Iron maiden, Blade maiden.

ⅱ．　月下氷刃／Iron maiden, Blade maiden.

　魂たま込め、心散ろうとも、血を塗り、骨で打ちて。
　ただただ鍛え上げられし、一振りの白刃。
　そう在ることだけを求められ続け、
　そう在ることでしか求められなかった。

　だから、私は、刃と成り得た。

　　　　　　　　　　　　　　　§

　兎角人間とは人間が思う以上に現金で現実的で順応性の高い生き物である。
　昨日の敵は今日の友であり、住めば都であり、習うより慣れろだったり、好きこそものの上手なれで──いやそれは違うか。
　ビルの谷間に沈み行く夕日を眺めながら、ぼんやりと崇史はそんなことを思った。
　哀しみのあまり三日三晩泣き腫らすというのもまた無理な話で。現実は一晩眠ってしまえば、翌朝は哀しくとも泣くほどではない。そう考え、事実そうであった自分は冷静なのか冷淡なのか──さて。
　あの夜──自分が自分でないと知らされた夜は、あのまま泣き疲れて眠ってしまったらしく、起きたらこの部屋だった。眼は泣き腫らして赤かったが、もう涙を流してはいなかった。
　することもなかったので部屋を出て街を歩いたが、その間中ずっと頭が痛かった。何度か高校の友人を見つけたりもしたが、誰一人として、すぐ近くをすれ違った崇史に声をかける者はなかった。──ああ、本当に自分は排斥されてしまったらしい。
　そして一月十七日、『式崇史』になってから四日目の夕方。

