって、俺らの根本的な関係は変わらないと分かっているのに。
 とりあえずは課題をやらないとな。多分九時頃には、あいつが部屋に来るだろう。



 結局あんまり進まなかったわけだが。
「んだよ、まだ終わってねぇのかよ」
 ノックもせずに部屋に入ってきた有希に罵られたときには、まだ課題の三分の二程度しか終わってなかった。
「やるから相手しろ」
 手に持っていた格ゲーを突き出してくる有希。新作だ。
「宿題終わったらな」
 俺はそう言い、ふと思いついて続けてみた。
「お前が見せてくれたらもっと早く終わる」
 すると有希はかなりあからさまにチッ、と舌打ちし、ドスドスと自分の部屋に帰っていった。諦めたんだろうか。
 と思ったらすぐに戻ってきた。手にはノートがある。それを俺に投げつけて曰く、
「早くやれ」
 それだけ言って、有希はテレビの前にどっかりと腰を下ろした。どぃーむ、と鈍い起動音をさせてゲームハードが立ち上がる。
 こ、こいつ鬼だ! 宿題やってる奴の後ろでゲームするつもりだ! 自分の部屋にもハードあるくせに!
 ぎりぎりと歯軋りをしながらも、ありがたく有希のノートを写させてもらう俺。情けないとか言うな。俺だってゲームやりたいんだ。
 お陰で十分ほどで課題は全部終わった。有希はというと、CPU相手にフルコンボを叩き込んでいた。惚れ惚れするような空中コンボだ。地に足がついてねぇ。
 有希がCPUを負かすのを待ってから、参加する。
 それからは無言だ。いちいち無駄に会話を交わすような相手でもない。
 思えば、こうしてゲームすることが、俺と有希の唯一のまともな接点と言ってもいいくらいだ。お互い嫌い合ってはいるが、ことゲームに関しては実力が伯仲している。対戦するのにこれほどちょうどいい相手もいないのだった。他の家族はゲームできないしな。
 なので、喧嘩しなかった日はこうして俺の部屋に有希が来て、一緒にゲームをすることが多い。やるのは対戦可能なものばかりで、プレイヤーが協力するタイプのゲームは絶対にやらない。
 それからしばらく対戦を続けた。途中、有希にかなりいやらしい手口で攻められたりしたが、そこはぐっと堪えて受け入れた。こういうとき下手に喋るから喧嘩になるのだ。まぁ、俺の代わりに操作キャラが殴られてると思えば腹も立たない。
 ちなみに俺が負け越した。
 十時半を回ったところで、風呂に入るためにゲームを中断する。
 湯上がって部屋に戻るともうそこには有希の姿はなかった。片付けて部屋に戻ったらしい。ノートもない。ふと本棚を見てみると、ごっそり漫画が抜けている。あのアマ、ちょうど俺が読もうとしていたものを。
 怒っていても仕方がないのでもう寝ることにする。
 今日はいつもより疲れがひどい。やっぱり我慢していただけ、身体に余計な負担がかかっていたんだろう。そのせいか、横になるとすぐに眠たくなった。
「明日以降もこれを続けるのか……」
 そう思うと、少し気が滅入った。










 明けて月曜日。
 当たり前だが学校がある。あいつは部活の朝練があるのでさっさと言ってしまった。眠たい顔突き合せなくていいのは嬉しい。朝っぱらからいきなり不機嫌にならなくて済むからな。
 そんなわけで俺はいつも遅刻ギリギリに登校する。今日も朝のホームルームが始まる三十秒前の到着だ。
 息も切れ切れに教師の話を聞き、終わる頃にようやく息が整った。
 先生が出て行ったあと、入れ替わるように教室に入ってきた男子生徒がいた。
「おはよう遅刻大王」
「おう、おはよう、駒代」
 友人の有明だ。今日で通算何回目だっけ。そろそろ保護者呼び出し喰らうんじゃないかこいつ。
「お前ほどにこやかにあのバカも挨拶返してくれりゃいいんだがな……」
「ん、なんか言ったか?」
「いや何も」
 有希のほうに向けていた視線を悟られないように逸らし、代わりに訊いた。
「数学の課題やってきてるか」
「やってねー」
 あっはー、と笑って答える有明。お前卒業する気あんのか。
 と、ふと視界の端に動くものを捉えた。見れば有希が自分の鞄の中を漁っている。二十秒ほどそうしていたと思えば、席を立って、クラスの友人のところに行った。そこで二言三言言葉を交わすが、友人のほうに申し訳なさそうに頭を下げた。
 何か忘れたっぽいな。俺は今日の時間割を思い出しつつ、自分の鞄を開いた。
 有希は二、三人を回ったあと、不機嫌そうな顔つきになっていた。どうやら誰も持っていなかったらしい。
 あいつの顔が著しく不機嫌になっているのは、つまるところ、この俺に頼らざるを得ない状況になっていたからだった。
 有希の視線が俺を射抜く。俺は溜息と共に、取り出していたホッチキスを放ってやった。有希はそれを受け取ると最早用はないと言わんばかりに視線を逸らし、自分の机に戻ってしまった。
「なんで分かったんだ?」
 一部始終を眺めていた有明が訊いてきた。
「今日、国語の小論文提出締め切りだっただろ。あいつそういうの結構長く書くからな」
 大体のやつは原稿用紙二枚以上書いたりしないし、書いていても家で綴じてくるから、学校にまで持ってきてるやつは中々いない。少なくともあいつの友達の中にはいなかった、そういうことだろう。
「小論文とかあったっけ?」
 こいつはもう駄目だな。
 見れば俺のホッチキスは、有希の友人間をたらいまわしにされていた。……あれちゃんと戻ってくんのかな。
「しかしいいよな駒代は。あんな可愛い妹いて。仲もいいし」
 いきなり有明がそんなことを口にした。
「妹じゃねぇよ。可愛くもない。仲も良くない」
 主張すべきことは主張しておいた。
「うっそだぁ。仲悪かったら今みたいに以心伝心とかありえねーだろ」
「仲悪いし、以心伝心してない」
「えー? 今のはどう見ても通じ合ったもののそれだろ」
「一緒に住んでりゃ嫌でも分かるわ。家族ってのは厄介だぞ。知りたくないことまで知っちゃうんだから」
 パンツの色とか寝相とかな。
「それに、ここが学校だからあんなに大人しいだけで、家帰ったらそりゃもう酷いぞ」
「そうなのか?」
「連日ドメスティックバイオレンスだぜ、うちは。主な被害者は俺だが」
 想像つかないなー、と有明は言った。
「お前も女と付き合うときは気をつけといたほうがいいぞ。少なくともあれはやめとけ」
 結婚すれば三日で実家に帰りたくなるぜ。亭主のほうが。
「その割にはお前、家を出て行きたいとか言わないよな」
「住む場所ないし、これ以上親に負担かけられないからな。まぁ、少しでも改善しようと努力はしてるんだが」
 俺は有明に、『亜樹(略)キャンペーン』の概要を話してやった。
「ほう、妹の頼みで」
「まあ俺が暴力受けたくないってのもある」
 有明は少し難しい顔をして、続けた。
「でもそれって少し情けなくないか? 双子っつってもお前のほうが背もあるし力も強いんだし」
「我が家の家訓で女性に暴力は振るわないことになっている」
「ふぅん、ヘタレだな」
 お前まで言うかっ。
 羽交い絞めにして昨日の有希とのプレイで見せたコンボを叩き込んでやろうかと思ったが、一時限開始のチャイムが鳴ったので、有明はそそくさと自分の席に戻ってしまった。ち、ゴングに救われたな。



