Scarlet eyes.

ⅳ．　戦う理由／Scarlet eyes.

　あなたの命を腕に抱いて、
　幼子を護るようただ護る。
　身を斬り、砕かれ裂かれ壊され、
　それでも私は護り通す者だから。

　あなたを護れるのは私だけ。
　あなたを殺せるのは私だけ。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　思い出していた。
　色んなことを思い出していた。喚起されていた。
　それはとても大きな屋敷の間取りであったり、今まではぼんやりとしか見えなかった風景であったり、山間を吹き抜ける風の肌触りであったり、清流のかすかなせせらぎであったり。
　自分の本当の父親の顔であったり、自分を育ててくれた女性の顔であったり、それが式椿の母であるということだったり、そして幼い頃の自分や、椿や、直刃であったり。
　皆で広い庭を駆けずり回ったこと。家の脇を流れる浅い川で泳いだこと。山に入って迷って、結局夜中に三人で固まっているところを家の大人に発見されたこと。
　そしてそれらが、とても楽しくて懐かしかったということ。
　これまで断片的でしかなかった過去が、ここに来て次々と埋まっていった。
　
　ああ──────

　そして最後に吐息が漏れた。ただ吐息が漏れた。この少年を前にして、吐息が漏れた。
　多分それには、懐かしさが混じっていたのだと思う。何しろ九年振りだ。再会がどのような形であれ、懐かしいことに変わりはない。
　そして多分哀しみも。再会がこのような形になってしまったことに対する哀しみ。事前に聞かされてたとはいえ、現実を直視するとまた違ってくる。遅れてやってくる実感。自分の義弟が敵だと知らされた時はまだ、椿のことをよく思い出していなかった。──その分、今こうしていることが、ひどく辛い。
　そしてもう一つは、多分戦う者としての本能からの、呼吸。眼前の魔に対して血が反応し、闘争本能が稼動する。息を整え、相手の動作に対応するための準備を行う。
　何という矛盾だろう。心はとても懐かしく哀しいと思っているのに、身体はこうして彼を殺そうと動き始めている。
「ほんと、懐かしい。九年振りだもんな。昔一緒に遊んでた頃が懐かしい」
　苦笑がちに言いながら、崇史の左手は強く鞘を握り締めている。
「そうだな、あの頃は楽しかった。オレも会えて嬉しいぜ。──ようやく、お前を殺せるんだ」
　対称的ににたりと怖気のはしる笑みを浮かべながら、椿は刀を抜いた。──途端、場の空気が変質する。空気中の分子すらもが斬りつけてくるような気配を宿し、肺を蝕み刺激し、全身を硬直させる。
「──なぁ、直刃」
　その空気の中、ぞろりと刀身を舐め上げながら、椿は言う。
「オレの所に来いよ、直刃。そんな奴殺しちまってさ」
「断る。私は式崇史の騎士。彼の刃。それがどうして、あなた如きのために剣を振れようか」
　鋭い眼光を椿に向ける。対し、椿はへらへらと楽しそうに嗤っていた。
「如き──如きときたか。失礼だなぁ直刃。お前は生身の人間より、そんな木偶人形を尊ぶってのか」
　沈黙。
「────」
　言われた意味を理解できなかった。人形とは、一体誰を指す。
　お、と意外そうな表情を椿が見せる。
「へぇ……直刃から聞いてなかったか？　まぁそりゃそうだよなぁ。いくら何でも、辛すぎる現実だし、な」
　下卑た笑みを浮かべながら、椿は言う。
「もういいだろ。教えてやれよ、直刃。ご主人様あなたは人間じゃありません。ずっと昔に死んだ崇史の代わりに式巽が作った、ただの式神ですってな」
「──黙れ」
　底冷えする声。──その声は、今まで崇史が聞いたどの声よりも怖かった。
　それにも動じず、ふん、と椿は鼻で嗤う。
「知られたくないのか？　直刃。今更だろうが、何もかも」
　言って、崇史に向き直る。
「……忘れてるんなら教えてやるよ、式崇史。本物のお前はとっくの昔に事故にあって死んでんだ。雨の日に、運悪く、土砂崩れでな。
　式巽は──俺達の親父はそれをえらく哀しんでな、死んだお前の魂を取り出して、それを核として式を編み、式神としてお前を黄泉還らせたんだ。……分かるだろ？　お前は式崇史の人間である前に、もう人間じゃなかったんだよ」
「口を閉ざされよ、椿殿」
　口調は敬語ながらも冷徹で冷淡な声。
「まだ誤魔化す気か？　直刃。けど、言い逃れなんかさせねぇ。覚えがないとは言わせねぇぞ？　お前と親父とで話してたことを」
　直刃が沈黙する。その態度に、ああ椿の言うことは本当なんだな、と崇史は止まった思考で認識する。
　椿が嗤う。
「何も言えないだろうが。オレはお前と親父がそれを話してるのを聞いたから、斬りかかっちまったんだからな──」
　
　──すまぬ。
　──直刃。お前には、辛い責務ばかりを負わせることになる。
　──しかし私は何故、あのような所業に手を染めてしまったのだ。あのような悪魔の所業に……！
　──あの子のこれからには、耐え難い苦痛が待っているだろう。それならいっそ、素直に死なせてやれば良かった。そうすれば、あの子はまだ幸せなままで逝けただろうに……！
　──直刃、頼む。
　──これから先、あの子が苦しむようなことがあったら、お前はそれを支えてやってくれ。筋違いだとは分かっているが、それでも……

　──そう畏まられる必要はござらぬ、師父。
　──私の使命は主を、次期式家当主たる式崇史、その人を護ることのみ。
　──そして主殿がおらぬ今、私が仕えるべきは、仮初めなれど師父よ、あなただ。どうして、その頼みを断れようか。

　──すまぬ。すまぬ、直刃。
　──だが……いつまでもそうしているわけにもいかんのだろうな。周囲の者の不満と反対を抑えるためにも……やがては、私自ら椿を殺さねばならぬ。それが一番、あの子のためなのだろう。
　──その時は、直刃。お前の手は汚させん。私がこの手で椿を殺す。……罪を背負うのは、もう私だけで充分だ。

　──承知致しました、師父──
　
「分かったか？　木偶人形」
　あからさまな嘲弄と侮蔑と憤怒、それらを織り交ぜた声で椿は言う。
「今からだと……三、四年前になるか？　久し振りに親父が呼んでるからって行ってみれば、丁度直刃と親父が話してたんだよ。今のをな。
　……分かるか？　お前はもう人間じゃなかったのに、それでも親父は人間として扱って、やがては当主の座をお前に譲ろうとしていた。──なのに、オレはまだ生きているのに、オレはちゃんとした人間なのに、親父は俺を殺そうとまで思ってた！」
　声は徐々に震え、最後には赫怒の叫びに変わる。
「分かるかよ。お前なんかに分かってたまるかよ！　最初から居場所を持ってたお前に！　居場所を与えられなかったオレの気持ちなんか！」
　椿の激昂は最早、悲痛ですらあった。その瞳に映る怒りが、しかし崇史にはどうしても哀しみにしか見えない。茫洋と、そんなことを思った。
　そして茫洋としたまま考える。──ひどく、思考が透明だった。
　人間ではないという。誰が？　自分が。
　そんなことあるものか、と否定する。事実それを立証する証拠は何一つとして知らないし、現に、自分の身体だって人間そのものなのだから。自分はちゃんと、今までちゃんとこうして成長してきている。
　眠り、食べ、冬は寒く、夏は暑かった。嬉しい時は笑い、悲しい時は泣いた。歩き、走り、転べば血が流れ、傷は痛かった。──それらは人間においては当たり前の行動と反応だ。人間でないものが、人間と同じように生活できるのだろうか。──否、と崇史は思う。
　だが同時に──自分が人間でないことを立証できないのと同じように、自分が人間である証明も、また何一つとしてない。
　何を以て人間とする。生物学的にか、心理学的にか。では生物学的にどの程度までを・・・・・・・人間とするのか。では心理学的にどのような精神であれば・・・・・・・・・・・人間であるのか。人間の定義。それらはとても曖昧で、頼りないものではないのか。
　ならそれは、結局どちらでも同じということではないのか。──さぁ、どうだろう。
　あまりに唐突過ぎて、すっかり思考が麻痺してしまっているのかもしれない。──笑ってしまう。こういう時くらい、少しは泣いたり喚いたり自分もすればいいのに。目の前の彼のように。
　一度自分を否定されてしまって──『柿崎崇史』を否定されてしまっているからなのだろうか。心に、さざ波も立たない。涙ももう枯れ尽くしている。
　けれど、とりあえず言えるのは──
「口を閉ざせと──」
　刀に手をかけ直刃が疾駆する────直前に、その行く手を崇史の手が遮った。
「止まれ、直刃」
　一瞬抗議の声を上げかけた直刃を制し、俯いている崇史は深く、息を吐いた。──それは、諦観に似ていた。
「……それで、椿は俺をどうしたい？」
「ブチ殺してやりてぇ」
　率直に答えた。それに対し、そうか、とだけ崇史は頷く。
　真っ直ぐに椿を見据えた。椿が警戒する。しかし崇史は、ただ穏やかな──諦めと、覚悟を秘めた表情で言った。
「けど、悪いな。俺は俺が人間かそうじゃないかなんて知らないけど、俺は死にたくなんかない」
　それが、正直な結論だった。
　死んでしまっては、自分が何であるのかを確かめることすらできない。
　そしてそれ以前に、自分が何であろうと死にたくなかった。
　単純な答えに逃げているのかもしれない。半ば自覚はある。元々考えるのは得意じゃないしな、と心の中で自嘲気味に苦笑した。
　だがその単純な答えもまた、自分を生かすための本能アンサーなのだ。だから、
「だから、殺されてやらない」
　刀を抜き放ち、剣先を真っ直ぐに椿に向けて、崇史は言い切る。
　その眼光に迷いはなく、手にする太刀と同じ、抜き身の刃の鋭さだけを宿している。
「──直刃は、どうだ？」
　椿が問う。先程までとは打って変わって、無表情に、しかしその瞳に苛立ちをちらつかせながら。
　直刃は言う。
「──元より、あなたの要求を呑むつもりはない。剣はその刃以外に交渉手段を持たず、刃は自ら何かを斬ることはない。ただ己が持ち主の意のままに振るわれるのみ。
　そして私の主があなたと戦うとあれば、私はそれを全力でお護りする」
「……そうかよ」
　短く、それだけを呟くように言って、
「ならもういい。お前を殺してオレが奪う」
　凝縮された憎悪の中にあって、瞳に強い殺意を昏い紫の瞳に滾らせて。
「──お前の全てを殺してやるよ。崇史」
　会話は終わった。

