永遠メイド





「──おはようございます、旦那様」
 午前七時三十分きっかり、いつもと同じリズムと音階を持つ声で彼は目を覚ました。
 ああ、もう朝なのか。まだ完全に立ち上がっていない思考回路を、顔に皺を作ることで力を入れて覚醒させる。
 豪奢な寝台から起き上がったのは、初老の男性だった。威厳に満ちた立派な髭を蓄え、カーテン越しに差し込む朝日の強さに眼を細めていた。
「おはようございます、旦那様」
 繰り返される、やはり何もかも全く同じように発せられる言葉。
 その声の方向に顔を向けると、柔和な笑みを浮かべた侍女が直立不動の姿勢で佇んでいた。
「お目覚めですか?」
 聞いていて心地良い声だった。しかしそれは、旦那様、と呼ばれた男性にとっては、最早何の感情の波も揺り起こさぬ音でしかない。
「目覚めたとも、いつも通りに」
 おざなりに答えてベッドから降り、侍女を省みることなくクローゼットの前に立った。
 侍女は全く無駄を感じさせぬ機敏な動作で、主人の寝巻きを剥ごうとする。しかし男性はそれを平手で払い除けた。
 侍女の微笑は崩れない。失礼致しました、と言って、ただ一歩下がって彼が着替え終わるのをじっと見ていた。
 この距離も変わらない。
 動作も変わらない。
 着替えを手伝おうとする彼女を、最初はありがたく思い、次にありがた迷惑に思い、その次は苛立ちになって、最後には割とどうでも良くなった。
 それほど多く、長くこのやり取りは交わされ続け、今も交わされている。
 着替えが終わり部屋を出て行く主人の後ろを、侍女は三歩下がって付いていく。
 侍女が口を開いた。
「食事はどうなさいますか?」
「いや、今日はいい」
 左様で、と侍女は頷き、再び沈黙する。
 そこは広い館だった。
 男はここの主人であり、侍女はここのただ一人の侍女だった。
 他に庭師などはいるが、侍女と呼べるものは真実彼女一人だけしかいない。別に男が他の侍女に暇を出したのではない。単に、広い屋敷の中の管理は、彼女一人がいれば事足りていたからだ。一応いる管理人というのも、名ばかりだ。
 男は書斎に入り、本に埋もれた椅子に座る。侍女は上手く本のない位置に立ち、主人の背中を見ていた。
「お前はもう済ませたのか」
 昨晩の仕事の続きをしようと、主人は本を開きつつ、問う。
「何を、でございますか」
「食事を、だ。やたらと時間がかかって面倒な食事を、だ」
 幾分かの揶揄を込めて男は言う。侍女はしかし、はい、と微笑んだままの音で答えた。
「朝早く、旦那様が目覚める前に。長く旦那様のお側を離れるわけにもいきませんので、手短ではありますが」
「そうか、ならいい。だがいつも言っているが、ちゃんと食事は取れよ。お前は私達とは違う。止まってしまったら後が面倒だ。……主に私が」
「ご心配には及びませんわ。私は、唯一つ旦那様のために存在しております。旦那様にご迷惑をおかけするような要因は、私という個体の動作継続に支障のない限りにおいて、可能な限り排除しております」
「その言葉も聞き飽きた。冗談はよせ。お前に不調などというもの、ありはしないだろうに」
「お言葉ですが、冗談などではありませんわ。確かに私の身体は旦那様方よりも多少頑丈にできており、またその活動は半永久的に継続されるものですが、しかし、それは動くというだけのことであり、不調になることがないというわけではございません」
「ほう、そうか。初耳だぞ」
「はい。只今の旦那様の一連の発言は、私が旦那様に仕えて18年3ヶ月と7日14時間32分45秒の間の中で、初めてされたものであります」
「そうか、どうやら私は気が長いらしい。十八年間もお前の言葉に飽きることがなかったのだから」
「素晴らしいですわ」
 侍女は主人を褒め称えたが、主人はちっとも嬉しそうな顔をしなかった。
 主人は一度本から目を離し、窓の外を見た。書斎は三階にあるため窓からは広い庭が見渡せた。
 庭師が庭の木を剪定している。窓を開けて声をかけようとも思ったが、やめた。仕事の邪魔はするべきではない。
 主人はまた自分の仕事に取り組み始める。
「……お前は、飽きないのか」
 ペンを止めることなく主人は訊いた。
「何が、でございますか」
「私の侍女であり続けることがだ」
「ございませんわ」
 はっきりと侍女は答えた。
「私は旦那様のメイドですから。旦那様に従うことのみが存在価値である私に、旦那様に従うことに対する飽きなどございません。それは飽きなどではなく、充足と満足という言葉を以て表されるべき言葉であり、それこそが私の唯一にして絶対の、幸福なのです。それを喪うことこそが、私の唯一にして絶対の、不幸です」
「ふん、ならばお前はその不幸を近いうちに味わうことになるかもしれんな。お前と私では、お前の寿命の方が長い。いや、ないと言うべきか?」
 はい、ございませんわ、と侍女は答えた。
 ふん、と主人は鼻を鳴らす。
 侍女は言う。
「だからこそ、私は旦那様との記憶を永遠に記録し続けています。いいえ、西暦1996年、私に自我というものが生まれてから現在に至るまで、私は私が見聞きし、経験したこと全てを記録し、保存しております」
「便利なものだな。お前の記憶容量に限度はない。私達も決して少なくはないが、お前には及ばない」
「当然でございますわ。私と旦那様は違いますもの」
「私と旦那様、ではないだろう。お前と、お前以外は、全部違う」
「──仰るとおりでございますわ」
 侍女は微笑む。
「は。お前のようなものから見れば、我々はどうにも脆弱に見えるだろうな。存在期間は長くとも、永遠を生きるお前ほどではないのだから」
「仕方ありませんわ。それが、『私』と言うものでございます。故に、旦那様の言うような近い将来、私は最大の不幸を味わうことになるのでしょう」
 侍女は微笑む。
 微笑みを微塵も崩さない。
「では訊くが」
 主人はペンを止め、椅子ごと侍女に振り返った。
「お前は私が死んだら、どうするのだ」
「それは勿論、」
 にぃ、と侍女はそこで初めて笑みを深め。

