デイジィカッター






 ──そして勇者は、ようやく魔王のもとへとたどり着いた。



 永く永く閉ざされ続けてきたその扉が、そのとき、ようやく開かれた。
 悲鳴のような軋みを上げながら、奈落の底に空気の対流を作り出した。
 太い柱に張り付いた蒼い鬼火に、温度はない。恐らくは今も降り続いけているだろう雪の温度は、冷たい石でできたこの城の中まで、減衰することなく伝わっている。柱を上に辿っても、鬼火の光ではその広大な王の間を充分に照らすことはできず、天井は無窮の高さを以てそこにいるもの全てにより寒々しさを与えるようだった。
 淀み、凝った空気の中、からん、と雪の結晶よりなお冷えきった音が、石の柱に反響した。
「────、────、────」
 次の音には、熱があった。
 小さく弱々しいその息遣いも、音のないこの王の間においては、耳障りとすら言える大きさになって聞こえてくる。
 息遣いは、錆びついた扉を開いた来訪者のもの。
 蒼と黒のみで満たされた暗黒の間に、鮮烈な赤と清廉な緑をもたらした、勇者のものだった。
 細い肢体に似合わぬ無骨な銀の鎧。動きを損なわないよう小さく作られた銀の盾。羽飾りのついた銀の兜。その縁から覗く短い金の髪。
 その全てが、今や勇者が奪った命によって真紅に染め上げられていた。唯一、右手にぶら下げられた淡い緑光を放ち続ける宝石の剣を除いては。
 その剣こそは勇者の証。この世に混沌と暗黒をもたらした魔王を打ち滅ぼす、予言の勇者のみが持つとされる聖剣である。
「ハァ──、ハァ──、ハァ──」
 血の滲む唇から漏れる息は、死にかけた獣のそれだ。兜の縁から除く蒼い瞳に光はなく、かつては明るさに満ちていたあどけない顔を、憔悴と苦痛がまるで老婆のような乾きに彩っていた。
 カリ、と力なく握られた剣が、床を引っかいた。
 勇者が王の間に一歩を踏み入れた。血の色をしたベルベットの道が、まっすぐに暗闇の中に伸びている。
 一歩、一歩。足取りは今すぐにでも止まり、崩れ落ちてしまいそうなほどに弱々しい。満身創痍の全身には戦う力などひとかけらも残っておらず、死神に取り憑かれた病人のようにその顔は青白かった。
 ……その様子を、魔王はただじっと見つめていた。
 玉座に座り、気だるげに肘をついて、歩き方を覚えていないひよこのように頼りなげな勇者の姿をただじっと見つめていた。
 己を滅ぼすであろう者を、ただ、待ち焦がれていた。
 魔王は追懐する。姿かたちだけならば若い人間の男とそう変わらない彼は、ただ額に明らかにそれらと違うものを有していた。
 彼の額に在る第三の眼は、遥か千里を見晴るかす。その眼で以て、魔王は勇者の旅路の全てを見届けてきたのだ。
 ──不意に、城全体が揺れ動いた。響いた鈍い音は、まるで業火の中で踊る亡者達が、地獄の門を叩いたかのように重々しかった。
「……どうした、勇者よ」
 厳かに、魔王は言葉を発した。勇者は、先程の揺れに足を取られ、魔王の玉座へとあと十歩のところで膝をついていた。剣を落とし、頭を深く垂れた姿は、まるで魔王に傅いているかのようにも見える。無様なことこの上なかった。
「今の音は、お前の仲間が最期の魔法を使った音だ」
 魔王は告げた。びくりと勇者の身体が痙攣した。
「自らの命と引き換えに、この城の入り口のあたりを丸ごと消し飛ばしたのだ。残っていた我が配下も、全てそこにいた。逃れられたものは一人もいない。お前の仲間も含めて」
「……ぅ、……ぁ……」
 勇者は立ち上がった。しかし膝はがくがくと震え、剣を支えにしてなんとか立っている、そんな状態だった。
「お前の仲間は全て死んだ。私の配下も全て滅んだ。残るはお前と私のただ二人のみだ。だが──」
 魔王はそんな勇者の姿を睥睨した。一人で立つことすらままならない勇者の姿は、全ての魔族を束ねる魔王にとっては虫けらにも等しかった。──今のままでは。
「それは全く無意味な死と言わざるを得ない。何故ならまだ私が生きているからだ。元より死などに意味はないが、自らそこに目的を付与してこそ意味が生まれる。だがそれはその目的が達成されればの話であり、そしてお前の仲間はそれを果たせなかった。私を倒すというお前達の誓いは志半ばにして砕かれた。命を賭してまで、死に損ない一人をようやく送り込んだだけなのだから」
 その言葉に、勇者は俄かに反応した。
 人形じみた動きで勇者の頭が魔王を見た。虚ろだった瞳には、しかし今再び、わずかな光が宿り始めていた。
 ──そうだ、立て。立ってもらわないと意味がない。そうだろう、勇者よ。お前にとっても、私にとっても。
