ep. 別れの朝/Farewell, and see you again.






 ──どこかで、物音がした気がして、柿崎富江は目を覚ました。
「誰……?」
 起き上がり問うが、勿論返答はない。隣の夫はぐっすりと眠っていて、目を覚ましそうにない。
 現在時刻、午前六時。いつもの起床時間より、三十分ほど早い。今更寝直すのも何なので、富江はもう起きることにした。洗面所に入り、顔を洗って、着替えてエプロンを羽織る。
 朝食の支度と夫の弁当を作るために、富江は台所に立った。いつもより少し早いが、別に構わないだろう。その分ゆっくりできる。
 そこで、彼女は台所横の裏口の鍵が開いていることに気付いた。
「あらやだ……」
 泥棒かしら、と小さく呟く。そういえばさっき感じた物音は──そこまで考えて否定する。
 台所の裏口が見える場所に、愛犬のクロの小屋はある。クロはきちんと躾が行き届いているので、家の人間以外が近づくと必ず吼える。だからもし泥棒が来たのなら、富江は物音より先に、クロの間抜けな鳴き声で目を覚ましているはずだった。
 なら単なる鍵の掛け忘れか、と思うが、確かに昨夜自分はちゃんと戸締りをしたはずだった。うっかりしていたのかしら、と富江は首を傾げた。
 あくびを噛み殺しながら惰性で弁当箱を二つ取り出し、
「──あら」
 そこでようやく、自分がおかしなことをしているのに気付いて、まただわ、と呟き苦笑した。
 柿崎家は三人家族で、一人娘の葉澄はとうに社会に出ている。また医師というその職業柄不規則な生活を送っており、朝帰りもざらなので、弁当を作るのは会社員である夫の祐二の分だけにしている。
 なのに何故か最近、毎朝こうして二つ弁当箱を出してしまうのだ。時には中身まで詰めてしまって、それが自分の昼食になったこともある。
 その何気なくやってしまう自分のミスを、しかし富江は不快に思わない。
 何故か、自分の行動が至極当然のように思えてしまうのだ。逆に完成した弁当が二つ並んでいないと、ひどく据わりが悪い感じがするのだ。
 ボケが始まったかしら、と首を傾げるも、これ以外特に自覚のある異常は見当たらない。──いや、自覚できないからこその異常なのだろうが。しいて挙げるなら……こうして弁当を作り終えた後、何故か二階の物置に行きたくなるというものだろうか。
 悩みながらも弁当は完成し、それをテーブルの上に置いたところで、
「──あらあら」
 そこに、一枚のメモ用紙を見つけた。
 紙面にはただ一言、
 
 帰ってきます。
 
 とそれだけが書かれている。葉澄かしら、とまた首を傾げるが、娘は行き帰りをわざわざ知らせるようなことはしない。無論、夫でもないだろう。差し出し不明の書き置きを、綺麗に二つに折り畳んで捨てようとして──富江はそれをエプロンのポケットに突っ込んだ。
 どうしてそんなことをしたのかは分からない。だが、そうすることが富江にとっての当然で、とても自然に思われた。
 ──不意に、奇妙な既視感を覚える。今と同じように、テーブルの上にメモを見つけて、苦笑しながらそれをエプロンのポケットに入れたいつか。
 だがそれも一時のこと。
 既視感は既視感でしかなく、気づいた瞬間にそれは上手く思い出せなくなる。所詮、曖昧な印象だ。富江は考えるのを止めた。
 ただ、ふと思った。
 もしこれが自分に宛てられたもので、この書き置きを置いていった誰かが帰ってきたら、
 ちゃんと『お帰りなさい』と言ってあげよう。


               §


「殺せなかった」
 俺の前から姿を消していた数日間、刀自村に沙耶を殺しに行っていた、と告げた直刃はそう続けた。
「完全に不意打ちで、殺気も何もかも押し殺していたはずだったのだがな。だが──」
「斬れなかった?」
 直刃は頷く。
「沙耶殿はこう仰られた。『私には護りたい人がいるから、あなたには殺されない』」
 どこか羨むように、直刃は言う。
「真に護りたいと思えるものがある者は、とても強いと実感させられた」
「……見習わなきゃな」
 ベンチに座って熱い缶コーヒーを飲みながら、俺は言った。
「俺も、直刃を護りたいから」
「まだ、私を護れるほど強くもなかろうに」
「まだ、な」
 すっかり遠慮のなくなった物言いに苦笑しながら、飲み干したコーヒーを放り投げる。かぁん、と軽い音を朝の公園に響かせて見事、空き缶はくずかごに吸い込まれた。
 ベンチから立ち上がる。傍らには、荷物を目一杯詰め込んだスポーツバッグが二つ。
 マンションの部屋は引き払った。いてもすることがないのだから仕方がない。置手紙もしてきたことだし。
「さて、と。これからどこに行こうか、直刃」
「決まっている。主殿の行く場所にだ」
 言って、微笑──。
 予想通りの返事に俺も笑みを返しつつ、歩き出した。
「それじゃまぁ、どこかに行こうか」