「失礼仕る。主殿」
　慇懃に膝をついて、少女は斜陽の射し込む部屋に一礼した。
「どうぞ」
　開いたままの小説──水城から借りたまま返していないものだ──を閉じ、少女を迎える。
　全身を金属の鎧で包んでいるにも関わらず、音もなく少女が部屋に入る。手にはいくつかの皿の乗った盆。それをテーブルの上に置く様を、崇史はぼんやりと眺めていた。
　──ここ数日、少女は崇史の側に居続けた。何をするでもなく何を言うでもなく、常に付かず離れず崇史の側にいた。崇史が彼女を呼ぶことはなかったが、呼べばすぐにでも駆けつけられる位置。
　少女の名は、直刃すぐはといった。
　言葉を交わしたのは数えるほどしかない。一度目は、直刃と呼んで下さればいい、と少女が言い、困った時はいつでも呼ぶように、と続けた。
　──否、言葉を交わしたことにはならないだろう。それに対し崇史は小さく頷いただけだったし、その他も軽い挨拶か相槌ばかり。初めてこの部屋で崇史が眼を覚ました時は色々と言っていたが──それ以降、崇史はまともに彼女の声を聞いていない。せいぜい、今のように部屋に入る際の挨拶ぐらいのものだ。
　或いはそれは気を遣っていてくれたのだろうか。
　だったら少し嬉しいな。崇史はそんなことを考えていた。そう思えるだけの余裕も戻っていた。
「如何なされた」
　視線に気づいてか、直刃が顔を上げ、崇史の眼を覗き込んだ。
「いや、何でもない」
　慌てて眼を逸らす。そうか、と直刃はそれ以上問うこともなく、入ってきた時とやはり同じ様に慇懃に礼をし、部屋を出た。崇史は彼女の姿を見届け、ドアが閉まるのを待ってから、ベッドから下りて夕食を取り掛かった。
　二十分後、丁度崇史が食べ終わった頃に、直刃は再び部屋を訪れた。食器を片付け、出て行こうとする背中を、
「あ……ちょっと」
　呼び止めようとはしたものの、彼女の名前をまだ呼び慣れていなかったせいか、やけに曖昧で小さな声で崇史は引き止めた。
「何か」
　それでも律儀に直刃は振り返った。かちゃ、とその時初めて、食器が音を鳴らした。
　全てを見通すかのような蒼い瞳が、崇史を射抜く。思わず、そのまっすぐ過ぎる視線から眼を逸らそうとして、崇史はそれを全力で押し留めた。
　ばれないように、小さく深呼吸してから。
「その、さ」
　意を決して、言葉を紡ぐ。
「そろそろ──教えてくれないかな。色々と」
　聞こえているのかいないのか、崇史が喋る前と変わらずその場に立ち尽くし──ふ、と短く眼を伏せた。
「その言葉をお待ちしていた」
　そう言って、直刃は食器を脇に置き、テーブルを挟んで崇史を向かい合って座る。右に二本の剣を揃え、姿勢は予想通り正座。ぴんと背筋を伸ばし、手を軽く握って膝の上に乗せる様は、正しい座り方のお手本として完全に通用するだろう。
「どのような話を望まれる、主殿」
「とりあえず全部、かな。今に至るまでの事情。……できれば、そもそも俺が何なのかってことを中心に据えて。
　何だかさ、ここ数日で色々思い出しかけてるような気がするんだけど、どうにもまとまらないから」
　──『柿崎崇史』が『式崇史』になって、四日。
　その間に崇史は、自分の記憶の中にふと見知らぬものが混ざっていることに気づいた。見たこともない景色や、聞いたこともない声が、断片として散らばっている。ただしそれらはあまりにもばらばらで、どれが何で何がどうなのか、さっぱり分からない。
「承知した。……長くなるが、よろしいか？」
　崇史は首肯する。直刃も頷き返し、眼を細めて語り出した。
「話を始める前に──主殿、あなたは『術』や『呪詛』といったものの存在を肯定なさるか？」
「術？」
「そう。魔術の『術』。魔術、魔法、法術、秘術、神仙術、術式、呪術、呪詛、祝福、ヒトの常識を超越した現象。そして、それらを操り、その源や原因とされる『力』。霊力、魔力、精神エネルギー。名前はそれぞれ数多あるが、とりあえずそういった概念を──あなたは信じなさるのか？」
「信じるも何も、なぁ」
　困ったような表情を浮かべて、崇史は頭を掻いた。
「信じてないと精神的に辛いんだよ。母さんが俺が息子だってことを忘れて、友達も俺に声かけることなくて……そんなの、何だかわけの分からない何かがあって、それのせいでこうなったと思ってなきゃ……正直、もたない」
　痛みを押し殺して紡いだような崇史の声に、騎士の少女は頓着することなく言った。
「ならば、それがそのような誤魔化しとしてではではなく、事実それがあると肝に銘じられよ。それだけでなく、人がこれまで思い浮かべてきた数多の怪異や怪奇、超常──空想上の産物とされてきたもののほとんどが、見えないだけで実在していることも。
　これからする話はそれを前提としている。質問にはその都度答える故、分からぬ所があればすぐに仰せられよ。──よろしいか」
　険しい表情で、崇史は頷く。それを確認して直刃は語り出した。
「まずは、刀自村という、一つの村の存在を知ってもらわねばならぬ──」
　──刀自村。その響きが、何故かとても懐かしく聞こえる。
　あなたと私の故郷だった村だ、と直刃は言った。
「刀自村というのは、ある深い山の奥にある──あった、小さな山村だ。人口三千足らず。北を森に、東を川に、南から西にかけては崖に囲まれた、一つの閉鎖空間と言えよう。村は戦国の世の頃、錬鉄と武具鍛冶の村として栄えたらしい。だがその昔、村に一つの転機が訪れた。
　人里離れた山林の、それも崖の近くにある刀自村は常に、土砂崩れや山賊などの害に悩まされ続けてきた。特に後者の被害は著しく、豊富な鉄資源と、それらを元にして得た資金が狙われた。鍛冶師も手に手に己の武器を取り応戦したが、向こうは武者崩れの者が多く、また村には女子供も多かった故、完全に応対するのは無理だったという。
　そして──ある時、ある鍛冶師の娘が、盗賊共に殺された」
　一気に、空気が重くなる。凄惨な内容がこの少女の無感情な声音で語られると、それはより一層の生々しさと現実味を帯びて聞こえる。
「鍛冶師は嘆き哀しんだ。そして一心に一振りの刀を打ち、自らそれを携え、盗賊の根城に乗り込み彼らを殺戮した後、自ら自害して果てたという。もっとも、御伽噺の域を出ぬ以上、どこまでが事実かは分からぬが」
「で、その御伽噺がどんな風に関係してくるんだ？」
「それはこれから。──その話の真偽はともかく、村には一つの『呪い』がかけられている。その呪いは、先の鍛冶師が死の間際にかけたものだ、と。
　……男の護りたかったものは何か。それは己の娘、ひいては自分と娘のいる村。男の壊したかったものは何か。それは村への害、つまりは自分から娘を奪った賊共──絶対的とも言える内部の守護と、外部の拒絶。男はそれを望み、死し、遺された想いは呪いとなって、村にある。
　──刀自村という世界は、その中で完結させられた」
　息を吸う。
「村には常に新鮮な水が湧き出、食物は実り、賊が来ることもなくなった。だが、村に人が訪れることはなくなり、また人が出て行くことも少なくなった。稀に人が迷い込むことはあっても、一度村の境界から出てしまえばその村の所在が分からなくなってしまう。村人が外に出て人に会っても、再び会った時その会った外の人間は村人と会ったことを覚えていない。
　そして肝要なのが、この呪いは村全体に、その村で生まれた、或いは長く村の中で長く時を過ごした人間を、謂わば『汚染』する。村の存在が外の人間に気づかれぬように、村で生まれ、育った者は、その存在を他人に認識されることがない。認識されても記憶に残ることはない。同じ『汚染者』を除いて。