　仕掛けたのは直刃だった。
　翼を広げる隼のように、両手の剣を左右に振り被ってコンクリートの地面を飛翔する。かかる時間は弾指にも満たず、叩き潰すように両側から椿の身体を斬断せんとする。
　椿は避けない。木偶の坊のように突っ立ったまま、身体に刃が斬り入り、
　その瞬間、直刃の視界全てが白に埋まる。
「──！」
　椿の身体は解け、幾百枚もの符に姿を変えていた。身代わり、と認識し、再度敵を索敵する間もなく、身体の自由が利かなくなる。
「直刃！」
「こっちだ」
　追い縋ろうとした崇史の背後に気配。本能的に振り向いて〝霜塚〟を振るった。
　金属音。衝突した刃と刃が離れ、崇史と椿は離れた。
「いい反射神経だな。楽しめる」
　明らかに愉悦の笑みを浮かべて椿が嗤う。
　ちらりと直刃に目を向ければ、彼女はどこに隠れていたのか十を越える人間に──否、式神に押さえ込まれていた。手に握っていた二振りの剣は投げ捨てられている。近くの床に大きな穴が開いていることから見ると、そこから式神は出てきたのだろうか。
　椿もその様子を確認し、羽交い絞めにして押さえつけられたまま鋭い視線で睨んでくる直刃を鼻で嗤う。
「直刃を殺すつもりはねぇからな。退場願った。馬鹿力でも、そんだけに押さえ込まれりゃお前でも動けないだろ？　ご主人様が殺されるのを、黙って見てろ──よっ！」
　言い終わると同時に、椿は跳ねた。真正面からの単純な突き。崇史もそれを迎え撃つように疾走する。
　交点で火花が弾け、交差し、激突し、交戦し、衝突する。袈裟懸けを斬り上げで薙ぎ払い続けて繰り出す横一文字は叩き落され床を削り跳ね上がっては横に打たれる。引かれては離れていく電磁石のように二条の銀弧がぶつかり合う。
　交戦音は徐々に速度を増していく。一秒につき三回、五回、六回、十回──
　やがて音は単体としての音ではなく、ただの唸りとしてしか聞こえなくなる。地表を照らす月すら刀身に光を弾かせることもできず、ただ残影のみが薄く照らされるばかり。
　刃は止まらず、光は留まらず、腕は停まらず。
　無限に続くとさえ思わせる腕だけの舞踏は、
　──ィンッ
　唐突に終了し不気味なほどの静寂が支配する世界が生まれる。中空に少し浮いた体勢で、ゆるゆると二人は離れていく。
　しかしその生も一瞬。離れ際に椿が一枚の符を投げるのを、崇史はやけに緩慢に感じた。
　朱い視界と熱風と爆音。
　静寂しじまを殺した爆風が崇史を撫で、三メートルほど余計に吹っ飛んだ。膝をつき、刃を地面に突き立てるようにしてそれ以上の滑走を防ぐ。
　ぼひゅ、と、まだ広がる途中ですらある焔を突き破って、張り裂けそうな笑みを浮かべた椿が飛来した。煙と焔を渦と従える様は正に風の弾丸──！
　本能が警告する。従い、崇史は右に跳んだ。椿が着地し間を置かず追い縋る。身体全部を捻るようにして薙ぐ。振り上がった刃に弾かれ、また崇史は後退した。そこに間髪入れず符が投げ込まれる。
　再度爆光。視界を奪う朱色には既に適応していたから、椿がこれを目くらましに突撃してくることは予測できていた。
　果たして、椿は爆焔を飛び越えて降ってきた。全体重を乗せた単調なれど速い渾身の一撃。崇史はそれを真っ向から受け止めようとして、しかし後方に跳んだ。
　崇史の髪数本を散らせた椿の刀は続いて虚空を切り裂き、コンクリートに触れて────炸裂した。
　逃げ遅れた。椿の刃に張り付いた幾枚もの符を視認した途端に跳んだはずだが、それでも間に合わなかった。急速に膨張する熱の空間が顔を庇った腕を焦がす。自分を叱咤する舌打ちをかまし、文字通り焼け付く痛みに耐える。できるだけ距離を取り、崇史は焔をね睨めつける。
　目の前で爆焔が左右に割れた。その向こうに見えるのは勿論椿だ。焔を切り裂いた鋭刃は、燃え盛る紅を受けて妖しく輝いている。
「主殿、気を付けられよ！　椿殿の刀、〝六道風鈴かざすず〟は、太刀洗仲道殿の先代、忠道殿の打たれた中でも至高の一振り！　本気で振るえば──」
「──焔も空気も叩ッ斬る」
　直刃の言葉を、笑みを浮かべる椿が引き継ぐ。
「……しかしまぁ、正直お前がここまでやるとは思ってなかったぜ？　九年も間開いてたからな、すっかり寝惚けてあっさり死ぬんじゃねぇかと心配してた」
　やれやれと苦笑するように、椿は肩を竦める。
「そりゃどーも。朝、直刃にみっちり稽古つけてもらったからな」
　精一杯の虚勢の笑みを浮かべて崇史が応じる。
　背中を流れる汗は、未だ燃え盛る焔によるものではない。──冷や汗だ。
　間違いなく、椿は強かった。何とか追いつけてはいるが、それが精一杯。防戦一方。攻めに回り切れるか、と言われれば否と答えざるをえない。──少しでも隙を見せれば、椿は三回自分を殺す。
　そして正直、崇史は椿を殺すつもりはなかった。崇史は自分が生き残りたいとは思うが、そのために必ずしも椿を殺そうとは思わない。直刃を連れてこの場を逃げるなり、椿を説得するなり、できることなら穏便に済ませたいとは思う。──これもまた、桜路や水城に言わせれば甘いのだろうか。多分そうなのだろう。何故なら今自分が戦っている相手は、これでも懐かしい自分の義弟なのだから。
　そして同時に、ヒトを殺すということが怖いのだとも自覚している。
　命を奪うという罪悪。それまであった存在の否定。──死にたくないのは、誰だって一緒だ。
　とはいえ──もしそれらの躊躇いがなかったとしても、椿にはきっと勝てない。絶対的とは言わないまでも、否、寧ろ近いが故により感じさせられる力量の差。
　だからこうして対峙している今も、崇史は逃げる算段を練っていた。視線の先では椿がへらへらと笑っている。余裕綽々、といったところか。彼にしてみれば、軽くあしらえる自分は、まだ寝惚けているも同然なのかもしれない。
「ったく……そんならいっそ夢だったらいいっつーの……！」
　思わずそんな悪態をつく。
「まぁだそんな甘っちょろいこと言ってんのか、お前は」
　不機嫌と呆れを綯い交ぜにした表情で、椿。
「甘くて結構。こちとら、夢見る年頃なんでね」
　挑発的に笑って言いながらも、崇史は隙を窺っていた。椿に限ってそんなものをすぐに見つけられるとも思わないでもなかったが。
「──だけど、それじゃあつまらねぇんだよ」
　途端に怒気を放つ無表情になり、椿は指を鳴らした。
「見てみろ」
　親指で指し示すのは、組み敷かれ羽交い絞めにされた直刃。──その眼球の一ミリ手前に、小柄が突きつけられていた。
「っ……！」
　一瞬で、思考が停止した。
「お前があんまりだだ甘いこと言ってるからな、ちょっと強行手段に出させてもらう。お前が少しでも妙な真似したら、オレの式神は直刃の右眼を貫く。流石に直刃の回復力でも、元通りにはならないだろうな」
　くつくつと陰鬱に嗤う。
「……ああ、それと言い忘れてたけどさ。オレの式神、結構加減が効かなくてな。まぁ符を通して操ってるわけだからその辺りは仕方ないんだけど。──で、だ。お前が変な動きしたら、オレは殺そうとは思わないんだが、もしかすると突き刺し過ぎちまって、一気に脳味噌まで壊して殺しちまうかもしれねぇな」
　椿の言葉に苛立ちながらも直刃をどうすれば助けられるかを考える。全力で駆けても、距離的に間に合わないのは明白だった。術者である椿を止めようにも同じこと。強く、奥歯を噛み締める。
　ひゅっ、と目の前を符が通り過ぎた。それに反応し、思わず椿に視線を向けてしまう。
「ほら、よそ見、してんじゃねぇぞ？」
　見た椿は、やはり嗤いながら、直刃を指差していた。はっとして隆が視線を戻した丁度その時、
　つぷ、と柔らかい音を立てて、直刃の右眼に小柄の切っ先が突き刺さった。
　その音を聞いた瞬間──打算とか算段とか、逃げるという選択肢も殺さないという覚悟も、そんなもの何もかも吹き飛んでしまっていた。
　己の発する怒号すら聞こえず、無音の世界を疾駆する。椿に向かって。
　──その笑みだ。そのこちらを嘲りながらも奥底に憎悪を秘めた陰鬱な笑みを、突き刺し貫いてぐちゃぐちゃに叩き潰して引き裂いてやらねば、気が済まなかった。
　ガッ、と切っ先が椿の眉間を正確無比に貫いて、
「馬ぁ鹿」
　──耳元でその囁きが呟かれた時には、もう遅かった。
　砂の城が崩れるように椿の身体が崩れ落ち、幾百枚の符となり、瞬時それは絡み合い重なり合い縒り合い、渦を巻いて金属音を響かせる太い幾条もの鎖となって、崇史の身体に蛇のように巻き付き束縛した。
「同じ手に引っかかるたぁな。お前、結構単純だな。……ああ、それとも直刃を刺しちまったからか？」
　鎖に圧迫される首を無理矢理声の方向に向けると、前にいたはずの椿の嗤う顔がある。次いで視線を直刃に向ければ、彼女は羽交い絞めにされたまま、しかし小柄は眼球を傷つけることなく、ただ突きつけられている。──気づいた、さっき目の前を通り過ぎた符。あれが──
「幻術だよ、ちょっとした、な。オレが直刃を自分から傷つけるわけねぇだろうが。しかしまぁ、目ん玉一つでそこまでキレるとはな、それほど直刃が大切ってか？
　────すげぇむかつくんだよな、それ」
　嘲りに代わって、押し殺した怒りと、嫉妬が浮き出る。
「直刃を愛していいのはオレだけだ。直刃を殺していいのはオレだけだ。他のヤツになんか触れさせやしない。絶対に」
　言いながら、す、と椿は切っ先を擡げた。崇史は鎖を抜け出そうと必死に足掻くが、動けば動くほどにそれは強く締め付けて身動きが取れない。
「そのまま、無様なまま死んでいけよ。崇史」
　瞳の奥の憎悪と怒りはそのままに、壮絶で凄惨な笑みを椿は浮かべ、胸の中心に切っ先を定め、全力で太刀を

