依存症





「っあー」
 ぶへぇ、と臭気のある息を大きく吐き出しながら、少年、日野晃は言った。
「子作りしてぇ」
「ひとりれやってりゃいーりゃん」
 炬燵のテーブルに突っ伏したまま、コップの縁を咥えてもごもごと喋るのは、少女、古池ゆかりである。
 向かい合って座る二人は、お互い耳まで真っ赤だ。
 周囲には濃い褐色の瓶とか、表面に特徴的な凹凸をつけたアルミ缶がごろごろ転がっている。
 酒である。
 酔っていた。
 ところで二人は高校二年生、未成年なので、酒を飲んでいい歳では勿論ない。ないのだが、転がっているビール瓶の数は末に五本を越えているし、酎ハイのアルミ缶も結構な数があった。それらの口は全て濡れていて、空けられたのがそう前ではないことを窺わせる。
 そんな量をたった二人で空けたのだから、酒に強い二人でさえ、かなりのこと酔っていた。
 先程口をついてでた晃の言葉も、誰に向けて言ったというものでもなく、ただ単に男の正直な本性だった。続くゆかりの舌足らずな口調も、咥えたコップのせいと言うより、酔って呂律が回らなくなってしまっているのである。
 繰り返すが、二人は酒に強い。晃は一族郎党酒飲みで、晃もその遺伝子を受け継いでいる。加えてそんな家系だったから、盆正月に親戚一同が会する度に酒を飲まされていた。それは無理矢理ではなかったが、いつしか自然に酒の入ったコップを手に取る程度には、晃には当たり前になっていた。未成年の飲酒は禁じられています、と理解した上で尚飲んでいる。今だってそうである。
 依存症というわけではない。酒がなければ手元が震えて幻覚が見えて背中を虫が這いずり回る感覚がする──とかそういうことは全くない。ただまぁ、そこにあれば飲む、程度のものである。そういうのを依存症というのかもしれないが、それはさておき。
 ゆかりのほうも似たような境遇だ。こちらは実家が江戸時代から続く酒造の家系であり、晃以上の酒飲みだ。おまけに家柄のせいで酒の味にはひどく五月蝿い。本来なら、今飲んでいるような安酒は滅多に飲まないのだ。曰く安酒は悪酔いすると彼女は言う。というより昔から日本酒に慣れ親しんだ身体が、ビールや酎ハイのアルコール成分とは合わないんじゃないのか、と晃は思うが、どうでもいいので言っていない。
 お互い、よくもまぁ今まで急性アル中でぶっ倒れなかったものだと思う。
 しかし今回はもしかしたら、とうとう二人仲良く救急車で運ばれて、両親や教師に説教され、おまけに退学までさせられてしまうかもしれない。
 この未成年犯罪者飲兵衛二人がこうして顔を突き合わせて酔っ払ってしまっているのには、無論理由がある。
 振られたのだ。
 それはもう完膚なきまでに。
 本日、五月十二日金曜日、放課後。
 日野晃と小池ゆかりは、同時にある一人の少女に告白して、同時に振られたのである。
 ……これまで、晃とゆかりの関係は、謂わばライバル同士であった。
 二人は元々家が近く、所謂幼馴染であり、高校まで一緒になってしまった。しかし二人の間にはそこいらの標準的な恋愛小説にあるような若葉の香りのする幼い想いの通い路は一度たりともなく、あくまで友人関係として時間を重ねてきた。
 理由は簡単で、ゆかりが同性愛者だったからである。
 長い付き合いの中で晃がゆかりに関して理解できないことがあるとすればそれだった。小学校中学校とずっと一緒に過ごしてきた記憶の中に、ゆかりがそうなってしまうきっかけが全く見当たらない。昔、男に手酷く振られたとか、そういうことは一切ない。というか、そもそも誰かに告白する・されるということもなかった。