　──もうお分かりになったろう、主殿」
「……つまり、俺もその『汚染者』になった──いや、戻ったってことか」
　呟くように言った崇史の言葉を、直刃は首肯する。
「刀自村とは、その中にいる者とはそういうものだ。一般社会との断絶、絶縁。始めからそれを運命付けられている。一人の男の強い妄執おもいがそうさせたのだ」
　そこで話を区切る。崇史も沈黙して続きを待つ。
「……兎角、刀自村とは呪われた村だった。
　刀自村は三つの家が治めていた。古来より、鍛冶の神、山の神への祈祷や供物等、村の神事の一切を取り仕切ってき巫かんなぎの血筋たる『訃叉ふさ』。先の鍛冶師の息子の血筋、つまり鍛冶師の直径の子孫である『太刀洗たちあらい』。そして──村が呪いに閉ざされる前は村を護る守護者として、閉ざされて以降は進んで村の外に出、外の社会の裏に身を置き、〝退魔〟を生業としてきた、あなたの血筋である、『式』──」
「──ああ、その辺、何だか分かる」
「思い出されたのか？」
　崇史は首を傾げる。
「何となくね。何だか、脳味噌の片隅に切れっ端が引っかかってる感じだ。──まぁ、それはそれとして……一つ訊きたいんだけど」
「何か」
「〝退魔〟の『魔』ってのは、具体的には何を指す？」
　──魔。
　元々は仏教において、教えに親しみ、修行に励むことを妨げる存在を指していた。内面に生ずる現象である煩悩魔、出来事である死魔など。それから転じて、害をなすものを明確化した悪魔、魔物といった架空の──先程の少女の口振りからするに実際にいるらしいが──存在。そして、邪念や負の感情そのものなどをも指す。
　それは蛇蠍の如く忌避されるべき、『害をなすもの』の総称。
「──『式』の祓う『魔』は、それほど明確なわけではない」
　一通り『魔』という概念についての説明をしてから、告げる。
「ただ言えるのは、それらが『ヒトに害をなす、ヒトの常識では理解できない存在』であること。ただの人間なら、人間で払えよう。だが、そうでないモノは、ソレ専門の対処法を身に付けたものでなければ祓えぬ」
　このまま、式家を中心に村のことをお話し致す。少女は言った。
「先程も申したが、村は度々賊の襲撃に晒されてきた。そしてその中には、ごく稀に、ただのヒトではないものもいた。時には魔術・呪術を行使する者がおり、時には、知性ある怪異そのものが、人に与していることもあったという。──獣同然の知性しか持たぬ魔物・妖怪の類ならまだ良い。所詮、知略を有する人には及ばぬ。されど、単一能としてではなく一つの『技術』として超常を操る者は、最も始末に負えぬ相手だった」
「だからそれに対抗するものとして、式家はあった、と？」
「そう。無論、式家の役目はそれに限ったことでなく、相手が人間であってもその力を以て戦いに身を投じた。
　村を護る刃にして盾。それが、式家の価値だ」
　しかし、と続ける。
「村が呪いに閉ざされてからは、式家は必要とされなくなった。斃すべき敵がいないのだから。そして、必要でないものが、それも、無駄に力ばかり持っているものがどうなるかは、決まり切っていよう。──即ち、排斥」
　──狡兎死して走狗烹らる、という言葉がある。獲物の兎が狩り尽くされてしまうと、それを捕らえるためにいた猟犬にその存在意義はない。そうなると後は煮て食われてしまうだけである、とそういう意味の言葉だ。
　この場合の式家は、まさにそれだったのだろう。
「とはいえ、式家は刀自村の中で、最も剣と術に優れた血筋だった。村の守護として式家が成り立った時より、一族に流れる血そのものに術がかけられており、幼少時から体躯に見合わぬ膂力を備えて生まれ落ちる。その上で日々鍛錬に励むのだ。訃叉、太刀洗、その両方の力を結集したとしても、末端はともかく、式家当主には触れることすら叶わなかったという。
　必然、村人達は式家に怯えて暮らす以外になかった。式家のほうは、そんな気など毛頭ないにも関わらず、な。……訃叉と太刀洗は良かった。前者は神主、後者は鍛冶師。戦がなくとも、まだ活躍はできた。結局は、式家のみが除け者扱いだったというわけだ。
　そのような状況が長く続いてか、おそらくは式家の者も嫌気が差してきたのであろう。先々代当主、式吾妻あずま。つまりは主殿の祖父に当たるお方が当主であられた時に、式家の者は村の『外』に道を見い出した」
「つまり、村を出たってこと？」
「否──とも言えぬか。式家は村の外のものを村の中に持ち込むことで、自らの居場所を得ようとした。戦士としての力を用いて。
　早い話が、村の外の、人間社会の裏にある退魔の組織に協力し、その報酬として外界の知識や技術、物品を手に入れ、それを村の中に持ち込んだと、そういうことだ」
「戦士として在れなくなったから、今度は別方面で村人の崇敬を受ける立場になろうとしたわけか……」
「そう。──折しも、村の中でも現体制に対する不満が上がり始めていた。何十年、何百年と、同じ、変化のない暮らしを続けていれば当然と言えよう。
　式家が外の知識を村の中に持ち込んでからというもの、村は急激な発展を見せた。とはいえ、知識ばかりが先行して、実質村の技術力は、つい最近ようやく三十年程度前のものになったばかりだった。──それでも戦国の世のままの暮らしだったのが、格段に進歩したのは事実だった。
　──が、おそらくはそれが原因で、あなたは今のような状況に陥った」
　思わず、崇史は身を乗り出しかけた。それは彼が最も知りたいことだ。
「つい先程、式家が退魔組織に与したと申し上げたが……主殿、そこにある矛盾に気づかれぬか？」
「矛盾？」
　問い返す崇史に、直刃は頷く。崇史はしばし黙考し──
「──あ」
　思い至る。
「──外に出たって、他人と関われないはずなんだ」
　そう──村の外の人間に自らの存在を記憶されない刀自村の人間は、決して村の外では人と関わり合うことなどできない。
　人と人との関わりとは、互いを認識することから始まる。それすらできないというのであれば、人と人との関係によって成り立つ、社会という枠組みの中に、存在できるはずもない。
「仰る通り、通常村人は村外の者とは交われぬ。故に、式家はまずそれを乗り越える方法を編み出した。
　──呪いの上に、呪詛を上書きする。毒を以て毒を制すの言葉通り、吾妻殿は『存在を記憶されない』という呪いに対して、その呪い自体を無効化する術をかけた。この場合は、『封印』と呼んだほうが正しいのだろうが」
　一息置いて、直刃は言う。
「……本来主殿は、式家の次期当主であらせられたのだが──九年前、ある事情により主殿は村を遠ざけられ、一般社会の中で暮らすことになった。無論、先述の呪いに加えて、主殿や周囲の人間への若干の記憶操作が行われたが……」
「……何で、俺は村から出されたんだ？」
「その辺の理由は知れぬ。私は教えてもらえなかった。予想がつかぬわけでもないが……確証はない」
　そう、と頷いて、先を促す。気になりはしたが、今は話を聞くことのほうが先決だ。
「そのようにして式家の人間はようやく、外の世界において『普通』であれるようになった。吾妻殿の代より退魔組織と関係を持った式家は、十年と経たずしてその名をそちら側の世界に轟かせることになる。どこから来たのか、何者であるのか、それら全てが謎に包まれた、畏怖と崇敬とその存在の有無の疑念を常に向けられ続けた、影の中の影とでも言うべき謎の一族として。
　しかし──他人と関わるということは、他人と情報を共有するということでもある」
　少しだけ、注意していなければ気づかぬほどわずかに、声が重みを増す。
