わかってやってる
ウチらの間にはルールがある。
決して眼を開けない。
決して声を出さない。
決して音を聞かない。
知らないフリをする。
それが、ウチと兄ちゃんの間にある、言葉にしてない約束だった。
歯の間から隙間風みたいに抜けようとする声を必死に堪えて、ウチはぎゅっと瞼を閉じた。大きな手が揺れる身体を支えている。汗でべとべとするけど、気持ち悪いとは思わんかった。
何も聞かないようにしている耳には、ざぁざぁと降る雨の音だけしか届かない。兄ちゃんの息遣いも聞こえない。なんだか、兄ちゃんだけ全然疲れてないような気がしてちょっとずるいと思った。
ウチらはセックスしてる。
じめじめした薄暗い部屋の中で、汗で身体中べたべたにしながら裸で抱き合ってる。
肌を這い回る兄ちゃんの手は熱い。多分、それと同じくらいウチの身体も熱い。
漏れる息。聞こえない振りをしながら、ウチは兄ちゃんにしがみついてた。しがみついてるだけだった。身体を上下に揺すられながら。目の前には兄ちゃんの形のいい耳があって、どんな小さな声でも届くような距離だったけれど、やっぱりウチはなんも言わんかった。
愛してる、とか、好きだ、とか、そういうこともウチらは言わない。そんなもんじゃ、ない。
兄ちゃんの動きが早くなる。呼吸の音はしない。息を止めている。そんなことしても苦しいだけなのに、兄ちゃんはすっごく頑固なとこがあるから、絶対に、ウチらで作ったルールを曲げようとはしないんだ。
いつの間にか二人の間にあったルール。それはウチと兄ちゃんをしっかり結びつける鎖のようで、そして、ウチと兄ちゃんがこれ以上近づけない壁にもなってる。
──身体はこんなにくっついてるのに。
お尻の辺りにあった圧迫感とむず痒さが、電気になって背筋を上ってくる。ぎゅうっと強く兄ちゃんを抱き締めた。兄ちゃんもウチを抱き締めた。電気が首の後ろを通って、同時にお腹の圧迫感が一瞬最大になった。
「…………!」
歯が折れるんじゃないかってぐらい食い縛った。あばら骨の間に兄ちゃんの指が食い込んでてくすぐったかった。
身体中から力が抜ける。それは兄ちゃんも同じみたいで、二人一緒に崩れ落ちるみたいにしてベッドに倒れ込んだ。
終わった後、タオルで全身を拭いて、扇風機のスイッチを入れた。
「あばばばばばばば」
扇風機に向かって声を出すと変に聞こえる。最初にこれ気付いたのってどんな人なんやろ。多分、ウチと同じくらいの子供だったんだろうと思う。
「ガキっぽいな」
開け放った窓の下に座り込んで、団扇で涼んでいた兄ちゃんがぼそっと呟いた。
「いいの、ウチ子供やもん」
「今はな」
「大人なんかなんなくていいよ」
そうかい、と兄ちゃんはしなびたネギみたいにやる気のない声で言った。
ここのところずっと雨続きで、結構参ってしまってるんだと思う。ウチは毎朝のラジオ体操行かなくていいから、結構気が楽なんだけど。
「雨は降っても課外授業はあっからな。なんで折角の夏休みに学校に登校しなくちゃならんのだ」
兄ちゃんはぶちぶち不満をたれる。
でもそれはちゃんと学校行ってる真面目な高校生だけが言っていいことだと思う。少なくとも、今まで一週間あった夏期講習を丸ごとサボってる人が言うようなことやない。
「そこはほら俺、成績はいいからな」
兄ちゃんは答えにもなってないことを言った。
まぁ、実際兄ちゃん頭いいし、夏期講習なんかも受ける必要はないんだろう。しかも独り暮らししてて料理も上手だ。従妹としては鼻が高いけど、少し羨ましい。ウチ、全然料理できないから。
「兄ちゃん、今度料理とか教えてくんない?」
「学校でやるだろ」
いかにもめんどくさそうな調子でそう言われた。
「やるけど、やっぱり授業でやってもおもしろないよ。それに作るのも簡単なお菓子とかだし」
ウチは料理したいんだ。やっぱりこれから先、ウチだって一人で暮らしたりとかするようになるかもしれないし、そういうときのために前もって練習しとくのは悪いことやないと思う。
「そのうちな」
「けち」
べー、と舌を出した。兄ちゃんはそっぽを向いた。
ウチらのする話は、いつもこんなんだ。ウチには兄弟とかいないから分からないけど、血の繋がった兄妹の普通の会話もこんな感じだと思う。いや、血は繋がってるけど。一応。
そう、普通。
そこにはさっきまでの行為の余韻なんか、少しもない。
兄ちゃんはいつも通り退屈そうな顔をして、近くにあった本を手に取った。ウチの読めなさそうな分厚い小説だった。