 時間は流れて放課後。
 昼休みに関節技を極められた有明の恨みか、雨が降ってきた。しかし俺は慌てない。こんなときのために折り畳み傘を常備しているのだ。残念だったな有明よ。無念を抱いたまま瀬戸内海に帰るがいい。
 下駄箱の前で傘を開いていると、すっと横に並ぶ影。
 ベリーショートのチビ。有希だった。
 隣に並んだ時点で初めて有希は俺に気づいたようで、かなりあからさまな嫌悪を俺に向けてきた。おい、これは俺が悪いんじゃないだろうが。
 同じような顔を浮かべそうになるのを堪えて、俺は努めて無表情を維持した。内に渦巻いた小さな負の感情は、他の言葉にして吐き出した。
「今日は部活休みになったのか?」
「……関係ないだろ」
 返事はやはり邪険だったが、そのあとに「そうだよ」と小さく付け加えてきた。
 有希は傘を持ってきていないようだった。……これイベントフラグだろうか。相合傘の。冗談じゃねぇぞ、おい。
「傘よこせ」
 勿論そんなことになるはずもなく、このチビはあまりにも無体な一言を放ってきた。
「嫌に決まってるだろ。俺が濡れる」
 チッ、と大きく舌打ちしやがった。……く、クールだ……クールになるんだ、亜樹……。
「じゃあ、鞄持て」
 そんな俺の内心もいざ知らず、拒否は認めぬとばかりに自分の鞄を差し出してきた。要するに教科書は濡らしたくないってことか。
 俺はヒビが入りかけた理性の修復と、事項の検討に三十秒くらい時間をかけ、結論を出した。
「……いいぜ、それくらいならしてやる」
 ──ということで、俺が両肩に鞄を背負って傘を差し、有希は手ぶらのまま雨に降られるという奇妙な状況が成立した。
 他人が見たらさぞかし俺は酷い男に見えることだろうな。
 しかし、雨に濡れた有希はなんつーか、かなりエロい。千歳が言っていたとおり、汗に透けた肩とか細くて綺麗だ。こいつ個人に思うところはないが、女性としては兎も角少女としてはやっぱり可愛い部類に入るんだろうな。
「おい」
 やべぇ、気づかれた?
「昨日てめぇ、あたしに朝『おはよう』っつったろ」
 朝じゃねぇよとか、昨日のこと今更言うのかよとか、色々と突っ込みたい部分はあったがそれは耐えた。
「言ったけど、なんだ」
「なんで言った?」
「お前は今までにした挨拶の数を覚えているのか?」
 ドドドドド……という効果音が聞こえてきそうなくらい見事に決まった。ククク……昨日お前が持っていった巻の中にあったはずだ、このシーンが……!
 さあ……どう出る!
「なんで言った?」
 シット! 無視か! ていうか聞かなかったことにされた!
「いや、別に特に意味はないけどな。たまたま俺の機嫌が良かったんだろう」
 内心の動揺を押し隠し、俺は普通に答えた。
 ふぅん、と有希は、何を思っているのか分からない声で答えて、
「じゃあもう挨拶すんな。キモいから」