「どこから情報が漏れたのかは不明だが──刀自村の存在が外部に知られてしまった。おそらくは、不届きな式家の者の誰かがうっかり口を滑らせてしまったか、或いは裏切ったか。ともあれ、これにより数百年もの長きに渡り迷い賀としてのみ存在し続けた刀自村は、ここで白日の下に晒されることとなってしまった。
　──いつの時代も、ヒトの考えることは同じなのであろうな。二ヶ月前、村はこれも数百年振りに賊の侵入を許してしまった」
「……目的は？」
「それは知れぬ。──が、予想はつく。
　刀自村は剣と呪いの村──故に、村には出回ることなき名刀の数々が保管されていた。賊めらが真っ先に、村の鍛冶の一切を取り仕切る太刀洗の屋敷を襲ったのもそれを狙ってのことと思われる。
　だがそれは、賊にとっても我々にとっても──無論、主殿にとっても最悪の結果しか残さなかった」
　話が逸れるが、と断って、直刃は太刀洗についての話を始めた。
「太刀洗の血筋には、代々ある特異な能力が受け継がれている。おそらくは呪いをかけた鍛冶師の直系であるからなのだろうが……彼らは、自らの触れたものを刀剣に変えてしまう。──無論、人間も含めて」
「…………」
　流石に、崇史も胡乱げな顔をする。
　確かに、これまでの話を聞く限り、実際に妖怪変化の類だとかそういったものが存在し、それに対抗するものとして式家──ひいては退魔の役を背負う者がいたというのは分かる。──が、それでも流石に、触れただけで物質をまったく別の性質と形状を持つものに変えてしまうというのは、にわかには信じ難かった。
「──ミダースという名を、知っておられるか？」
　唐突に、少女は尋ねた。
「妖精に、財宝と引き換えに触れたもの全てを黄金に変えるという力を得た王の話。どこかの御伽噺だったと思うが……」
「──ああ」
　その話は、崇史も知っていた。確か、童話の本か何かで読んだはずだ。
　物語の最後でミダース王は、愛娘に手を触れてしまい、彼女を物言わぬ金の彫像にしてしまったという。物欲のあまり本当に大切なものを失ってしまうという教訓の話なのだろうが──崇史には、この話がとても哀しく思えた。
　人は愚かな王を嘲るのだろうか。少なくとも崇史は、王の哀しみや後悔を思うと、とても彼を嘲笑などできない。
　ずっと前、水城と桜路と、三人で話していた時、そのことを言ったら、桜路に「甘い」だの「馬鹿」だの言われ、ついで水城に「だから僕達は君が好きなんだけどね」と笑って言われた。──今となっては、これも懐かしい思い出である。
「太刀洗の能力はそういったものと思ってもらっても差し支えはなかろう。よろしいか？」
　そんな崇史の懐古を知る由もなく、少女は同意を求める。
「ん。続けて」
「──賊は太刀洗の家を襲撃したが、その時、現太刀洗家当主であられる沙耶殿を襲った」
「沙耶……か」
　それも、記憶の片隅にある名だ。
　それが全ての原因であると、直刃は言う。
「……生来、沙耶殿はその太刀洗の能力が、異常にお強くあられた。
　生まれた直後、その産声で、自らを生んだ母、梨歌殿と、その場に立ち会った父親にして、当時の太刀洗家当主であった瀬月殿、彼女を取り上げた祖母のま真ぶち淵殿、その他、立ち会った一族の皆、そして従者の全てを、それぞれ剣に変えてしまわれた。唯一一族の中で助かったのは、たまたまその時家の外に出ていた祖父の仲道殿だけ。他は皆、ヒトではなくなってしまわれた。
　以後は、仲道殿が親代わりとなり、沙耶殿の力が暴走せぬよう封印を施した上で育てられた。──幾度か、式家の屋敷を訪れておられる故、主殿もお会いなされたことがあると思うが」
「……どんな子？」
　記憶の欠片が寄り集まってくる。だが、まだ後幾つか足りない。
「艶やかな光沢を放つ鉄のような漆黒の髪に、融けた鉄のように鮮やかで美しい、朱色の瞳──これは太刀洗の血を濃く引く者に遺伝する髪と瞳の色であるが、その中でも特に、沙耶殿の色は、私がそれまで眼にしてきた如何なる太刀洗の者の色よりも、美しくあらせられた」
　かちり、とピースが嵌まる。
「──あの子か」
　今崇史の頭の中では、沙耶という単語と、黒髪朱眼の少女の画像が結びついた。そう、確かに、その少女の名は沙耶と言った。あの綺麗な髪の色だけは、とても鮮明に思い出せる。子供の頃、会った時は一緒にいた老爺──おそらくその人が仲道なのだろう──の陰に隠れていて、まともに言葉を交わしたのは数えるほどしかなかったように思う。老爺の服の裾を握る手は、いつも──
「──包帯を巻いてたよね、腕に。変な模様の入った」
　思い出したことをぽつりと言う。
「そう。それが仲道殿が沙耶殿に架した封印。その強大すぎる太刀洗の能力を封じるための、な。
　しかし、おそらくは、賊に襲われた時にそれが外れてしまったのだろう。封印といえどもいざという時すぐ外せるように、包帯に呪紋を書き込み、それで腕全体を覆っただけの代物。少し乱暴されればすぐに解けてしまうようなものだった。結果として、それは最悪の方向に傾いてしまったのだが。……皮肉にも」
　確かに、それは皮肉と言うよりない。仲道が、沙耶に危険が迫った時のためにと、わざと緩めておいた封印が、よもや自らはおろか、村全体を終わらせてしまう結果になるというのは。
「……それで、どうなった？」
「封印を解かれた沙耶殿の力は暴走し、賊を含む村の住人全てを剣に変えた。……私は、その時はたまたま眼を覚まして、式家の庭で修練に勤しんでいた故逃げることができたが、その他の者は皆、間に合わなかった。我が師父にして、あなたのお父上であられる、式巽を含めて」
　沈黙。
「……それは、俺の本当の親父が死んだ、ってことか？」
「剣になった者は、最早ただの物。そこに生命活動はない」
　直刃は断言する。
「死んだ、ね」
　右手で顔を抑える。涙は出ない。知らされた事実は何の現実感も伴わないものであったし、それ以前にその本当の父のことなど、ほとんど覚えていない。ただ、巽の顔と思われる画像の断片が記憶の中に散らばっている。
　あるのは、言いようのない喪失感ばかり。
「──続けて」
　崇史は先を促す。
「──私はそのまま村を出、数日を森の中で過ごした。その間ずっと、村は紅い霧に包まれていた。おそらくそれは、沙耶殿の力が目に見える形で具現化したものと思われる。
　紅い霧が消えて村に入れば──そこには人間の姿はなく、ただ家々の寝床の中に、剣が横たわっていた。太刀洗の屋敷の、沙耶殿の寝室と思われるところにも何本か転がっていたが、あれは侵入者達であろうな。
　……だが、刀は私を除いて、村人の総数から三人分足りなかった。能力を撒き散らした本人である沙耶殿の姿は、村の中にはなかった。自らの能力で自らを損なうなど在り得ぬ故、おそらくは村を抜け出して、どこかを彷徨っているだろう。沙耶殿のものと思しき足跡も確認した。
　そして、師父も──いや、師父が変化した刀剣も、なかった」
「じゃあ──」
「否」
　まだ何も言っていないのに、先を制するかの如く鋭い声が発された。
「村の周囲の足跡は、沙耶殿と私の他にはもう一つしかなかった。その足跡も師父のものではない。足跡の主が、師父を背負っていったとも考えられなくもないが、それにしては足跡が浅かった。私とて、たまたま気づいたから逃げ出せたようなもの。ご就寝召されていた師父には、やはり逃げ出すのは無理だったように思われる」
「……そう」
　脱力して、崇史は肩を落とす。淡い期待は、やはり淡い期待だった。すぐに消えてしまう。
「……君は哀しくないの？」