 暴行を受けたりしたといった暗い過去もない。晃はゆかりのことに関して知らないことは何もない。僅かな変化でもあれば、それこそ微熱が出たとかそういうレベル程度のことでも、晃は一目で看破できる。それはゆかりも同様であり、ゆかりもまた晃のことで知らないことはない。晃が小学校の給食で嫌いなアサリのスープが出た日に、当時好きだった子にいいところを見せようとして盛大にゲロ吐いてドン引きされたことも鮮明に覚えている。お陰でゆかりまでアサリが食べられなくなった。
 ともあれ、普通の男子高校生である晃と、同性愛者であるゆかりは、何の悪戯か同じ少女に惚れてしまったのだ。
 名前は一条はるか。優しくて気立てのいい、学年でも評判の美少女である。
 同じ人を好きになったということは、ある日の帰り道の会話の中で不意に知ってしまった。男子生徒がよくやる「お前誰が好きだよ」と聞き合う他愛のない会話の中でだった。
 その後、お前身を引け何言ってんのあんたが引けと、色々すったもんだあったのだが、最終的には、お互いに告白してどっちがOKされても恨みっこなしでいこう、というところに落ち着いたのだった。
 そして今日告白した。
 結局振られた。
『ごめんなさい。私もう付き合っている人がいるの』
 つきあっているひとがいるの。
 つきあっているひとが。
 つきあって。
「ド畜生──────────ッ!!」
 頭の中でエンドレスリピートされる言葉を掻き消すように、晃の雄叫びが響き渡った。
「ろ畜生──────────ッ!!」
 同じようにゆかりも吼えた。
 二匹の負け犬の悲しい遠吠えであった。しかし、

「うるさぁ────────────────────いっ!!」

 それは間に割り込んだ高い声に掻き消された。
 声の発生源は、晃とゆかりの間である。
 二人よりも一回り小柄な人物が、炬燵に入っている。
「てゆーかなんで僕がここにいんのさっ。玉砕者同士で飲めばいいじゃんかー!」
 そう騒ぎ立てる様は、しかし仔犬がキャンキャン吠えているようにしか見えない。
 相田千尋。ちひろ、という名前ではあるが、晃と同じく、れっきとした十七歳の高校生男子である。
 酔っ払い二人に対し、千尋は素面だ。手に持っているコップの中身もウーロン茶である。この二人と違って振られたわけでもなければ、酒が飲めるわけでもない。
 そんな彼が何故この場にいるかと言えば、友人として落ち込む二人を慰めていたからだ。世界の終わりのような表情をした二人を励ましながら学校を出て、とりあえず晃の部屋にでも入って落ち着こう、ということになったまでは良かった。しかし、しばらくするといきなりゆかりが「飲むわよ」と言って、晃もそれに賛同した。後はあれよあれよという間に酒が集められ、そのままなし崩し的に現在に至る。
 途中で抜け出さなかったのは、彼がお人好しだったというより、単に場の空気に飲まれてしまっただけである。さっきの叫びは、この部屋に満ちる酒臭さと辛気臭さと騒々しさが、千尋の許容限界を超えてしまったからだった。
「るっさいわねぇちひろ、去勢スルわよ」
 きょせいする、の発音だけ妙に明朗に、ゆかりは凄む。眼が据わっていて滅法怖かった。
 ひぃ、と千尋が身を竦ませる。基本的に彼は気の小さい。
 縮こまる千尋を見て満足したのか、千尋は再び突っ伏し、くぐもった声を上げた。
「てゆーかー、あれはいくらなんれもきっついよねー?」
 うむぅ、と対面に座る晃は呻いた。仔犬にも人並みの好奇心はあるのか、あれって?と千尋が縮こまったまま恐る恐る聞いてくる。晃はそれにあからさまに苦々しい顔をしたが、それでも律儀に答えた。
 それは二人がはるかから告白を断られた後のことである。