スイッチ切り換えるみたいにウチらはセックスする。始まる前も終わった後もおんなじだ。『いつも通り』に戻る。
それがウチらの関係。
それだけが、ウチらの関係。
つ、と視線をテーブルの上にずらした。テレビのリモコンと新聞に隠れるようにしてピンク色の携帯が覗いてる。親から渡されたウチの携帯。親のアドレスしか入ってない携帯。
それからも目を逸らして、ウチは立ち上がった。
「もう五時やし、晩御飯の材料買ってくる。もう冷蔵庫ん中身なかったやろ?」
雨もだいぶ弱まってる。ウチはそこらに放りっぱなしだった兄ちゃんの財布を拾って──直後に、それを取り上げられた。
顔を上げると、いつの間にか兄ちゃんが側に立って見下ろしてた。
「俺が行ってくる」
「いいやん、買い物くらいウチ行くよ」
「お前、おばさんに見つかると色々厄介だろ」
ウチが固まってる間に、兄ちゃんはさっさと玄関まで歩いていってしまった。靴を履きながら、わりぃ、と言った。
ウチは玄関のほうを見ずに、床に座った。
「鍵、かけてくからな。誰か来ても入れるなよ」
そう言い残して兄ちゃんは外に出た。かちゃん。ドアがロックされる。足音が遠ざかり、カンカンと錆びかけの階段を降りていく音が聞こえてきた。
それすらも雨音の中に消えて、しばらくして、ウチはもう一度立ち上がった。兄ちゃん、雨に濡れて帰ってくるだろうから、先にお風呂入れておこう。
ボイラーのスイッチを入れて、狭いお風呂場に入る。お風呂場はいつもひんやりしていて気持ちいい。
蛇口を捻ってお湯を入れる。湯気が顔にかかるのを確認して、お風呂場を出た。
兄ちゃんのベッドに座って、そのままぱたんと横になる。甘いのか苦いのかよく分かんない匂いがした。ウチは瞼を閉じて、大きく深呼吸した。
この匂いも、ウチはすっかり覚えてしまった。
最初に嗅いだのは春休みだった。三月三十一日、曇りの日。あのとき、ウチはいつもみたいに家から五キロ離れた兄ちゃんのアパートまで遊びに来て、そのまま帰らずに泊まって、三日目。ウチは兄ちゃんとセックスした。
正確には、ウチは兄ちゃんに強姦されたことになる。よく分かんないけど、同意の上でも子供相手だと強姦罪が成立するって聞いた。あれは合意だったかどうかも怪しいから、出るとこ出たら確実に兄ちゃん捕まる。
夜中、目を覚ますとベッドの下で寝てたはずの兄ちゃんがいて、ウチはパジャマを半分くらい脱がされてた。そのときウチの身体は、空気に晒されてもう冷たくなってた。兄ちゃんはウチを起こしてしまったんじゃなくて、ウチが起きるのを待ってた。
ウチが起きて、現状を理解したのを確認すると、兄ちゃんは残りの服も脱がした。
何をされるのか大体理解はしていたけど、ウチは拒まんかった。
とにかく痛くて熱くてきつかった。けど兄ちゃんがなんにも言わないから、ウチも声出さんようにした。
終わったあとすぐに眠った。朝起きると、ウチはちゃんとパジャマ着てて、身体も汚れてなかった。夢かと思ったけどきっちり股が痛かった。
兄ちゃんは、何もなかったみたいに普通だった。朝ごはん作ってくれて、昼間は二人でだらだらゲームしたりしながら時間潰した。そして夜になって深夜番組にも見飽きてきた頃、兄ちゃんはウチの腕引っ張ってベッドに押し倒した。ウチはやっぱり拒まんかった。
そのときに、きっと今のウチと兄ちゃんの関係が出来上がった。
普通に過ごして、何もなかったみたいに振舞って、普通にセックスして。セックスしてる最中にすら、セックスしてるっていうことを意識しないみたいに、声も出さないで。どんだけ過激なことしても、クラスの友達が知らないようなことしても、絶対に、キスだけはしないまま。
そういう関係が春からずっと続いてる。
ウチはそれでいいと思ってる。
ベッドに顔を埋めた。兄ちゃんの匂いが染みついてる。手が自然と自分の股に伸びた。
指先でさっきまで散々突かれたとこをいじってると、指に粘着性のものが付着した。拭き取ったと思ったけどまだ残ってたみたい。
「生理来たらどうしよ……」
もうウチも十一歳やし、いつ来てもおかしくない。そしたら今までみたいにセックスできなくなる。兄ちゃんに愛想つかされたらどうしよう。
大人になんかならなくてもいいのに。
身近にいる例がろくな大人じゃないから余計そう思った。
──雨音が消えた。
そっけない電子音がテーブルの上から聞こえてくる。めんどうくさかったけど放っておくわけにもいかないから、ウチはベッドから降りてそれを手に取った。
当然、相手はお母さんからだ。
一週間。
ウチが兄ちゃんの部屋に上がりこんで、一週間。