「何が？」
「その……式巽が死んで。一応、君の師匠だったわけだろ？」
　巽、と崇史は呼んだ。崇史にとっての父は柿崎淳二であって、式巽ではない。会ったことのない──正しくは覚えてもいない──人間を、いきなり父と呼べるわけもなかった。
　それでも、空虚感だけはある。
「──私は騎士。騎士とは主に仕え、主を護り、主の刃として、主の盾として、主の側に在り続ける者。故に私は、主殿の抱くような哀しみを、元より持ち合わせぬ。──少なくとも、私はそう育てられてきた」
　それが当然であるかの如く、彼女は言う。
「……そうか」
　短く答えた崇史は、内心穏やかではなかった。何故か無性に腹が立っている。
　それは、目の前の少女が父の死を何とも思っていないという、半ば八つ当たりの感情なのか、自分の師の死を哀しんでいない少女に苛立っているのか、それとも、少女をそんな無感情な人間に育てた何かが憎いのか──それは分からなかった。
　頭を振る。思考が嫌な方向に向かっていくのを止める。
「……そう言えば、この前俺がここで眼を覚ました時言ってたよな。騎士としての忠誠をどうとかこうとか、って」
　話題を逸らす。
「確かに言っていたが」
　無表情に直刃は受け答えする。
「その、騎士ってのは、何」
「……今しがた、言ったと思うが？」
「いやそうじゃなくて。何で、君が俺の騎士なのか、って」
「ああ──成程。ならば、説明させて頂く。
　式家には、代々続く一つのしきたりがある。式家の直系の血筋であられる方々には、幼少時より護衛の者がつく。幼き頃より付かず離れずお側に控え、己の全てを投げ打って主君を護るもの──それが『騎士』。
　そして、一番最初の問い、『あなたが何であるのか』にお答えするならば、あなたは、騎士たる私がお仕えする主君であり、崩御なされた式巽殿よりその代を継ぎし、現式家当主──式、崇史」
「……で、俺の騎士が君だと？」
「そういうことになる」
　頷き、少し間を置いて、
「……見たところ、私が名乗るまで、主殿は私の名前を思い出せずにいたようだが」
　そう言った。う、と詰まる。ばつが悪そうに頭を掻き、
「いやまぁ、その……ごめん。
　いやでも全く覚えてなかったってわけじゃないぞ。昔の君の容姿とかも断片としてだけど思い出せるし」
　必死に弁解するが、名前を思い出せていなかったことは事実だ。
「お気に召されるな。師父が施した記憶の封印は強力だった故、それが師父の死により間違った形で解けたとあらば、致し方あるまい」
　少しも気にした気配はなく、寧ろ直刃は崇史を庇うように答えた。──崇史としては、逆に萎縮してしまう。
「ともあれ──思い出されたのであれば、それでいい。できれば、今後とも、お忘れなきよう──」
　そう言って、三つ指を付いて土下座する。
「あ、いやそんなのはいいから、頭上げて」
　思わず崇史は慌てる。人に頭を下げられるのには、慣れていない。
　直刃は素直に従い、頭を上げた。
「──では、改めて忠誠を誓わせて頂きたい。よろしいか」
「ああ……うん」
　訳も分からないままに頷く。直刃はそれに小さく頷き返し、居住まいを正したかと思うと、左膝を立て、左手をその上に乗せ、右手は拳を握り床に落とすような姿勢で、深く頭を下げた。史実映画などで見る、騎士の誓いの姿勢。
「我が名は直刃。主君たる、式崇史の騎士。
　貴方の鎧。貴方の盾。貴方の兜。貴方の刃。
　この身を以て護りとなりて、貴方に注ぐ厄の全てを薙ぐ鋼。
　大地割れ、蒼海裂け、万星落つるとも、貴殿を主と為し、命を奉じ、果て無き道の傍らに在らん──」
　半分顔を上げ、やや上目遣いにこちらを見てくる。返事を待っているのだろう。その真摯な視線に気圧される。
　自分は、どう答えるべきなのだろう。ふとそんな疑問が浮かぶが、その答えはすぐに出た。──多分、最初から決まっていた。
　覚えているばらばらの記憶の中でも、初めて出会った時も同じような言葉を交わして、自分はそれを承諾して、少女はいつも自分の傍らにいて、
「うん……その、よろしくお願いします」
　頭を下げる。
　──いつも傍らにいて、そしていつも自分を見守っていてくれたように思う。
　記憶は相変わらず曖昧で、繋がりを持たないものばかりだけれど、多分それだけは紛れもない事実。
　或いは、ただ支えになる何かが欲しかっただけなのかもしれないけれど、それでも。
「面を上げられよ、主殿。あなたが、臣下たる私に頭を下げられる必要などない」
　正座に座り直して、直刃。
「いや、俺がやりたかっただけだから。……それに、ありがとう、って思ったし」
「……主殿が私に感謝される必要はないと思うが」
「まぁ、そうなんだろうけどね」
　苦笑する。
「ただ、さ。やっぱり、自分がこう・・なってからは、色々と不安で堪らなかったから。隣に君がいてくれた分、助かった」
　本心から言う。
「ヒトってのは、自分以外の何かに寄りかかって生きる生き物だと思う。それが信念であれ金銭であれ大切な誰かであれ、ヒトは何かに背をもたれて、或いは他の誰かの支えとなって生きている。そう思う」
　だからこそ、それを一度に全て剥ぎ取られた人間は──とても脆く、弱い。そして、それは四日前の崇史そのものだった。
「何て言ったらいいのかな、最初から寄りかかるものがないのならそれはそれでいい。自分自身に寄りかかればいいだけの話だから。けれど、それまであった支えを、手の届かないところに置かれてしまったら、そうはいかない……と思う。寄りかかろうとしても寄りかからせてもらえないんだから。
　だから、その支えをなくした俺の側に、直刃がいてくれたことは、とても嬉しかったんだ、と思う。ただそこにいてくれて、俺のことをちゃんと認識してくれて。それだけで充分だった。──一人じゃきっと、耐えられなかったよ。
　だから──ありがとう」
　言いたいことを全部言って、崇史は笑う。
　直刃はと言えば、しばらくきょとんと──というよりやはり無表情に崇史を見ていたが、
「主殿がそう仰られるのなら──私にとっては、幸い、これに勝ることはない」
　分かっているのかいないのか、恭しく深々と、頭を下げた。崇史はそれをやめさせようとして、無駄と悟る。堂々巡りになってしまう。
　やがて少女は立ち上がり、傍らに置いていた二振りの剣を再び腰に差し、食器を持って部屋を出ようとする。ドアの前まで来たところで、
「主殿、私は片付けを終えたら少しばかりここを空けるが、おそらく帰りは遅くなる。先にお休みになられていて構わぬ。風呂はもう湯を張っているから入られるといい。
　一応、この部屋には全体に結界を施してはいるが、それでも万全とは言えぬ。いつ、敵があなたを狙って襲撃してくるとも限らぬ故、危険を察知したらばすぐにここを離れられよ。よろしいか」
　崇史が頷くのを確認してから、直刃は出て行こうとする。
「あ、待って」
　崇史が呼び止める。直刃は足を止め、振り返った。
「最後に一つ、いや二つか。訊いていいかな」
「何なりと」
「一つは、刀自村の最後の生き残り。もう一つ足跡があったって言ってたよな。それは誰？
　もう一つは、この前、俺の命を狙ってる奴がいる、って」
「申し上げた」
　直刃は首肯した。
「それも誰なのか、知っていたら教えてくれないかな」
　思案するでもなく、ただ無表情に沈黙してから、
「……主殿の、その問いに対する解は、ただの一つで事足りる」
　少女は告げる。
「刀自村の最後の生き残りこそは、あなたの敵。
　名は、式椿。──式家前当主式巽の側室の子であり、主殿、あなたの異母弟であられる方だ」