「あぁぁぁぁ──ッ！」
　
　叫びに彩られた鮮血は、崇史の心臓が飛沫かせたものではなかった。
　停まる時間の中、肉を貫いた切っ先は、崇史の胸の一寸手前で静止し、切っ先から血を滴らせていた。
　二人の間に割り込んだ白銀の騎士の右肩から、その切っ先は飛び出ていた。
「──直刃ぁっ！」
　停まっていた時間を動かしたのは、悲痛と戸惑いを含んだ椿の叫びだった。柄から手を離し、膝をついた直刃を抱き起こそうと手を伸ばす。
　──ぱしっ
　音を立ててその手が弾かれた。肩を貫いた〝風鈴〟を引き抜き、投げ捨てる。からん、と音を立てて、コンクリートの上に転がった。直刃の肩は栓を抜かれたようにおびただしい量の血が吹き出た。直刃はこんな時でさえ無表情に、しかし明らかな敵意を持って椿を睨めつけていた。
「あ────」
　拒絶された椿の顔は一瞬唖然とし、次の瞬間くしゃりと歪んだ。崇史から直刃の肩越しに見えたその顔は、訳が分からないと言っているような、哀れなほど幼い泣き顔だった。
　集中が途切れたせいか、身体を拘束していた鎖が解ける。それと同時に、直刃の身体が倒れ掛かってきて、慌てて崇史はそれを受け止めた。出血のせいで、気を失ってしまったらしい。
　椿は立ち竦んで動かない。冷静を取り戻した崇史は、左肩に直刃を抱え上げて走った。ついさっきまで直刃を拘束していた式神達は、主が自失しているせいか直刃が跳ね飛ばした状態のまま、転がっていて動かない。等身大人形のようにごろごろと転がっている様に、崇史は薄ら寒さを覚えつつ、転がっていた直刃の二本の剣を拾う。
　自分の剣ともども右手で持って、ビルの端から跳躍した。人間一人を抱えた状態で跳ぶのは流石に辛かったが、落ちたら直刃も一緒に落下することになる以上、気力で乗り切るよりなかった。
　来た時と同じ道程を辿りながら、背後の気配を探る。──追って来る気配はない。ほっと息をつきつつ、またビルから跳んだ。
　最後まで結局、椿が追ってくることはなかった。