「────ッて言われたんだけどどうしたらいいかなッ!」
「だからなんで私の部屋に来るんだ兄さん」
 辟易した様子で千歳が言った。手には茶の入った湯飲みを持っている。
「なんでってお前、男にとって『キモい』は言われたくない言葉の一、二位を争うような言葉だぞ」
「いや女にとっても同じだし。大体、努力は惜しまないとは言ったが、私だけを相談役にされてもな」
「そう言うと思って今回は桐子先生にお越しいただきました」
 ふすまを開けて登場する我が家の三女、プラスその背にぶらさがった四女。
 こうして千歳の部屋には、有希を除いた四人が集結した。ちなみに有希は今シャワーを浴びている。ずぶ濡れになったからな。
「というか私はまず、姉さんを雨に濡れさせながら自分はのうのうと傘を差して帰ってきたことについて追求したいのだが、何か弁護は」
 既に起訴済みですか。
「いや、だっていきなり傘渡したり相合傘したりしたら、いくらなんでも不自然だろ。今までの俺達から考えて」
 そういうのには俺自身が拒否反応出るしな。
「それはそうだが……」
 千歳はいまいち釈然としない様子で眉根を寄せた。
「いやまぁ、それは置いといてくれ。ここでは桐子に助言をいただきたいんだ」
 桐子が座布団に座った。背筋の通った見事な正座だ。隣には真菜がちょこんと座っている。
「ばっちこい」
 準備オッケーといった感じで桐子が言った。
「じゃあ訊くけど、ぶっちゃけ桐子から見てあいつどうなんだ。勉強教えてもらってただろ、確か」
 そう質問すると、桐子はしばし考えるように首を傾げ、そしてぽつぽつと語りだした。
「あんまり喋らないけど、勉強はちゃんと教えてくれる」
 生徒の自主性を尊重するタイプだろうか。
「答えをそのまま教えてくれることはないから、私は面倒」
「お前が解かないと意味がないから、そこはあいつが正しいな」
 クールそうに見える桐子だったが、これで意外とぐーたらである。
 桐子は少しムッとしたようだった。代わって、はーい、と真菜が手を上げる。
「はい真菜君」
 千歳が先生っぽく真菜を指した。
「わたしの勉強も見てくれるよー。言葉はきついけど、それ以外は優しい感じがする」
「意外だな、あいつはもっとスパルタだと思ってたが」 
「有希姉さんは、亜樹兄さんにだけ厳しい」
 桐子が言った。まぁ、そりゃそうだろうな。喧嘩してる相手にまで優しくする義理はないし。
「どうすれば優しくしてくれると思う?」
 そう訊いてみると、桐子は二秒の間を置いて答えた。
「無理かも」
 さいですか。
 不意に、ふふ、という笑い声が聞こえた。千歳のものだ。
「兄さんも、なんだかんだと言いつつ結構熱心じゃないか」
「殴られるのは嫌だからな。家庭の平和が取り戻せるんであれば是非もない」
「我慢は良くない」
 桐子が言った。別に我慢してるつもりもないんだけどな。それに、これも継続させていけばそのうち慣れるだろ。慣れるまで続けられるかは疑問だが。
「少なくとも、そう想定するくらいには、兄さんも姉さんのことを気にかけているわけだな」
「どーだかなー。つか、まだ始めて二日だぜ。それでそんなこと言われてもな」
「言われるのに充分なだけの行動と思索は、既に行っていると思うが」
 どういう意味だ、と問い詰めることはできなかった。その前に背後のふすまが開いたからだ。
「……何やってんだ、あんたら」
 頭にタオルを乗せた有希がそこにいた。顔はほんのり上気している。
「夕食の相談と、買い物担当を誰にするか決めているところだ。カレー作りたいんだがカレールーがない」
 事前に用意しておいた嘘を滑らかに吐き出した。この辺りのごまかしの上手さは我ながら惚れ惚れするね。
「あたしは参加しなくていいのか。買い物担当」
「いっぺん濡れたやつにもう一度外に行かせるほど鬼じゃねぇよ」
 お前じゃあるまいし、と思わずつけそうになったのを飲み込んだ。
『兄さんグッジョブ!』と千歳がイイ笑顔で親指を立ててくる。何がグッジョブだ。
「……あっそ」
 何を思っているのか分からないが、有希はそれだけ言ってふすまを閉じた。遠ざかる足音が、やがて階段を上る音に変わるのを聞き届けてから、俺は立ち上がった。
「つーことで、カレールー買ってくるわ。千歳、下拵えしといて」
「了解した」
 千歳も続いて立ち上がる。
「あれー、もういいの?」
 きょとんと真菜が訊いてきた。
「あー……今日はもういいや。また今度な」
 それだけ言い残し、俺は食費用の財布を持って、家を出た。
 雨脚が止む気配はない。