　　　　　　　　　　　　　　　§

　彼女が歩いても、床板は軋まない。
　音もなく滑るように、彼女は短い廊下を歩く。
　午前零時過ぎ、一通りの巡回を終えて、直刃は主の眠るマンションの一室に戻った。
　──今夜も、さして意味はなかった。
　心中で独りごちる。今夜の巡回も、徒労に終わった。
　主──崇史をここに招きいれて数日、毎夜毎夜、式椿を探して夜の街を練り歩いていたが、ついぞ彼は見つからなかった。
　まだ相手はこちらの位置が特定できていないのか。即座に否定。それはない。
　刀自村が壊滅して既に二月。椿とて、崇史がおらねば式家当主を継ぐ身分ではある。決して馬鹿ではないし、実力がないはずもなかった。その椿が、こちらの動向に気づかぬはずはないのだ。
　──意図的に見逃している。
　確信する。その理由は分からないが、いっそそれはどうでもいい。重要なのはその事実のみだ。
　廊下を渡り切り、脱衣所に入る。
　ただし脱ぐのは衣類ではなく、彼女の身を包んでいる鈍く光る金属の鎧だ。特殊な精錬方法で鍛え上げられた金属を用いた、太刀洗仲道による専用品オーダーメイド。毎年、伸びる背丈に合わせて調整してもらっていたが、その仲道ももういない。とはいえ、身長の伸びはもうほとんど止まっているからその必要もないのだが。
　手袋状になっている篭手、上腕部の装甲、肩、脚甲と順に外し、脇の下と肩で身体を締め付けているベルトを緩め、上半身の鎧を剥ぐ。内側には全面に、奇妙な文様が刻み込んである。『強度を増す』及び『軽量化』という目的の下に編まれた〝呪紋〟である。これにより、直刃自身が感じる鎧の重みは、実際の五分の一にも満たない。──無論、その代償として装着者の魔力を消費し続ける。
　そもそも仲道の、否、太刀洗家の打ち続けてきた武具類は、使う人間を選ぶ。刀であれば凄まじい切れ味を誇り、鎧であれば硬く軽くある代わりに、それを携え纏う者の『力』を喰い続けるのだ。故にあらかじめその容量キャパシティが大きな者でなければ、身に付けているだけで倒れ、終いには衰弱死しかねない。
　──故に、式家の者の護りたる騎士は、赤子の段階で選定される。
　ただし、直刃の場合は少々事情が違っていて、とある事情から式家に預けられたのだそうだ。そう聞いている。
　それでも、彼女は規定値に足るどころか、それを超過する能力を持って生まれていた。なればこそ彼女は鎧を身に纏い、剣を二本携え、扱うことができる。騎士とは、つまりそういう要素を求められる人間だった。
　腰の後ろには、ベルトに通した鞘に入った８インチサバイバルナイフ。それを外し、腰回りから太腿までを覆っていた垂も剥がし、最後にその下の蒼いスカートを脱ぐ。これも単なる布切れではなく、内側には網目状に鋼の糸が縫い付けられている。翻せば、粗悪な銃の弾丸程度なら弾き返せる代物だ。
　太腿には光沢を消した鉄製の細長い菱形に、小さな柄と環を取り付けた小さな投剣──所謂、苦無くないと呼ばれるものが数本差されたベルトが巻きついている。それも外し、上半身、鎧の下に着ていた、黒く長袖で首まで覆う薄手のシャツも脱ぐ。
　下半身は単衣が一枚だが、上半身は、胸から腰までさらしで覆われている。それも手際良く解き、下着も脱ぎ、直刃は一糸纏わぬ姿になった。
　鎧の下の肢体は、存外に細い。しかしそれは痩せているからではなく、鍛えられ引き絞られた戦士の身体だ。腕と脚には、螺旋状に鎧の裏側と同じ様な紋様が彫られている。いくら鍛えているとは言え少女の身体では限界がある。それを補うための呪紋だ。血のような紅で描かれた紋様は、少女の白い肌の上にあって、ひどく官能的な雰囲気を醸し出していた。
　壁に立てかけていた二本の剣のうち、西洋剣のほうだけを手に携え、浴室に入る。身の安全のため、最低でも一本は常に身から離さない。
　熱いシャワーを裸身に浴びる。頭頂からつま先まで、全身を熱していく。銀色の髪を透明な液体が滑り降りていく。肩を滑り降りた湯が、腕を下り手を過ぎて、白い鞘を上から下まで伝っていく。
　軽く身体を洗い、もう一度シャワーを浴びて洗い流す。湯船には浸からない。水中で、それも身体を折り曲げた状態では、急事の際に動けない。湯船の栓を抜き、浴室を出た。
　バスタオルで全身を拭き、下着を履き、慣れた手つきでさらしを巻き直す。脱いだ時とはまるで逆回しに衣服と鎧を身に着けた。
　脱衣所を出、主の部屋に向かう。ドアの前に立ち中の気配を伺う。──既に、崇史は寝入っているようだった。
　音を立てぬようドアを開け、入り、閉める。ベッドの上では、こちらに背を向けて崇史が眠っていた。
　部屋を横切り、崇史に近づく。寝ているうちにどけてしまったのだろう毛布をかけ直し、崇史が間違いなく眠っていることを確かめてから、直刃はベッドの脇に腰を下ろした。襲撃を警戒し、横にはならない。
　そのままの姿勢で、直刃は眠った。

　────────────────。

　二時間が経ち、
　直刃は眼を開き、立ち上がった。
　体調確認。──異常なし。剣を腰に差し、軽く腕を曲げて感触を確かめる。動作系にも問題はない。窓から空を見る。雲が多く、月は見えない。
　崇史は完全に熟睡している。起きる気配はない。
　直刃は寝室を出た。廊下を抜け、外に出、すぐ横の非常階段を上に上がる。
　屋上に出る。屋上を横切る。高いフェンスを一息に乗り越え──跳ぶ。
　下には、四車線のアスファルトの川がある。流れる車も今はない。だが車があろうとなかろうと、そして仮に下が本当の川であっても、落ちればまず生きていない。そのくらいの高さは軽くある。
　直刃は、それを表情一つ変えず跳び越えた。距離にして三〇メートルはある空間を一足に、綺麗な放物線を描いて向かいのビルに。
　たん。軽い着地音は澄んだ大気に吸い込まれる。足を止めることなく、直刃は片足でコンクリートを蹴った。
　二歩でビルの屋上を横切り、今度はやや高いフェンスを飛び越え、隣のビルに。面積の狭いそこには一歩しか足を付けず、また次の建物へ。
　──ひとつ、
　──ふたつ、みっつ、
　追ってくる気配は順に増えていく。直刃は速度を緩めた。それらが容易についてこられるように。
　更に七つほどビルを渡り歩いたところで足を止め、振り向く。
　少し前に廃棄された、無人のビルの屋上だった。影は三つ。男が二人に、女が一人。いずれも若いようだ。手にはそれぞれ鉄パイプや角材などを握っており、しかしこちらには殺意も敵意も向けてこない。──否、向けていないわけではない。ただそれらは何故かとても希薄で、どこかよそよそしい感じがする殺気だった。かといって偽物というわけでもない。そもそも殺気に偽物も何もないのだが。殺そうとする意志が殺気である以上、それが思い込みや強迫観念であれ、殺気は殺気である。
　だが目の前の三人は何かおかしい。まるでフィルタを通しているような違和感。彼らのようなモノと戦うのはこれで二度目だったが、最初の時もこれと同じ違和感を感じていた。
　警戒し、直刃は両腰の剣の柄に手を乗せた。自らの分身とも言えるそれらは、確かにそこにある。
　まず左手で刀を抜いた。黒鞘から抜き放たれた薄刃は闇の中にあってなおその鋭い輝きを失わない。刀身の、鍔にほど近いところには〝六道りくどう舞葉まいは〟の四字が刻まれている。二尺五寸。波紋は持ち主たる少女の名と同じく直刃。素人目にも一見して、名刀と分かるような美しさである。
　次に右手で剣を抜く。対照的に白い鞘からは、分厚い諸刃の西洋剣が姿を現す。刃の幅は四センチ強。長さは切っ先から柄尻まで一四〇センチ、刃渡りだけで一一〇センチはあろうか。〝舞葉〟の二倍近い。闇の中でそれ自体が青白く燐光を放つ刀身、その腹には溝が掘られており、形状としてはヴィーキングソードに似ている。華美でない程度の装飾を施された鍔には碧玉が埋め込まれ、ぼう、と淡く光を放っていた。柄頭には円周に沿って〝Knight of Night〟──〝夜の騎士〟と刻まれている。
「〝宿れ戦の証、《戦神テイワズ》〟」
　異国の発音。それに応えるかのように、刀身は光を強めた。
　二つの剣が、空気をきりきりと張り詰めさせる。破裂寸前の風船のように、限界まで。
　直刃は構えない。剣を握る両手をだらりと下げ、しかし剣先を地面に触れさせるなどというようなことはせず、軽く顎を引き、静かにただ静かに待つ。
　警告はしない。無駄なことに費やす時間が勿体ないからだ。ただ見据える。三つの影の首を。そこには既に線が引かれている。──それは彼らの今後の運命の暗示だ。首を晒しこそしないが、それらを確実に絶命させることだけは、既に直刃の中で決定していた。
　影も動かない。互いに待つ。風が吹く。空気が流れる。雲が流れて、