「お前達は無意味だ」
 魔王は傲然と告げた。
「ぎ、ぃぃ……」
 軋みにも似た、音。カタカタという、金属が擦れ合い、奏でる音色。
 構わず魔王は続けた。
「およそ一年にもなるか。勇者よ、お前の旅を私はずっと見続けていた。お前がこの世界で為したことも、為しえなかったことも全てを観測し続けた。出会いも分かれも、怒りも悲しみも、旅立ちから今ここに到達するまでの全ても。その全てが今、無意味なものに変わるのだ」
 カタカタ、カタカタ。
「お前は死ぬ。私が殺す。お前の短い人生の、全てが無意味に貶められる」
 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。
「喜べ、勇者よ」
 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ。
「お前は今、全ての使命から開放されるのだから」
 がぢゃん!
「ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃィィィィああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
 獣が爆ぜた。
 聖剣が薄闇の中空に緑光の軌跡を描く。魔王は即座に立ち上がり、瘴気を帯びた漆黒の剣を抜いてそれに応じた。
 跳躍、そして大上段から振り下ろされた聖剣が魔王の黒剣を滑り落ちる。飛び散る火花が勇者の顔を彩った。
 そこには、先程までの死相など微塵もなかった。憎悪と殺意が全てを染め上げ、裂けた目尻からは血が溢れ出している。
 真実、鬼の(かお)であった。
 振り下ろされた聖剣が、込められた鋭気にのみよって魔王の背後の玉座を真っ二つに叩き割る。それが崩れ落ちるより早く、沈んだ勇者の身体に再び力が満ちた。
 伸び上がる。逆手に持ち直していた聖剣が、魔王の中心線をなぞるように闇を裂き、しかし叩きつけるかのような一閃がそれを迎え撃つ。弾かれ合う漆黒と宝石。剣の軌跡の残像を挟んで、両者の視線が絡み合う。
 勇者の憎悪を、魔王は涼風のように受け流した。
 勇者が跳ぶ。背後、さっき入ってきた扉の近くにまで大きく後退した。獣のように四つんばいで着地し、腹の底から搾り出すように叫んだ。
「──剣よ(カース)=I」
 ぎゅりぃ、と闇が逆巻きその属性を反転させていく。勇者の呼び声に答え、聖剣はその力を存分に引き出さんとする。大気中のマナを取り込み、己が属性に染め上げ力とする屈服の力。闇に灯った蛍火が、魔を討つ剣に吸い上げられていく。
 それは奇妙な輝きだった。何よりも強く美しく輝くのに、その光は決して闇を払いはしない。光を集め、凝縮し、外へと洩らさずただ力とする。
 故にそれは聖剣と呼ばれる。拡散すべき光を隷属し、己の支配下に置く存在。世界の真理に割り込んで行使される魔法とは違い、世界の真理の上にある、絶対真理の結晶体。
 聖剣、《光喰い(セシアラ・リセリア)》。
 最早剣の輪郭すら見えぬ光の塊となって、聖剣は勇者の手の中にあった。
 魔王はそれに応じた。剣を捨て、両手を何もない空間に突っ込んだ(・・・・・)
 臓物を踏み潰すような音を立てて、それが引き抜かれる。
 魔王の身の丈ほどもある巨大な剣。極厚の刃は刃毀れと罅割れだらけで、ドス黒い血にまみれている。叩きつければ今にも砕け散ってしまいそうなそれは、しかし、言い様のない闇に満ちている。目にしただけで心臓を握り潰される禍々しさが、その剣には満ちていた。
 それこそは魔剣《悪意(クレプ)》。魔王が己自身から削りだした半身そのもの。
 魔王がそれを一振りすると、人間一人を粉砕したほどの量の血が、辺りに撒き散らされた。
 剣がまっすぐに構えられた。魔剣はなおも血を溢れさせている。玉座のあった場所からは血が溢れ、階段を伝い、川のように流れ出している。
「──来い」
 勇者に向かって、魔王が告げた。
 光が弾けた。溜めに溜め込んだ光がその戒めから開放され、全てを焼き尽くす熱量となって王の間を蹂躙した。光は全ての闇を薙ぎ払い、一瞬、世界から影が消える。広大なる魔王の間は、本来あるべき、神殿の如き荘厳さを露にさせられた。
 その一瞬の中を勇者は疾走する。背中から噴出す光を推進力に、白熱の剣をただひとつの頼りとして。
 影なき世界、その中心で、魔王は勇者を迎え撃つ。
 その瞬間、初めて魔王の貌に表情が浮かんだ。怒り、哀れみ、嘲り、喜び、どれでもない。