 木曜日の昼休み、屋上で昼食を取っていた俺は、有明に訊いてみた。
「ぶっちゃけお前から見てあのバカどう見える?」
 焼きそばパンを齧っていた有明は、口の中のものを飲み込んでから、
「あのバカって有希ちゃんのことか?」
「そうそう」
 有希ちゃんか、その呼び方には違和感を禁じえないな。聞き慣れてないせいかもしれないが。
「それも仲直り作戦の一環か?」
「仲良しキャンペーンな」
 しかしふざけた名前だなほんと。
「うーん、まず可愛いよな」
「可愛いなどとは決して認めないがそれはいいとして、他には」
「認めろよ……で、あと、小さい。細い。ボーイッシュ。ていうか(オトコ)
「……最後のはなんだ」
「いや有希ちゃんすっげーんだぜー。こないだテニスの練習試合たまたま見かけたんだけどよ。ダブルスで組んでるのが新入りの一年だったんだが、そのサポートの的確なこと。後輩がこぼす球全部取って、とうとう二年同士で組んでた相手に勝っちまってた」
 ふーん。あいつの試合とか見たことないから分からんけども。
「愛想悪いけど、後輩には人気あるみたいだぞ。頼れるお姉様って感じで」
「実際、下に三人いるしな。無理ないかもしれん……っと」
 バダムと屋上のドアを叩きつけるようにして開いたのは、有希だった。あいつは俺を見つけるなりすたすたとこっちに歩いてきて、
「財布忘れた。金貸せ」
 などとのたまいやがった。
「……一銭もないのか?」
 ない、と断言した。
「…………」
 俺は呼吸を整えるのに苦労しつつ、それでも百円玉を二枚くれてやった。これ以上は譲れん。
 有希はそれを一瞥すると、礼も言わず颯爽と立ち去っていった。
 俺と有明はその背中が階段に消えるまで見送り、やがて有明がぽつりと呟いた。
「……なんか、横暴さが目に見えて酷くなってきてね? 俺はてっきり有希ちゃんのことツンデレだと思ってたが、あれじゃツンドラだな」
「そのツンデレとやらが永久凍土とどんな関係のある言葉なのかは知らんが、やっぱそう思うか」
 イチゴオレを啜る。優しい甘さが怒りを静めてくれる。
 昨日から、やけに有希から俺への風当たりが強い。暴力に出ることはないが、しかし俺への要求がかなり容赦のないものになっている。あれ買ってこいだのそれちょっと貸せだの、俺はお前のパシリじゃねっつの。
 勿論、嫌だと思ったときはきっぱり断ってる。そうした場合、有希はすんなりと引き下がって、強引に要求してくることはない。そのあたり不可解といえば不可解だな。ただ、無茶な要求をされ続ける俺にも、当然我慢の限界というのはあるわけで。
 ここ数日で、俺もどうにか、あいつと少しは仲良くなろうかな、なんて気持ちが本格的に芽生えつつあった。最初は軽い気持ちだったが、続けてみると結構その気になってくるもんだ。千歳の言ったとおり、なんだかんだと言いつつ、俺は熱心だった。
 だが、それは有希のパシリになることとイコールじゃねぇ。
 やめちまうか。前までの、視線も合わさないような関係に戻ったって何が変わるわけでもないんだ。こんなむしゃくしゃした気持ちを抱くくらいなら、あの、八年続いた剣呑さのほうがよっぽど心地いい。
 それとも試してるのか、お前は、俺を。俺がどこまでお前の要求についてこれるかを? 俺がいつまでキレないでいられるかを? そうなのか?
 もしそうなら、俺はどうすればいい。そうさせた原因は俺にあるわけだからな。付け込む隙をわざわざ与えてきたのは、俺のほうなんだ。そのことについて、俺は有希に不満をぶつけることはできない。間違っているとしたら、それは俺の『仲直りの方法』だったからだ。
 俺はどうすればいい。俺には、他の方法なんて思いつかない。俺が、あいつのわがままを受け止める以外には何も思い浮かばない。
 いや、もしお前が俺を試してるんなら、一体なんのためにそんなことをする。お前は、一体俺の何を試したいんだ?
 ──ああ、くそ。今、一つ気づいたことがある。気づいちまったことがある。
 俺は今、有希のことが分からなくなってきている。
 どれだけ仲が悪くても、俺はあいつのことで知らないことなんかなかった。好きな食べ物からパンツの色、考え方、得意な教科、苦手なもの、今欲しいもの。
 あいつの全てを知っているような気になっていた。それはある面で真実だった。双子だからなのかどうかは分からないが、あいつがそのときそのときで求めているものが、俺には分かっていた。
 俺が見ていたあいつについて、俺はあいつの全てを知っていた。
 それが有明や、妹達から話を聞いて、俺は俺に見えなかったあいつの姿を知った。そして今や、俺に見えているあいつのことすら、分からなくなってきている。
 なんだろうな、この感情は。不安なのか怒りなのかさっぱり分からないが、ただ気持ち悪い。
「おい大丈夫か、凄ぇ怖い顔してるぞ、お前」
「大丈夫じゃないな」
 正直に答えた。
「そこまでストレス溜まるんなら、やめちまえばいいじゃねえか」
 俺が思っていたとおりのことを有明が言ってきた。
「…………」
 俺はしばらく沈黙して。
「んにゃ、もうちょっとやってみようと思う。負けるみたいで癪だしな」
 そう言った。
「……お前がそれでいいってんなら、俺は口出しできないけど。無理はすんなよ」
 おうよ、と答えて、イチゴオレを全部飲んだ。

 ──正直なところ。
 そのときの俺は、戻り方すら分からなかった。










 前日の快晴が嘘のように、金曜日は昼過ぎから雨が降ってきた。
 その日も俺は有希の横暴に付き合わされた。あいつまた傘忘れてきて、今度こそ俺の傘を奪い取りやがった。いや自分で渡したんだが、よく俺もここまで付き合ってられるもんだ。俺の堪忍袋は今にも張り裂けそうだってのに。中に入ってるのが何かは、皆目検討がつかないけどな。
 家に帰ってくると、珍しく親父達も家にいた。
 皆揃って夕食を食べて、九時頃、俺はやはり有希とゲームをしていた。