 その時の二人の落ち込み様には凄まじいものがあったから、おそらくはるかとしては気遣いのつもりだったのだろう。
『大丈夫だよ! 二人ともかっこいいからきっとすぐにいい人が見つかるよ! それに──』
 二人ともとっても仲良いし──
 お似合いだと思うよ──
「ひでぇ!」
 千尋は思わず叫んだ。
 幾らなんでも自分に告白してきて玉砕した二人に向かってかける言葉としてはかなりキッツい。というかそれは敗北者同士傷を舐め合えってことなんだろうか。それにしても同じ女に告白されても突っ込まかった辺り、一条はるかは大物なんじゃないだろうか。
「アレはきつかった……しかも一条は全く悪気ないんだ……」
 ぐぐ、と拳を握り締めて晃は苦しげな表情をする。ふむ、と千尋は顎に手を当て、
「天然系悪女?」
「「あの人を悪く言うな!」」
 ハモられた。怖かった。
「「ハモんな!」」
 そしてお互い向き合ってまた同じ言葉を放つ。
 それがスイッチになったのか、二人はとうとう言い争いを始めた。
「てゆーか何だよ一人でやれって! 俺は単細胞生物か、無性生殖か、カタツムリか!」
「へっへーんばーかカタツムリはりょうせいぐゆーですよぉーうだ。いいじゃんひとりでやれよ! ろーせそこのベッドのひたのひきだしの、いっちばんおくにかくひてるエロほんでまいばんまいばんさぁ! このエロス!」
「五月蝿ぇ! 俺だって健全な男子高校生だ! 欲情するわ! 一条と毎晩の如く子作りしたいわぁーっ! ……童貞だけどっ」
「もーそーたくましくしてんらねーわよ! けっ、この粗チン。使わずじまいの種馬」
 ひでぇ、と千尋は頭上を飛び交う唾を避けながら思った。男としては割とダメージのでかい言葉である。
 しかしそれにしたって、と千尋は思う。なんでそういうピンポイントな言葉を放つときだけ発音がはっきりするのだろう。ゆかりちゃん本当に酔ってんのかなぁ。
「そーいうてめぇだって男日照り……ああいや違うか、女日照りのくせにっ。知ってるぞー。告白して振られた数は俺の五倍、たまにOKもらっても三日で襲って逃げられるってな。この野獣、変態、メス豚、ホルスタイン、見境なしっ!」
 野獣って普通男に言うよね、と千尋がウーロン茶を啜りながら思っていると、
「なんれすってぇ!」
 ブゥン、と前髪を横から何かが突き抜けていった。
 それが空のビール瓶の底だと理解するのには時間がかかった。振り下ろすのでも振り回すのでもなく、動作の読みにくい突き。
(この女、殺る気だ……!)
 千尋はともすれば自分の額が削がれていた事実よりも、ゆかりの容赦のなさに戦慄した。
 しかしそこはそれ、晃も幼馴染である。真っ直ぐに突き出された瓶の底を片手でしっかりと受け止めていた。
「けけけ、甘いわゆかりん。酒に酔って照準の甘くなったお前の攻撃なんぞ怖かねー!」
「ゆかりんゆーなぁ!」
 ぐわぁ、と吼えてゆかりはもう一方の手に別の瓶を握り、同じように突き出さんとした。焦ったのは晃である。こちらはゆかりと違って手にはコップを握ったままだ。彼の心の中に僅かな葛藤が生まれた。
「いや、手放そうよ」
 千尋の控えめな突っ込みは無視された。
 瓶が唸る。ちぃ、と晃は舌打ちし、咄嗟に握ったままのほうの瓶を捻る。ゆかりも力一杯握っていたためその回転運動がもろに肩に伝わり、連動して身体の芯が僅かにずれる。そのバランスを取ろうとして、突き出された腕の軸が外側に逸れた。結果瓶は晃の肩の上を抜けた。
 その隙に晃はコップを口に咥えて保持し、肩の上の瓶を奪い取る。
「ふふふ、あみゃいぞゆはり」
 そう余裕ぶった笑みを作って見せるが、口にコップを咥えたままなのでいまいち締まらない。