 安らぎだった。

 高く掲げた大剣を、全身を折るようにして振り下ろす。
 赤黒い剣閃が純白の世界を彩り、勇者はその穢れめがけて真正面から突っ込んだ。










 ──勇者が勇者になったのは、十四度目の誕生日を迎えたときだった。
 その日、王国の教会から来たという見知らぬ老人達が、きょとんとしていた自分に恭しく頭を下げたのだ。
 訳の分からない自分に、母が、あなたは勇者なのよ、と言った。
 父親が勇者の血を引いていたこと。古くから受け継がれてきていた聖剣を、教会が保管していたこと。父親では聖剣に適合できなかったこと。父親が、それでも魔王の元へと走り、そして戻ってこなかったこと。
 色々なことを聞いた。
 世界で起きている多くの悲劇を聞いた。
 その原因である魔王のことを聞いた。
 そのとき、自分は世界を救おう、と思ったのだ。純粋にそう願ったのだ。それが教会の老人の巧みな話術によって引き出された決意であったとしても、そのときの自分は心から世界に平和が戻ることを願った。
 そして聖剣を手にしたときから、自分は人間ではなくなった。
 男でも女でもない『勇者』というまったく別のいきものになったのだ。
 かくして勇者は旅立った。
 一番最初の仲間は、国王から預けられた騎士と魔法使いと僧侶だった。騎士と魔法使いが男性で、僧侶が女性、いずれも、勇者より年上だった。三人は昔なじみで、騎士と魔法使いはどちらも僧侶のことが好きらしいのだが、そのせいでいつも憎まれ口ばかり叩いていた。しかし、決して仲が悪かったわけではなかった。
 旅は、勇者にとっては始めてのことばかりでとても辛く、厳しいことばかりだった。それでも三人の助けのお陰でどうにかやってこれた。
 その途中で、勇者は僧侶に尋ねたことがあった。どちらが好きなの。僧侶は答えた。どちらも好きよ。
 選ぶことなどできないと僧侶は言った。それは自分が等しく二人を愛しているからだし、等しく二人から愛されているからだ、と。ただ、この旅が終わったら、三人でどこか静かな場所で暮らしたいと言った。
 騎士と魔法使いが死んだのはそれから間もなくのことだ。
 二人は、魔王の配下である四将軍の一人と刺し違えて、その命を終えた。
 僧侶は戦うことができなくなった。崩れ落ちた洞窟の中から、どうにか二人の形見となる剣と杖を引っ張り出し、そのまま、故郷に帰った。三人で静かに暮らすのだと、そう言った。
 勇者は一人になった。
 近くの町で旅の仲間を探していると、壮年の戦士が申し出てくれた。
 その戦士は次の町の宿屋で勇者を犯そうとした。勇者は一太刀浴びせかけて怯んだ隙に金だけを引っつかみ、そのまま町から出た。
 思えば、人を斬ったのはあのときが初めてだった。
 しばらく一人旅が続き、身体からは生傷が耐えなかった。癒しの魔法も空腹と疲れまでは満たしてくれない。
 なんとか城下町まで辿り着き、その国の王と面会を果たすことができた。王はそなたが勇者かどうか見極めるといい、北の洞窟で暴れているドラゴンを退治せよと言った。
 支度金で装備を整えると、勇者は北の洞窟に行った。洞窟内は不思議な輝きで満ちており、そこが魔法石の鉱脈であることは見て取れた。
 鉱脈の中心にいたドラゴンを殺したあと、その奥にあった巣に行くと、まだ生まれたばかりでろくに動けないドラゴンの子がいた。ドラゴンは、我が子を守っていただけだったのだ。
 勇者はその子も殺した。
 去り際、洞窟の入り口を魔法で念入りに崩しておいた。