その間、このメロディが鳴ることは一度もなかった。
は、と口元から漏れた息は、甲高い電子音に溶けて消えた。
多分、ウチ笑ってる。
ウチはゆっくり、携帯電話を開いた。
画面には見慣れない十一桁の電話番号。ウチは携帯電話を持ち上げ、
ばきん
ねじり折った。
折り曲げる部分を真ん中にしてねじると、簡単に携帯電話は壊れた。
ばっきりいっちゃってて、中の色んな線が見えてる。音はもう聞こえない。ウチはそれをテーブルの上に投げ捨てて、ベッドに座った。今度は寝転がらんかった。
そうやって、兄ちゃんが帰ってくるまで壊れた携帯電話をずっと眺めてた。
雨はやみそうにない。
しばらくして兄ちゃんが帰ってきた。
「おかえりー。……どうしたん?」
兄ちゃんは頭からずぶ濡れだった。
「途中で車に水引っ掛けられた。買ったものは無事だったけどな」
ビニール袋の中のものを適当に放り込んで、兄ちゃんは上半身の服を脱ぐ。
「お、風呂入ってるじゃんか。気が利いてるな」
ウチに嬉しそうに笑いかけて、そこで、テーブルの上にあるものに気づいた。
「お前、」
「うっかり踏んじゃった」
ちろ、と舌を出して笑って見せた。
兄ちゃんはそうか、とすら言わんかった。ただ表情の消えた顔でウチを眺めてた。
「……風呂入るわ」
それだけ言って、兄ちゃんは脱衣所に入った。服を脱ぐ音が聞こえる。濡れたジーンズを服を洗濯機の中に放り込む音。
オンボロの洗濯機の振動が足の裏にまで伝わってきた。
そのガタガタといううるさい音と、一向にやむ気配のない雨の音に紛れて、
「お前も入るか」
そんな声が聞こえた。
「うん」
お風呂から上がる頃には外はすっかり暗くなっていた。
ウチらは一緒に晩御飯作って、狭いテーブルに並べた。今日のメニューはナポリタンに茄子の味噌汁。滅茶苦茶な組み合わせだけどいつものことだから気にしない。テーブルの上にあったウチの携帯は燃えないゴミに入れた。
食事の後片付けをすると、暇になった。雨はまだやまない。
二人でベッドに並んで座ってテレビを見てる。手には缶ジュース。最近ブレイクしてるお笑い芸人がカラオケやって水被る番組だった。
「お前」
兄ちゃんはウチのほうを向かないまま言う。
「家帰らなくていいのか」
「いいよ」
ウチは答えた。
「お盆前には帰るけど」
「それ里帰りしたら結局顔合わせるじゃねぇか」
呆れた顔をする兄ちゃんに、そうだね、とウチは笑った。
「そのあとは、またここ来るのか」
「うん」
「……おばさん、心配しないのか」
「──うん」
それきり、会話がなくなった。
テレビの音声が遠く聞こえる。耳には、ノイズみたいな雨の音しか届いてない。
「……、ね、兄ちゃん。ウチ、帰って欲しい?」
兄ちゃんの身体が固くなるのが分かった。そのくらいには、ウチは兄ちゃんのこと分かってる。
ウチ、厭な子や。
兄ちゃんが困るの知っててこんなこと言うんだから。答えを知ってて訊くんだから。
「好きにすりゃいい」
兄ちゃんはそう答えた。うそつきだ。
ほんとは帰らないのが分かってるくせに。帰って欲しくないくせに。帰さない気のくせに。
そうやって、ウチが兄ちゃんのことを知っているのを、同じくらい兄ちゃんも知っているくせに。
ほんと厭な子やなぁ。
そうやって、言葉にしなくてもいいことを口にする。やっぱりウチは子供なんだ。兄ちゃんに構って欲しいんだ。だから、生理が来て、セックスできなくなることが怖い。
「兄ちゃん」
「うん?」
「子供出来たら結婚してくれる?」
ブぱ。
兄ちゃんが盛大にジュースを噴いた。
「おま……あああ、畳に染みる染みる」
あたふたと兄ちゃんは台所にふきんを取りに走った。ウチは自分のジュースと兄ちゃんのジュースを取り替えて、兄ちゃんが畳を拭くのを眺めてた。
一通り拭き終えて、兄ちゃんがまたウチの隣に座った。またしばらく音のない時間が続いた。
「……まぁな」
兄ちゃんが消え入りそうな声で呟いた。それがさっきの問いへの答えだと理解するのにはちょっと時間がかかった。
顔を見ると、兄ちゃんはさっきより明らかに重さの増しているはずのジュースを、気にもせずに飲んでいる。視線はずっとテレビに向きっぱなし。さっきの問いも、答えも、なかったみたいに。
ウチはジュースを飲み干して、兄ちゃんの手の上に自分の手を重ねた。兄ちゃんは五秒くらいして、その手を握ってくれた。
そのまま番組が終わるまで、恋人みたいに手を繋いでた。
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