 しかしこれでお互いに片手が自由な状態になった。ゆかりの手元にはまだ武器(瓶)が転がっているが、拾おうとすれば即座に晃は反撃に転じるだろう。晃とて迂闊に手を出せば、今自分がしたようにゆかりがこちらの瓶を奪わないとも限らない。晃は決してゆかりを過小評価しなかった。
「何このバトル漫画」
 膠着状態の中、眼前で繰り広げられる抗争に少し身を引いていた千尋は思わずそう漏らした。
 しかしすぐにはっと気付いて仲裁に入る。
「ちょっと、二人ともやめようよ。折角のお酒が美味しくないよ」
 言うと、む、と晃は唸ってようやく身体から力を抜いた。ゆかりもそれにならい、瓶を引く。お酒、という言葉のせいだろうか、二人は案外簡単に落ち着いてくれた。
 ほっと息を吐き、千尋はできるだけにこやかな顔を作って、二人を落ち着かせようとする。
「そうそう、二人とも元々仲良いんだからさ。さ、また今日はお互いのことを労って──」
「仲」
「良い」
 あ。
 やばい。
 超弩級の地雷踏んだかも。
 千尋の顔が引き攣る。そして、
「てンめぇやるかこのぉぉぉぉぉぉ!!!」
「ブッコロしたらぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「うわあああああああ」



 宥めるのに二十分かかった。
 三人が息を切らしてダウンする頃には、部屋の中は惨憺たる有様だった。転がっている瓶もいくつか割れてしまっている。
「くそう、俺の部屋が……」
 しかし自分自身にも原因の半分があることは分かっているのか、晃はそれ以上言うことはなかった。
「ていうかさ、前から聞きたかったんだけどもさ」
 二人が落ち着いたところで、千尋は前々から思っていた疑問を口にする。それは新たな地雷となりかねない疑問ではあったのだが、ぶっちゃけ彼はそろそろ何もかもどうでもよくなってきていた。まともに酔っ払いの相手をすることが間違いだったのだと気付いたのだ。何かあっても、どうせ壊れるのは晃の部屋だ。
「晃とゆかりちゃんって付き合ったことないの?」
 いい感じに荒んでいた精神に見合った、直接的に過ぎる言葉だったが、それはかねてからの千尋の疑問でもあった。
 千尋が晃やゆかりと知り合ったのは中学校になってからだ。晃とたまたま同じクラスになったのが縁で、それからよく晃と一緒にいたゆかりとも顔見知りになった。今では彼らの友人として、すっかり仲裁役になっている。
(……ん? それって友達なのかな)
 根源的な問題に突き当たった千尋だったが、それ以上深く考え込む前にゆかりが口を開いた。
「んん、そうねぇ」
 激昂するでもなく、また先程までの不明瞭さの消えた声だった。二十分間ほぼ休みなしに暴れまわっていたので、少しは酒が抜けたようだ。
 まともな話が聞けそうだ、と千尋は僅かに身を乗り出す。
「そこんとこどうなのよ晃」
 と思ったら丸投げされた。
 丸投げされた晃は、ああ? と不機嫌そうに見返した。酒を飲むのを邪魔されるのが嫌だったらしい。すわ戦争勃発か──と思いきや、晃の表情がスイッチを切り替える様に変化し、ふぅむ、と思案する顔になった。
 そして一言。
「ないな」
 だよねぇ、とゆかりも新しい缶酎ハイに口をつけながら頷く。
 晃は続けた。
「いや、ゆかりが魅力的じゃないってんじゃないけどな。つか日増しにエロくなってくよなぁお前の身体」
「うん」
 これには千尋も同意した。
 実際、ゆかりは扇情的だ。整った顔立ちは美しく、肌はきめ細かく綺麗だし、長く伸ばした髪は艶やかであり、そして何よりもまず胸がデカい。巨乳である。しかも張りがあって触ったら跳ね返されそうな、それでいて女性特有の柔らかさを兼ね備えた至高の美である。千尋はおっぱい星人だった。