　月が出た。

　──っぱぁん。
　空気と一緒に、影の首が破裂した。
　横殴りに叩き付けられた〝夜の騎士〟は、容易く一人目の首を刈り取っていた。血が噴水のように勢い良く噴き出す。跳ね上がった首が地面に落ちるより早く直刃はコンクリートを蹴った。老朽化したそれは衝撃を受け止めきれず、ひびが入り陥没する。
　残り二人は初撃の際、どうにか直刃の攻撃を読み切り避けていた。犠牲になった一人目はただ単に遅かっただけだ。二手に別れていた片方に、直刃は追い縋る。
　鉄パイプが振り下ろされる。女。否少女。セーラー服を着ていて、眼は死人の如く虚ろ。だが少なくとも敵には見えない。ただの一般人。そう見える。そう分析する。
　もっともそのようなことは直刃には全く関係ない。障害となりうるものは取り除く。それが何であっても。
〝舞葉〟を振るう。鉄パイプごと右手が飛ぶ。返す刃で左肩から右脇腹へ一閃、斬断。太刀洗家の鍛冶師の打った刀、その中でも至高の作品にのみ与えられる『六道』の二字を冠せられたその太刀は、名に違わず風に舞う木の葉のように虚空ごと肉を切り裂く。
　身体が滑り落ちるより早く疾駆。残る一人に肉薄する。〝夜の騎士〟を右手だけで大きく振り被り、頭頂から股間まで真っ二つのコースへ。
　──鉄パイプが現れた。
　完全に不意を打たれた。バットのスイングのように力一杯振り回された鉄パイプは、最後の一人に向かって一直線に疾走する直刃の眼前に出現した。
　咄嗟に〝夜の騎士〟を降ろし防御。しかし勢いまでは流石に殺せず、鉄パイプを吹き飛ばしそのまま突っ込む。無様にコンクリートの上をごろごろと転がり、起き上がる。
　──背後に気配。
　ほとんど座り込んだ状態のまま横っ飛びに跳ぶ。一瞬遅れて、今まで自分がいたところに図太い角材が振り下ろされて、砕けた。飛び散る木片から顔を守りつつ、逆手に持ち替えた刀を三人目の脇腹に押し込み、背中側に抉り斬った。脊髄が破壊され、スーツ姿の痩せた男が崩れ落ち──それでも自由になる上半身だけを直刃に向けた。
　悪寒。蜘蛛じみた動きで後ろに低く滑るように跳ぶ。あろうことか男は両手でコンクリートを叩き、動かぬ下半身を引き連れたまま直刃に向かって跳んできた。顎が外れるほど口を大きく開いて。
　しかし直刃は臆することなく慌てることなく、しゃがんだまま強引に大剣を振り上げた。無理な姿勢から繰り出された一撃は、向きのせいで男を斬ることはなかったが、真横から顔面に叩き込まれた剣の腹は確実に男の側頭部と顎の骨を破壊した。男の身体が、臓腑を撒き散らしながら遥か左方向にすっ飛んでいく。衝撃が強すぎて、下半身はそこで千切れて落ちていた。
　向き直る。──まだ、動いている。
　視線の先には、セーターを着た成人男性がいる。ただし首から上はない。一番最初に首を跳ね飛ばした人物である。──首を失って動くモノなど、既に『人』物ではないが。
　ソレは紛れもなく動いて、また鉄パイプを握り締めてこちらに走ってきている。直刃は様子を窺いながら距離を取る。首なしのソレが動くからくりが見破れぬままに攻めるのは、少々軽率と判断したからだ。この様子では、おそらく先に斬った少女も吹っ飛ばした男も、まだ動いているかもしれない。
　観察する。分析する。得た情報を元に正答を導き出す。
　一度目に戦った時は、全員身体の中心から一刀両断した上で更に四分割くらいにしたので、何が決め手になったかは分からない。ただとりあえず、そこまですれば動かなくはなる、ということだ。
　──最初に感じていた疑問点から考えていく。希薄な殺意。不自然な敵意。布一枚越しに感じるような違和を感じる殺気。
　飛来する角材を叩き落す。腕だけの力で角材を投げた、頭部右側面がぐちゃぐちゃに潰れた男が、這いつくばって直刃を見ている。
　──何故首が切られて動くのか。何故頭が砕けても動けるのか。……そして何故、吹き飛んだ頭部や、千切れた下半身は動かないのか。
　視線を巡らせる。視界の端に、素っ気なく転がった男の首を見つけた。先の少女と同じく虚ろな瞳をしていて、しかし動くことはない。動いても大差はないが。千切れて落ちている下半身も、ぴくりともしない。──真っ二つにされた少女の身体も、同様に。まるで糸の切れた人形のように、静かに時を止めている。
　そう、人形のように。
「──傀儡」
　結論が導き出される。
　式神、というものがある。古くは陰陽師が用いた術法の一つであり、紙、木札などに術を施し、様々なものに化けさせ使役する術である。それが刀自村には伝えられていた。
　そして──式椿は、その術法の行使に長けていた。
　真横に振られる鉄パイプを避け、思考する。おそらく今自分と戦っているこの三人──多分もう二人だが──は、何の関係もない一般人なのだろう。それを式椿は何らかの手段を用いて、自らの手駒としているのだと思われる。
　そしてもう一つ。何故少女はもう動かないのか。それも今は大体予想がつく。
　媒介の破壊。式神は紙や木札に術を施して行使する。なれば少女が動かぬ理由は、その要たる部分を破壊されたからなのだろう。式神の法で人間の身体丸ごと一つを動かそうとすれば大変だが、何らかの方法で自我を奪った身体に、媒介となるものを埋め込み、それを通して糸を繰るように身体を動かせば負担は軽い。まさに、操り人形そのものだ。
　ならば、後はその媒介を破壊すればいいだけの話だった。推論に基づく解決法ではあるが、もし間違っていても、身体を細かく解体してしまえば、どうせ同じことである。決めて、直刃は攻めに転じた。
　その後は速かった。種が分かれば躊躇はない。振り下ろされる鉄パイプを適当にいなし左手で袈裟懸けに斬撃。左肩から右腋下までを斬られ、首のない身体は倒れる。媒介の位置は、先の少女が同じ太刀筋で斃せたことから、その軌道上にあると踏んでいた。果たして、首なしの男はただの屍体に戻った。
　屍体は仰向けに倒れた。警戒を緩めぬままに近寄り、斜めに裂けた服を刀の先で検分する。赤黒い血に染まった胸、丁度心臓の真上辺りに、斜めに分断された一枚の符が貼られていた。これが媒介であるらしい。
　と、それは直刃の見ている前で突如として燃え上がり、消えた。証拠隠滅、ということか。
　動体反応は完全にない。直刃は屍体から視線を外し、最後まで残っている一体に向けて歩き始めた。
　コンクリートの上で男の上半身がのた打ち回っている。内臓を撒き散らし、頭がぐちゃぐちゃになっているにも関わらず、這いずり回って直刃に手を伸ばしている。その姿は、哀れを通り越して滑稽でしかない。
　──どん。
　だが直刃には哀れみもおかしさもない。無造作に剣を落とし、背中から男の胸の符を貫いた。
　屍体の服で剣を拭い、鞘に納める。散らばった屍体を見回して、
「────」
　思案して、動き出す。屋上の隅の給水塔。それに上り、蓋を開けた。
　虚無の広がる漆黒の空間に水はない。ここは廃ビルであり、それを消費すべき人間がいないのだから当然だ。直刃はその中が充分広いことを確認し、屍体のところに戻った。
　上半身だけの屍体の腕を掴み、放り投げた。違わず、それは口を開いた給水塔に飲み込まれていく。
　都合三人分の肉塊を次々と放り込む。入れる度にがらんがらんと音がするが、主人の安眠を妨げるには距離が離れ過ぎているので、遠慮なく無造作に作業をこなしていく。飛び散った臓腑は、鉄パイプでかき集めて、剥ぎ取った服に包んでから投げ入れた。屍体が見つかれば騒ぎになろうが、このビルの取り壊し予定はまだ先だったはずだ。その辺りのことは、あのマンションを当面の住処と決める際の下調べで分かっている。大量の血痕が見つかれば騒ぎになろうが、自分達にまで塁は及ばない。人の出入りもないから、見つかるのもずっと先のことになるだろう。運が良ければ、それまでに雨で洗い流される。
　二十分ほどで作業を終え、直刃は帰路についた。