　マンションの屋上から階段を駆け下り、自分達の部屋に入った。ドアノブを空けるのに少し苦労した。
　自分のベッドの上に直刃を寝かせる。呼吸は浅いが、規則的なだけまだ安心できる。四苦八苦しながら上半身の鎧を外し、その下の黒いシャツも脱がした。シャツの下は腰から胸までさらしで覆われていて、紅い血を流す肩は露出している。
　血は止まる気配を見せない。タオルで血を拭き取ると、すぐにそれは真っ赤に染まった。傷口が良く見えるようになったが、だからといって崇史にはどうすることもできない。傷口は明らかに貫通していて、今もベッドのシーツを染め続けている。
「くそっ……！」
　まともに処置もできない自分に悪態をつきつつ、薬箱から包帯をありったけ引っ張り出す。とりあえずは止血だった。運動部に所属していた以上、不測の怪我に直面する場合も多く、包帯を巻く程度のことは何とか崇史にもできた。
　傷の割に出血はそれほど多くなかった。幸い、大きい血管などを傷つけてはいないらしい。それでも念のため二重三重に包帯を巻き、結局全部使い切ってしまった。
「……主殿？」
　一息ついたところで、直刃が目を開けた。声は普段の彼女からは考えられないほど弱々しい。だが言葉自体はしっかりしていて、崇史は少しだけ安堵した。
「怪我を、なされたのか？」
　べったりと血のついた崇史の左頬と肩の辺りに手を伸ばしながら、直刃は言った。
「……直刃の血だよ」
　その手を握り、そっとベッドの上に降ろして、崇史は言った。直刃は目を瞑り、息を吐く。
「申し訳ない。主殿の服を、汚してしまった」
「そんなこと気にするな、馬鹿」
　本気で腹を立てて、崇史は言った。どこまでも他人の心配をしてばかりで、自分自身のことにはひどく疎かな直刃に、崇史は腹を立てていた。いくら彼女が自分が騎士であるからと声高に主張しようと、それでも自分自身もちゃんと護らなくてはならないと思う。
「まずは自分の心配をしろよ。結構、傷が深い」
「……そのようだ。右腕が全く動かぬ」
　目を開けて、直刃は天井ばかりを見ている。
「椿殿は？」
「逃げてきた。追ってくる気配もない。しばらくは、大丈夫だと思う」
　あの様子では。
　そうか、とだけ直刃が答えて、会話が途切れた。
「……肩の傷、痛むか？」
　静寂に耐えかねて、崇史が聞いた。直刃は自身の身体を走査するように短く沈黙し、
「傷が癒着するまで二日か三日、完全に動くようになるまでに四日はかかろう。……これでは、主殿を護れぬ」
　痛いかどうか、という質問の答えにはなっていない。
「いいって、今はそんなの気にするな。椿と戦って、勝てるかどうかは分からないけど……直刃抱えて逃げるぐらいのことはできると思うし」
　笑って、殊更明るく言う。
「椿が襲ってくるんだったらすぐ分かる。式神だけだったらまず負けない。だから今は安心して、身体を休めとけ。これ、命令だから」
「……申し訳ない。了解した」
　言って、直刃はまた目を閉じた。それきり会話が再開されることはなく、やがて安らかな寝息が聞こえ始めた。
　いつもの気を張り詰めた彼女とは打って変わって、寝顔はとても安らかだ。そう言えばこうして直刃の寝顔を見るのは初めてかな、と崇史は思った。いつもこの少女は夜中まで外に出ていて、自分が寝てから帰ってくるのだから。
「──いや」
　初めてじゃないか、と一人呟く。
　また思い出した。前にも、こうして直刃の寝顔を見ていたことがあったように思う。あれはまだ知り合って間もない頃だったろうか。二人だけで遊んで、疲れて木の根元で眠った時のことだった。多分。
「……？」
　そう言えば、その時自分は何かを決めたように思う。それはとても大切なことだったが、しかしそれがとても大切だということ以外思い出せない。
「何を──決めたんだっけな」
　独白しても無論答えるものはない。
　しばらく思考にふけって……やがて諦めるように、崇史は吐息した。どうにも思い出せない。
　そのうち思い出すだろう、と結論付けて、崇史は直刃の身体に毛布をかけてあげた。部屋の中は空調が保たれているからそんなに寒いことはないが──寧ろ毛布をかけていないと困るのは崇史のほうだった。直刃の鎧の下は胸から腰までさらしに巻かれているため、身体のラインが全部浮き彫りになってしまう。──まぁ、何と言うか物凄く煽情的で、崇史だって健全な年頃の少年なのだ。つまりは、そういうことだった。
　毛布をかけた際、するりと直刃の左手がベッドの端から滑り落ちた。崇史はその手を取る。
　握った腕は、存外に細い。普段は鎧に隠れて分からないが、紅の紋様が刻まれていることを除けば、年相応の少女の腕だ。柔らかさはなく、鍛え抜かれた腕は白い肌越しに筋肉の弾性を伝えてくれるが、それでも男の崇史からしてみれば、強く握れば折れてしまいそうなほどに細かった。
「──こんなに細い腕で」
　自分を護ってくれていた。今も、昔も。
　それが使命であると教えられて、主人を護ることだけを教えられて。
　自分とそう年の変わらない少女が、鎧を纏い、剣を携え、戦ってきたという事実。
　それがひどく、痛いほどに胸を締め付ける。
　ずきり、と思い出したように両腕が痛んだ。そこでようやく、腕を火傷していたことを思い出す。包帯を──と思ったが、それは全部直刃に使ってしまっている。幸い火傷は軽度なので、応急処置として濡れタオルを巻きつけておくことにした。
「…………」
　それを終えふと見た直刃の顔は、やっぱり安らかだ。
　何とはなしに息を吐き、厚手のコートを毛布代わりに纏う。
　部屋の電気を消し、ベッドの脇に腰を降ろした。あの様子ではまた仕掛けてくることはないだろうが、それでも用心するに越したことはない。崇史は寝ずの番を決め込んで、刀の鞘を握り締めた。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　けたたましい倒壊音。
　それに巻き込まれるように、苦しげに胸を押さえて椿は倒れ込んだ。
　暗い場所だった。椿が寝床にしている場所に照明はない。
　倒れたのは元々ここにあったスチール棚だ。老朽化していたのか立て付けが悪かったのか、身体を支えようと手をかけた瞬間に倒れてしまった。
　舞い上がる埃の中、椿は緩慢に起き上がる。
　──くそ。
　苛立ち。焦燥。悔恨。嫉妬。
　──くそくそくそくそくそくそくそくそくそくそくそ！
　腕を振り回す。たまたま軌道上にあった別のスチール棚が音を立ててへこんだ。
　廃ビルの一室。つい先程崇史や椿と戦ったビル自体を、椿は住処としていた。場所的に広くまた人もあまり寄り付かないのを、更に人払いの結界を施して完全に世間と乖離した空間を作り出している。
　そう、ここは椿の城。
　空虚な灰色の、人間のいない居城。
　心臓が苦しい。肺が圧迫される。頭蓋が軋む。これまでに何度も襲われ、しかし全く慣れることのない激痛と不快感。
　いつもこうだ。昔からこうだった。満足に部屋から出ることも許されていなかった。原因さえも分からない、自分を蝕む病。
　原因不明であれば治療法もなく、しかし良くなることも悪くなることもない、おそらくはずっと共存していかねばならない痛み。
　父は、式巽は、この病のために自分に家督を譲らせないつもりであったと半ば自覚している。そもそも自分は側室の子なのだから、その面でも相続はないと思っていた。だが──だからと言って、いくら人間と同じように機能するからといって、そのように動くからといって、人間でないただの作り物に座を譲ろうとするのは、認められなかった。認めたくもなかった。──そのために、父親が自分を殺そうとしていたとなれば、尚更。
　本来、式崇史が死亡した時点で継承権は椿に移るはずだった。なのにあろうことか父は崇史を式神として蘇らせ、座を譲ろうとし、それに対する周囲の反対を押し切るために──椿を殺そうとまで画策していた。
　それも全ては、誰よりも崇史を愛していたから。
　──何故……！
　頭の中で反響する声は、これまで幾度となく叫んできた自分の言葉だ。
　──何故何故何故何故何故何故！
　当主の座が欲しいわけではない。ただ思う。何故自分は顧みられなかった。自分だって血の繋がった子供には違いないのに。どこにその違いがある。実力だって、こっちのほうが上なのに。本妻と側室の違い？　それとも──自分がこんな欠陥品だったから？
　思い浮かぶのは、何度も何度も考えてきた理由と、父の背中。──それらが更に、痛みを加速させる。
　コンクリートの床に倒れて蹲って、胎児のように身体を丸めて、抱いた肩を掻き毟り、服が裂け血が流れてもお構いなしに、椿は慟哭する。
　空虚な空間に、音は、やはり虚ろに響くだけ。
　ぎりぎりと歯を喰いしばって、椿は手を伸ばす。倒れた拍子に自分から落ちたもの。
　手がそれに触れ、掴んで、引き寄せた。それを支えにするように床に打ち立て、よろよろと椿は立ち上がる。
　眼からは涙を滂沱と流し、唇の端からは血混じりの唾液が零れ落ちていく。
　血走った眼が、影を捉えた。部屋の片隅に直立する複数の人間の形。整列してはしていないが元より動く気配もなく、人形めいた空気を漂わせて突っ立っている。──事実、それは正しかった。
　椿は一番近いそれに向かって歩き出した。その人影がどんな形をしているとか、髪が長いか短いか、椿にはそんなことはどうでも良かった。ただ刻めれば、それでいい。
　一定しない呼吸。朦朧とする意識の中、椿は手のそれを強く握り締めた。それは飾り気のない、小太刀の黒鞘だ。
　がづっ、という鈍い硬質の音。鞘から抜いた小太刀が、人影の眉間に突き刺さった。人影は二十代前半の女性だったが、それは元より気にすることではない。ただ女の身体は切り易すぎるから少しつまらない、とだけ考えた。
　そのまま寄りかかるように全体重をかけて、ごりごりと動かない人影の顔面を縦に割っていく。鎖骨まで到達したところで引き抜き、右大腿に振り下ろした。あっさりそれは切断され、支えを失った身体は埃を巻き上げて倒れ込む。仰向けに倒れたそれの腹に刃を突き立て、何度も捻る。抉る。内臓と骨を掻き回していく。しかしそれにもやがて飽きて、横に掻っ捌いた。切り口からどろどろになった臓腑が流れていくのは、それなりに楽しめた。
　次は右肩。丁度間接の間を貫き、捻った。鈍い音がして間接が割れ肉が剥がれる。空いている左手で、椿は右腕を引きちぎった。筋肉と神経がぶちぶちと弾けていく音に思わず笑みが漏れた。
　整合性を無視した解体作業は続く。左脚を縦に裂き、大腿骨取り出す。左腕を指先から肩まで間接ごとに細かく切断していく。
　暗闇の中で行われるそれは、悪夢のような光景だ。殺人鬼が一人、ここにいる。
　たっぷり一時間をかけて、椿は最後に胸の符を貫いた。最早それがヒトであったという証明などとうに失われていて、符の貼ってある胸も符があったから胸と認識できるほどに壊し尽くされていたからもうあまり意味はないのだが、一応の仕上げだった。
　満足げに吐息し、椿は小太刀を見下ろした。
「……嫌か？　親父」
　昏く昏く嗤いながら、椿は呟いた。
　壁にかけられた、ひび割れた鏡に映る横顔の瞳は、ただ、朱い。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　崇史が目を覚ましたのはもう午後になっていた。
　焦る。寝ないと決めていたのにいつの間にか完全に寝入っていたらしい。
　ベッドの上を確認すると、直刃はまだ寝息を立てていた。起きる気配はないようだった。安らかな寝顔に安堵しながら、崇史はしばらくその寝顔を見入っていた。口元に思わず微笑が浮かぶ。
「──本当に、こうしてれば普通の女の子なのにな」
　窓から差し込む光は明るい。その中で眠るあどけない少女の寝顔は、普段からは到底想像できないほど穏やかだ。
　ふと、崇史の表情に翳りが浮かぶ。しかしそれをすぐに、首を振って打ち消した。──いけない。これは考えてはいけないことだ。或いは考えたくないことか。
　立ち上がる。昨日直刃の手当てをしたお陰で、包帯がほとんどなくなっていた。直刃が起きたら取り替えることになるだろうから、買いにいくことにした。
　唐突に腹が鳴る。……食べ物も買っておくべきだろう。崇史は料理ができなかった。
　直刃一人を残しておくのは少々不安だった。彼女が目覚めてから行くべきだとも思ったが、いつ起きるとも知れない以上、どうせなら襲撃の危険性の少ない今のうちに行くべきだと判断した。幸い、ここからなら薬局などはそう遠くない。自分なら走れば十分で往復できるだろう。
　そう決めて、崇史は部屋を出た。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　その日、水城の通う学校は、ＰＴＡだか何かで午前中で終わった。
　なので水城は今、昼食を適当に済ませて、桜路と一緒に本屋巡りをしていた。
　水城は本が好きである。彼女の自室の四方の壁が本棚に支配されており、押入れの中には本棚に入り切らなかった本がぎっしりと詰まっている。そのうち底が抜けるぞ、と桜路に言われたが、水城の家は割と頑丈なので大丈夫なはずだ。……多分。
　桜路もまた、水城ほどではないとはいえ読書家であり、それには桜路の家が古本屋であることと無関係ではなかろう。文字通り、二人とも本に囲まれた生活をしている。
「つーか何件回る気だよ、お前」
　四件目を回ったところで、とうとう桜路が不満の声を上げた。
「何を言ってるんだい、桜路。求める本のためならば、五件六件当たり前。その辺、君は甘いんだよね」
「お前は諦め悪いだけだ」
　呆れ声を返してくる。
「でもちゃんと付き合ってくれる辺り、君は律儀だよねぇ」
「適当なとこで止めてやらないと金使い切るだろうが」
「そういうことにしとこう」
　笑いながら言うと、ふん、と鼻を鳴らして桜路は視線を逸らした。それが照れ隠しであると、水城は知っている。また笑む。
　こうして放課後の書店巡りに桜路を誘ったのは水城だが、それ以外にももう一つ、目的があった。ポケットに手を突っ込み、その中のメモ帳の感触を確かめる。
　この中に書かれた内容。全く覚えがないのに、それは間違いなく自分の筆跡で書かれていた。
『刀自村』という村を襲ったとされる賊の情報収集。
　柿崎、という一家の状況。
　それらを必ず調べるよう、自分の筆跡で記されていた。日付は昨日。締め切りは次の土曜日の午後二時、その時に、あの喫茶店に行くという指示まである。特に刀自村に関しては、『要・協力』と書かれている。自分だけでは分からない、と暗に示していた。そしてこの場合の協力とは、桜路の──正確には桜路を経由してのある人物の協力、である。
　桜路もまた、水城と同じようにあちら側・・・・の人間だ。ただし水城は桜路に自分がそうであることを言っていないし、桜路もまた、自分の力のことを知らせていない──知られていないつもりでいる。
　それを水城は少しだけ哀しく思う。想い人の全てを知っていたいと思うのは、恋人としては当然だと水城は思っている。──いや、事実、桜路のことは思考から身体の隅々まで知っている仲ではあるが。
　恋仲であることは、まだ誰にも言っていない。しかし隠しているわけでもないので、察しのいい人間ならすぐに気づくだろう。恥ずかしくないから、隠さない。胸を張って桜路を好きだと言える。
　なればこそ、彼が自分にそのことを、そしてそれによる苦痛を教えてくれないのは、哀しかった。二年前の時も、彼は何も言わず──ただ、泣いていた。
　それほど自分は頼りない人間だったかと思う。──違う。
　彼は自分を想ってくれているからこそ、何も言わない。
　そう思ってくれることは、嬉しかった。けれどそれでも知りたいと思うのは、欲張りなのだろうか。
　吐息。それは分からなかった。たくさんの本を読み、たくさんの知識を得、たくさんのヒトの思考方式を知ってもまだ──分からないことが多い。
「桜路」
　だから彼の名を呼んだ。こんなにも──こんなにも自分を惑わせてくれる彼の名を。
「何だ」
「好きだよ」
　途端、桜路の顔が朱に染まった。
「ばっ、なっ、……！」
　言葉になっていない。耳まで真っ赤になった顔を見て、水城は思わず笑った。
「普通逆じゃないのかい、その反応は」
　顔を赤らめるのは乙女と相場が決まっている。
　桜路は、水城が言うところの『愛の言葉』に全くと言っていいほど耐性がない。否、言葉に限らず、おおよそ恋人らしいことには何一つとして不慣れなのだ。水城に言わせれば、初心うぶということになる。
　それでも彼が自分を想っていてくれることに変わりはないと分かっているから、また笑んだ。
　耳朶と脳内は常にノイズに犯されている。それは彼女の持って生まれた宿命なのだから、仕方なかった。けれど桜路といる時は、その存在すら忘れてしまう。
「君に夢中、ってヤツさ」
　口の中だけで呟く。とうの桜路は先の水城の発言を往来する人々に聞かれてないかきょろきょろと周囲を見渡し、最後に恨みがましい眼で水城を見た。
「……人前で言うな」
「やだね」
　笑いながら応答する。疲れたように桜路は息を吐き、それ以上何も言ってこなかった。その様子に、水城は四度笑んで、