「成長期だもん」
「そのまま乳でも出そうな勢いだな」
「出るか馬鹿」
 瓶が飛んだ。晃が弾いた。千尋ももう慣れた。
「いやま、それはさておき、まぁお前が言うようなことは結構言われたよ。他の男子からな。大抵はこいつに告白する前に、事前確認するみたいに『お前ら、付き合ってないんだよな』みたいな感じで」
 男子がそうするのも当然だ。何しろ、ゆかりに一番詳しいのは晃なのだから。付き合っているかどうかは兎も角、浮いた話があるかないかどころか、彼一人いればゆかりの身辺調査が完遂できるほどであることは、最早周知の事実である。それくらい、晃とゆかりはワンセットで数えられた。
「んで晃はどう答えるの」
「無理だやめておけ」
 それでも突撃敢行した男達は、例外なく散っていったのだ。
「俺がこれと付き合ったことないっつのもそれに尽きるわな。こいつ小学生の頃からレズだったんだぜ。女子の恋愛的開花は男より早いらしいが、その開花からして別方向に向いてるのを俺ぁ知ってたからな」
 そこまで言って晃は一息つき、コップの中のビールを飲み干す。
「そうでなくても近すぎるんだよ。恋ってのは夢想、幻想の類であり、己の中にないものを他者に見出した時、そう錯覚した時に発生する欠落補填の欲求だ。故に己が満たされている場合、もしくは、対象が己を満たすには足りないか既に同じものを持っている場合には発生せず、つまり俺とゆかりの中の共通部分が多すぎるんだ」
 晃は酔うと饒舌になるんだ、と千尋は思った。それと、つまり二人もまた今日の相手に対し幻想を抱いていてそれを壊されたんだね、とも思ったが、それは明らかに剥き出しの地雷、いやさ核弾頭なので決して口にはしなかった。
「それで、簡単に言うと」
「百年の恋も冷めるようなこいつの過去を俺は知っている」
「私もだけどね」
 ゆかりも同意する。
「あんたが女だったら良かったのに──と思ったことは一度もない」
 そうかい、と晃は興味なさそうに返事をし、そしてあーあ、と物憂げに溜息をついた。
「お前が幼馴染じゃなかったら良かったのに」
「幼馴染じゃなかったら、晃はゆかりちゃん好きになってたの?」
「かもな。少なくとも幻滅するようなことは、他人だったら知らんしな。こいつ外面いいし」
「何それ。まるで私が性格悪いみたいな感じじゃない」
「悪いじゃねぇか」
 け、と晃が笑う。む、とゆかりが不機嫌になる。
「十何年付き合ってる俺が言うんだから間違いねー」
「ちぃっ、それは認めざるをえないわね。私の恋愛の歴史から下着の種類まで把握してんのはあんたぐらいだわ」
「晃何で知ってんのー!?」
 千尋は半ば黄色いものが混じった悲鳴をあげた。
「違っ、流石に知らんわそんなこと! 恋愛遍歴のほうは兎も角!」
 とそこまで弁明して、晃はようやくそれがゆかりの姦計であることを悟った。
「女狐め……!」
 手近な酎ハイの空き缶をぐしゃりと握り潰し、にまにま笑うゆかりを睨む。やっぱりこいつ性格悪い。
 わざわざ缶を拾い上げたのはその場の雰囲気である。
「おい千尋、一階下りて俺のオカンから下ろし金借りてこい。もみじおろし作るっつってな」
「え? 何に使うの」
 晃は視線を下にずらし、
「もみじおろし」
 ゆかりの胸を見ながら言うと、部屋の体感温度が二度は下がった。
「うわぁぁぁっ! 晃なんてことを! おおなんてことをっ!」
 一番怯えたのは千尋だった。叙情詩を詠う詩人のような大袈裟な声をあげ、炬燵からすぽーんと飛び出て勢い良く下がった。酔ってんのかコイツと思ったが、酔っているのは晃本人である。