 城に帰り、倒した証としてドラゴンの角を差し出した。子のことは言わなかった。ただ、洞窟では落盤が起こり、もう入れないと報告した。王は顔には出さないが残念そうだった。
 王は、中隊規模の騎士団を与えてくれた。
 中隊長は気のいい青年で、勇者のこともよく気にかけてくれた。
 その中隊長も、次の四将軍との戦いで死んだ。中隊の騎士達はその後も旅を続けてくれたが、一夜ごとに一人ずつ減っていき、最後の五人は、勇者が朝目を覚ますと、荷物と詫び状を残して消え失せていた。
 旅の糧食は、彼等が残したものがあったのでしばらくは困らなかった。
 様々な町や村を巡っていると、誰もが様々な苦しみを抱えていた。
 ある村は魔物や魔族ではなく、盗賊の集団に苦しめられていた。勇者様勇者様、どうか私達を救ってください。
 勇者は盗賊のアジトを殲滅した。この頃には、魔物と同じように人間も殺せるようになっていた。
 村人から得られた見返りはわずかなものだった。これだけしかないんです、申し訳ない。本当は床下や屋根裏に、盗賊の目を盗んで様々なものを隠していたことは知っていたが、それは言わなかった。
 村を出てしばらく歩くと、盗賊の残党に襲われた。一人だけ残して、全員殺した。残った一人には、もう自分に関わらないよう強く言い含めておいた。
 ある村では、人間の男と魔族の女が、村人に殺されかけていた。勇者は村人を殺し、二人を村から脱出させた。そして二人が愛し合っていることを知り、しばらく共に旅をした。
 その途中、エルフの住む集落に迷い込んだ。そこで勇者は、魔王がかつてエルフの一人であったことを知った。
 事情を説明して二人をエルフの里に住まわせるよう頼み、勇者は再び一人で旅を続けた。
 あるとき、以前自分を襲ってきた壮年の戦士と再会した。片目は自分の剣によって失われており、残された目には憎悪だけがあった。
 喋らせる間も与えず殺した。
 その後も、仲間を増やしたり減らしたりしながら、旅を続けた。
 最終的には、騎士と魔法使いと僧侶のパーティになった。くしくも、一番最初の組み合わせと同じだった。
 そして魔王の城に至った。
 圧倒的な物量を前にして、三人の仲間は自分達を囮にして、勇者だけを先に行かせた。必ず追いつく、お前は先に行け、魔王を斃せ、口々にそう言い、それが別れの言葉になった。
 勇者は最後にまた、一人ぼっちになってしまった。
 ……どうして、自分がこんな目に遭うんだろう。勇者とはそれほどまでに多くを背負わなければならないのか。背負っているものは、本当に背負うに値するものなのか。人間は本当に正しいのか、魔族は全て悪なのか。それはもう、分からなかった。
 ただ、魔王を斃そうという意志のみがあった。
 魔王がいなくなれば、自分もまた勇者である必要などない。魔王を殺さなければ、自分は人間には戻れない。
 だから、魔王を殺さないと。
 故郷に帰って、母さんと幸せな生活を送るんだ。何もないけれど、ただ穏やかで、静かな暮らしがしたいんだ。
 世界の穢れも、人の心も知らなくていい。知りたくなかった。ただ安寧であればいい。
 魔王を殺せば、それが叶う。
 ……勇者にも、本当は分かっていた。魔王を殺し、戻ったところで元の生活には戻れまい。英雄として祭り上げられ、政治の道具として活用され、やがて忘れられてその生涯を閉じるのだ。年齢的にはまだ子供である勇者に、そのことを悟らせるには、この旅は充分すぎるほど過酷だった。
 それから目を背けるように勇者は願うのだ。自分の安寧のために、魔王の死を。
 そこには最早、世界を救おうという意志など微塵も残っていなかった。