「もう一度、旦那様をお作り致しますわ」

 だろうな、と『主人』は言って、息を吐いた。
「お前はずっとそうなのだな。永遠を生きるお前は、己の主人が死ぬたびに主人を作り、主人に仕え、主人を看取る。──理解できない。機械の私を以てしても、いや、機械だからなのか、私には微塵も理解できない」
 五十六万年前、世界が滅んだ。
 人間どころか一匹の生物すら残らない中で、この女は生き残っていた。
 他にも数人いたらしい。そのどれもがまともな人間ではなく、いや生物とすら呼べないものだったが、とりあえず生き残った。
 そしてこの女は、五十六万年の永きに渡り、延々と新しい世界の住人を作り続けた。
 今、この星に満ちているのは人間ではない。
 人間に限りなく近いもの。育ち、子をなし、死ぬまで動き続けるもの。太陽光をエネルギー源として動く、ヒトの似姿だ。
 そしてそれらは、自分達が作られたものだということを知らない。自分達はそういうものだ、と思って、当たり前のように『生き』、当たり前のように『死ぬ』。
 ただ一人、彼女を律する『主人』である彼を除いては。
 太母。
 主人は、主人の役割を与えられた何かは、己の侍女をそう呼ぶ。
 ──永遠聖母、であるはずのもの。
「解せん。何故お前は王にならない? 全ての母であるお前は、この世界の支配者も同然なのに」
「私は、メイドですわ。仕えるべきを求める、メイドですわ」
 永遠にそうなのだと、彼女は言う。
 それが彼女が自ら望んだこと。だからあるいは彼女がそうであるために、彼女は、世界を作り直したのかもしれない。
 確かなことなど何一つとしてない。悠久のときを生きたわけでもない、起動から十八年程度しか立っておらず、経験というものが絶対的に不足しているこの身に。
 理解できることなど、何一つとしてない。
 だから『主人』は、戯れに問うた。

「私は何人目だ?」
「一万五千八百六十七人目、でございますわ」

 永遠のメイドは微笑んだ。









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