 冬の朝の空気は澄んでいる。


               §


 藤堂水城の目の前には一枚の紙切れがある。
 昨夜はこれを眺め続けながら一晩を過ごして、それで結局朝になっていた。
 紙切れは、右半分にだけ読解不能の紋様が書かれている。
 ──これが最後の糸だった。
 二人を繋ぐ最後の糸だった。
 これからすることを変える気もないが、悔いないはずもない。事実、彼女は躊躇っている。
 だが──そんな甘ったれた感情に任せては、どちらにとっても良くないことになる。
 水城に彼のこれからを覗き見る資格や権利などないし、そもそも自分の持つこの過ぎた力を、彼に使いたいなどとも思わない。
 人の心が読める、ということは、とても嫌なことだ。
 今こうしている間も、まだ眠っている父や、早くも食事の支度を始めている母、あまつさえ隣の家の自室で眠っている桜路の意識までもが、自分の中に流れ込んできている。
 心の中、というのは、他人に侵害されぬ最後の砦である。その中で何を考えようと本人の自由であるし、何を考えているか知られることもなく、責められることもない。
 だが、水城にはそんなもの関係ない。本人が望んでおらずとも。
 ずっと嫌い続けてきた力だ。耳を塞いで眼を瞑り、必死に要らないと願っても、近くに人がいる限り、彼女に意識が流れ込む。
 だがその、忌み嫌い続けてきたさとり≠フ力があればこそ──自分は彼と再会できた。本来なら、もう会えぬはずの彼と出会い、思い出せた。……だからこそ、別れは辛い。
 離れたくないと願ったのは、水城も同じだ。けれど、離れたくないと願うことは、彼の心を侵してしまうことと同義である。
 それに、最早二人は、謂わばそれぞれ彼岸と此岸の住人だ。どうしようもない三途の川が二人の間に横たわっている以上、一緒にいれば、それは必ず良い結果を残さない。それは実感として知っている。
 別れるべき者と別れられぬということ──その結果を知っている。
 もしそんな風になって、自分も彼も不幸になってしまうのは、彼と別れるより嫌だった。
 だから────
 吹っ切るように首を振る。
 符の中心に両手の指を添えて、──裂いた。

 ────────ぱたっ。

 手の平の上に水滴が落ちるのを見て、ようやく水城は自分が泣いているのだと自覚した。
「あれ?」
 訳も分からず涙を拭う。しかし涙はぽろぽろと流れ落ち、止まる気配を見せない。
 手の中には、二つに裂かれた符が一枚。それが何であるかを勿論水城は知っているし、それを破いたのも自分だと分かっているが──破いたその理由と、どうしてこれを破いたことが、こんなにも哀しいのか、それは分からなかった。

 泣き止むのに三十分かかった。

 眠かったが眠りたいわけもなく、気分転換という名目で水城は街に出た。眼は赤くなっているだろうが、気にしない。
 今日は日曜日。午前中とはいえ人通りは多い。その中を取り立ててすることもなく水城は歩く。
 人々は気楽なものだ。百人単位で流れ込んでくる意識はそのほとんどが今日の休みを満喫しようとしているもので、どこか浮き足立っている。自分はとてもそんな気分になれない。周りが浮かれれば浮かれるほど、だ。
 人の心が読めてしまうこと自体嫌だが、とにかく色々と楽しめないのが困る。ゲームをすれば相手の次の行動が分かってしまうし、楽しく街に繰り出しても周囲の人間の大半は自分と同じような気分で、それを見せ付けられると一気にテンションが沈む。ああ自分もあんなに浮かれてしまってるんだな、と分かってしまって、盛り上がる気にはなれないのだ。
 だからどうしても楽しめない。常日頃から顔に浮かべている笑みも、半分以上は建前だ。
 その事実を再認識し、水城は憂鬱な溜息をついた。
 ──ふと、その中にそれを見つける。
 こうして見つけるのは三度目かな、と彼女は心中で呟いた。
 四車線の道路を挟んで向こう側、道行く人々とは全く反対の方向に、その二人は歩んでいく。片方は銀色の鎧を纏う騎士然とした、短い銀髪の少女で、もう一人は学校もないのに学生服を着た少年。どちらも一つずつスポーツバッグを肩に下げている。
 水城はそれを、作り物ではない微笑みで眺めて、やがて元通り歩き出した。
 三途の川アスファルトを挟んで、彼岸あちら此岸こちら。進む方向すらも逆。これを最後に、自分が彼を思い出すことはないだろう。また、神のみぞ知る偶然でも来ない限りは。
 だが──その偶然に期待するのも、悪くない。
 とても楽しそうに笑って、水城はその言葉を呟いた。

「またね」










back






SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送