　ノイズの中にそれを見つけた。

　瞬間的に首を巡らせ意識を巡らせ思考を開始する。思考の高速化及び走査。方向特定。できる限りノイズを排除し意識を集中させる。
　高速で走る人間が一人。明らかに人間ではありえない速度。自分が知覚できる範囲であるのは直径一〇〇メートルの空間だが、それを四秒以下で彼は駆け抜ける。
　そう、彼。
　知覚した途端、水城は思い出していた。昨日会ったばかりの、懐かしい友。認識されない彼。──崇史。
　同時に確信する。どうやら自分は彼を認識している間だけ、彼のことを思い出せるらしい。知覚範囲を越えてしまうと、また忘れてしまう。昨日のように。綺麗さっぱり。──否、正しくは記憶の封印がなされると言ったほうが正しいのか。
　恐らく自分のような者以外は、再び会ったとしても思い出せないのだろう。きっと彼らの呪いは、そういう風にプログラムされている。──自分は正確にはヒトではないから、そのプログラムが適合せず誤作動を起こしているのだろう。人外の証明。
　いや、それは今はどうでもいい。放置。問題なのは今。彼が走り抜けるまでに、また彼の状況を認識しなければならない。意識を鋭敏化させ、流れ込む意識に耳を傾ける。
　──怪我をしたのか。
　直刃が怪我をしているらしい。崇史はどうやらそのための医療道具と、数日分の食料の買出しに出ているようだ。
　負傷したのは昨夜。自分と別れた日の夜だ。──状況は、思った以上に急転しているらしい。
　──人形？
　昨日はなかった情報が増えていた。優先的に走査し、読み込み、記憶する。
　……意識の中だけで眉根を寄せた。どうも状況がきな臭くなっている。昨日も思ったが、予想以上に──崇史はまだ、何も知らなさ過ぎる・・・・・・・。
　まずいね。心の中だけで呟く。どうやら、なるだけ詳しく調べる必要がでてきたようだ。
　ここまでの思考に要した時間は二・五秒。彼は知覚範囲の圏外に近づきつつあった。
　──また彼を忘れてしまう。その事実に臍を噛みながら、できる限り、今得た情報を忘れないよう刻み込むように必死に意識し続けた。
　────範囲から出た。

「……どうした？」
　急に足を止めた水城を不信に思ったのだろう。桜路が声をかけてきた。水城は人ごみの向こうをしばらく眺めていたが、やがて首を振り、
「いや……何も」
　短く言って、歩き出した。
　人垣の向こう。そこに何か、とても大切な何かがあった気がするが……ど忘れしたのか、何も思い出せなかった。
　ただ──小さく泡立つような胸騒ぎだけが残っている。不安。焦燥。そういった何か。
　ふとポケットの中身が気になって、手を突っ込んだ。メモ帳を握り締めると、何故かその胸騒ぎが大きくなる。何かが自分を駆り立てる。
「──桜路」
　また水城は足を止めた。
「ちょっと協力して欲しいことがあるんだけど……いいかな」
　
　　　　　　　　　　　　　　　§

　部屋に戻ると、まだ直刃は眠っていた。
　とりあえず荷物を置いて、剣を携え崇史は屋上に向かう。
　ドアを開け放つと冷たい風が頬を撫でた。高い位置にあるせいか、道路よりも風が強い気がする。その風を感じながら、崇史は屋上の中心に歩み出た。
　左手には〝六道霜塚〟。
　瞼を閉じ、腰を落とし、柄に手を添える。
　地面を踏み締め、大腿の筋肉を収縮させ、骨が身体を支えていることを認識する。
　聴覚が幽かな風の音を聴き、嗅覚が大気中の僅かな匂いを嗅ぎ取り、触覚は空気の流れそのものを感じ取る。
　浅く息を吸い、浅く息を吐き、浅く息を吸い。
　──抜いた。
　空気の調和が弧を描いて乱れる。駆け抜けた鋼はしかしその存在を可視させることなく、元の場所へと還っている。
　抜刀と納刀が同時。刃の軌跡さえ描かず、ただ風の流れしか残さない。
　ようやく崇史は眼を開き、ゆっくり、長く、息を吐いた。
　──まだだ。
　心の中で呟いた。
　この程度では、まだ椿には勝てない。ブランクなど言い訳にならないし、事実実戦では何の意味もない。──それに、自分自身の限界は自分が良く知っている。経験と実感に基づく確かさ。
　そもそも自分がいかに先天的に戦う技術に長けていたとは言え、この間まではあくまで一般人……いやそれも言い訳だ。停止。
　もう一度柄を握る。息を静める。
　──こうして独りで剣を振っていて、それで強くなれるはずもないが──それでも、動かずにはいられなかった。
　彼女に庇わせてしまった、自分のこの身が恨めしかった。
　刀を、抜いた。
　
　……そして結局、崇史は馬鹿を見ていた。
　時間にして約三時間半、太刀を振り回し続けていたせいで、右手の握力がほとんどなくなってしまっている。阿呆か自分は、と自責する言葉も疲れ果てている。
　壁に鞘を立てかけて、ベッドの横に座り込んで買い込んでおいた食料を食む。カレーパンが二つ。少し早めだが夕食だ。
　二つとも手早く平らげ、することがないので崇史は小さな本棚から本を一冊、取り出した。──水城から借りたままになっている本だった。まだ読み終えてすらない。
　二時間かけて読み終える。溜息をつき、それを本棚に戻した。
　また別の本を手に取り、読み流す。数冊をそうして読んでいるうちにまた二時間が経ち、九時になっていた。
　そっと直刃の顔を覗き込んだ。まだ目を覚まさない。顔色も昨日に比べ随分と良くなっているようだったが、それでもまだ血の気が足りないようだった。身体が回復に専念しているのだろうか。
　──と、何の前触れもなく直刃が瞼を開いた。ゆっくりと、ではなく、スイッチが切り替わるように見開いた。そしてたった今横になったばかりのように、直刃はむくりと身を起こした。寝起きの者のそれではない。
　崇史のほうを向き、言う。
「──すまない主殿。ご迷惑を……どうなされた？」
　視線の先では崇史が尻餅をついて直刃を見上げていた。
　崇史にしてみれば、突然目の前で直刃に目を覚まされたわけだから、驚かないのが無理というものだった。
「あ、いや……何でもない」
　慌てて起き上がる。
「身体のほうは？」
「大分良い。それでもまだ右腕の自由は利かぬが……」
　感触を確かめるように、直刃は右手を握ったり開いたりした。その動きは、やはりぎこちない。
「もう少し時間が要ろう。また、ご迷惑をおかけしてしまう」
「いやそれはいいから」
　苦笑しつつ言い、次いで、崇史は表情を引き締めた。
「──直刃、君、まだ俺に全部を話してないだろ」
　直刃は答えない。──沈黙は肯定だった。
「教えてくれ。全部」
　崇史は言った。こちらを見つめてくる直刃の蒼い瞳を、真っ直ぐに見返す。
　やがて、直刃は小さく、息を吐いた。
「──九年前」
　眼を伏せたまま、直刃は語り出す。
「主殿と私が始めて出会って、三年か四年後のことだ。刀自村の外れで土砂崩れが起きた。そしてそれに、椿殿と、椿殿の母親である美沙樹殿、そして主殿が、巻き込まれた。……全員、生き埋めになった」
　崇史は黙って、直刃の言葉を聞いている。
「死者は二名。美沙樹殿は土砂に紛れて岩が頭に落下し即死。それと、」
「──俺も死んで、椿だけが生き残って……俺は式神として蘇ったってか？」
　直刃は何も言わない。崇史は寂しげに微笑んで、そうか、と言った。
　先を促す。
「……人を蘇らせるなど、本来は不可能だ。しかし村には、式神として人を蘇らせる禁忌の術式が伝わっており、且つそれを可能にするだけの力量を持った者──師父がおられた。
　師父はその禁呪を用い、蘇生することに成功したが──事故の衝撃からか、主殿は激しい記憶障害を引き起こしていた。放って置けば、精神死しかねないほどの、な。そこで師父は主殿の記憶を封印し、柿崎家の者として一般社会に置いたのだ。
　おそらくは、一度離しておいたほうが良いと考えられたのだろう。時期を見て呼び戻されるおつもりでな。特に事故時の記憶だけは厳重に封じて。……思い出しておられるか？」
「……いや」
　直刃の問いに、崇史は自分の記憶をできる限り掘り起こしてみるが──それらしい記憶は何もなかった。ただ、所々まだ思い出せていない場所がある。そこだけがやけに暗がりになっていて、はっきりしないような感覚。恐らくそれが、封じられた部分なのだろう。
　直刃は続ける。
「そのまま数年が経ち──後は、椿殿の言った通りだ。椿殿は師父を殺そうとし、結果幽閉の身となる。そして二ヶ月前、賊の進入により沙耶殿の力が村を壊してしまった。
　椿殿だけ無事だったのは、彼の捕えられていた牢に、あらゆる術式を無効化する術がかけられていたせいだと思われる。椿殿は優れた術師でもあったからな。だが幸か不幸か、椿殿の能力を封じるそれが、結果として椿殿を護ってしまった」
　それもまた、皮肉なことだった。沙耶と全く同じ状況だ。
「生き残った椿殿は、牢を脱出し──この街に来たのだろうな」
　直刃の言葉が止まる。もう話は終わりなのだろう。
　崇史はふぅ、と息を吐いた。五分と経っていないのに、話を聞いただけで身体がひどく疲れている。──或いは心が。
　椿が崇史を殺そうとする理由──それは、至極当然のものなのだろう。
　自分の居場所を、椿は崇史に奪われた。在るべき場所を奪われたその痛みを──崇史は良く知っている。
　それは自分と同じだ。それが与えられた、紛い物の場所だったとしても──あの頃の崇史にしてみれば、あの場所だけが自分の居場所だった。
　崇史もまた、それを奪われている。理不尽とも言えるほど唐突に。
　その痛みが分かるから──椿の殺意も良く分かる。
　自分がそうならなかったのは、単に側に直刃がいてくれたから。自分の存在を肯定してくれる誰かがいてくれたから、それだけだ。自分も、椿と同じ状況に立ったら、全く彼と同じになっていたかもしれない。
「──主殿、一つ、お聞きしてよろしいか」
　思考に沈みつつあった崇史を、直刃が呼んだ。
「ああ、何？」
「主殿は、私を不要と思われておられるのか？」
「……何で、そんなことを訊く？」
「夢であればいい、と仰った」
　ああ、と崇史は昨夜の椿との戦いを思い出す。どうやら聞かれていたらしい。
「……そうだな。夢であればいい、ってのは今でも思う。俺、結構諦めが悪いから」
　苦笑がちに言って、でも、と続けた。
「でもそれは、直刃が要らないってわけじゃないから」
　最初なら──この少女と再会した直後なら、まだそんなことを思えただろう。けれどそう思うには、崇史は多くの時間を少女と過ごし、そして支えられてきた。──それを依存と呼ぶならそうなのだろう。式崇史という人間は間違いなく、この少女を必要としている。
「そうだな。いっそのこと、全部夢だったらな。俺が椿と戦ってるのも、柿崎家の人達のことも、何もかも。──そして本当は、皆幸せに仲良く暮らしていられたらいいのに」
　自分は柿崎の家の長男で、家族がいて、水城がいて、桜路がいて、式家の人間もちゃんと生きていて、椿はそこの子供で勿論自分を憎んでいなくて、懐かしいあの日のまま仲が良いままで、そして隣にはちゃんと直刃もいて──そんな、都合の良い夢を夢見ている。
「本当に……ただの夢だ」
　自嘲気味に呟いた。
「……主殿は、私を必要としてくれているのだな？　どのような形であれ」
　眼を開き、顔だけを崇史に向けて直刃は言う。微苦笑し、崇史は答える。
「必要……というか。……うん、そうだな。側に居て欲しい。そういった意味じゃ、君を必要としているんだろうな」
「なら、いい」
　吐息と共に、直刃は呟く。
「現うつつでも夢でも、主殿が私を必要としてくれているのなら、それでいい」
　直刃は視線を天井に移した。崇史は何となく気恥ずかしくなって、視線を逸らしてこめかみを掻く。
「……そうだ。直刃、何か食べる？」
　彼女が一日中眠りっ放しだったことを思い出し、崇史は言った。直刃は頷く。
　何がいい？　と問うと、何でも良い、と答えられたので、とりあえず崇史はあんぱんの袋を破いて差し出した。礼を言って直刃は受け取り、左手でそれを持って食べた。
「まだいる？」
　食べ終わる頃を見計らって言うが、直刃は首を振った。
「私はいい。後は主殿が召し上がられよ」
「いや俺だってこんなに食べきれないから。直刃もまだ食べていいよ」
　コンビニの袋一杯には、まだたくさんパンやおにぎりが入っている。それでも直刃は頑なに首を振った。
「本当にもう要らないのだ。私の身体は、少量の栄養でも充分動くようにできている。ご安心召されよ」
　そうまで言われると──言葉の内容の真偽はともかく──それ以上無理強いすることはできない。仕方ない、と崇史は頷いた。
　それより、と直刃は少し躊躇いがちに言った。
「申し訳ないが、傷の治癒に専念するためまた眠りたいのだが……よろしいか？」
「ああ。ゆっくりお休み、直刃」
　微笑みながら頷く。直刃はもう一度、申し訳ない、と言って横になり、目を閉じた。
　すぐに寝息が聞こえてくる。崇史は毛布をかけ直した。
　崇史は刀を抱いて、昨日と同じくベッドの脇に座った。寝ずの番、というのはどうにも自分には無理なようだから、せめてすぐに起きられるよう心構えをしておこう。そう思いながら、崇史も目を閉じた。