 ゆかりは声こそ上げなかったものの、胸を掻き抱いて隠すようにしながらこちらを見ていた。強く身体を抱き締める腕に押され変形した豊かな双丘が溢れんばかりだ。
 むぅ、晃は唸る。いかんね。酔うとろくな考えが浮かばない。
「まぁ落ち着け。冗談だ」
 多分。
 まぁ、多分。
 いや、酔った勢いで結構本気だったかもしれないが、それは酔った勢いだ。
 そろりという気配で、精神的に後退していた二人は落ち着きを取り戻した。とは言えそれでも元通りとは行かず、やはりどこかわだかまりの残る空気になってしまっていたが。
「あ、あのさ。一つ聞きたいんだけど」
 ここで気を回すのが千尋の役目だ。千尋は謂わば自分から注さりに行く潤滑油のような性格で、だからいつも損な役回りだ。その鬱積の爆発が冒頭の絶叫である。その性格故かなりの容量を誇る堪忍袋にも、やはりたまにはガス抜きをしなければならない時がある。
 そんなことを千尋は自嘲と共に思いつつ、かねてから聞きたかったことを口にした。
「晃とゆかりってどれくらいの付き合いなの? その辺の話、詳しく聞きたいなぁ」
「んなこと聞いてどうすんのよ。あたしら中学校時代からの親友じゃんよー。昔のことなんて聞いても面白くないよ?」
「でも、やっぱり僕が二人と一緒にいた時間は、その数年分は足りないわけだからさ。その時間を知らないのって、少し寂しいでしょ?」
 と言って、千尋は少し伏目がちに微笑む。
 その表情を目にし、う、と両側にいた二人が同時に呻いた。
「なんてぇスマイルだ……」
「今の顔で街角に放り出したら男女を問わずお持ち帰りされるわね……」
 唾をゴクリと飲み込みながら何か眩しい物を見るような表情でぼそぼそと呟きあう。千尋は聞こえていないようで、小鹿のように愛らしい仕草で首を傾げた。
「「千尋が女の子だったら良かったのに」」
 顔を見合わせ、
「「ハモんな」」
 一通りのお約束を済ませたところで、空気を切り替えるように晃が息を吐いた。
「ん、まぁホント大した話じゃないんだけどな。小学校一年生の時にこいつが隣に引っ越してきたんだな。家が近いってんで先生に世話頼まれてそれ以来の付き合いだ」
 晃はどこか寂寞とした表情で語り始めた。
「当時のコイツはえれぇ可愛くてな。俺ぁ天使が舞い降りてきたかと思ったね。後光が差してた」
「褒めても何もでないわよ」
「乳が出るだろ。まぁそうだったんだが、やっぱ慣れってのがあって、後は普通に友人づきあいだよ。それはクラスの他の奴らも一緒でな、外見に似合わずアグレッシブだったから普通に校庭で泥まみれになって遊んでたな」
 そこまで言って、ふむん、と晃は顎を撫でた。
「思えばあれが俺の初恋だったんかな。当時はガキすぎてそんなん分からんかったけど、今にして思えばってヤツだ」
「そりゃ光栄だわ」
 とゆかりが喉にビールを流し込みながら言う。さりげなく晃に流し目を向けながら。晃は世迷言だ忘れろ、と五月蝿そうに手を払った。
「そんじゃ私もついでに言うけど。私もねぇ、引っ越してきた直後はさ、やっぱり環境変わって色々不安だったんだと思う。そういう時にさ、近所に同い年の子がいるってのは結構ありがたかったことだと思うのよ」
 ふんふん、と千尋は身を前に乗り出して聞き入った。対照的に、晃はそっぽを向いて新しい缶酎ハイのプルタブを引く。
「まぁそうね、だからそう、うん、晃には感謝してる」
 テーブルに肘をつき、にこりと、見るものを蕩かすような笑みを浮かべる。千尋はその柔らかな微笑みと、ゆかりが肘をついた際に一緒にテーブルの縁に引っかかった柔らかなものとで危うくノックダウンしかけたが、その笑みを向けられた晃は寧ろ胡散臭そうに眉を顰めてゆかりを睨み返した。