「なあ」
「あー?」
 ガチガチとボタンを叩きつつ、有希が俺に声をかけてきた。
「宿題やったか」
「まだだな」
「あたしの分もやれ」
「断る」
 ここで引き下がるかと思いきや、有希は食い下がってきた。
「こないだ見せてやっただろ」
「お前ね、見て写すのと二人分書くのとじゃ労力が違うだろ」
「別にいいだろ」
「嫌だっつの」
「構やしないだろが、大して変わんねーだろ。これまでわざわざあたしの頼み聞いてきてんのに」
「……お前ね」
「気持ち悪ィんだよ、お前の魂胆が分かんねぇから」
「…………」
「あたしに殴られたくないからか、ええ? だったらやれよ、殴られたくないんだろが、おい、ヘタレ」
 あ、このタイミングでそれはアウトだ。
「テメェ……!」
 コントローラーを放り投げて有希の胸倉を掴んだ。身長差が三十センチ近くあるので、有希の足が床から離れる。
「やっとキレたか、あァ!? バカ亜樹!」
 有希も負けじと俺の胸倉を両手で掴みにかかった。俺は右手だけで有希を持ち上げ、残った左手で拳を握った。──そこで動きが止まった。
 駒代家家訓その一、家族に優しくする。
 駒代家家訓その二、男は女を守るもの。
 俺には、有希を殴れない。ただ歯を食いしばって拳を震わせることしかできなかった。
 有希は、そんな俺をあざ笑った。
「どしたよ、殴れよ、殴ってみせろよ! あたしが憎いんだろ!? 嫌いなんだろ!? ずっと、ずっとあたし達はそうだったじゃねぇか! あのときからずっと仲悪いまんまでいたんじゃねぇか! だったら殴ってみせろよ! バカ亜樹!」
 叫びは金属のように高く鋭く、俺の耳朶を切り裂く。
 それでも、俺は。
「それともあれか。テメェ、家訓なんてふざけたもん気にしてンじゃねぇだろうな! お前こそふざけんな! あんな奴他人じゃねぇか! 他人の教えなんて知ったことじゃねェだろうがッ!」
 ──テ、メェ。
「お前、親父を、他人だなんて」
 あの人達は、家族、なのに。
「違わないだろ! あいつらも、千歳達も、あたし達にとっては全員他人だろ!? 忘れんなよ、あたしとテメェだけなんだよ! あたしにはテメェしか、テメェにはあたししかいないんだよ! 他の奴等なんて──みんないなくなればいいんだッ!!」

 ぶぢ。

 ──有希の身体が真横に吹っ飛んだ。壁にぶち当たってベッドに落ちる。
 背中を打ちつけたのか、口から不自然な息を吐き出しながら、それでも飛び起きた。目にはぎらぎらと獣じみた光が宿っている。
 多分、俺も似たような目をしているんだろう。
 考えなしに突っ込んだ俺の頬に、おかえしとばかりに握り拳を叩きつけてきた。頭が揺れ、遅れて痛みがやってくる。痛ぇ。蹴られ殴られいい加減慣れてるつもりだったけどやっぱり痛いもんは痛いんだ。細っこいボディに拳を見舞いながら思う。
 ええいくそ、俺も我慢強かったよな。よくもまあ今まで耐えてきたもんだ。何度もこいつにやり返したくて、それでも我慢してきて。
 それが今や取っ組み合っての殴り合いだ。くそ。
 応酬は長くは続かなかった。俺と有希では体格の差がありすぎる。それはリーチの差とイコールだ。いくら攻撃力が高くても、届かなければ意味がない。
 結果、俺は容易く有希を引き倒す。
 有希が起き上がろうとするより早く、横っ腹に爪先で蹴りを打ち込んだ。空気の抜けたサッカーボールみたいな感触だった。身体がくの字に折れて、有希が口から晩飯のクズを吐き出した。ベッドが汚れると困るので腹を踏みつけた。足を乗せたまま身をかがめて、有希の上に馬乗りになった。両手の拳を固めた。朦朧とした目で俺を見てきた。頬を殴った。殴った。殴った。殴っ──