　その姿を遠くから見つめていた者の存在に、直刃はついぞ気付かなかった。

　　　　　　　　　　　　　　　§

「──人を、殺してきたろ」
　音もなく部屋に戻った途端、そんな言葉が投げかけられた。見ずとも直刃には、それが聞き慣れた主人の声であると分かっている。ただしその声は、これまで聞いたものよりいささか厳しい口調だったが。
　視線を向ければ、窓から差し込む月光を背に、薄紫の瞳が直刃を見つめている。
「起きておられたか」
　気にする風情もなく部屋に足を踏み入れ、
「殺してきたんだろ」
　空気を軋ませる声に足を止めた。
　何故気づいたのか、と直刃は思う。返り血は浴びていない。脚甲についた血も念入りに拭き取っている。息も上がっていない。表情にも無論出ない。匂いも付かないように気を払ったつもりだ。ぱっと見ただけで、自分が殺したことは悟られるはずもない。
　──退魔の血。それによるものだと、直刃は思考する。事実、今崇史の瞳は紫苑の色だ。
　その色彩は、式家の者特有の遺伝である。通常は黒いが、強い魔を察知すると、或いは己が強い魔を発すると、瞳の色が変化する。
　夕刻、直刃が崇史に語った通り、『魔』とは『人に害を為すモノ』の総称である。それは例えば怪異であったり、或いは人の強い害意ある思いそのものでもある。故に式家の退魔とは、害を取り除く行為である。
　だから自然、魔を討つ退魔師たる式家の人間には、あらゆる魔を察知する能力が必要とされ──故に、心休まる時がない。
　生きとし生けるものには、その大小や明確さの差はあれど、感情というものがある。憎悪や憤怒などの感情は害意を生む。敵意を生む。そしてそれを向けられれば、向けられた者はそれを魔と認識する。人も人外も鳥獣も、草木でさえ長く生きれば、大小や明瞭不明瞭の差はあれど必ず魔を持っている。だから、式家の者は心安らかにあれる時がない。
　式家の人間は、あらかじめ魔を『敵』として感じるようにできている・・・・・。誰しもが魔を持つと言うのなら、彼らは人と接する度に刃を向けられているような感覚に襲われる。人ごみは戦場と変わらない。敵しか、いない。自分以外が信じられない。──なればこそ、直刃のような者達がいる。魔も、何の感情も持たず、ただ傍らに存在し付き従い主のためだけにいる者。
　謂わば人形──皮肉なことに、その人形こそが式家の者にとっては唯一の心の安らぎだったのだ。ヒトがヒトである以上その魔を捨て切れないというのなら、それが自分の伴侶であろうと同じことなのだ。故に、血の繋がった親族より、自らの騎士に重きを置いた者も少なくなく、寧ろ当然のように受け止められていた節もあったという。
　そして直刃もまた、その人形の一つ──
　その無色のはずの自分に、傀儡を通してさえ感情の残り香を染み付かせてしまうほどに、敵は──椿は強い妄執おもいを抱いているのか。
「どうして殺した」
　直刃の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。殊更低い声で崇史は問い詰める。
「主殿の命を狙っていた故」
　こともなげに直刃は応じる。崇史は一度直刃をきつく睨み──しかし直後脱力したように俯いた。
　崇史には直刃を責められない。直刃の行為は、自分を護る者としては至極当然のものなのだろう。自分が──まだ実感が持てないが──危険に晒されているのなら、その可能性を事前に断っておくのは、安全のためにはこれも当然なのだろう。自分が生きるために他の誰かを殺すのも、場合によっては仕方のないことだと思っている。
　だがそれは、直刃の行為を納得できるか、ということとはまた別問題だ。
　勿論自分も死にたくないが、進んで殺したいなどと思うはずもない。例え相手が自分を殺そうと思っていても。
　我侭だと思う。自分と相手の生、それを同時に手に入れようとしている。だけど、それでも──
「直刃」
　はい、と少女は答えた。
「もう、誰も殺すな」
「それが、ご命令とあらば」
　この身を以て、それに殉じよう──

　　　　　　　　　　　　　　　§

　その夜、三人・・の人間が同じ夢を見た。

　それはとてもとても懐かしい記憶で、かけがえのない思い出で、今はもう絶対に永遠に取り戻せない遠すぎる風景だ。
　木陰の下で、少年が二人と、少女が一人、三人の子供達が遊んでいる。
　少年達は屈託なく、本当に、純粋に楽しそうな笑顔を浮かべている。
　少女はそれを、少し離れたところで黙って眺めていた。
　それに気づいた少年の一人が、少女に向けて手を差し出した。
　少女はおずおずとその手を取り──
　小さな、花のような微笑みを浮かべた。

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