 ──長い旅路の果てに、彼らはそこに辿り着いた。
 実体を持たない彼らは他の知的生命体に寄生することで初めて存在することができた。彼らは寄生した脳で、一種の『波長』を摂取することでその存在を永らえ、寄生されたほうは高度な情報処理能力を備えることになり、やがては社会性を持つまでに進化を遂げることが可能になる。一種の理想的な共生関係に近かった。
 だが、彼らが寄生していた星は巨大隕石によって滅び、宿主たる生命体も絶滅してしまった。宇宙に放り出された彼らは、新たな宿主を求めて広大無辺な空間を彷徨った。
 その間に多くの数が減っていった。情報生命体である彼らにとって、何の『波長』もない空間は地獄と等しかった。
 やがて一つの星に辿り着いたとき、その数は二桁にまで減じていた。
 彼らはそこで見つけた適当な知的生命体の集団に取り付き、実体を得ようとした。
 彼らにとって誤算だったのは、その星の知的生命体の精神強度が以前の宿主に比べて著しく低かったことと、その星にある『波長』もまた、元いた星とは比べ物にならないくらい少なく弱かったことだった。
 彼らの寄生によって、知的生命体の精神は死に、彼らは真実その肉体を支配することができた。しかし同時に、元の精神によって、彼らは『個性』を得てしまった。即ち、欲望を抱くようになったのである。
 彼らは、もっとも強い個体に取り付いたものをリーダーとして、活動を開始した。この星には『波長』が足りない。ならば、作り出すしかない。
 彼らの欲する『波長』とは、その星で『悪意』と呼ばれる感情だった。
 かくして魔王と魔族は誕生した。
 元より高度な情報処理能力と、魔法と呼ばれる限定世界改変能力を有していたエルフは、彼らにとって非常に親和性の高い宿主だった。これにより、魔王は事実上永遠の命を得た。人間に取り付いた者達は、肉体こそ強くなったものの、寿命があった。それでも人間の倍以上の長さは生きることができた。
 魔王だけが、死ななかった。
 魔王とかつて同じものであったもの達は、代替わりを繰り返し、やがて自分達が情報生命体の末裔であることすら忘れていった。ただ本能として、自分達が人間の負の感情を摂取しなければ生きていけないことだけを理解し、そのために人間達を苦しめた。
 ……あるとき、魔族達の多くが滅ぼされてしまう事態が起きた。
 それは一本の原始的な武器によってもたらされた。緑に輝くその剣は、魔族達の脳に救う精神体を滅ぼす『波長』を有していた。それは彼らにとっての猛毒だった。
 勇者と呼ばれたその人間との死闘の果てに、魔王は多くの魔族を犠牲にしながらも勝利した。しかし傷は深く、魔王はしばらく身を隠さざるを得なかった。
 今でも、魔王は後悔している。
 何故あのとき、自分は滅ぼされていなかったのだと。
 あの剣でなければ、自分は滅べない。この、いつまで続くとも分からぬ永い永い命の果てが、すぐそこにあったのに。
 故に、魔王は決めた。
 次に『勇者』を名乗る者が現れたとき、自分は勇者と真っ向から勝負をしよう。
 きっとそのときにこそ、自分は真実、生と死に向き合うことができるのだ。