「……っう、……ぇ……」

 有希が。
 泣いていた。
 子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして。
「────」
 声も出なかった。
 ただ俺死ねと思った。
 部屋に有希のすすり泣きだけが聞こえている。つけっぱなしのゲームのBGMすら今は遠い。雨の音すら聞こえない。
 呆然と戦慄が俺の中で渦を巻いていた。
 なあおい、なんでこんなことになってる。俺はこういうことがしたくて、この一週間、ひたすら有希の言葉に耐えてきたわけじゃないだろう。
 ただ、そう、俺は、昔みたいに、仲良くしたくて──
「どけよクソバカぁっ!!」
「げぅッ」
 コースクリューのダブルが両肺に突っ込んだ。無抵抗だった俺は木の葉みたいに吹っ飛んでベッドから落ちた。
 何が起きたのか理解する前に、有希は部屋を飛び出していってしまった。階段を駆け下り、廊下を走り、玄関のドアを蹴破って出て行く音まで聞こえた。
「──、ッ!」
 跳ね起きる。
 追いかけないと。
 何のためにだとかどうすりゃいいのだとかさっぱり分からないが、俺はあいつを追いかけないといけない。
 追いかけて追いついて何をすりゃいいのかも全然分からないが、俺はあいつを追いかけないといけない。
 そして、そして──
「亜樹!」
 玄関で靴を履いたところで、廊下の奥からよく通る声が聞こえた。
 親父が仁王立ちしてそこに立っていた。隣には千歳と桐子と母さん、眠たそうな真菜も待機していた。
「話は千歳から聞いた。手短にだが」
 そうですか。じゃあこっちも手短に済ませたいんで早くしてくれませんか。足は今にも玄関の外へ飛び出しそうだった。
「亜樹、お前、どうしたい」
 親父はそう訊いてきた。
「知らん。分からん。予想もつかん」
 俺は正直に答えた。
「でもとりあえず抱き締める」
 正直に答えてやった。
 親父は笑った。満面の笑みだった。
「良し、行け!」
「行ってくる!」
 駆け出す足は、一歩目から全力だった。
 雨が正面から吹き付けてくるが知ったことか。雨粒が目の中に入ってくるが瞬きすらもしなかった。
 ああ、こういうとき双子は便利だな。あいつがどこに行くのか手に取るように分かる。なんとなくだけど、あいつが向かう場所が俺には分かる。そこまでの道順も、あいつが通るであろう経路も。
 あのとき(・・・・)、俺は分かっていながら、迎えに行かなかった。ほんとにな、気づいたときには遅すぎるってやつだ。どうして迎えに行ってやらなかったのか。喧嘩したって、仲良しなままのほうがいいに決まってるのに。
 さっきだってそうだ。どうして俺は気づいてやれなかったんだ。胸倉を掴んで放たれたあいつの叫びが、どうしようもないくらい悲痛だったことに。
 ああ、もう、嫌になる。あらゆることに対して。くそ、もういい、全部言うぞ。言うのは俺、言う相手も俺だ。これまで目を背けてきた全てのことに、ドタマ殴りつけて無理矢理にでも見せてやる。
 俺は有希が好きだ。
 それはきょうだいとしての情だけではなく、男女としてのそれだった。
 千歳の言葉が蘇る。
『──姉さんだってちゃんと女性的な身体つきに──』
 よりにもよってそこかよ俺。身体は正直だな。
 まぁ、ともあれ、本当は千歳に言われるでもなく分かっていた。分かっていなかったとすればそれは余程の鈍感か不能だ。俺はあえて、その鈍感で不能であろうとしていたわけだが、もうそれも終わりにするって決めてしまった。決めてしまったものはしょうがない。
 あえて言質を取らせるような言い方をしよう。あいつは可愛い。マジで。そして今はベリーショートだが、本当ならば長髪がとんでもなく似合う。いや、似合っていた。
 ああ、そうだ、そのときも俺は間に合わなかったんだ。八年前の喧嘩に意地を張って、ずっと嫌いでいようとして、それで目を離していた結果があれだ。一度も口に出したことなかったけどな、俺はおまえの長い髪が大好きだったんだぜ。
 だから、これ以上は絶対ごめんだ。間に合わないなんてのはもう嫌だ。
 喧嘩するのも、我慢するのも、嘘つくのも、もうやめる。やめてやる。そう決めちまった。
 ──で、お前はどうなんだ、有希。