　────────────────────────。
　────────────────。
　────────。
　物音に崇史が目を覚ましたのは、もう明け方近かった。
　ゆっくりと眼を開けながら、それでも油断なく気配を探る。──何もいない。どうやら、本当にただの物音だったようだ。と、
「……直刃？」
　声が聞こえた気がして、ベッドの上の直刃を見た。月ももう沈んでしまっていて顔も良く見えないが、少女の横顔は眠っているようだった。
　その唇が震えて、蚊の鳴き声のようなか細い声を紡いでいた。崇史は耳を澄まし、その声を聞く。
「…………いや、だ……」
　それだけ聞こえた。
「わたし……わたしは、ずっと、……たいと、思っていたの、に……」
　か細く、弱く、懺悔するように。
「……今更……わたしは……」
　寝言はそれだけだった。
　そして、直刃の頬を雫が一つ、伝った。
「…………」
　何も見なかったことにして、崇史はまた眼を閉じた。

　起きたのはやはり昼過ぎ。寝過ぎて苦痛ということは全然なく、寧ろ頗る調子が良かった。昨日痛めた右手の調子も元に戻っていて、剣を振るうに支障はない。
　朝食──時間的には昼食──を食べて、しばらく読書に耽る。二時間ほど経って、崇史は部屋を出た。
　昨日と同じく屋上に出る。
　刀を抜いた。

　また三時間刀を振り続けた。今日は加減していた分、それほど疲れてはいない。
　部屋に戻ってドアを開けると、鎧を着た直刃が起きてベッドの縁に座っていた。
「お戻りになられたか」
　言いながら、軽く礼をする。
「身体はもういいのか？」
「傷は塞がってきているが、そう動けるほどでもない。回復に専念しすぎて身体の動きが鈍っているようだ。また丸一日療養すれば、とりあえずは動けようが……それでも全快にはならぬ」
「ん、そっか。でもまだ無理はするなよ」
　刀を置いて座りながら、崇史は言う。
「承知」
　直刃は頷く。
「それと、真に勝手ながら包帯を取り替えさせて頂いた。主殿の了承もなしに、申し訳ない」
「別にいいよ。元々直刃のために買ってきたやつなんだし」
　ひらひらと手を振って、言う。
「何か食べた？」
　首を振る。
「いや。主殿は？」
「俺もまだだよ。ちょっと早いけど、一緒に食べようか」
　崇史の提案に、はい、と直刃は頷いた。
　昨日と同じように袋を破いてから直刃に差し出す。今日はクリームパンだ。崇史は昨日と同じカレーパン。昨日買ったものだから風味は落ちてしまっているが、この際仕方がない。
　二人して黙々と食べる。テレビもついていないから本当に静かだった。時折マンションの下を走る、帰宅途中の車の排気音が聞こえてくるくらいのものだ。
「直刃」
　カレーパンを平らげて、崇史。
「直刃から見て、式巽ってどういう人間だった？」
　そう問うた。
　巽のことは、崇史も思い出していた。先日の椿との邂逅の時に、ほとんどの記憶は呼び覚まされている。
　良い父親だった、と思う。厳しく、武骨で、しかし乱暴ではなかった。立場上毅然とした態度を取り続けておらねばならなかったのだろうが、それでも幼い記憶の中の彼は、とても優しかったように思える。
　だからこそ、なのか。その自分の父親である人のことが、少し気になった。
「……師父は厳しい方だった」
　瞼を閉じて、思い出すように直刃は言う。
「常に険しい顔をし、威厳に満ち、式家当主という立場に恥じないような方だった。
　だがその一方で優しくもあった。態度には出さねど、いつも他人を気にかけておられた。それが、所詮は使い潰される者であり、刃であることのみを求められる私に対しても。何せ、外の世界からの依頼で退魔に赴いた時でさえ、処断する対象を殺すことは稀だったと聞く。……優しすぎたのかもしれぬが。
　……そうだな、或いはその優しさ故に……我が子の死を受け入れきらなかったのだろうな」
　直刃は息を吐いた。話題を切り替える。
「……それじゃあさ、直刃は、自分の親のこと覚えてる？」
「あまり、覚えてはおらぬ」
　直刃は答えた。
「というより、思い出が少ないと言うべきなのかもしれぬな。父親については、多少知っていたり、覚えていたりすることはあるが、母親のほうは全く知らぬ。
　騎士となる者は基本的に孤児であり、赤子の時から式家に住む。私も事情は少々違うが、物心つかぬ頃からあの場所にいた。そもそも私は、髪と瞳の色を見れば分かるように、異国の血を引いている。父はこの国の生まれだそうだから、この髪と眼は母親譲りだ。だがこれまで生きてきて、ついぞ私と同じ色をした者には会ったことがない。
　──私に母がいたという証拠は、これだけだ」
　言って、直刃は〝夜の騎士〟を引き寄せた。剣を鞘から抜いて、ベッドの脇に置く。中身のない鞘の側面の、丁度中心辺りに手を当てた。彼女が指先を捻ると、かちりと軽い金属音を発し、鞘が左右に割れた。
　差し出された鞘を崇史は手に取り──内側に、それを見つけた。
　いつか教科書で見た、楔形文字に良く似た記号の配列。崇史がそれを読めるはずもなかったが、規則的な並びから、細かく刻み込まれたそれらがちゃんと意味のある文章であると見て取れた。
「ルーンと呼ばれる文字だ。北欧神話に起源を発し、文字一つ一つが魔術的な意味を持っている。この剣にも、同じ文字が彫られている」
　直刃は抜き身の〝夜の騎士〟を差し出した。確かに、刀身の中心に沿って彫られた溝には、同じ形の文字配列が刻み込まれていた。
「剣に刻まれたほうは魔術媒体としての意味合いが大きいが、鞘に刻まれたほうは、純粋なメッセージだ。私も師父に、読み方を教わった」
　崇史の手から鞘を奪い、直刃は文字を読み上げる。
「『私の愛しい片割れへ。あなたがいつかこれを読むと信じてこれを記します。
　しかし多くを語ることも許されず、語る時間も私には残されていないから、あなたに言いたいことの全てをここに残せるわけではありません。
　ただ心に留めておいてください。
　私は間違いなくあなたを愛しています。あなたを手放すのは、私があなたを嫌いだからではありません。寧ろ愛すればこそ、私はあなたを遠ざけます。
　あなたがこれを読む頃は、私はもう生きていないかもしれません。けれど、あなたにとっては存在しないも同然の母ですが、できることなら私は生き延び、そしてあなたに会って直接謝りたいと思います。
　私はただあなたの行く末に、幸せな日々があることばかりを祈っています。
　まだ名前のない私の娘へ。あなたの母より』」
　文章を──いや、『手紙』を読み終え、直刃は鞘を閉じて、またかちりと金属音を鳴らした。剣を取り、鞘に納める。その様子を眺めながら、崇史は問う。
「直刃は、お母さんに会いたいと思う？」
「取り立てて、思ったことはない」
　答えを聞いて、そう、と崇史は頷いた。
　それで会話は終わった。崇史は本棚から本を取り出し、直刃は立ち上がり、部屋を出た。すぐに洗濯機の駆動音が聞こえてきた。そう言えば服洗ってなかったっけ、と崇史は思い出す。
　その音を聴きながら、崇史は本を読んでいる。他に聴こえてくるものといえば、さっきも聞いた車の排気音。
　三ページ、四ページと読み進めて、五ページ目で本を閉じた。
　溜息。
「──今更だ」
　ぽつりと呟く。
　空虚感がある。それがこれまで実感していなかった、式巽という人間の喪失が起因であることも自覚している。
　彼が死んだということは、既に聞かされている。けれどその時自分は哀しくなどなかった。ただ喪失感ばかりがあった。
　そして思い出した今でも──彼のことを思い出した今でも、その喪失感は変わらない。変化していない。哀しむには、時間が経ちすぎてしまっていたから。
　それは巽に限ってのことではない。今の崇史は、刀自村で過ごしていた幼少の頃のことも思い出している。そこで暮らしていた人達のことも思い出している。
　けれど──今更どうしろと言うのだろう。
　死を知らされて、時間が経って──今更思い出して、それでどうしろと言うのだろう。
　分からない。やはりただ、喪失感があるばかりで。