 ──剣が打ち合う。
 ゴ、というただ一音のみが世界に生まれた。
 二振りの剣が衝突し、動きを止め、しかしその拮抗は一瞬だった。
《悪意》が砕け散る。罅割れに沿って、ガラスのように砕け散った。《光喰い》が振り抜かれ、魔王のがら空きの胴に勇者の焦点が定められた。
 だが、
「──落ちろ(スウェルト)=I」
 魔王の声が大気を打つ。応えたのは砕かれた魔剣の欠片。砕かれ散らんとしていたその欠片達は、魔王の号令に応えて驟雨となって勇者を襲った。
 勇者の全身が鋼鉄の雨に晒される。ミスリル銀の鎧がひび割れ、砕かれる。
「がぁあっ!」
 一際大きな欠片が、勇者の右腕を襲った。上腕の途中で腕が切断され、赤い肉の断面が露になった。
「ぁ、あぎいいぃぃぃぃぃいぃおおおおおっ!」
 それでも勇者は止まらない。剣を握ったまま離れない右腕、それを振り回しながら、返す刃を魔王の胴へと振り抜いた。
 肉を裂く音。
「────────」
「────────」
 世界に闇が戻った。光は失われ、聖剣も元の緑の宝石に戻っている。
 ぽたりと、その刃から血が滴った。魔王の血だった。脇腹から吸い込まれるように入った聖剣は、魔王の心臓めがけて斜めに肉を裂き──その途中で止まっていた。
 一つになった影がぐらりと揺れ、そして倒れた。
 魔王の瞳は闇を捉えていた。蒼い鬼火では照らしきれぬ王の間の天井は、やはり見えない。
 何故、という言葉が口をついて出た。
 自分の身体の上では、勇者がその動きを止めている。
「死ねていない」
 呟きに応えるものはない。
 ただ勇者の身体がぐらりと揺れ、横に落ちた。固く握り締めたままだった剣が、魔王の傷を広げて引き抜かれた。
 勇者は気を失っていた。あと一歩、いま一歩というところで、その剣は魔王を殺すに至らなかった。その頬には、血に紛れて、涙の流れたあとが一筋、残っていた。
 既に魔王の傷は、魔王自身の意志とは無関係に徐々にふさがり始めている。この不死性こそが魔王を魔王たらしめていた要因といってもいい。
 その理を唯一滅ぼせる剣と、その担い手は、今は動かない。
 魔王はしばらくそのまま天井を見つめていたが、やがておもむろに起き上がると、その指先を勇者の右腕の傷口に当てた。血が止まり、盛り上がった肉が傷をふさいだ。
 魔王は立ち上がり、勇者によって断たれた玉座の瓦礫の上に腰を下ろした。
 そして勇者を見つめた。
「……勇者よ、早く起きてくれ」
 その言葉は小川のせせらぎのように穏やかで、愛を告げる小鳥のように愛しさに溢れていた。
「そして早く私を殺してくれ」
 それは、恋にも似ていた。










 やがて魔王の城は、霧と共に消えて失せた。
 世界中の人々は魔王の死を喜び、勇者の未帰還を哀しんだ。
 勇者のいた国の王だけが、ただ喜んだ。
 勇者の故郷の母親だけが、ただ哀しんだ。
 こうして世界には平和が訪れた。
 少なくとも、魔王に苛まれることは、もうない。





 結局いつまで経っても勇者は戻ってこなかったが、ただ一件のみ、それらしき人物を見たという目撃情報があった。
 場所は大陸最大の王国の城下町、その裏にある暗黒街だった。
 そこは人間の悪意を凝縮したような場所で、とにかく、後ろ暗くないことなど何もなく、そこにない犯罪は存在しないとまで言われるほどの場所だった。
 だから、その目撃情報はほとんど見向きもされなかった。何しろ直接見た人間ですら信じなかったほどなのだから。仮にも勇者たるものが、よもやそんな場所にいようなどとは誰も思わなかった。
 それほどまでに価値のない目撃情報によれば、それはある市場の片隅での出来事だった。
 薄汚れたコートに身を包んだその人物は、自分を取り囲んでいたならず者を、緑に光る不思議な剣で文字通り細切れにしてしまった。剣を振るう際にわずかに見えたコートの内側に、右腕はなかった。
 その人物は騒ぎを嫌うように足早にその場を去り、途中、同じコートを着た背の高い誰かと連れ立って、暗黒街の奥深くに消えてしまった。









back

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送