 ……有希は、市内を流れる大きな川を跨ぐ橋の下にいた。
 普段は不良の溜まり場なここも、この雨じゃ猫以外よりつきやしない。
 有希はそこで膝を抱えて座っていた。
「おい」
「……んだよ」
「帰るぞ」
 手を差し出すと、意外なほどすんなりと有希は立ち上がった。俺はそのまま手を引き、その小さな身体を抱き締めた。
 有希も、ついさっきここについたばかりだったのだろう。身体はまだ温かく、心臓の鼓動は早かった。きっと俺も同じだろう。
「離せよ」
「やだ」
 強く抱き締めてみた。有希も抵抗はしなかった。ああ、ほんと細いわ。肩も腰も。折れそうなくらい。
 それから、しばらく黙っていた。
「……あたしはあんたに裏切られたんだと思ってた」
 いきなり、有希が喋りだした。
「小学三年生ンときだったよな。バカな叔父のせいで、あたしらが母さん達の子供じゃないって知ったの」
 正月の酒の席でのことだった。酔った父方の叔父がうっかり口を滑らせてしまったのだ。ちなみにそのあとその叔父はうちの親父にボコられて、今じゃ親戚連中から村六分くらいの目に遭っている。次に親戚で集まったときはどうにか赦してもらえるよう皆に頼んでみるかな。
 それはそれとして、
「ここで昔語りか。なんだかできすぎじゃないか。これまでずっと仲違いしてたきょうだいが、マジ喧嘩して腹割って話して全部仲直りとかさ」
 と言ったら抱き締めたまま殴られた。しかも後頭部。痛ぇだろ。
「黙って聞けッ。そういうとこ含めて嫌いなんだよ」
「分かった。黙る」
「んだよムカつくなぁ……」
 むすっとした表情で黙られてしまった。
 こいつの不機嫌な表情は散々見慣れてきたと思っていた俺も、初めて見る怒り顔だった。
 ……話は戻るが、叔父による暴露があって、俺と有希は恐らく生まれて初めての喧嘩をした。
 俺は、自分達は本当の親に捨てられたんだ、と言った。
 有希は、本当の親は何か事情があってあそこに置いていったんだ、と言った。
 この食い違いが、ついさっきまで続いていた八年越しの仲違いに繋がっていったのだ。
 俺は、もし本当の親が出てきても、戻るつもりはなかった。今の両親に充分すぎるほど愛されていることを知っていたからだ。だから自分の中に僅かにあった本当の親への思慕を断ち切ろうと、そう言ったんだと思う。でも有希はそうじゃなかった。
「それから、ずっとあたし達喧嘩しっぱなしでさ、仲直りする気にもならなかったよな」
「うん」
「あたしは、あたし達がずっと、同じものだって思ってた」
「うん」
「だからあのとき、あたしは裏切られた気分になった」
 口調は懐かしむようですらあった。雨に濡れて、身体は冷えてきているはずなのに、二人の間に長らくあった何かが少しずつ溶けてきていた。
 ……ああ、やだやだ。こんな展開ちょっと苦手なんだよな。できすぎだろ、安直すぎだろ、どこの月9ドラマの最終回だよ。
 でも、悪くはないけどな。
「……あんときさ」
「あ?」
「ここに隠れたお前を迎えに来てたら何か変わったと思うか」
「知らねぇよ。変わった姿なんて想像もできねぇ」
 だよな。俺もそうだ。
 有希の話はまだ続いた。
「それで、そのまま中学生になってさ。あたしが二年生のときに、さ」
「ああ」
 当時、有希はイジメにあっていた。クラスも離れていたし、俺と有希は絶賛冷戦状態だったのでお互いに関心も向かなかったから、全然気づかなかったが。
 あるとき、あれは期末テスト前で、全学年が一斉に自習になったときだったか。俺は自習監督の教師に一言断って、トイレに行った。
 その途中、有希のいるクラスの前を通って──それを見た。
 教室には、自習監督の教師はいなかった。たまたま席を外していたのか、最初からいなかったのかは分からない。
 何人かの男子生徒が席を立って、教室の後方で一人の女子生徒を取り囲んでいた。周りの皆は見てみぬ振りをしていた。
 女子生徒は、まだ髪が長かった頃の、有希だった。
 男子達は手に鋏を持って、有希の長い髪を掴んでいた。
 じょきん、という音と共に、有希の髪と俺の理性が落ちた。
 教室に飛び込んで手近な椅子に座っていた奴を蹴り倒し、その椅子を奪って、有希を取り囲んでいた奴らのうち、こちらに背を向けていた生徒を全力で殴った。そいつは面白いくらいに吹っ飛んで、机に座っていた他の生徒をボウリングのピンみたいに薙ぎ倒した。
 そのあと、有希を取り囲んでいた残りの奴らを、意識がなくなるまで一人ひとり殴り倒し、竦んで動けなくなっていた教室の残りの生徒に椅子を投げようとしたところで駆けつけた教師に取り押さえられた。我ながら無茶したもんだ。
 ちなみにそのあと、特にお咎めはなかった。俺が殴ったやつらは全員病院送りで、最初の一人は骨折までしていたのに、である。自分の片割れに対して怒ったという事実と、男子生徒らの親が普通の人達で、泣いて詫びてきたことが効いたのだろう。
 親父からのお咎めもなかった。駒代家家訓その三は、家族を傷つけるやつは殴ってもいい。実にバイオレンスだ。ことの詳細を聞いて、怒るどころか、膝を打って「でかした!」と快哉するっつーのはどうなんだろうな。
 こいつがこんなに髪を短くしたのも、そのときからだった。いじめっ子どもは戦々恐々としただろう。お前目つき悪いから、こうさっぱりしちまうとその視線の威力も倍増するしな。
「それからあたしは亜樹が分からなくなった」
 そう、有希は言った。そういや、お前に名前で呼ばれるのも、何年ぶりだっけか。
「そういやあの頃からだったよな、お前が俺殴るようになったのも」
「……それ以外に何もできなかったんだ、あたしは。亜樹がどうしてあたしを助けてくれたのか分からなかったんだ」
「いや、だからって殴るなよ」
 まぁそこは、こいつにも意地があったんだろう。逆の立場だったとしても、それをきっかけにすぐ仲直りできるほど、俺もこいつも素直じゃなかったからな。
「……っせぇなぁ、殴ったことは悪かったと思ってるよ」
「俺は別に良かったけどな」
「え?」
 そりゃ俺も人間だから、ムカつきもするし、言い争いの後は気分最悪だったけど。
 でもお前、俺以外は絶対殴らないよな。喧嘩だってしないんじゃないか? 友達付き合いは良いみたいだし、勉強にしろなんにしろ、そつなくこなしてるよな。何事も。
 だからそうして殴られるのは、何となくだが、お前にとって俺が特別だったんじゃないのかってことだと思ってたぞ。俺にとって、お前が特別であるように。
 ──なんてことは恥ずかしくて絶対口にできないけどな。
「てめぇマゾか」
「違ぇよバカ」
 あー、ロマンチックの欠片もありゃしねぇ。いや、双子でそんなのあったらやばいけどよ。
 やばいんだけどなぁ。
 どうしよう。
「んで話続けるけど」
「おう、続けろ」
「……。でも、お前最近おかしかったろ。ホイホイあたしの言うこと聞くし、小言言わないし」
 かなりストレス溜まってたけどな。
「喧嘩しなくなったし、だから、てっきり、あたし、は──」
 そこで不意に言葉が止まって、代わりにスンスンと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「……おいなんで泣くんだよそこでいきなり。どうしたらいいのか分からんだろ」
「うっさい! 黙って聞けバカ……!」
 へいへい。
「あ、たしっ、見捨てられたんだ、って思ったんだよッ……! 相手にされなくなったって、もう、どうでもいいヤツにされた、んだって……!」
 ぐすぐすと泣き続ける有希。
「なのに、千歳とは仲良いからッ、あたし、あたし……ッ、千歳に、嫉妬、して……! だから、無茶なこと言って、さぁ! 亜樹がちゃんと、あたしのほう、見てくれるように……!」
 ……なあ有希、そういうこと言われるとな、俺ももたないぞ。
 いいのか? 正直になる覚悟はできたけどさ、道を外れる覚悟はまだなんだ。
 外れていいのか、俺。
「怒って欲しかった! 殴って欲しかった! そんで、前みたいに、仲悪くなって、喧嘩できるように、なりたかった……!」
「んなことしなくても、普通に仲直りすりゃ良かったのにな」
「できるわけないだろ!」
 有希は搾り出すように言った。
「ずっと、ずぅっと喧嘩ばっかりしてたのに、仲直りする方法なんて、分からねぇよ……!」
「……ああ、そうだな」
 やっぱ俺達は双子だな。お互いそんなことも分からなくてさ。
 気持ちはきっと同じだったのに、食い違いっぱなしでさ。
「バカみたいだな俺ら」
 有希は俺の胸の中で頷いた。くくっと笑う音。
「ホント……バカだよな、ずっと、ずっとさぁ。あたし、亜樹と、一緒にいたかっただけなのに」
「……それさ、どういう意味での一緒にいたい?」
 俺は有希を見ないまま、そう訊いた。
「え?」
「二人きりの双子として? 七人一緒の家族として? ……一人と一人の、男女として?」
 ああ、ずるい訊き方だよなこれは。卑怯にもほどがある。最後だけあからさまに間を空けたよな俺。それを答えて欲しいって、バレバレじゃねぇか。
 ほんとにさ、バカだな俺。
 自分の片割れ好きになるくらいの大馬鹿野郎だよ。
 俺は有希の返答を待った。雨の音が耳にうるさい。
 その音に溶けてしまいそうなくらい小さな声で、有希は答えた。
「ぜ、ぜんぶ……」
 そして、もう一度大きく、
「全部!」
 俺は抱き締めていた腕を解き、そして有希の身体を抱え上げて、自分の身体に押し付けるようにキスをした。有希の身体は軽かった。か細い身体を折らんばかりに抱き締めて、唇を重ね、舌を割り入れ、その体温を求めた。
「んぷぁ、ちょ、ん……」
 言葉ごと飲み込んでやった。水の音がうるさい。雨の音じゃなくて、それは直接骨を伝わってくる音だった。
 やがて、有希のほうからも舌を絡めてきた。そのことに涙が出そうなくらいの感動を覚えながら、深く深く、追い求めた。
「んっ……っぷぁ」
 呼吸も忘れてキスしてたもんだから、肺の中の酸素が足りなくなった。仕方なく唇が離れて、空気を求めて喉が喘いだ。
「んっとに、なんだよいきなり……!」
 有希の顔が赤いのは、酸欠だけが原因ではあるまい。
 俺はポケットから携帯を取り出して、家に連絡を入れた。出たのは千歳だ。
『はい千歳です』
 携帯電話で名乗りを上げる必要はないぞ、妹よ。
「亜樹だ。有希は確保した。身体冷え切ってるから、どっかで風呂でも入って雨が収まったら帰ってくるよ。親父達にもそう言っといてくれ」
『了解した。私はもう寝るよ。おやすみ』
「ああ、おやすみ」
 通話を切った。
「……どっか寄るつもりなのか?」
 内容を不審に思ってか、有希が怪訝な顔をする。俺はその手を取った。
「なあ有希」
「なんだよ」
「身体冷えたよな」
「……そりゃまあ、散々雨に濡れたし」
「拭かないと風邪引くよな」
「まぁな」
「近くにラブホがある」
「は?」
「よし行こう。さあ行こう。すぐ行こう。大丈夫、金は足りる。多分」
 そのままずるずると引きずり始める。
「ちょ──待てよ! いきなりすぎるだろがおい!」
 抵抗されたので、抱き寄せて囁いた。
「嫌か」
 それだけ問うと、有希は目に見えて固まったあと、小さく、
「……い、嫌じゃない」
 その仕草があまりにも可愛かったので、またキスをした。