　九時を過ぎて、崇史はベッドの横に座って寝ることにした。直刃はもう大丈夫だと言ったが、そういうわけにもいかないだろう。鎧も脱ぐように言って、ベッドに寝かせる。
　電気を消すと真っ暗になった。空は雲に覆われ、街並みの光もマンション十階の高さまでは届かない。
「雪……降るかな」
　直刃の眠った横で、窓の外を見て小さく呟いた。今夜はやけに冷える。天気予報では何と言っていただろう。降ったからといってどうということもないのだが。
　雪の上で戦ったら足が滑りそうだな、と考えて、ごく自然とそんなことを考えた自分を少しだけ嫌悪した。いつの間にか、思考が戦うことばかりに向いている。数日前までは、喧嘩すらもまともにしたことがない人間だったのに。
　今でも思う。式崇史と柿崎崇史、どちらが本当の自分なのか、と。
　それが無意味な問いであることは分かっている。どちらも自分自身が経験したもので、どちらも本当の自分なのだ。間違いなく。
　だがそれでも自問する。どちらが本当の自分なのか、自分だったのか──或いはどちらで在りたいのか。
　選べるのは片方だけ。昨日の夢の話のような、都合の良い現実など、どうあっても存在しないのだから。
　また選んだところで、時間に戻り道など用意されてはいない。例え、『柿崎崇史』の両親や、姉の葉澄が自分のことを思い出して、もう一度自分がその中に戻れたとしても──その中にいる自分は、元のままの『柿崎崇史』ではない。
　それすらもただの夢。戻る術など、結局知らない。この身の呪いを、解く術など知らない。
　そしてどの道──椿との戦いは、避けることなどできないのだろう。おそらくはどちらかが死ぬまで。崇史がどれほど殺すことを厭おうとも、そうなれば崇史が死ぬだけだ。椿は自分を殺したがっているのだから。
　あの憎悪に晒されて、それが良く分かった。息が詰まる空気。肺が突き刺される大気。負の色の嵐。全体として伝わってくる殺気。どこまでも死を望む感情。
　思い浮かべるだけでどくりと心臓が跳ねる。泥のようにまとわりつく怨嗟を思い出して、血がひどくさざめいている。魔を厭い魔を祓う血が騒いでいる。
　そして今や、椿はこの血にとってただの敵だ。例え半分は同じ血を共有していたとて。
　血に従えば、無論殺し合うことになる。血に逆らって戦うまいとしたところで、結局椿は襲ってくる。
　逃げ続けるという選択肢もあったが、そうすれば椿はまた何も知らない人達を巻き込んで、自分を探す手駒にしていくのだろう。それは何より嫌だ。──友達を失うのは、もう嫌だ。
　だから、戦う。
　これまで、戸惑いながら状況に流されてばかりだった中で、それだけを初めて明確に崇史は決めた。
　だが、それでも──
　崇史は思う。
　このまま戦って、どちらかが生き残って、その先に何があるのだろう。
　椿は自分を殺して、直刃を手に入れて、その先に何を求めるのだろう。
　戻るべき場所はもうないし、認めて欲しいと彼が願う父親もいない。結局自分達はどこまでも異端であり、世界は自分を認識してくれない。
　目的を果たして、欲しいものを手に入れて──その先のどこに、彼は居場所を求めるのだろう。
　そしてそれは崇史も同じことだ。椿と戦って、殺すなり説得するなりして、戦いを終えて、どこに自分の居場所を見出せばいいのだろう。
　柿崎崇史はもういないし、式崇史として帰る予定にされていた村も、もうない。場所はあっても、人がいない。
　──なら、自分は、いっそのこと。
　直刃の横顔を見る。安らかで、無邪気な、少女の横顔。
　──この少女の願いを、叶えてあげるべきなのだろうか。
　その、彼女にはありえないはずの人間の感情としてはひどく当然で、それ故に残酷で凄惨で悲しくて哀しくて、彼女の全てを自ら奪い尽くしてしまうような、そんな非道い願いを。
　この部屋の中で、もう何度目になるのだろう、崇史は深く息を吐き、目を閉じた。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　案の定昼に目を覚ました。
　身体は好調。食事を終え、崇史はまた屋上に上がる。
　刀を抜いた。