「気色悪い。お前がそんな風に俺にかけて微笑みかけるなんざグレイタイプの宇宙人が友好的態度で地球に降り立った挙句率先して技術提供してくれるくらいありえん」
「うわひど」
 とは言うものの、ゆかりはにやにや笑っている。それが妙に癇に障って、ふん、と晃は鼻を鳴らした。
 ……そんな二人の間で、千尋は何となく疎外感を感じた。
 多分、二人は自分がいなくても上手くやっていくだろう。噛み合った歯車に潤滑油など必要ないのだ。軋みを上げても回りはするのだから。
 今だってそう。晃は機嫌悪そうに眉根を寄せているが、それも本心からではない。それが分かっているから、ゆかりもこうして笑っていられるのだ。晃がゆかりに対してずけずけと悪口を言えるのと同じ感覚で。
 喧嘩するほど仲がいい。遠慮なく喧嘩できるということは、『相手に許してもらえる』という確信があるということだ。
 それを、少し羨ましいと思う。
「いいなぁ、二人は」
 そんな思いがつい口をついて出た。
「僕には、そんな風に喧嘩できる友達とか、いなかったから」
「なーに言ってるのよ」
 顔を上げると、くぴりとビールを飲むゆかりの喉が見えた。
「友達だろ、俺達」
 何でもないことのように晃が言う。
 三人の間にしばしの沈黙が流れ、
「……うん」
 小さく、消え入りそうな声で、千尋は頷いた。














































 ……それが三ヶ月前のことである。
 その三ヶ月の間に、千尋は少しずつだが酒を飲むようになった。
 理由は、
「なぁゆかり」
「何よ」
「俺お前との子供なら欲しいかもしれん」
「あそー」
 これである。
 二人の失恋から三ヶ月、鬱憤晴らしの宴会の中で何か思うことがあったのか、幼馴染に興味はないと断言した男と、男に興味はない生き様を選んだ女は、何故かこうして酒を飲みながらそこはかとなく薄桃色の空間を形成しつつあった。
 別に二人は付き合っているわけでもないし、ましてや傷を舐めあっているわけでもない。二人の関係は幼馴染或いは親友のままで、その中には勿論千尋の場所もある。
 はずだったのだが。
 だったらこの空気は何だというのか。二人の間だけ明らかに空気の色が違う。
 だからといって、それを追及する気に千尋はなれなかった。無論、三人は親友のままだ。何も気兼ねすることはないのだが、それでも千尋は訊けない。「あれ、いたの?」とか言われそうで。
 そうなったら恐らく二度と立ち直れない気がする。
「晃ー、どっか遊び行こうよ。盆明けたし、夏休み終わる前に」
「金ねぇよ馬鹿。市民プールでも言ってろ。……いややめとけ、猥褻物陳列罪で捕まる。別の所にしよう」
 ところでその『遊びに行く』の中にはちゃんと自分も入っているんだろうか、と思ったが勿論訊けなかった。
 恋より友情なんて言ったのはどこのどいつだ。呪ってやる。密かにファニーフェイスに似合わない憎悪を滾らせるが、そんなもの目の前の二人には届かない。
 しばらく邪念を飛ばしてみるも無意味であり、やがて千尋ははぁ、と溜息をついた。
「彼女欲しいなぁ……」
 二人に聞こえないように呟いた。
 手にはなみなみとビールの注がれたコップがある。
 この夏の間に、アルコールが自分の恋人になることは、最早避けられない未来のようだ。
 夏の空で瞬く星を見上げながら、千尋は遠い眼をした。









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