 その後のことは、語ろうとは思わない。
 家に帰ったら、もう誰も起きていなかった。お気楽な家族だ。
 とりあえず二人交代でもう一度風呂に入り(一緒に入ろうとしたら殴られた)、その日はそれぞれ自分の部屋で寝た。有希からおやすみって言われたのも随分久々だった。
 翌日、有希は両親に謝った。売り言葉に買い言葉だったとはいえ、他人だなんて言っちまったんだからな。
 まぁそんな感じで、その日は終わりを告げた。
 それからは、とりあえず有希が俺にバイオレンスを働くことはなくなった。口喧嘩はやっぱりたまにするが、もう殴る蹴るの事態には発展しなくなった。
 殴りあった傷は結構尾を引いて痛むが、ま、文句なしのハッピーエンドだろう。俺は昔からの、有希は四年越しの、想いを遂げられたわけだしな。着地点にかなり問題はあるが。
 そんなわけで、この話は終わりだ。めでたしめでたし、どっとはらい。









 余談だが、有希の髪が少し伸びてきたときのこと。
「あら有希、あなたまた髪伸びてきたわね。今度の休み切りに行ったら?」
「……いや、いい」
 そう有希は答えた。
「久しぶりにこのまま伸ばしてみる」
 それだけことだったが、そのそれだけのことが、俺にとってはたまらなく嬉しかったりするのだった。









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