　部屋に戻っても、直刃はまだ起きていなかった。
　適当に時間を潰す。本を読みながらテレビを見たりとしていると、いつの間にか日も暮れ七時を過ぎていた。直刃は起きる気配を見せない。
　更に二時間が経過して────直刃が目を覚ました。
「おはよう」
　起き上がった直刃に、笑顔で挨拶する。
「……申し訳ない。寝過ぎてしまったようだ」
「別にいいさ。取り立てて何かあったわけでもない」
　言いながら崇史は立ち上がり、コートを着込んだ。直刃も直刃でベッドから起き上がり、外され転がっていた鎧を手早く装着し始める。
「それで、病み上がりのところ悪いんだけどさ──出るよ」
「ああ──あの方も、存外に気が早い」
　二本の剣を腰に下げ、直刃は厳しい表情で窓の外を睨みつけた。崇史は手早くスポーツバッグの中に必要最低限のものを詰め込み、肩に吊るした。
「今まで待ってくれたんだ。気は長い方じゃないかな」
「……そうかもしれぬ──な！」
　破砕音。
　二人がその場を飛び退くと同時に窓ガラスが破裂した。飛び込んでくる影は三つ。わざわざここまでよじ登ってきたのだろうか。そんなことを考えながら、崇史は部屋を出て狭い廊下を駆け抜けた。
　玄関で靴を突っかけるように履く。そうしている間にも窓から侵入した式神達は崇史に迫りつつあった。
「私が！」
　崇史と式神の間に割って入るように直刃が立ち塞がった。〝夜の騎士〟を抜刀し、両手で握って刀身に上を向かせ垂直に立てた。
「〝我は騎士我は鎧我は兜我は盾我は刃！　護りたらん剣たらん、我が主の武具たらん！　力よ来たれ我が腕かいなの内、立ち塞がりし障害を、主の敵を打ち滅ぼし打ち砕き殲滅せんがためのみに〟！」
　ともすれば聞き取れないほどの速さで、直刃は異国の呪文を口にした。それに呼応するように〝夜の騎士〟の鍔元の碧玉が緑の光輝を放つ。淡くしかし圧縮されたような存在感を放つ光は刀身の溝、そこに彫り込まれたルーンを駆け上り刀身全体を包み込んだ。
「〝護りの《大鹿エオロー》〟！」
　厳然とその声を響かせて、直刃は床板に対して垂直に切っ先を突き立てた。
　がばん、と式神達の目前で床板が跳ね上がる。屹立した床板は壁のように敵の行く手を阻む。式神達の足が止まる一瞬をついて、外に飛び出た。
　エレベーターか、階段か──そんなことを迷う暇もない。出ると丁度エレベーターの扉が開くところで、全部開くのを待たずに中に搭載されていた影が飛び出してくる。
「主殿！」
　直刃が何かを投げた。右手で受け取ったそれは、彼女が隠し持つ苦無の一本。
「ここは狭すぎて刀は使い難い！　主殿はそれを使って階段へ！　私は、この者達を片付けてから追う！」
　自身も背中のナイフを抜き放ちながら、直刃は言う。
「了解！」
　力強く頷いて崇史は階段に向かう。部屋はそもそも非常階段の横だったから、すぐそこだった。二段飛ばしで階段を駆け下りる。
　一階分下りたところで、影。虚ろな瞳をした男が駆け上がりつつナイフを突き出してきた。崇史は構わず突っ込み、中空で突き出した腕を踏んで男の頭を飛び越える。九階と八階の間の狭い踊り場に着地し、立ち上がり様振り向いた男の胸に苦無を走らせた。倒れるのも確認せずまた階段を下りる。
　八階で再度遭遇する。二人。丁度階段を下りきって、折り返し地点での出会い頭だった。振り下ろされる鉄パイプ。その狭い脇をすり抜け、すれ違い様に苦無を翻した。一人目の後ろに隠れていた二人目の足を払い、仰向けに倒れようとしたところで同じように胸の表面を裂く。
　終わったら救急車呼んどかないとな、と考えつつ階段を下りて、八階と七階の踊り場。そこで四人目の敵と対面し、ふとその顔が眼に入って、
　──ああ。
　ショートボブに揃えた髪は同じ。けれど、かつて見た闊達な面影はなく、表情はただ虚ろで、右手に、似合わない大きな彫刻用のナイフを握っている少女。
　──何で、こんな、仕打ちを。
　心の中で茫洋と発した呟き、それは誰に対しての言葉なのだろう。
　椿か、神か、それともこんなことを許した世界そのものにか。──さぁ、どれだろう。
　けれど、今の彼女は、行く手を遮る敵でしかないから。
　分からないまま、ひどく無表情に、刃に乗せて崇史は呟いた。
「久し振り、直子」
　ひゅぱっ、と苦無の切っ先が、かつての友人、楠木直子の胸を切り裂く。符が断ち切られ、焼失し、繰り糸を失った直子はゆっくりと後ろに倒れていく。その姿を全て見届けることなく、
「──あ、」
　崇史の足は地を離れた。
「うわわわわわ！」
　唐突な無重力感覚に、流石に崇史は慌てた。
「口を閉ざされよ。舌を噛む！」
　空気の摩擦に紛れて聞こえる声は直刃のものだ。崇史の襟首を掴んで、彼女は踊り場から空中に跳んでいた。
　七階分の高さから自由落下しながら、直刃は右手だけで〝夜の騎士〟を抜いた。
「〝貫き砕け、《針ソーン》〟！」
　叫びに呼応し剣が光を纏う。明らかな鋭気。直刃はその柄を強く握り締め、全力でそれを投擲した。きゅん、と鋭い擦過音を発して空間を突き抜ける様は針の如く。
　違わず、〝夜の騎士〟は遥か足下に植えられた常緑樹の幹に突き刺さり──否、突き砕き、貫通した。根元をごっそり奪われた樹木は、軋むこともなくあっさり倒れた。
　二人の軌道は、一直線にその木に向かっている。落ちている。
　気づき、護らなきゃ、と思う前に──小さな身体が、崇史を背中から抱き締めていた。
　──衝撃。
　連続して枝が折れる音が聞こえた。充分に生い茂った枝葉は、どうにか二人の身体を受け止めていた。
　はっとし、崇史は身体を戒めている腕を振り解いて飛び上がった。
「直刃！」
　自分の下敷きになった少女の名を呼ぶ。
　折れた枝葉を纏わりつかせながら、直刃は起き上がる。近くに落ちていた〝夜の騎士〟を拾い、立ち上がろうとして──膝から崩れ落ちた。
「……む」
　再度試みて何とか立ち上がるが、彼女の右膝はがくがくと震えていて、また今にもくず折れそうだった。
　見れば、鎧の隙間から見える右肩の包帯からは、じわりと新たに赤いものが染み出してきており、左腕は力なく垂れ下がっている。
「直刃……」
「主殿、怪我は」
　不安げな声には反応せず、直刃は崇史の身を案じた。
「いや、俺は大丈夫だけど、直刃は」
「左腕が動かぬ。外れてはなさそうだがな。右脚もおかしくなっているようだが、ご心配なされずとも良い。あの程度の相手なら、右手一本であしらえる」
　平然と言って、真っ直ぐに剣を振り下ろした。太刀筋には一分の揺らぎもない。
　──とん、と掌で軽く、崇史は直刃の背を押した。それだけで、彼女の膝は再び折れた。
「……何をなされる」
　向けられる抗議の視線を無視し、少女の手から剣をもぎ取り、それを納めさせた。
「まったく……そんな身体で戦おうってのか、君は」
　心底呆れたように、溜息をついてみせる。
「本当は右腕もやばいんだろ。傷、開いてる」
「例え戦えずとも、」
　それでも立ち上がり、真っ直ぐと己が主を見つめて言う。
「私はあなたの騎士、あなたの剣。今はあなたが安全に逃げるための道を作るのが、私の役目だ。──重ねて申し上げるが、心配は無用だ。だから」
　逃げられよ、と言う前に、直刃の足は地面から浮いていた。
「──何をなされる」
　先程と同じ台詞を、幾分抗議の色を強めて言うが、崇史はそっぽを向いて、全く聞いていない風情である。
　直刃の身体は、崇史に抱きかかえられていた。手で崇史の胸を押して降りようとするが、ただでさえ満足に両腕が動かないのに、この体勢では力が入らない。それでも押し退けようとする直刃を無視して、崇史はある方向を凝視していた。
　瞳は既に紫苑に変じている。その瞳でして、崇史は魔の位置を探っていた。
「……もう降りて来たか」
　舌打ちして踵を返し、全速力でマンションの敷地を駆け抜ける。
　正直、自分より小柄とはいえ鎧を着込んだ直刃を抱えて走るのは、割と辛かった。直刃に庇われたとはいえ崇史が無傷だったかと言えばそういうわけでもなく、全身所々に打ち身と擦り傷がある。
　少しでも気を抜けば転びそうだったが、そこは意地と根性でカバーする。倒れれば勿論直刃も地面に転がってしまうことになるし、何となく、そんな情けない姿は見せられない。
　少し走ったところで、崇史はマンションを振り返った。暗い夜の闇の中で聳え立つその建造物に、自分が斬った直子が倒れている。それを思い返して、少し胸が痛くなった。
　視線を戻し、また走る。
「降ろされよ、主殿」
「怪我人は黙ってろっての」
　足を止めることなく返す。
「しかし、私は──」
「黙れって。……それにな、直刃」
　諭すような口調で。
「君は、俺の剣であると言った。そして剣士は自分の剣を捨てない。
　いい？　直刃。いくら俺を護ろうと思っても、自分で自分を折るような真似はしないでくれ。というか、俺がさせないから。そんなこと」
　しばし、直刃は何も言わなかった。もう胸を押し返そうともしない。
　ただ、一言。
「……了解した」
　肯定の返事に、崇史は頷いた。
「一つ命令するよ、直刃」
「何なりと」
「無茶はしないこと」
「────」
　返事は、ない。
　おや、と思って顔を覗き込むと、そこには相変わらずの無表情があって、しかしどこか答えに窮しているような気配があった。
「どうした？」
　問うても、しばらく返事はなかった。
「……無茶とは、どのようなことを指す？」
「は？」
　思わず間抜けな声で問い返す。思わず通りがかった猫を踏んづけそうになり、慌ててよけた。
「無茶という言葉の意味は分かる。だが、私は主殿のためであるならどのようなことであろうと身を賭して遂行する覚悟がある。──主殿は私に無茶をするなと仰せられた。ならば、私のこれまでの行動のどこかしらに無茶があったということなのだろう。
　しかし私にとって、主殿のための行動に、無茶というものはない。故に、するなと命じられようと、何をしなければ良いのか、それが分からぬ」
「うーん……」
　唸りながら、ビルの間に入り、商店街へのルートを取る。
「……とりあえず、七階分の高さから飛び降りて自分の身体下敷きにして俺を護るってのは、無茶だ」
「無茶か」
「無茶だね。……っと」
　道に倒れていたポリバケツを飛び越え、崇史は少し、何かを考えるように沈黙した。
「──うん、さっきの命令、撤回。
　代わりに一つ。無茶してもいいから、その時はちゃんと俺を頼ること」
「……それでは、私の騎士としての意味がなくなる」
「違う」
　首を振る。
「直刃が騎士であることを否定する気はないよ。けど、騎士と主君ってのはそこに信頼関係がないと成り立たないだろ？」
「無論。私が主殿を疑うことなど、ありえない」
「それは分かってる。それに、俺も直刃を信じてるし。──だから、信頼してくれているんなら、全部一人で抱え込まないで、たまには俺を頼って欲しいと思うわけだ」
　直刃は何も言わない。崇史は続ける。
「まぁ、なるべく直刃に無茶をさせないよう、俺も頑張るよ。もうちょっと、強くなりたい。自分が助かっても、そのせいで誰かさんが怪我するってのは、嫌だし。嬉しくないよ、そんなのは。
　……そうだな、もうちょっと、直刃には自分の身を大切にして欲しい。──うん、君が俺を護るってんなら、俺もできる限り君を護るよ」
　恥ずかしい台詞だな、と苦笑しながら続けた。
　そのまま、両者は互いに無言。崇史は直刃の顔を盗み見るが、顔を俯かせているため表情は知れない。照れているのか、とありえそうもないことを考えてみた。
　追っ手の気配がないことを確認して、崇史は速度を緩めた。流石にそろそろ、人一人（プラス剣三本と鎧と荷物）を抱えて走るには、いささか辛くなってきた。
「──どうして」
　声が聞こえた気がして、崇史は直刃を見、耳を澄ませる。
「どうして、あなたは、そうやって」
　虫の羽音のようにか細い声は、
「待って！」
　路地から踊り出た影の声に遮られた。

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